相異相愛のはてに







「やくも」

「夜雲」



声がする。
母さまの声だ。



「夜雲、おはようございます」 

「夜雲、おやすみなさい」



おはようとおやすみ。
ぼくに優しく笑いかけて、起きる時と寝る時と、毎日挨拶してくれた母さま。



「夜雲、お粥は熱くないですか?」

「夜雲、好きな色はあります?」

「夜雲、ここらへんは雨で地面が泥濘んでて危ないから母と手を繋ぎましょう」



ぼくのことを、何かと気遣ってくれた優しい母さま。



「まぁ、お皿を持ってきてくれたんですか?ありがとうございます。夜雲は優しいですね」

「あら……わたしが教えたお花の名前、覚えていてくれたんですね。ふふっ、嬉しいです。夜雲は物覚えがいいのですね」

「お手玉はね、こうやって遊ぶことも出来るのですよ。……あら、すごいすごいっ。とても上手ですよ、夜雲」



何かすれば、必ず褒めてくれた母さま。



穏やかな母さま。
大人しい母さま。
謙虚な母さま。
誰にでも優しかった母さま。
誰からにも笑いかけられていた母さま。
父さまとよく笑って、幸せそうだった母さま……。



「可愛い夜雲。どうか健やかに大きくなってください」



ぼくを心から愛してくれた母さま。


父さまも心優しかったけど、母さまはその父さまよりも心優しく感じた。
優しすぎて、脆くも感じた。
そんな母さまに、



「夜雲!!何してるのです!!?」



一度だけ。
一度だけ、大きな声を出させてしまったことがある。
あの時の母さまの目は、驚いているような怒っているような……そんな目をしていた。
あんなもの凄い剣幕で近寄ってきた母さまを見たのは、あれが最初で……最後だった。



「夜雲……!どうして……、なんでこんなことを……!?」



母さまはぼくの肩を掴んで、ぼくを真っ直ぐ見つめて、今まで聞いたことのない声で問いかけてきた。
その時の母さまの目は、揺れているようにも、震えているようにも見えた。
次第に母さまの目には涙が浮かんで……、今度は悲しさと疑念が混じったような目をしていた。
ぼくは………ぼくはあの時。
なんて答えたんだっけ。
………。


……とにかく、あれ以降母さまが声を荒げたことはなかったけど、その代わりといったようにぼくを抱きしめることが多くなった。
本当に、突然抱きしめてくることもあったから「なんで抱きしめてくるの?」って聞いたら母さまら複雑そうに笑って「夜雲が可愛いから、愛しいから、抱きしめるのですよ」と言ってきた。



「可愛い可愛い夜雲。どうか、健やかに大きくなって……いつか笑った顔を父さまと母さまに見せてくださいね」



そして、必ずその言葉をぼくに囁いてきた。
何度も何度も。
耳を通して、心へ送り込むように。
母さま。
思いやりのある優しい母さま。
慈悲深い母さま。



「愛してる。愛してますよ、夜雲」



あたたかな愛に満ちあふれた……母さま。
愛。
あい。
アイ。
そう、愛。
愛情。
好きという感情が昇華したもの。
好きという感情が完璧に完成されたもの。
母さまも、父さまも、ぼくに与えてくれた。
二人の愛の形。
母さまの愛し方、父さまの愛し方。
ぼくは見た。
ぼくは聞いた。
ぼくは感じた。
そして、今、記憶を辿って、思い出している。








二人には感謝している。
優しくて謙虚で、細やかな気遣いが出来る愛情深い母さま。
聡明で社交性があって、思慮深くて、母さまと同じく愛情深い父さま。
周りから好かれていた二人。
周りから認められていた二人。
周りから当たり前のように受け入れられていた二人。



おかげで、ぼくは学べた。

ぼくは理解した。

ありがとう、父さま、母さま。

ぼくに教えてくれて。

人の正しい生き方を。

人の愛し方を。




***




朝。
花曇山にある夜雲の家にて。
二階の自室で、夜雲は外出の支度をしていた。
遠出用の足袋と着流しに着替えて、寝巻きを畳んで、箪笥にしまう。
その際に、夜雲は何か思い出したかのように動きを止める。


