相異相愛のはてに
三日月が浮かぶ夜。
不気味なほどに静まり返った山の中、二つの影が互いを見ていた。
片方はしゃがみ込んで前の影を見下ろし、もう片方は地を這うような姿勢で前の影を見上げていた。
「ふゆ……かぜ……」
血で赤くなった口で、見上げている方……鍛架は憎々しげに相手の名を呼ぶ。
想いを寄せていた人が、破滅する原因になったであろう男の名を。
鍛架の前でしゃがみ込んでいた旅人姿の冬風は、嬉しそうに目を細めて笑った。
「久しぶりだなぁ、鍛架さん。前に会ったのはいつだったっけ?」
「……」
「あぁ、わりぃ。もう無駄話する余裕なんてねぇか。でも、俺が見つけるまで生きてくれてて本当によかった。さすが鍛架さんだ。惨途六人衆の一人なだけある」
冬風の弾むような声を聞けば聞くほど、鍛架の目が苛立ちと憎悪の色に濃く染まっていく。
「……しって……たのか……」
「ん?」
罵りたい気持ちを抑えるように鍛架は拳を握りしめ、なんとか息を吸う。
そして、
「俺達が……あの医者に接触すること……、知っていたのか……?」
あの医者こと夜雲が、唐突に自分と冬風の名を口にしたこと。
そして、今、自分の前に現れた冬風。
もう……答えは一つしかなかった。
こいつは、冬風は、知っていた。
自分達の動きを。
それを、その情報を、どこから得たのか。
………大方……。
「そうそう。俺、ちょうど夜雲くんのこと調べててよぉ。そしたら、鍛架さん達も彼に会おうとしてるって……協力してくれた子が教えてくれたんだ」
「………」
ああ、やはりそうか。
と、鍛架は苦虫を噛み潰したような表情をしつつも、納得した。
冬風の手中に収まっている誰かが教えたのかもしれない。
蝶月達の会話を聞いた誰かが、誰かに言って、その人づてで耳に入ったのかも知れない。
何にせよ、予想はほぼ的中だ。
ただ悔やまれるのは、あまりにも間が悪かったということ。
まさか冬風も自分達と同じ標的を探っていたなんて、誰が想像出来ただろうか。
そもそも、冬風は何故若医者を……。
……いや、考えたところで、もう何の意味もないか。
「なぁ、鍛架さん」
冬風が鍛架の名前を呼ぶ。
鍛架にとって、耳障りな優しい声で。
「俺、鍛架さんと話したいことたくさんあったけどよ。もう無理だよな」
途切れそうになる意識を気力だけで繋ぎ止めて、鍛架は精一杯の力で冬風を睨み上げる。
「だからせめて、あんたが死ぬ前にしたいことをさせてやるよ」
冬風はそう言って、懐に手を入れる。
そして、中からゆっくりと取り出したのは……一本の小刀だった。
冬風の手にあるそれを、鍛架は視界で認識しながらも、冬風を睨み続ける。
口を一直線に閉ざしたまま。
「鍛架さん、あんた……俺を殺したいだろ?」
冬風は微笑んで、言う。
「俺が憎くて憎くて、殺したいくらい憎いんだろ?死んでほしいって何度も何度も思ってただろ?」
囁くような声で。
撫で上げるような優しい声で。
鼓膜に纏わりつくようなその声に、鍛架はひどく不快そうな表情をする。
そんな鍛架を見下ろしながら、冬風は持っていた小刀の鞘をとり、刀身が露になったそれを片手で器用にひっくり返す。
そして、
「いいぜ?殺してくれて。どうせ死ぬなら、すっきり心が晴れてから死のうぜ?」
と、持ち手を鍛架に向けて差し出した。
小刀の刃先は、冬風の左胸に向いている。
今、鍛架が持ち手を掴んで前に突き出せば、心臓を突くことが出来るだろう。
だけど、鍛架は差し出されたそれを掴もうとする様子はなかった。
両手は依然と地面についており、ただ黙って冬風を睨む。
「だぁいじょうぶ。今、忍法使ってねぇから。ほら」
冬風は持っていた小刀で自分の手のひらを軽く切って、傷口から血が流れ出ているのを鍛架に見せつける。
だけど、それでも鍛架が持ち手に手を伸ばす気配はない。
「俺さ。あんたになら、殺されていいって思うんだ」
依然と変わらずといった様子の鍛架を前にして、冬風は言う。
「俺の妹とあんなにも仲良くしてくれたんだ。まぁ、兄として当然の気持ち、と言えばいいか?」
一方的に喋る。
「つまりは“お礼”ってわけだ。妹と仲良くしてくれたあんたに捧げる感謝の形だ」
