相異相愛のはてに
一閃。
という言葉が相応しかった。
それほどに、彼の……夜雲の居合は速かった。
鞘と柄を掴んで、抜いて、斬る。
その一連の動作を目にも止まらぬ速さでやった。
冬風の胴体を斬った。
横一直線に斬ったはずだった。
なのに。
なのに、何故。
この目の前の男は血を吐かないのか。
苦悶に顔を歪めないのか。
どうして、いつまで経っても……。
飛び散る鮮血と共に視界から消えないのか。
想定外の状況。
大きく見開かれた夜雲の目に、驚きと疑念の色が浮き出る。
横に振った刀の行き場もなく、ただ目の前の冬風を見続ける。
その一方で、冬風も夜雲と同じく、目を見開いて夜雲を見ていた。
冬風の驚きは、夜雲のとはまた違った。
何も無かった。
警戒の様子も、殺意も、動き出す気配すら……全く感じなかった。
人とは。
何かしようと考えていたら、例え平静を装っていても、それなりにそういう気配が伝わってくる。
特に冬風はそうだ。
相手の思考や目論みを察知するのに、並みの忍よりも……下手すれば上忍ですら上回るほどに秀でている。
だからこそ、まるで。
まるで、日常動作の如く、何の気なしに自分を斬ってきた夜雲に驚かざるを得なかった。
それに加えて、尋常じゃない速さ。
確かに情報では医者だった。
戦に携わったことのはない田舎村の傍らにある山で生まれた若医者。
彼の戦歴の情報は一切ない。
だから、帯刀してあっても、飾りのようなものだと認識していた。
素人の太刀なんてたかが知れている。
そもそもちゃんと刀を抜けるのかすらもわからない……はずだったのに。
先ほどの動きは、もはや素人どころか…………。
と、いつになく冬風が呆然としていると、また風を斬る音がした。
何かが瞬時に体内を通過する感覚。
それを感じた瞬間、冬風は考えるよりも先に、後ろへ飛び退いた。
刀の射程範囲外。
それに当てはまる場所に音もなく着地した冬風の表情に、もう驚きの色は消えていた。
無表情で夜雲を見ていたが、すぐに口の端を上げて笑った。
斬られた胴辺りの服が、重力に従ってはらりと捲れ落ちる。
露になった肌には、傷一つない。
夜雲は刀をゆっくりと下ろして、冬風の体を見る。
夜雲も元の無表情に戻って、至極冷静に、観察するように、冬風の胴体部分を見つめた。
「へぇ……なるほど」
沈黙が流れる中、先に口を開いたのは冬風だった。
どこか納得するかのように、理解するかのように、静かに呟く。
「どうやら俺も……まだまだ見極めが甘いってことだな……、くくくっ……」
そして、面白そうに笑う。
笑って、嗤い続ける。
声を極力押し殺して。
「………忍法?」
しばらくして、夜雲が短く問う。
冬風の不気味な笑い声をものともせずに。
いつもの抑揚のない声で。
冬風の笑い声がぴたりと止まる。
その場に木々のざわめく音だけが残る。
冬風は目を細めて、夜雲に優しく笑いかける。
「ああ、そうさ」
そして、答える。
「俺の忍法さ」
夜雲の推測を肯定する。
その返答を聞いた夜雲の目に、ほんの少しの……棘ついた気配が浮かぶ。
そんな夜雲の目を見て、冬風は愉快そうに笑う。
そして、
「己の体を粘土のように柔らかくすることも、雨上がりの水たまりのように液化することも出来る忍法さ」
躊躇いもなく、自身の忍法の内容を夜雲に教えた。
冬風の忍法。
それは本人が言ったとおり、自身を軟化・液化する忍法。
軟化と言ってもただ柔らかいだけでなく、体のどこを斬られてもそれこそ粘土のようにすぐくっつけることも出来る。
液化に関しては、体積量はもちろんのこと状況によって雨粒ほどになったとしても、とある手段を使うことによって復活は可能。
更には、寿命を迎えるまで体内の細胞をほぼ自由に操作・調整出来ると言っても過言ではない忍法なため、外見の老化を止めることも出来る謂わば不老不死を九割方実現化した忍法だ。
他にも使い道やそれなりの欠点があるが、ここでは割愛する。
