相異相愛のはてに
人とは何か。
忍とは何か。
価値とは何か。
恋とは何か。
愛とは何か。
生きるとは何か。
***
空が濃い茜色に染まっている。
ひんやりとした風が時折吹く中、夜雲と笠を被った旅人は、城下町を出て草道を歩いていた。
花曇山、花咲村へと続く道。
夜雲にとって、何十、何百と歩いてきた道。
夜雲はいつもと変わらぬ無表情で、旅人は微かに笑みを浮かべてるような柔らかい表情で、肩を並べて歩いていく。
何か話す気配もなく、ずっと無言の二人。
夜雲と一度話したいと城下町で言っていたはずの旅人も、口を開く気配はない。
だが、木々が生い茂る山道に入って少し進んだところで。
「………夜雲さんは」
旅人の口が薄く開く。
「お喋り、好きですか?」
そして、問いかける。
それに対して夜雲は、
「……普通です」
少し遅れて返事をする。
その返事を聞いた旅人は、視線を夜雲の方に向けて、目を細めて笑う。
「嫌いではないのですね。ああ、よかった。ずっと黙っておられるので、もしかしたら喋るのが煩わしいたちなのかと思いました」
安心したような声で、旅人は言う。
「では、少しばかりの世間話でもしましょうか」
そして、一方的に喋り出す。
「夜雲さんは、忍というものをご存知ですか?」
旅人の視線が夜雲から離れ、茜色の光が途切れ途切れに差している山道を見つめる。
旅人の口から出たのは、夜雲に関する話でも旅路の話でもなく……忍の話。
「忍というのは戦のために生まれた影。主をより眩い光明へと昇らせるための踏み台……」
唐突と言ってもいいくらい脈絡のない話の内容に、夜雲は疑念を浮かべる様子は一切なく、ただ目だけを旅人の方に向ける。
「簡単に言えば、捨て駒です」
旅人は夜雲の反応を待つことなく、言葉を続けて、教える。
「いつでも、どこでも、どうなってもいい、死んだところで大した困ることのない都合のいい存在……。それが忍です」
忍というものを。
「哀れに思いましたか?でもご安心ください。忍というのは生まれながらにそういうものだと、しっかり根太く植えつけられているので、誰も己の境遇に疑問を抱きませんし、むしろいつでも死んで当たり前と思っているくらいです。忍自身も、己の命を命だと認識しておりません」
囁くような優しい声で、旅人は語る。
「だから……そうですね。見方を変えれば、好きにしてもいいんです。煮るなり焼くなり、殴るなり、刺すなり、犯すなり、辱めるなり、殺すなり、なんだってしていいんです。何をしたって咎める者はいません。忍ですから」
止まることなく、語り続ける。
「自分と同じ形をした生物を好きにいたぶれる……。なんとも甘美な響きではありませんか。夜雲さん。あなた、毎日が楽しいですか?」
その途中で、問う。
「嫌なことはありませんか?苦しいことはありませんか?」
問いかける。
「誰かが羨ましいことはありませんか?何かが足りないことはありませんか?」
耳に纏わりつくような優しい声で。
そして、
「自分に……満足していますか?」
その問いを皮切りに、旅人は口を止めた。
夜雲の返事を持つように。
肌寒い風が吹いてくる。
周りの草木が揺れて、ざわめく。
横目で旅人を見ていた夜雲は、視線を前に戻していく。
何度も見てきた馴染みある山道の景色が、夜雲の藤色の瞳に映る。
空で烏の鳴く声が聞こえたところで。
「どうして急に忍の話を?」
問う。
応えは返さずに。
変化の欠片もない、無感情な声で。
その問いを、その声を聞いて、旅人は口の端を上げる。
緩かった弧は、だんだんと急な曲線を描いていく。
鋭い犬歯が覗く。
「決まってますよぉ……」
ゆっくりと手を上げて、被っていた笠を掴み、外していく。
旅人の首から上が茜色の光に晒される。
そして、
「腕利きの若医者と知れ渡っている夜雲さんが、どんな気持ちで赤い髪の忍に接しているのか……気になるじゃないですかぁ」
赤い髪の忍。
旅人の口からさも当たり前かのように出てきたその言葉に、夜雲の足が止まった。
二人分の足音が一人分になり、その一人分もすぐに消える。
山道の途中で立ち止まった二人。