常人では理解出来ないことを。
「それに俺、結構あんたのこと……好きだったんだぜ?」
もう、すぐに死んでもおかしくなかったのに。
鍛架はなけなしの気力を振り絞って、意識と生命力を保たせる。
「同じ忍、同じ人間なのに……目先の欲に溺れることなく、惑わされることもなく、救いの手に縋りつきすらもせず、自分というものをしっかり持っていて、好きな人に誠実で、一途で、思いやりがあって……」
彼の発言を聞く。
最後に彼を知るために。
“冬風”という忍を。
「それ故に、自分を殺して、我慢して、悩んで苦しんで……それでも、それが最善かもしれないと受け入れて、でも結局良くならなくて、誰よりも深く傷ついて後悔してしまう……そんなあんたが」
冬風の口の端がつり上がる。
そして、
「いじらしくて……結構好きだったんだぜぇえ?」
慈しみというにはどす黒くて、凶悪と言うには生温い。
そんな口では形容しがたい不気味な笑顔で、冬風は鍛架に対して抱いていた感情を包み隠さず言い放った。
そんな冬風の笑顔を見て、彼の発言を聞いて、鍛架はぞくりとおぞましさを感じたものの、すぐに悟ったような目をする。
死がすぐそこまで迫っているせいだろうか。
ほんの少し前のように、激しい感情が込み上げてこない。
ただ、ゆっくり。
じわじわと。
鍛架の中で、薄暗いものが広がっていった。
「だからさ、何か一つくらいは報われないと。な?」
冬風は優しく諭すようにそう言うと、再度小刀の持ち手を鍛架に差し出す。
重いような、いやにひんやりとしているような、そんな沈黙が……少しの間だけ流れる。
冬風の視線と鍛架の視線が逸れることなく、一直線に交わる。
そして、程なくして……鍛架の手がぎこちなくも動き出す。
その動きを視界で捕えた冬風の目が、微かに細まる。
いつもの凍える冬を彷彿させるような冷たい目に、微かに浮ついたような感情の色が浮かぶ。
己の血に染まった鍛架の手が、ゆっくりと冬風に向かって伸びる。
最後の力を絞り出すかのように伸ばされたその手は、やがて、冬風が差し出してきてる小刀の持ち手を弱々しく握る。
鍛架が持ち手を掴んだのを見た冬風は、そっと優しい動きで手を離す。
向かれている刃先は、未だに冬風の左胸を捕えている。
鍛架が腕を突き出せば、その心臓を貫くだろう。
冬風はその時を、その瞬間を、待つ。
ただ静かに、恐れることもなく。
それどころか、ほんの少しの期待の色を目に浮かばせて。
…………だが。
かしゃんっ
次の瞬間、聞こえたのは乾いた音だった。
鍛架が掴んだ小刀を横に投げたのだ。
投げられた小刀が、虚しく地面に落ちる。
その音を耳にしながら、冬風は依然とした笑みのまま、鍛架を見つめる。
小刀を投げ捨てた鍛架は、再び地に伏して、笑う。
諦めるかのような、自嘲するかのような、そんな小さな笑い声を血塗れの口から漏らす。
そして、
「……冬風」
残りの力を振り絞って、冬風を見上げる。
怒りも、恐れも、後悔も、全て真っ黒に染まったような目で、冬風を見る。
「お前は……」
鍛架は掠れた声で言う。
「……生きろ……」
冬風への最後の言葉を。
それを、冬風は黙って聞く。
表情を全く変えることなく。
「生きて……生きて……、生き続けて……死ぬまで……そう、やって……背負う……業、を……肥やして……いけ……」
そして、地獄に落ちろ。
地獄で永遠に苦しめ。
狂わせた人の数だけ。
その言葉は口から出ることなく、喉の奥で消える。
鍛架は。
鍛架は諦めた。
諦めて、やめにした。
冬風を殺すことを。
鍛架は死ぬ間際で理解した。
こいつは殺したところで何の意味もないと。
どうしようもないと。
そもそも、ここまでの異常者にまともな思考回路で、真っ当な方法で、懲らしめようとしたのが間違いだったのだ。
どんな罰も、どんな苦痛も、こいつには通用しない。
それならばいっそ、生きればいい。
生きて生きて、たくさんの罪を背負って、そしていつか……地獄に落ちればいい。
地獄に落ちて、二度と生まれ変われないほどの永劫の罰を受け続ければいい。
もはや自分に出来ることはそう強く願うことだけだと……鍛架は悟った。