とにかく、そうとなれば胴体を二度斬っても傷一つなく存命しているのも納得というわけだ。
……普通の人間なら全くもってあり得ないことだが。
「……瞬時に使えるものなんだ。きみの忍法」
少しの間を置いて、夜雲が静かに言う。
その声に疑問も、困惑の様子も、一切ない。
どうやらこの異常と言える現象の原因が忍法にあると納得したようだ。
「いいや。俺はほぼ常に忍法を発動しているんだ」
夜雲の言葉を冬風は否定する。
「だからきみの居合を見切ったわけじゃない……むしろ、一瞬何されたかわからなかったくらいさ」
そして、愉快そうににたりと笑う。
夜雲にされた予想外のことが冬風にとっていい刺激になったのか。
意図ははっきりとわからないものの、とにかく今の冬風はいつも以上に楽しげだった。
二人の間に流れている空気が、沈黙と共に張り詰める。
薄く笑っている冬風と無表情の夜雲。
底知れぬ冷たさを宿す灰青の瞳と不気味なほどに静かな藤の瞳。
互いに何を思って、何を考えて、互いを見ているのか……。
「……先に」
しばらくして、口を開いたのは冬風の方だった。
「一つだけ言っておくな。俺はきみを殺しに来たんじゃあない。間違っても俺からきみに手をかけることはない。それだけは安心してくれよ」
「………」
夜雲の警戒心を解くために言ったのだろう。
先ほどの一閃はそこから生じたものと、一旦そう判断して。
だけど、夜雲の様子は相変わらずだ。
返事すらもせず、ただ黙って冬風を見ている。
とりあえずといったように夜雲の言葉を待っていた冬風だったが、しばらく経って、
「夜雲くん」
また自らが言い出す。
「俺はただきみが知りたいだけだ。その言葉に嘘偽りはない」
吹いてくる風と共に木々がざわめく。
「何故かって言うと……まぁ、初めに言ったとおり、俺と千染は知り合い以上の関係で」
藤色の瞳が、冬風の姿を映す。
「俺は俺なりに、あいつを愛してきたから」
“愛”と聞いて夜雲の目つきが、ほんの少し……鋭くなる。
「だから気になって知りたくなるのは必然的だろ?愛したやつが意識を向けているお相手のことが」
夜雲が見せた僅かな反応。
それを見逃さなかった冬風は、一旦口を閉ざす。
そして、
「……きみは千染を愛してるのか?」
冬風は問う。
だけど、夜雲は答えない。
口は依然として固く閉ざされたままだ。
「きみは千染をどうしたい?どうなりたいんだ?」
それでも冬風は問う。
続け様に問いかける。
「いや……きみの場合、投げる質問はこうかな?」
そして、自身の問いを否定して
「きみがきみに対して何がしたい?どうなりたいんだ?」
幼子に聞くような柔らかくて、優しい、全てを抱いて包み込むようなそんな声で、冬風は夜雲に問いかけた。
漂う空気がやけに肌寒くなる。
吹いてくる風に合わせて、夜雲の髪が揺れる。
揺れて、大きく揺れて、一瞬だけ目元が前髪で覆われる。
そして、風はやみ、重力にそって落ちた前髪の向こうから、何時もの無感情な目が現れる。
そのまま、夜雲は口を開いた。
「ぼくは……“生きたい”だけだよ」
とても静かで、どこか重々しさのある声。
明らかな感情の起伏はないものの、明らかな変化のある声で、夜雲は答えた。
「生きているのを感じたい。それだけ。それ以上なんてないよ」
夜雲の返答を聞いた冬風は、冷ややかに目を細める。
「ふぅん。生きているのを感じたい……な。それには千染が必要ってことか?」
「………」
夜雲はまた黙り込む。
そして、ゆっくりと視線を落としていき、その目を右手の方に向けていく。
視界に入ったのは、右手に握られている……刀。
暗い茜色に染まっている山の中と冬風を映しているその刀身を、夜雲は無表情で見つめる。
そして、思い出す。
あの日のことを。
自分を愛した両親を失った日のことを。
記憶の映像が鮮明になっていくにつれて、景色の赤色が鮮やかになればなるほど、夜雲の唇が震える。
同時に、刀を握っている手も。
震えがだんだんと大きくなっていく。