「………」


下に向いていた夜雲の視線がゆっくりと上がっていき、箪笥の一番上の小さな引き出しのところで止まる。
それを見つめながら、夜雲は開けっ放しだった引き出しを最後まで押していく。
そして、その一番上の小さな引き出しに手を伸ばし、取っ手を掴んで静かに引っ張る。 
中に手を入れて、そこにあったものを取り出す。
それは……前に簪を包んだ薄紫の布だった。
手のひらにあるそれを、夜雲はしばらく見つめる。
そして、もう片方の手を持ってきて静かな動きで布を開き、その中から現れた簪をまた見つめた。
白銀の細い棒に瑠璃色の丸い石。
その石の中には、小さな光が散りばめられている。
まるで、満天の星空のように。


「………」


ずっと前に城下町で買った簪。
脳裏に過るのは、長く、綺麗な赤い髪。
夜雲は少し……ほんの少しだけ、悩ましげに目を伏せる。
どうして、この簪を買ったのか。
その理由を知っている……故に、夜雲は迷っていた。
別にこのまま箪笥の中にしまい込んでいても、問題はないのだが……。


(………)


夜雲の頭の中に、彼の姿が浮かぶ。
最近の彼の姿が。
夜の海を三度ほど一緒に見てくれた彼。
時たまに、朝になって目が覚めても一緒に布団の中にいてくれる彼。
……祭りを一緒に行くことを受け入れてくれた彼。
以前とは違う、確かな変化。
それを感じた夜雲は、視線を横に流して考える。
考えて、考えて、しばらく考えた後。


「………」


夜雲はその簪を持ったまま、開いていた引き出しをそっと閉めた。
簪を薄紫色の布で元よりも綺麗に、丁寧に、優しく包み込み、静かに踵を返す。
そして、簪が包まれたその薄紫色の布を大事そうに持ちながら、部屋を出ていった。











一方、その頃。
巣隠れの里の外れにある林では。


「へぇ……そんなことがあったのですか」


仕事帰り。
うさぎと鼬に朝ごはんをやっている独影にたまたま出会した千染は、彼から一昨日会った惨途忍軍のことを聞いていた。
かごに残っていた野菜くずを全部地面にばら撒いて、もぐもぐむしゃむしゃと無心で食べているうさぎ達と数匹の鼬を前に、独影はふぅと気だるげに息を吐く。



「そうそう。あの人らも諦めが悪いよなぁ。別に俺らの忍法がなくても十分強いってのに……」

「けど……今戦力として残っている忍衆を考えると、あと一歩……いえ、百歩以上の力が欲しいんじゃないですか?確実に勝つための」


木に背を預けている千染は、腕を組みながら冷めた口調で言う。
雹我からも一度聞いた言葉。
同じような意見。
それに対して、独影はうーんと小さく唸る。


「ただ戦に勝つため、必要な時だけ……ってな感じに限定して使ってくれるならまだしも、なんだかなぁ……。あの人ら、余計なことにも使いそうで……」

「そうでしょうね。特にお前の忍法は使い勝手がいいですから、真っ先に狙われるのは必然的かもしれませんね」

「……」

「お前の前にわざわざ姿を現したってことは、そうなのでしょうし。まぁ人気者なりに、今後気をつければいいんじゃないですか?」

「……嫌な人気者だぁ……」


千染の言ってることが本当にそうでありそうな予感がしたため、独影はがっくしと項垂れた。
事実、千染、還手、冬風、春風の四人の前には未だそういった目的で彼らは現れていない。
これから接触するのかもしれないが。
何にせよ、忍法自体に大して関心を抱かない千染までもが、使い勝手がいいと評価してきたのだ。
もうほとんどの者がそう思っていると認識してもいいだろう。


「でもよぉ。あの人ら忍法くれって簡単に言うけど、そんなあっさり修得出来るしろもんじゃねぇってわかってんだろうか?中には修得者が出るまで、何人もの弟子が死んだ忍法もあるってのに。それこそ、芙雪の忍法とか……」