夜雲の隣にいた旅人は、冷ややかな微笑を浮かべて夜雲を見る。
「どうかされましたか?」
白々しく声をかける旅人。
だが、それをものともしない様子で、夜雲は静かな動きで旅人の方に体を向ける。
そして、何も変わらない表情で彼を見据えると
「きみ、彼の知り合い?」
夜雲の声に動揺の気配は一切ない。
相変わらずの無感情で、抑揚のない声で問いかける。
旅人は見る。
己を捕えている藤色の瞳を、見つめ返す。
その奥の奥を覗こうとせんばかりに。
「ええ。知り合い……より、ちょおっと深い関係ですよ」
旅人はあからさまに匂わせた返答をする。
それでも夜雲の目も、表情も、変わらない。
少し考えるかのように夜雲は黙った後、
「昔馴染み……」
と、呟きながら旅人をじっと見て。
「………の人、じゃないね……」
またしばらくして、呟いた。
昔馴染みとは、いつしか話題に出た千染の昔馴染みのことを言っているのだろう。
だけど、千染の昔馴染み……独影と会ったこともないはずの夜雲が、どうして旅人がそれとは違うと言いきれたのか……。
その一方で、旅人は夜雲の口から出たその言葉に少しだけ反応する。
「おや、昔馴染みとは……。もしかしてあいつ、きみの前で独影の話までするのか?」
敬語を忘れたのか、はたまた意識的にやめたのか。
どちらにせよ、旅人は何か感じることがあったようで、先ほどまでとは違う低めの声で問う。
だが、旅人の口調が変わろうが、声色に変化が生じようが、どこ吹く風といったように夜雲は何の変わりもなかった。
口元どころか眉一つ、動かない。
ただ無表情で味気ない……却ってそれが不気味と言えるそんな雰囲気を纏って、旅人を見る。
「………ひとかげ……」
程なくして、口を小さく開いて、静かに復唱する。
旅人が言ってきたその昔馴染みの名を。
「そう、独影。あいつの……千染の昔馴染みさ」
旅人も再度その名を口にする。
まるで、夜雲にはっきりと認識させるかのように。
それを聞いて、夜雲は少しの間黙る。
そして、
「……一度、そういう存在がいるのを聞いただけで……後は特に……」
今度は答える。
旅人に聞かれたことを。
「でも……その昔馴染みの人が彼にとって……、捨て置けない存在なんだろうなって……」
「……」
「それだけは……なんとなくわかるよ」
抑揚のない夜雲の声が、ほんの少しだけ暗さを帯びる。
夜雲の声色から、夜雲がその昔馴染みに対して何を感じているのか。
旅人は読み取る。
察する。
その僅かな変化から。
夜雲を見つめている旅人の目が、愉しそうな形になっていく。
「どうして俺がその昔馴染みではないと?」
「………」
「それもなんとなくか?」
「………」
夜雲はすぐに答えない。
ただじっと旅人を見る。
それは答えを考えてのことか、それとも旅人が何なのかを少しでも見定めるためか。
無感情なその目から、夜雲の思惑を読み取ることは出来ない。
故に、彼の声色と発言から拾って読み取るしか方法がないのが現状だ。
「………千染くんの中に」
しばらくして、夜雲の口が開く。
そして、発する。
「きみみたいな人が………いる気がしない」
根拠のない言葉。
理解に悩む答え。
夜雲が何を思って、旅人に何を感じて、そんな発言をしたのか。
普通の人は夜雲の発言に困惑するだろう。
反応に困って、戸惑って、首を傾げるだろう。
だけど、旅人は違った。
その“普通”に当てはまらないから、面白そうに笑った。
「へぇ、そう……。……くくくっ……そうか」
疑問の声は一切出さず、旅人は受け入れる。
夜雲の言葉を。
声を押し殺すようにして笑い続ける旅人を、夜雲は黙って見る。
相変わらずの無表情で。
一頻り笑った旅人は、軽く息を吐いた後、再び夜雲を見据えた。
「俺ばかりがきみのことを知ってるのも申し訳ねぇなぁ。だから俺のことも教えて対等といこうじゃねぇか」
旅人はもう殆ど剥がれている旅人の皮を全て剥がしにかかる。
「俺の名前は冬風。千染と同じ里の忍だ」
そして、明かす。
自分の正体を。
だけど、夜雲は驚きも戸惑いもせず、依然として旅人……否、冬風という忍を見つめていた。
