相異相愛のはてに
春夏秋冬。
冬秋夏春。
俺達を示す言葉。
俺達を表す季節。
冬風、秋風、夏風、春風。
「兄さま」
巣隠れ衆・先代忍頭と複数の女忍の間で、俺達は生まれた。
全員母親は違う。
いや……、夏風と春風は双子だから同じ母親か。
「兄さま」
かわいい妹、かわいい弟達。
母親は違えど、半分は血の繋がったかけがえのない兄弟。
たった四人の兄弟。
だから、大事にしないと。
「兄さま」
俺は一番上の子だから。
妹と弟達を大事に思うのは必然的なことで。
三人とも大好きだ。
特別に愛してる。
平等に愛してる。
「兄さま……」
愛してるから。
愛してるからこそ。
苦痛からも悲しみからも、怒りからも。
絶望という絶望から解放してあげたい。
ほんの一瞬から、少しでも長く。
「兄さま……」
悩む必要もない、諦める必要もない。
そうなった時が“解放”だ。
救われて、楽になるんだ。
「兄さま……」
だから俺は教えるんだ。
そうなれる方法を。
それは
「兄さま……」
全部受け入れる。
何もかも受け入れる。
自分も他人も、全て。
そうすれば、悩むことなんてなくなる。
諦めるなんて言葉すら思い浮かばなくなる。
「……兄さま」
それを、そう。
“優しさ”と言うんだろうな。
途方もない……“優しさ”。
「……兄さま……」
全てに対して優しくなる。
それこそが、この穢れに穢れきった世を健やかに生きる術。
それこそが、絶望しない確実な方法。
「………兄さま……」
そうだろ?秋風。
かわいいかわいい、俺の妹。
お前にも教えたな。
お前が生きやすくなるために。
父上を受け入れて、たくさんの男を受け入れて。
「兄さま、兄さまは……」
父上を狂わせて、たくさんの男を狂わせて。
父上を死なせて、たくさんの男を死なせて。
優しさで、全部全部だめにして。
全部全部、血の海に沈めたな。
「兄さまは……」
でも、それでいいんだ。
それでいい。
お前が生きているのなら。
兄さまは嬉しいよ。
人は生きてこそ、価値がある。
例え、忍であっても。
「兄さまは……」
これからも“優しく”生きていけばいい。
全てを受け入れて、全てに優しくなれば、苦痛からも悲しみかも、悩みからも、絶望という絶望全てから解放される。
そして、それに溺れたやつは勝手に狂って、勝手に死んでくれる。
「兄さま、は……」
秋風。
朝露を滴らせた菖蒲のように美しくて、素直で、笑顔が可愛らしい大事な妹。
この世で一人だけの妹。
愛しい妹よ。
どうか生きて生きて、生き抜いてくれ。
足元に転がる泥の塊なんて踏み潰して、しがみつききれない者には目もくれず、生きてくれ。
それだけが俺の願いだ。
俺がお前に捧げる……愛だ。
「……兄さま、は……私を……愛して、くれない、……のね……」
***
柔らかな木漏れ日が差す木の下で、木に背を預けて胡座をかいていた冬風は、ゆっくりと目を開けた。
里から二里ほど離れた山の中。
延々と並ぶ木々に生い茂る草と草花。
薄青色の小さな蝶々が、冬風の前をひらりひらりと横切っていく。
昔から何度も見てきた景色が、目の前に広がる。
凍える冬を彷彿させるような冷たい目つきで、その景色を見つめていた冬風だったが、緩く息を吐くとゆっくりと顔を上げた。
緑の屋根を作っている幾多の青々とした葉。
その隙間からこぼれ差してくる小さな光。
それらを見つめて、冬風は目を細める。
(秋の夢……久しぶりに見た……)
今は亡き冬風の妹、秋風(あきかぜ)。
いつも柔らかに包み込んでくるような笑みを浮かべていた彼女の姿を思い浮かべ、冬風はなんとなく心の中でそう呟く。
だけど、それだけ。
それ以上、冬風が何か思うことはなかった。
だって、彼女は死んだのだから。
死んだ者に費やす時間は無駄以外の何ものでもない。
必要最低限でいい。
話題が出た時だけ、聞かれた時だけ、ふと思い出した時だけ。
それだけでいい。
生きている自分が相手にするべきは、同じく生きている者だけなのだから。
冬風はそういう考えだった。
だから次の瞬間には、彼の頭から妹の姿は影も形もなく消え去っていた。
そして、入れ替わるように浮かんだのは、今の春風の姿。
軽蔑するように、嫌悪するように、拒絶的な目でよく見てくる春風。
その目を思い浮かべながら、冬風は鼻で小さく笑う。
「かわいいなぁ……はるは」
冬風は呟く。
思ったことを、そのまま。
そして、その後すぐに思う。
可哀想な子でもあるけど、と。
(はるは……兄弟の中で一番真面目で、一番繊細で、一番……人が出来ているからなぁ)
だからこそ、慎重に、よく考えて、大事にしないと。
秋風が亡くなって、夏風も亡くなって、今や兄弟は春風一人。
かわいいたった一人の弟。
ーーーー兄さんも姉さんもおかしい……!狂ってる!