「あの女、体力と忍耐力だけは大したものですよね」

「だけって言うなよ……。かなりすげぇことなんだぞ、荻爺の忍法を継げたのは。みんな、あの忍法は荻爺の代で終わるって思ってたのに」


二人は他の上忍の忍法について話し出す。


「あと還手ちゃんも……あ、いや、あの子は簡単に修得してたな。しかも、六の時に。あの忍法は死ぬことはまずないとしても、修得に相当な年月を費やすはずなのにな……」

「だから折れたじゃないですか。あいつの師。見込んでいた弟子じゃなくて、よく叱っていた怠け者の小娘が先に、しかもとんでもない早さで修得しましたから」

「そうだなぁ。御珠(みたま)さん、なんかもう一気に自信喪失して、還手ちゃんを怖がるようになって……いつの間にか消えてたよな。どっかで立ち直って、元気にしているといんだけど」

「もう死んでますよ」

「えっ」

「還手を連れて任務に出向いてる時、崖の下で倒れているのを見ました。一応近くに行って確認しましたけど、既に死んでいました」

「……」

「自ら身を投げたのか、足を滑らしたのか、知りませんけどね……」

「いや……それ櫻世さま知ってんのか?」

「還手が伝えてるなら、知ってるんじゃないですか?」

「………」


どうでもよさげにそう言ってきた千染に、独影は何とも言えない表情をする。
そして、うさぎ達の方に顔を向けると


「まぁ……千染は御珠さんとあんま関わったことないからな。でも還手ちゃんはその……さすがに動揺してたんじゃねぇか?」

「いえ。彼の死体を見ても特に変わらず。『あ〜師匠死んだんだ〜』って言って終わりですよ」

「………」

「……とはいえ、元上忍の死体なんていい素材を目の前にして忍法にしなかった辺り、あいつなりに敬意を払ったんじゃないですか?一応は」

「……そうだな」


付け足すように言ってきた千染のその言葉に、独影はとりあえず納得したように返事をする。
そんな独影の反応の一部始終を見て、千染は冷ややかに目を細める。
本当にこの昔馴染みは。
妙なところで人間味を求めてくるといえばいいのか。
みんな、お前や芙雪みたいに師を慕っていたわけではない。
いくら貴重な忍法を継がせてくれた師とはいえ、自分のように嫌悪する者もいれば、冬風のように修得したら用無しと言わんばかりに切り捨てる者もいる。
それを知っているはずだろうに……。
………でも。
還手の師である御珠は、確かに還手をよく叱っていたし、己の忍法を゙継がせるにあたって還手には全く期待していなかったようだが、それでも手間のかかる子どもを相手にするように接していた。
親が子どもの面倒を見るように。
その親子とも言えるような御珠と還手のやり取りは、自分も独影も二、三度ほど見たことある。
だからこそ、独影は少し気になったのだろう。
親のように接してくれた師の亡骸を見て、還手の心が揺さぶられたのではないかと。
………馬鹿馬鹿しい。
そんな日の下で生きる者が思うような考え。
そもそも御珠は、そんな手間のかかる子どもであった還手に、自分が二十年以上かけてようやく修得した忍法をたったの数月で修得されて、心が折れてしまったというのに。
世話の焼ける可愛い娘が、自分の想像を遥かに超える怪物に変わった。
その時の御珠の心境たるや。
還手も……御珠の気持ちをどこまで察していたのかはわからない。
けど、もう前のような関係に戻れないということは確信していたようで、以前のように御珠を探し回ったり下忍に御珠を呼ぶように命じたりすることはぱったりとなくなった。
……そんな破綻しきった関係で、死んで悲しいとか思うわけないだろう。
そもそもの話、忍は死んで当然なのだから。
いつどこで死んでも、当たり前のことなのだから。
いつだって、どこだって……。



師と死。
その言葉合わせで、千染は不意に思い出してしまう。
己の師の最期を。
もはや人間どころか忍としてすら成り立っていなかった、かつての師の果てを……。
その瞬間、千染はぞわりと全身に悪寒が駆け巡るのを感じる。
組んでいる腕が、微かに震えを帯びる。
心臓がぎゅっと縮まるような錯覚に陥る。
だけど、なんとか。
なんとか、……過去のことだと。
終わったことだと、今感じていること全て振り払うように腕を強く掴んで目を瞑る。
千染の様子の変化に気づいたのか、戯れてるうさぎ達を見ていた独影は、彼の方を振り向く。