ひんやりとした風が、また吹いてくる。
「………千染くんと、同じ里の……」
程なくして夜雲が確認するかのように呟く。
「ああ、そうさ。千染とはそれなりに仲良くしてきたけどよ……。最近、いや、そこそこ前からか。里で見かけることが以前よりも更に少なくなってよぉ、聞けば外でいいお相手が出来たって話じゃねぇか」
冬風は言う。
不気味に思えるくらいの優しい声で。
「だから気になって……こうやって会いに来たのさ。そのお相手に」
自分が夜雲の前に現れた理由を。
「……千染くんとはどういう関係で」
夜雲は静かに問う。
感情の乗ってない声で。
「そうだなぁ。もう何度も交じり合ってるくらいの深い関係だと認識してくれれば」
「……」
冬風と千染が既にそういった関係と知っても、夜雲は反応らしい反応を見せない。
その無反応は単に考えているからなのか、はたまた冬風のように発言そのものを受け入れた上でのことなのか。
一方で、冬風も優しげな笑みを浮かべつつも、凍えるような冷たい目で夜雲を見る。
彼の微々たる変化を一瞬でも見逃さないと言わんばかりに。
「………で」
時間を置いて、冬風が再び口を開く。
「夜雲くん、って改めて呼ばせてもらおうか。きみは今、千染と度々会っているわけだが……それは何故?」
木々のざわめく音がする。
「どんな気持ちで千染に接してるんだ?」
冬風の白群色の髪がさらりと揺れる。
その質問に夜雲と千染が今のような関わりを持つようになったきっかけや理由を探る要素はなく、ただ夜雲の気持ちを、千染への本心を知りたいだけのような言い方だった。
夜雲は閉ざした口を開く様子もなく、全く動きを見せない表情で、冬風を見る。
しばらくの沈黙が続く。
張りぼてのように何の反応も示さない夜雲を見つめていた冬風は、目を細める。
そして、
「十四の時に親を亡くしたんだってな?」
薄く弧を描いた口から、知っていることを言う。
夜雲について。
その瞬間、僅かにだが、夜雲の手がぴくりと動いた。
「父親は腕の立つ医者で、母親はよく気の利く心優しい奥方だったらしいな」
表情は相変わらず無表情でありながらも、夜雲の纏っている空気が。
「で、きみが十四の時、花曇山に帰っている途中で辻斬りか何かに出会してしまい、親は斬られてしまった……と」
だんだんと重く、張り詰めたものになっていく。
「普通なら精神を病んで自ら命を絶つなり、生きても復讐鬼になるか引きこもりになるかなんだがなぁ……。けど、きみは気丈にも医者となって父親の後を継いだ。父親が大事にしてきた村を支える道を選んだ」
それでも冬風は言葉を続ける。
夜雲の空気が変わったことに気がついても。
「だから、今のきみが存在する。人を治し、人を癒し、村の人にも村の外の人にも愛され、必要とされているきみが」
そして、夜雲に突きつける。
己の立場を。
千染とは……忍とは正反対の場所にいる存在だということを。
「その気になれば何でも手に入る……、どんな幸せの形も」
「……」
「そんなきみが、どうしてよりにもよって千染を……と思ってたんだけどよ」
冬風は夜雲に向けて、足を一歩踏み出す。
「俺も……なんとなくわかってきたかも」
静かに、且つ、詰め寄るかのように、夜雲に近づいていく。
それに伴って、夜雲も冬風から離れるように少しずつ退いていく。
「夜雲くん、きみは……」
三日月の形をした冬風の口から、鋭い犬歯がちらりと覗く。
「きみは空っぽだ」
そして、言う。
「どれだけ水を注いでも溜まらない、穴の空いた桶だ」
優しい声で、諭す。
夜雲の心を。
その形を。
「それは親を失ったから……じゃあない。元々そうなんだ」
退いているうちに、背中に木が当たった夜雲は、足を止める。
「人として立派なことを成しても、人に必要とされ、人に愛されようと、きみは何も感じない……何も満たされない」
立ち止まった夜雲を見ても、冬風は歩み寄る。
ゆっくりと、じわじわと追い詰めるかのように近づいて……そして、夜雲の目の前で立ち止まる。
不気味なくらいの静けさ。
茜色が深く沈んだような暗さ。
物の怪が出てもおかしくないような景色の中、二人は互いを見る。