ーーーー兄さんは苦しくないのか……?悲しくないのか……?
ーーーーもう嫌だ、全部嫌だ……。虚しい、苦しい……。
ーーーー放っといてくれ!兄さんが関わるとろくなことにならない!一人にしてくれ……!!
弟に言われてきた言葉の数々が、不意に冬風の脳裏を過る。
どれも強い拒絶を露にしている言葉。
それでも冬風は、目を細めて笑う。
覆面の下で、嗤う。
「冬風どの」
と、その時。
どこからともなく声が聞こえてくる。
冬風がそれに反応して顔を下げたと同時に、木の上から冬風の前に向かって一人の女が降りてきた。
身に纏っている装束からして忍だろう。
だが、その女忍は巣隠れ衆の者ではなかった。
「お〜、庸佳かぁ。どうした?もしかして前に頼んだこと、もう済ませてくれたのか?」
「はい」
庸佳(ようか)と呼ばれた女忍は、迷いなく返事をする。
その返答を聞いて、冬風はへぇと言って優しげに目を細める。
いつもの冷たい目つきが、幾分か和らぐ。
「さすが元伊賀忍者だな。でも大丈夫か?今いる里でも働き詰めだろ?無理したんじゃないか?」
気にかけるような口調でそう言いながら、冬風はゆっくりと立ち上がり、跪いている庸佳に歩み寄る。
「いえ、合間合間に出来ることでしたので無理なんてことは……」
「そうか」
冬風も庸佳の前で跪き、優しい目で彼女を見つめる。
同じ目線になった冬風を前にして、庸佳の凛々しかった表情が瞬く間に気恥ずかしそうなものになり、冬風から視線を逸らす。
そんな庸佳の反応を見て冬風は愛しそうに微笑む。
そして、彼女に向かって静かに手を伸ばすと
「ありがとうなぁ、庸佳。俺なんかの頼み事を聞いてくれて。すごく嬉しいぜぇ」
ひどく甘く、ひどく優しい声でそう言って、冬風は庸佳の頰を撫でる。
愛でるように、慈しむように。
冬風の声に、手に、覆面越しでもわかる彼の微笑みに、庸佳は思わず頰を赤らめる。
若干緊張していた顔つきがだんだんと蕩けるような表情になっていく。
無意識に、冬風の手に頰を擦り寄らせてしまう。
その姿を見て、冬風は更に目を細める。
「お礼は何がいい?」
「え……」
「言っただろ?庸佳が望むこと、なぁんでもするって」
「……」
冬風の言葉に、庸佳はこくりと小さく唾を飲み込む。
なんでも。
なんでもしてくれる。
冬風が。
あの誰にでも優しい冬風が。
なんでも。
その言葉に、庸佳はくらりとした錯覚に襲われる。
同時にふつふつと生ぬるく、どろりとした感覚が込み上げてくる。
「ひ、一晩……」
庸佳は声を絞り出す。
そして、
「……一晩、だけ、で構いません……。わたしだけを見て……、わたしだけを愛でてくれませんか……?」
と、懇願するような目で冬風を見つめて、庸佳は心の底からの望みを口にした。
それを聞いた冬風は、にこりと笑う。
「了解。いつがいい?」
庸佳の望みを受け入れて、冬風は彼女の髪を優しく撫でる。
冬風の手に心地好さを感じながら、庸佳は口を開く。
「ふ、冬風どのがよろしければ、こ……今晩にでも……」
「……わかった。いいぜ。今晩、いつもの場所でな」
冬風の返事を聞いた庸佳は、静かにかつしっかりと頷く。
その目は期待と欲の色で満ち満ちていた。
庸佳の目を見つめて、冬風は愛しそうに笑うと、彼女の髪を撫でていた手をするりと離す。
優しげな目が、元の凍えるような冷たい目に戻っていく。
そして、ゆっくりと立ち上がると庸佳を見下ろし、覆面の裏で小さな弧を描いている口を開いた。
「それじゃあ、教えてもらおうか。千染とよく会っている男の詳細を」
***
その日の夜。
約束の夜。
花曇山にある夜雲の家では、千染が訪れていた。