「千染?」


独影の声に、千染は目を開く。


「どうした?大丈夫か?」


独影は心配そうに声をかける。
それに対して千染は、少しの間を空けた後、元の冷めた顔つきに戻る。
そして、


「別に……なんでもありませんよ」


素っ気ない口調でそう答えると、独影から顔を背けた。
鼬やうさぎの鳴き声だけが、その場に聞こえる。
千染をしばらくじっと見ていた独影だったが、小さなため息をつくと、顔を前に向き直した。


「……冬風さんの忍法だって、今ではもうあの人以外修得不可能なんじゃって言われてるほど、修業過程が難解らしいし……」


でもあの人のことだからそこを掻い摘んで教えそうな気がするけど。
と思いつつも、じゃれて遊んでいる鼬とうさぎ達を見ながら、独影は話を戻す。


「春風くんに至っては……まだ教えれるほど忍法を自分のものにしきれてない感じあるしなぁ」


独影のその発言を聞いて、千染は馴染みある林の景色を見ながら、何か思うことがあったのか……冷ややかな目つきをする。
そして、


「でも」

「?」

「使いこなしてたでしょう。昔は」

「………」


千染の指摘に、独影は何も答えず黙り込む。


「還手ほどではないとはいえ、春風も齢十一でほぼ万全に忍法を得て……十四で上忍に昇格しようとしていましたよね」

「……そうだな。でも運がわりぃことに、そうなろうとした時期に夏風くんが亡くなっちまったからな。相当精神にきたんだろ」

「……」

「春風くん、夏風くんのことかなり慕っていたの……お前も知ってるだろ?夏兄さん、夏兄さんって。夏風くん見かける度に駆け寄っていたよな」


過去に見たその光景を思い出しながら、独影は少し懐かしげに言う。


「見た目も本当、分身したのかってくらいそっくりでさ。よく間違えてたなぁ、俺。まぁある程度大きくなってからは、顔つきで見分けついたけど」

「………」

「夏風くんは大きくなるにつれてちょっと気難しくなっていってたけど、春風くんはずっと変わらずにこにこしててお兄ちゃんにべったりだったもんなぁ。だから、まぁ……春風くんからしたら自分の半身を失ったようなもんだろ。それで忍法が上手く使えなくなるのも仕方ねぇんじゃねぇの?」

「……そうですか。わたしからして見れば」


千染は思い出す。
彼を。
昔の彼を。
そして、


「春風は……そんな脆い性格のようには見えなかったんですけどね」


思っていたことをそのまま口に出した。
含みのある千染の発言に、独影は疑問を浮かべる気配もなく無言になる。
ただ黙り込む。


「……お前、本当は気づいてるんじゃないですか?」


しばらくして、千染はまた含みのある言葉を独影に投げつける。
千染が、何を、どういう意味で聞いてきているのか。
おおよそ察している独影は、ふぅと小さくため息をつく。
そして、手元にきたうさぎを軽く撫でると


「よそうぜ。そういうの」


淡とした声で、独影は遮る。
千染の言わんとしていることを。
その拒絶的な返答に反応するように、千染は独影の方に顔を向けた。


「あそこの兄弟はちょっと複雑っつーか……。俺らが何を知ってどうこう言ったところで、どうにもならねぇだろ」

「………」

「今生きて、俺らと喋ってんのが春風くんと呼ばれてんなら春風くんだろ。あの子は。それ以外の何者でもねぇよ」


独影に撫でられていたうさぎが彼の手から離れて、小さく跳ねながら千染の元へ向かう。
彼の足元まで辿り着いたうさぎは、どこか興味ありげに、または撫でてほしそうに立って、千染を見上げる。
足元にいるうさぎを見下ろしていた千染は、鬱陶しそうな目をするだけで特に何かするでもなく、独影から顔を背けると