夜雲の半開きの口から、不安定な呼吸音が漏れ出そうとする。
だけど、その直前で、夜雲はもう片方の手で自身の口を覆う。
まるで、何かせき止めるかのように。
異様とも言える……夜雲の様子の変化。
だけど、その一部始終を見ていた冬風は、特に何の反応も示さず、ただ黙って夜雲を見つめる。
そんな冬風の視線を感じながらも深呼吸をした夜雲は、口元から手を離すと、静かな動きで再び視線を上げて冬風を見る。
そして、
「必要どころか……、彼じゃないとだめなんだよ」
今までと打って変わり、相手の心に差し迫るような低い声で、冬風の問いに答えた。
聞けば誰もがぞっとしてしまいそうな声。
にも関わらず、冬風は至って冷静な様子で夜雲を見据えていた。
まるで、夜雲の言動を観察するかのように。
「ぼくも一つ……言っておくね」
続けて夜雲は言う。
今度は冷たいような、突き放すかのような声で。
「ぼくがあなたを斬ったのは……、あれはあなたを警戒してとかあなたが気に食わないからとか……そんなどうでもいいことではなく……」
夜雲の手にある刀の刃先が少しだけ上がる。
そして次の瞬間、敵意を露にした目で冬風を見据えると
「ぼくに触り過ぎたからだよ」
静かでかつ威圧的な声。
その声で言い放たれた彼の言葉に、冬風は意外に思ったのか、一瞬だけ目を大きくした。
漂う空気がまた冷たくなっていくような感覚がする。
「ぼくの体に、顔に、……必要以上に、深く入り込むように触っていいのは千染くんだけって決めているんだ」
変わらぬ低い声で夜雲は言う。
「接吻も、体を重ねるのも、千染くんだけ……。この体を許すのは、心に決めた人だけなんだ……」
言い続ける。
意外そうな反応をしていた冬風だが、次第に元の静観しているような様子に戻っていく。
「だから、千染くん以外の人にこれ以上触られるなんておぞましくて……」
「それで、俺を斬った……と?」
「………」
返事の代わりに、夜雲は無言になる。
その無言が示すのは肯定。
黙り込んだ彼を前に、冬風は再び口の端を上げて笑う。
妖しく、かつ、面白そうに。
「そっか……」
そして、納得する。
「どうやらきみは、想像以上に一途で……貞節なお人のようで。それは失礼なことをしてしまったな」
夜雲が自分を斬ってきた理由を受け入れ、詫びを入れる。
そんな冬風を、夜雲は黙って見る。
元の無感情な目に戻って。
「千染のこと……。きみがあいつを愛してるのかどうかは正直わからないが……、でも……どんな感情であれ生半可な気持ちを向けているわけではないことだけよくわかったぜ」
そうであったら、きっと最初の段階でほぼ確実に“引き込めた”だろうから。
と、冬風は心の中で付け加えて言う。
「それに……きみは恐ろしく強い。これだけは言いきれる。だから……千染の弱点にはなり得ねぇかな……」
相変わらずの優しい声でありながらも、どこか安心したかのような様子で冬風は言う。
「どうして戦とは無縁な環境で育ったはずのきみがそこまで強いのか……。気になるけど、別にまぁいいか。理由や事情はなんであれ強いことには変わりねぇからな」
あっさりとした口調でそう言って、冬風は踵を半歩返す。
「だからよぉ。敢えてきみに教えておいてやろう」
木々の隙間から差す茜色が更に暗さを増し、夜の色に染まりかけている山道を見つめる。
しん……といやに静かな空気が流れる。
一時の間を置いて、冬風の口が再び開かれる。
そして、夜雲に話す。
“教えておきたいこと”を。
対して、夜雲は黙って冬風の話を聞く。
顔色一つ変えずに。
眉一つ動かすこともなく。
しばらくして。
夜雲に言いたいことを言い終えた冬風は、口を閉ざして夜雲の方に顔を向ける。
夜雲を再び見つめて、目を冷ややかに細める。
「俺はもうきみの前から去るつもりだ。これから先、きみの前に現れるつもりもないし詮索もしない」
冬風はどこか満足げな様子で言う。
それは夜雲のことを知れたからなのか、或いは……。