「……あいわかった。鍛架さんがそう望むのなら」
鍛架の最後の言葉を聞いた冬風は、少しの間を置いた後、にこりと笑って快く受け入れる。
そんな冬風の反応に、鍛架は眉間に皺を寄せたが、もう限界なのかすぐにゆっくりと目を閉ざして、再び地に突っ伏す。
鍛架がそれ以上、何か言うことも、動くこともなかった。
咸喪に蝶月、里の信頼出来る仲間、そして最後に……あどけない笑顔で花にとまっている蝶を見ている秋風の姿を思い浮かべて、静かに逝った……。
夜鳥の鳴き声すら聞こえない、不気味なほどに静まり返った山の中。
行く手を阻むかのように佇む岩壁の近くで、冬風はさっきまで生きていた者を見下ろしていた。
赤黒く染まった地面の上で突っ伏したまま、全く動かなくなった鍛架。
冷たい微笑を浮かべながら彼を見つめていた冬風は、程なくして残念そうに小さなため息をつく。
「本当に殺してくれてもよかったんだけどなぁ」
そう呟きながら、冬風はゆっくりと立ち上がる。
「まぁ、鍛架さんがそう選択したのなら仕方ねぇか」
そして、あっさりとした口調でそう言うと、踵を半歩返して地面に落ちてる小刀の元へ向かう。
「………生きろ、か……」
鍛架に言われた言葉を思い出しながら、冬風はまた呟く。
「随分と前向きな言葉をくれちゃって……」
目を細めて、ふっと笑う。
「そういうところなんだよなぁ……」
ぴたりと足を止めて、地面にある小刀を静かな動きで拾う。
役目を果たすことなかった小刀。
それを目の前に持ってきてまじまじと見つめた後、持っていた鞘の中におさめる。
そして、踵を返して再び鍛架を見た。
「………」
鍛架。
妹の秋風が唯一、親しみの気持ちだけで接した男。
その付き合いは実に清らかだった。
多分、接吻すらも結局しなかったことだろう。
……だからこそ、妹はこちら側に深く踏み入れさせないように気をつけていた。
兄の自分と極力関わらせないようにしていた。
鍛架の想いに気づいていても。
(だって、なぁ?そうだろ?)
秋風にとって、俺は生涯の“獲物”だったんだから。
と、冬風は胸の内で呟く。
(秋風は誰よりも俺を愛して、誰よりも俺を憎んでいたもんなぁ?)
いつか俺を陥れてやろうと、自分側に引きずり込んでやろうと。
そういった目をしていたもんな。
そして、それは確固たる願望であり、動じぬ目標でもあった。
だから、鍛架さんの手を振り払った。
僅かな希望が差す未来を自らの意思で潰した。
……素直にその手をとっていれば、今も生きていたかもしれないというのに。
まぁ秋風としては、この世で唯一心を許せた男を。
鍛架さんを巻き込みたくなかったのもあるかもしれないが。
………ま、何にせよ。
「もう死んでるからいいか」
あっさりと。
まるで使い終えて用無しになった道具を手放すかのように。
冬風は瞬く間に、頭の中から妹の存在を消した。
記憶に残しても、心には残さない。
だって、死んだのだから。
死んだら、もう何も無いのだから。
全て、何もかも。
それは……今さっき死んだ鍛架喪同じ。
「さぁて」
冬風は小刀を懐にしまうと、体を前に向き直す。
そして、いつもの冷たい目で、涼しげな様子で、足を前に一歩踏み出す。
「残るは、はる、だけかぁ」
鍛架が残した言葉も、彼の存在も頭から消して、心から消して、冬風は弟の春風の姿を思い浮かべる。
「はるは俺に何を望んでくれるんだろうなぁ」
愛しそうな声で、そう独り言をもらしながら歩き出す。
「死ねとか殺させろとか、言ってくるだろうか。くくっ……くくくっ……」
表情とは不釣り合いな不気味な笑い声が、冬風の口からもれる。
冷ややかな風が吹き、木々の小さなざわめきと共に、冬風の白群色の髪がさらりと揺れる。
「もちろん聞くぜぇ、はる。お前の言うことなら、望むことなら、なぁんでも」
ここにはいぬ春風に向けて、冬風は言う。
慈しみのある、おぞましいほどの優しい声で。
「だって」
冬風の口の端が上がっていく。
上がって、上がって、つり上がってき、微笑みとは程遠い笑顔を形成する。
鋭い犬歯がむき出しになる。
そして。
「人は生きてこそ、価値があるのだから」