何も映さない藤色の瞳と、夜雲だけを映す灰青色の瞳。
その二つが、一尺とない距離で交わる。
冬風は静かに首を傾げる。
そして、冷ややかに、優しげに目を細めると、
「だからきみは、何をしてもいい忍で……千染で満たされようとしている。そうだろ?」
じっくりと優しく捩じ込んで、そっと刺すかのように、核心を突いた。
夜雲の表情は変わらない。
目の色も。
何の感情も表さないまま。
目の前の冬風を黙って見る。
見続ける。
そんな夜雲の目を、冬風は覗き込む。
その奥に潜んでいるものを暴こうとしているかのように、冬風の灰青色の目が冷たく光る。
「それで……きみの穴は塞がったのか?」
そして、また問う。
「きみの桶は満たされているのか?」
今度は夜雲の心に直接語りかけるように。
だけど、夜雲は答えない。
微動だにしない。
人形のように、冬風を見つめる。
もはや、自分の言葉を聞いてるのかすらも疑問に思えるくらい無反応過ぎる夜雲を前に、冬風は目を細めて薄く笑う。
そして、下げていた左手をゆっくりと上げる。
上げて、静かに上げられたその手は、夜雲に伸び、彼の生白い頬に触れた。
「満たされてない……ってところか?」
ひんやりとした肌の感触。
それを左手から感じながら、冬風は夜雲を見つめる。
「なぁ、夜雲くん」
冬風の手が、夜雲の頬を撫でる。
「きみは何がほしい?何がやりたい?」
その手がなぞるように、頬から首へ。
「俺はな、きみのことが知りたいんだ。きみを知って……受け入れたい」
首から肩へと下がっていく。
「何を言ってもいい。何をしたっていい。どんな感情でも、どんな欲望でも、俺は受け入れる」
囁くように。
「きみの全てを受け入れる」
撫で上げるように。
「それくらい、きみに興味があるんだ」
ゆっくりと深く、深く、染み込むような。
「だぁいじょうぶ。ここで聞いたことも、したことも、誰にも言わねぇよ」
鼓膜から脳髄まで侵していくような。
「だからいいんだ。俺にぶつけて」
慈悲と慈愛を凝縮したような、おぞましいほどの優しい声で。
「全部晒して、吐き出して、捌け口にしてくれたらいい。だって俺も……忍なんだから」
誘う。
引き込む。
自分の方へ……自分の中へと。
だけど、それでも。
夜雲に変化はない。
反応らしい反応が一切ない。
ただ変わらず冬風を見つめている。
まるで、時が止まったかのように感情の動きがない目で。
空虚とも言えるような……そんな目で。
「……それとも」
冬風の目が、冷たく光る。
夜雲の肩にあった手が、動き出す。
「きみが空っぽだって思えないくらい……」
なぞるように、撫でるように、手は下がっていき。
「色んなことを……感じさせてやろうか?」
その言葉と同時に、下がった手が夜雲の胸に触れる。
刹那。
風の切る音がした。
とてつもなく速く、鋭い音。
冬風の冷ややかな目が、だんだんと大きくなっていく。
その目から滲み出てきている感情の色は……驚き。
同時に夜雲の目も……大きく開いていく。
ここでようやく見せた反応。
先ほどまでのが嘘かのような大きな反応。
夜雲も、驚いていた。
愕然としていた。
強い風が吹く。
二人の髪を大きく揺らす。
長いようで短い一瞬。
二人は互いに感情を露にした目で、互いを見ていた。
夜雲の右手から外に向けて伸びている……
濃い茜色の光に、鈍く反射している刃を傍らに………。
***
その頃。
海岸沿いにある山の崖の上で。
太陽はほとんど沈み、どんよりと赤黒いとも言える海の景色を前に、千染は胡座をかいて目を閉じていた。
潮の香りを乗せた風が吹き、千染の長く艷やかな赤い髪を靡かせる。
空から烏の鳴き声がする。
下からは、さざ波の音が。
千染がいつからそこにいるのかはわからない。
だけど、何かに集中しているのは確かで……しばらくして、閉ざされていた目がゆっくりと開く。
赤い双眼に、目の前に広がる景色が映る。
赤くて……血のようにも見える海。
千染の瞳とほとんど同じ色の海。
それを見つめて……千染は極めて無表情に、無感情に、ぽつりと呟いた。
「思い出した……」