「けど、不安なら手を貸すし、お家まで送ってもやるぜ?」
「結構です」
「そこは即答なんだな……」
くくくっと冬風は面白そうに笑う。
そして、ある程度笑った後、軽く息を吐いて再び夜雲を見ると
「それじゃあ気をつけて帰りな」
と、それだけ言って夜雲の前から立ち去ろうとする。
……だが。
「待って」
ニ、三歩ほど歩き出したところで、夜雲に呼び止められる。
冬風は特に表情を変えることなく、微笑を浮かべたまま、夜雲の方を振り返る。
それと同時に、夜雲は冬風を見ながら持っていた刀を鞘に戻していく。
「冬風さん……だよね?」
「……ああ、そうだ」
刀が小さな音をたてて鞘におさまる。
「最後なら……聞きたいことがあって」
刀の柄から手を離すと、夜雲は冬風を真っ直ぐ見据える。
冬風も、体を夜雲の方に向き直して、見つめ返す。
「なんだ?」
「………」
夜雲は一旦黙る。
そして、
「千染くんを愛していたって言ったよね?」
冬風が言っていたことを、確認するように問う。
それに対して、冬風はにこりと笑うと
「ああ、言ったぜ?」
言い淀みもせず、はっきりと答える。
その返答を聞いて、夜雲は
「どのように愛したの?」
また、問う。
「どんな感じに愛したの?」
続けて問う。
「どうやって、どんな手段を使って、愛を示したの?」
畳みかけるかのように。
「どんな気持ちになって、千染くんを愛してると自覚したの?」
愛について、問う。
それを黙って聞いていた冬風は、目を細めて微笑むと
「夜雲くん」
一度、夜雲の名を呼ぶ。
そして、
「愛の形ってのはな、一人一人それぞれ違うんだ。幾多とある形の一つを知ったところで、それが正しいとも間違っているとも限らない」
諭すように言う。
「きみの愛の形がどんなものなのか、結局のところよぉく知っているのはきみのそこさ」
そう言って冬風は、静かに手を上げて夜雲の胸を指差す。
冬風の指差した先を辿って、夜雲は自身の胸を見る。
「でも俺の愛の形を聞いたってことは、愛し方を知りたいってことか?」
冬風は差していた指をゆっくりと下げて、問う。
だけど、その問いに対して夜雲は、首を静かに横に振って否定した。
夜雲の反応を見て、冬風は少しだけ首を傾げる。
「違う?じゃあなんだ?」
「……なんとなく、知りたかったから……」
「?」
それはつまり結局は愛し方を知りたいということなのでは……。
と、夜雲の意図がいまいちよくわからずにいた冬風だったが。
「だって……あなたも空っぽだから」
はっきりと言ってきた。
言いきってきた。
冬風のことを。
彼の本質を。
夜雲のその言葉に、冬風の思考が止まる。
あからさまに表情には出てないものの、呆然としたような様子で夜雲を見る。
「空っぽ……だけど、それに色がついた感じ。深い、深い、黒……。暗闇のような黒……。だけど、それだけで……そこには何もない……」
冷たい風が吹いて、二人の髪や服の裾を小さく揺らす。
藤の瞳は冬風を映し、灰青の瞳は夜雲を映す。
互いに抱いてるであろう感情をうっすら浮かべながら。
「そんな空っぽなあなたが……どんな感じに千染くんを愛したのか、気になって」
夜雲の淡とした声が、やけに響いて聞こえるように感じる。
呆けた様子で夜雲を見ていた冬風だったが、次第に口角が上がっていく。
口は三日月を描き、鋭い犬歯が覗き、冬風は喉を鳴らして笑う。
「ふふふっ……くくっ、くくくくっ……」
その場に木のざわめきと冬風の笑い声だけが聞こえる。
山道の暗さも相まって、酷く不気味に聞こえる。
が、夜雲の表情は変わらない。
何も感じてないように、冬風を見つめる。
一頻り笑った冬風は、弧を描いた口を開く。
「あ〜あ……惜しいなぁ。もっと違う形で出会っていたら、お茶でも飲んでゆっくりたっぷりお話がしたかったぜぇ。夜雲くん」
いつになく名残惜しそうな声で、冬風は言う。
「きみと同じ……俺も空っぽ。確かにそうなんだろうなぁ。きみがそう言うならそうだ。否定はしねぇよ」