「そうですね……」


とだけ答えて、それ以上何も言わなかった。
例え、互いに気づいているであろうことを口にしたところで、何も変わらない。
変えようとも思わない。
それほどに春風に思い入れがあるわけではない。
そこまで自分に人間味はない。
そう思って千染は、独影の言葉をすんなりと受け入れた。


「……とにかく、千染も気をつけろよ?もしかしたらお前の前にも突然現れるかもしれねぇから」


話を戻して、独影は千染に一番伝えたいことを伝える。
惨途忍軍が忍法狙いで明確に動き出した以上、千染も例外なく狙われるだろう。
そう思って、彼の身を案じたが。


「わたしの前に、ですか」


その親心ならぬ友心を嘲笑うかのように、千染は鼻で小さく笑って呟く。


「そんな度胸のある忍、あちらにいますかね?」

「………」


言われてみれば、と独影は思う。
千染は千染で冬風とはまた違った意味で、惨途忍軍の忍達から避けられている。
大まかに言うならば、冬風が嫌われているのに対し千染は恐れられている……みたいな。
とにもかくにも、そういえばこの昔馴染みは外部から見境のない殺人鬼と見られているんだっけ……と、今更のように独影は思い出す。
こうやって毎度毎度、普通に会話するからつい忘れがちになってしまう。
特に今回は綺麗さっぱり頭の中から消えていた。
でも、こんな重要なことを伝える場面で思い出しすらもしないなんて……。
………。
何か違和感を覚えていた独影だったが、数秒経たずして、ふと気づいたかのように顔を上げる。
そして、少し考えるように視線を落とした後、千染の方に顔を向けると


「でもよ」


ずっと足元にいるうさぎの存在に気難しい表情をしていた千染だが、独影の声に反応する。


「お前、若医者くんがいるじゃん」


振り向いたと同時に耳に入ってきた言葉。
千染は特に反応らしい反応も返さず、無表情で独影を見る。


「もしかしたらよ。若医者くん利用して、あの人らがお前に何か仕掛ける可能性もなくもねぇぞ」

「………」

「そういった意味でまぁ……気をつけた方がいいと思うぜ?」


言葉を変えて、独影は再度千染に忠告する。
二人の間に、ひんやりとした風が通り過ぎていく。
木々が小さくざわめき、遊び疲れたうさぎと鼬達はそれぞれの住処へと帰っていく。
千染の足元にいるうさぎを残して。
しばらく独影を゙見ていた千染は、静かな動きで顔を前に向ける。
感情のない表情からは、今の彼の心情を読み取れない。
遠くから鳥の鳴き声がしたところで。


「……大丈夫でしょう。あれは」


千染は素っ気ない声で言う。
その返答に、独影は何とも言えない表情をする。
確かに、その若医者こと夜雲は、一度千染を負かしたことがある。
惨途忍軍の大半が恐れて近寄ろうともしない千染を。
そう思うと特に問題ない……のかもしれないが。
まだ明確な実力がわかっていないのが事実で、その上彼は武士でも忍でもない。
ただの腕の立つ医者だ。
武士は直球でわかりやすいからまだ何とかなるかもしれないが、忍には忍らしい小賢しいやり方がある。
それを戦以前に戦略の場にすら立ち会ったことがないであろう夜雲が、上手いこと対処出来るかどうか……。
と、独影はやや不安に思う。
そんな独影の心配をよそに、千染は木から離れる。
足元にいたうさぎを避けて。


「それに……わたしは別に教えてやっても構いませんよ?」


木から数歩離れたところで、千染は足を止める。


「忍法の修得の仕方を。わたしの忍法でよろしければ」


ひどく冷めきった声で、千染は言う。
その発言に独影は一瞬だけ驚いたが。


「惨途の連中が齢十以下の見目麗しい幼子を捧げてくれるのでしたらね……。そいつに継がせてあげますよ。あの女がやってきたことに倣って」


吐き捨てるように言ってきたその言葉に、独影の表情が一気に複雑そうなものへと変わる。
千染と彼の師の関係を大体知っているから。
彼女が千染にやってきたことに倣って……。
詳しいことまでは知らないが、決していいことではないのは確かだ。
千染が彼女……寄磨と同じことをする。
そんなこと、……してほしくない。
なんて……部外者だった自分が言えるわけなく、独影は顔をうつ向かせて無言になってしまう。
そんな独影を横目で見ていた千染は、冷ややかに目を細めると、踵を半歩返して彼に背を向ける。
そして、