今夜は外に出てまた一緒に海に行こうと障子窓から入ってきた千染に誘いを持ちかけた夜雲だったが、断られてしまった。
千染曰く「この前行った時……僅かですが視線を感じたんですよ」とのこと。
もしかしたら気のせいかもしれないけど、念のためしばらくはあそこら付近をうろつかない方がいいかもと。
そんな感じに千染は言ってきた。
それに対して、夜雲は「そう……」とだけ返した。
いつもと変わらぬ淡白で無感情な反応……だったが。
千染からして見ると、ほんの僅かにそわそわしているような、何か気にしているような……そんな様子に見えた。
「……どうかしたんですか?」
「え?」
「いえ、なんだか今日は珍しく……落ち着きがないように見えて」
「………」
端から見れば十分落ち着いているのだが、夜雲と何度も触れ合い、語り合い、交じり合ったおかげといえばいいのか。
とにかくその通常の人ではわかりづらい夜雲の微々たる変化も、千染はすぐ感じ取れるようになっていた。
元々ちょっとした気配でも感じ取れる忍だから、余計にだろう。
きょとんとした様子で千染を見ていた夜雲だったが、程なくしてほんの少し困惑した様子で千染から目を逸らす。
障子窓近くの壁に背を預けて立っている千染は、何も言わずに彼の言葉を待つ。
文机の前で正座している夜雲を見下ろして。
何とも言えない静けさが漂う。
文机の上にある燭台の火が、ゆらりと揺れる。
夜雲は顔をうつ向かせていく。
膝の上に置いていた手を、ゆっくりと握りしめていく。
「………あの、さ……」
夜雲は口を小さく開いて、絞り出すような声で言い出す。
「……次に、きみが来る夜の日……その日に……ちょうど、小春城がある城下町で……祭りがあって……」
「……」
「それで……その……きみと……一緒に行きたいな、って……思って……」
途切れ途切れに言ってきたその言葉。
城下町で行われる祭り事。
まさか、それに誘われるとは微塵にも思っていなかった千染は、目を大きくして反応した。
また沈黙が流れる。
「何故……?」
しばらくして、千染が問う。
「何故、わたしと祭りに行こうと……?」
内心大きな戸惑いを感じながらも、至って冷静な声で。
その問いに対して、夜雲は
「……村の人に……、息抜きに祭りに行ったらどうかって言われて……その時……きみの姿が浮かんだから……」
顔をうつ向かせたまま、答える。
「それで……きみと祭りに行ったら……、楽しいんだろうなって……思って……」
「………」
「何よりも……きみと……思い出……、作りたいなって……思ったから……。だから……」
それ以上何も言わず、夜雲は口を閉ざす。
無表情で夜雲を見ていた千染は、少しだけ視線を落とす。
膝の上にある夜雲の拳が微かに震えているのが見える。
それを見て、千染は何とも言えない表情をした後、諦めたかのように目を閉じる。
そして、再び目を開けて夜雲を見ると
「いいですよ」
夜雲の誘いを受け入れた。
耳に確かに入ってきたその返事に、膝の上にある夜雲の拳が小さく跳ねる。
そして、少しの時間を置いて、夜雲はゆっくりと顔を上げて千染を見る。
その顔には、驚きと喜びの色が浮かんでいた。
「い、いいの……?」
「ええ」
「ほんとに……?」
「じゃあ断りましょうか?」
千染の冷たい言葉に、夜雲は慌てるように首を大きく何度も横に振る。
そして、笑いはしないものの、目つきと雰囲気からして嬉しそうにする。
膝の上にある拳を緩めて、少しもじつく。
頰が仄かに赤くなる。
そして、視線を上げて再び千染を見ると
「ありがとう……、千染くん……」
と、いつになく浮き立った声で、千染にお礼を言った。