冬風の目が愉しそうな形に歪む。
「でも逆に考えれば、それほどに“受け入れる”容量が無限大にあるわけさ。俺は空っぽな分、何十、何百もの誰かを受け入れる……。そうやってこれからも生きていくつもりさ。何せ……」
冬風の……牙とも言える鋭い犬歯がむき出しになる。
「世の中……認められたくて、受け入れられたくて、それが叶わなくて……餓えに餓えきっている人間が山ほどいるんだからよぉ」
愉悦と嘲りが混ざりに混ざった低い声。
底知れない暗闇を感じさせるおぞましい声。
だけど、やはり。
やはり夜雲の様子は変わらない。
ただじっと冬風を見続ける。
敢えて反応らしい反応があったと言えば、ほんの少し……目の奥に蔑みの色が見えたくらいだ。
「まぁ、俺の中を見抜いたのはお見事と称賛はする……が。だからと言って、俺の愛の形を教えるつもりは全くない」
そう言って、冬風はにこりと笑う。
元の優しい声と優しげな笑顔で。
「素直に教えちまって、そっちに意識持ってかれて、きみがきみにしか見出だせない、きみだけの愛の形を見失ったらいけねぇからなぁ」
また諭すように、冬風は言う。
それに対して、夜雲は冬風から目を離して、反応を示す。
何か考えるように。
そして、
「……ぼくは」
「?」
「この先、いつか……空っぽじゃなくなる」
「……」
意味深な夜雲の発言。
冬風は特に訝しむ様子もなく、冷然とした様子で聞く。
「今はまだ空っぽなのだろうけど……いつかは絶対に空っぽじゃなくなる」
「………」
「その時に、わかるのかな。ぼくの……ぼくだけの愛の形……」
「………そうかもな」
夜雲の言葉に、冬風は軽く応じると踵を返す。
そして、夜雲に背を向けたところで
「……千染のことだけどよぉ」
冬風の声に反応して、夜雲は彼の方に顔を向ける。
「やっぱ……こうやってわざわざあいつのお相手であるきみを探って、見つけて、きみのあいつへの気持ちを確認する辺り……。俺にとってあいつは……特別だったのかもな」
優しくも、おぞましくもない、静かな声で……冬風は言う。
「親友でも恋人でも何でもねぇ。ただの利害関係、損得勘定の……なんとなくだらだらと爛れたことをし続けただけ仲だったけどよ……」
夜雲の視点からは、冬風の表情が見えない。
彼が今どんな顔をして、今の言葉を吐いているのか。
それは誰にも……冬風すらもわかってないのかもしれない。
「それがなんだかんだこの先も続くと思っていたから……案外、そのだらだらとした関係が好きだったのかもな……俺は」
夜雲は何も言わない。
口を一直線に閉ざしたまま、彼の本音に聞こえる言葉を耳に入れていく。
「可愛いからなぁ、あいつ……」
冬風は鼻で軽く笑った後、呟く。
そして、少しの間を置いた後、再び夜雲の方を振り返る。
その表情は……特にこれと言って変わりのない冬風らしい優しげな笑顔だった。
「まぁもう終わった話だ。今は何とも思ってねぇ。わりぃな、余計なこと言って」
「……」
「それじゃあ、今度こそさよならだ。俺がきみに教えたこと忘れないように」
「……」
「じゃあな、夜雲くん。……千染のこと、よろしくな」
そう言って、冬風は夜雲にひらりと手を振った後、前を向いて数歩足を前に踏み出したところで、音もなくその場から消えた。
「………」
冬風がいなくなり、暗い山道に夜雲一人が残される。
肌寒い風が吹き、夜雲の髪がふわりと揺れる。
誰もいない、延々と続く木々に挟まれた山道の先を、夜雲は見つめる。
そして、程なくして何事もなかったかのように歩き出す。
帰路を辿る。
冬風との会話で、夜雲が何を思ったのか。
何を感じたのか。
何の感情も表さないその表情と目からは、何一つ読み取れない。
ただ唯一。
変化があったのは……己の家がある花曇山が近づくにつれて、左手が上がり……その手は鞘を掴む。
夜雲の足が、花曇山の山道へと踏み込む。
夜鳥の鳴き声が、たまに聞こえてくるくらいの不気味な静けさ。