「とりあえず惨途の件、わかりました。一応周囲に気を配るようにします。……それでは」


と、やや一方的に話を終わらせるように、千染はそれだけ言うとその場から歩き去っていった。
吹く風と共に、だんだんと遠くなっていく千染の後ろ姿。
それを独影は黙って見送る。
千染がいた場所で独影と同じく彼を見送るように見ていたうさぎは、彼を追いかけるかのように前に進み出す。
だが、それにすぐ気づいた独影は視線を下げてうさぎを見る。
咎めるように。
うさぎは立ち止まり、後ろを振り返ってきょとんとしたように独影を見る。
うさぎと目が合った独影は、反対側を指差す。
その先には、茶色の大きいうさぎがいた。
ここに残っているうさぎを迎えに来たのだろう。
そのうさぎの存在に気がついた白いうさぎは、そのうさぎの元へ真っ直ぐ向かう。
うさぎがこちらに来ているのを見て、茶色のうさぎは反対方向を向くとぴょんぴょんと飛び跳ねていく。
程なくして白いうさぎは茶色のうさぎに追いつき、二匹一緒にその場から去っていった。
うさぎ達もいなくなり、その場に独影だけが残る。
うさぎ達を見送った独影は、千染が去っていった方を再び見る。
そこには幾多の木々が並んでいる景色が広がっているだけだった。
遠くからまた鳥の鳴き声が聞こえてくる。
千染がいたところをしばらく見ていた独影は、顔を前に向き直すとふぅとため息をつく。
そして、思う。


(やっぱ……大人しくなったよなぁ、千染……)


と。
そう、独影が話の途中で気づいた違和感の正体は千染の変化だった。
ちょっと前まで……夜雲と会う前までは、多少なりとも苛立ちや不満があればすぐに攻撃を仕掛けてきたのに、今ではぱったりとその癖がなくなった。
普通に会話で始まって、会話だけで終わる。
だから、すっかり忘れてしまっていた。
千染が殺人鬼と呼ばれ、恐れられていることを。
……それだけではない。
あの取って貼りつけたような微笑みも、あまりしなくなった。
内にある感情を全て覆い尽くしていたような微笑。
里の者からも外部からも恐れられていた千染の笑顔。
それが今では剥がれ落ちたかのようになくなっている。
かと言って、感情豊かになったわけではなく、わりと常に無表情か少し機嫌悪そうな表情かのどちらかなのだが……それでも限りなく素には近いだろう。
これは良い変化なのか、悪い変化なのか。
人として、忍としての視点によっては、どちらとも受け取れるが……何にせよ、あの頑なに忍として徹底していた千染をここまで変えたのは、間違いなく夜雲だ。


夜雲との出会いが、関わりが、千染をあそこまで変えた。


嬉しいような、少しだけ寂しいような、少しだけ悔しいような……そんな混ざり混ざった気持ちが独影の中で芽吹く。
だけど、それら全てを覆うかのように、安心した気持ちが込み上げてきた。
独影は若干切なそうにしながらも、微かに笑みを浮かべる。
そして、悟る。
もう大丈夫だと。
心残りは消えたと。
自分が里を抜けても、千染には夜雲がいると。
確信する。
千染にはこれから、自分ではなく夜雲と共にいる時間を増やしていってほしい。
そして、いつか。


いつか……夜雲に連れられて、ここから、深い深い影の世界から抜け出していってほしい。

夜雲と共に生きてほしい。

日の下で。

どれだけ殺人鬼と恐れられていようと、どれだけの罪を背負っていようと、自分にとって千染は………今の今まで共に生きてきた大事な昔馴染みだから。


幼い頃から見てきた千染の姿を思い出しながら、独影は切なげに笑うと、静かな動きで立ち上がる。
そして、千染が去っていった方向とは逆を向いて、歩き出した。
どこか寂しさを感じさせる木々のざわめきを耳にしながら……。



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