夜雲のその声とその様子に、千染は特に反応らしい反応も返さず、ただ無表情で彼を見る。
「次の夜が楽しみ……。あ、浴衣はうちにあるのを用意するから、それ着たらいいよ」
「……そうですか。それはどうも。でもわたし、行くとしても顔は隠して行きますので。それでもよろしければ」
「構わないよ。きみが一緒なら、どんな姿でも」
「……」
どことなく明るいように聞こえる夜雲の声。
初めて聞くに近いその声と嬉しそうな様子に、今度は千染が組んでいた腕を掴んでいる手を軽く握りしめる。
そして、夜雲から目を逸らすように半分開いている障子窓の方に顔を向けると
「……誰かに見られてるかもしれないと」
千染の呟くような声に、夜雲はきょとんとしたように反応する。
「敵にあなたとの関わりを知られたらさすがにいけないだろうと思って……外に出る誘いを断ったばかりですのに……。また外に出る誘いをするなんて……空気読めないんですね、あなた」
千染は冷たい口調で、突き放すように言う。
その発言に対して、夜雲は目をぱちくりとさせた後、ほんの少し目を伏せて照れているような反応をした。
「心配してくれたんだ……」
「は?」
夜雲がもらした言葉に、千染は思わずいらっとしたような反応をして、彼を睨む。
「嬉しい……、すごく嬉しい……」
「いや……面倒なことになるのが嫌だって意味で言ったのですが。万が一、それがきっかけであなたが敵に拐われたとしても場合と状況によってはすぐに見捨てますからね?」
「いいよ、それでも。ぼくはきみが気にかけてくれたことが嬉しいんだ」
「………」
「きみの中にもぼくがいるようになってくれているのかな……?そうだったら本当の本当に嬉しいな……」
照れくさそうに視線を落とし、嬉しそうな声でそう言う夜雲に、千染は黙り込んでしまう。
意地悪な言葉の一つや二つ投げつけたかったが、なんたがその気が削がれた。
「千染くん……、こっちに来てくれる?」
「………」
どこか甘えるような声でそう言ってきた夜雲に、千染は冷めた視線を送りつつも、壁から離れて夜雲の元に向かう。
そして、彼の前に座り込む。
赤色の瞳と藤色の瞳が、互いを見つめる。
夜雲は静かな動きで目の前にいる千染に手を伸ばし、その頬に優しく触れる。
そして、前にのめり込むと千染の唇に接吻をした。
触れるだけの接吻を。
千染の肩に手をかけ、ゆっくりと優しく押し倒していく。
千染から唇を離して、下にいる彼を見つめる。
千染も特に抵抗する様子もなく、無表情で夜雲を見上げる。
「千染くん……」
夜雲の口が小さく開く。
「ぼくは大丈夫だから」
その口はほんの少し……ほんの微かにだけ、弧を描く。
「大丈夫だから、ね?だから、祭り……行こうね。一緒に」
まるで幼い子どもがはしゃいでるような。
否、はしゃぐは言い過ぎかもしれないが、とにかくそれに近い雰囲気を感じさせる夜雲に、千染は冷めた目をする。
「たかが祭り一緒に行くぐらいでそんなに喜ぶなんて………安い男ですね」
そして、悪態をつく。
「安くなるよ。きみが一緒なら、いくらでも」
だけど、その悪態をものともせず、夜雲はそう言い返すと千染の頰を優しく撫でる。
顔をまた近づけ、再び唇を重ねる。
重なった唇は、触れるだけからだんだんと食らいつくように深くなっていく。
こいつは言ってることの意味をわかっているのか、と夜雲の接吻を受け入れながら顔をしかめる。
けど、先ほどの嬉しそうな夜雲の姿が不意に脳裏を過り、千染は一瞬だけ複雑そうな目をする。
そして、そのまま考えるのをやめるように目を閉じると、夜雲の手に身を委ねた……。