山道がだんだんと細くなっていく。
そして、後ちょっと歩けば家に着くところで……夜雲は足を止めた。
「……」
その場に立ち止まったまま、夜雲は前を見据える。
じっと、じぃっと。
動く気配は全くなく暗闇に染まっている山道の先をただ見つめる。
………すると。
「あら……?もしかして気づいたの?」
暗闇の中から声がした。
女の声だ。
夜雲は特に反応することなく、依然として暗闇を見つめる。
しばらくして、暗闇の中から三つの影が出てくる。
夜雲の瞳に、影の姿が映る。
覆面に忍装束といかにも忍者といった姿の男二人と、その真ん中には団子頭の妖艶な女。
三人には一つ共通点があった。
それは、それぞれが身に纏っている装束に印されている紋章。
二つの線が延々と巻きつき合っているような紋章。
惨途忍軍の証。
そう、夜雲の前に現れた三人は惨途忍軍の忍だった。
夜雲は驚きも焦りもせず、変わらない無表情で三人を見据える。
「気配は消していたはずなんだけど。意外とやり手なのかしら、若医者くんは」
女は腰に手を当てて、感心したように言う。
顔つきと仕草からして色気のある女だ。
「……何か用ですか?」
しばらくの間を置いた後、夜雲は問う。
いつもの抑揚のない声で。
それに対して、女は「んー」と少し悩むような声を漏らすと
「そうねぇ。用がないとあなたの前に現れるわけないからねぇ」
「……」
「でも安心して。痛いことや怖いことをするわけじゃないから。ただちょおっと少しの間、わたし達に付き合ってほしいかな〜ってだけの話で……」
「無理です」
「え」
まさかの即答、即拒否に、女は思わず間抜けな声を出してしまう。
「明日、千染くんと祭りに行く約束があるので」
そして、夜雲の口から出た名前に目を大きくした後、すぐに確信めいた鋭い目つきになった。
「ふぅん……なるほど。さすがね、刺雨。あなたの言っていたこと、大当たりだったみたいよ」
「はっ。お褒めいただき、恐縮な限りです」
両側にいたうちの片方の忍が、女に頭を下げる。
三人の空気ががらりと変わったのを感じた夜雲は、右手を静かに上げて、刀の柄に伸ばす。
顔を前に向き直した女は、夜雲の動きを見て「あら」と面白そうに目を細める。
「随分と察しがいいのね。しかも度胸まであるなんて。あなた、こんな田舎村の医者でいさせるには勿体ないかも……」
そう言って女は妖艶に微笑む。
夜雲は何も言わない。
口を固く閉ざしたまま、女達を見据えて、刀の柄を掴む。
「痛いことや怖いことをするわけじゃないって言ったのは、あくまで抵抗しなかったらの話よ?それをわかった上で刀を抜こうとしてるのかしら?」
「………」
優しく諭すように、女は夜雲に言う。
だけど、夜雲の手が刀の柄から離れる気配はない。
表情からも焦りや恐怖、警戒の色は一切見えない。
どこまでも“無”。
そんな夜雲の様子を見ていた女は、呆れるように小さなため息をつく。
「度胸があると言っても……力量の差を理解する頭と判断力がなければ、ただの死に急ぎになるだけよ?……まぁいいわ。刺雨、麻葱」
「はっ」
「はっ……!」
「軽く相手してあげなさい」
後ろの二人に指示を出すと、女は踵を返して歩き出す。
自分が相手にするまでもないという意なのだろう。
女と入れ代わるように、刺雨と麻葱と呼ばれた二人の男忍が前に出る。
それに伴って、懐から小刀、万力鎖と各々の得物を取り出す。
素手でも十分だろうが、一応刀を所持している相手だからと考えての上だろう。
念には念を。
上司であり敬愛してる彼女の前で、失態を晒すことは許されない。
そういった感じに、得物を手にした二人が夜雲ににじり寄っていく。
近づいてくる二人を、夜雲は相変わらずの無表情で見る。
見つめる。
じっと。
そして、二人が一定の距離まで踏み込んできたところで、夜雲は目を見開くと一気に刀を抜いた。
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