相異相愛のはてに
朝日の差す鬱蒼とした山の中で、擦り切れんばかりの空気が流れる。
抜いた大太刀を蝶月の顔に向けている芙雪と、そんな芙雪を忌々しそうに睨む蝶月。
二人から感じる殺気に、独影は悟ったような目をする。
一方で、蝶月の近くに屈強な体格の男とねじ曲がった前髪が特徴的な美青年は依然とした様子で黙っていた。
「……何よ」
先に沈黙を破ったのは、蝶月だった。
「あんたには話しかけてないんだけど。せっかく独影くんと久方ぶりに話してるってのに、邪魔しないでくれる?」
独影を相手にしている時とはうって変わり、ひどく刺々しい口調で芙雪を邪魔者扱いする蝶月。
「その会話が気色悪くて止めたんだろうが……」
対して、嫌悪がこもった低い声で言い返す芙雪。
また沈黙が流れる。
この二人が敵意を向け合った以上、穏やかな空気に戻すことなんてまず出来ない。
とりあえず現状を受け入れた独影は、さてどうするかと考え始める……が。
「はっ、気色悪ぃ?あんたの傷だらけで無駄に大柄で男だか女だかよくわからない見た目よりは気色悪くないわよ」
考える間なんて悠長な時間を与えるわけもなく。
「ふんっ、常日頃男を漁ることしか考えていない頭も股も緩い女に言われたくないな」
二人の罵り合いが始まった。
その瞬間、独影はやや諦めたような目をする。
一方で、大太刀を下げて見下すような目でこちらを見てそう言ってきた芙雪に対し、蝶月は心底鬱陶しそうな表情をして舌打ちをする。
「頭が固くて股もかっちかちに固い木偶よりはましじゃない?てか、わたしは独影くんと話してんのよ。用無しは黙っててくれない?」
「黙っててほしいならずっと黙ってられるような会話をしてくれないか?そもそもの話、本題が甚だしくずれているだろうが。忍法の話はどうした、忍法の話は」
「あー、まぁもう終わったようなもんだから別にいいかなって。独影くんの意思は聞けたし、あんたの忍法なんていらないしね」
「………あ?」
蝶月の吐き捨てるように言ってきた最後の発言に、芙雪の目が一気に不穏な色へと変わった。
芙雪の隣にいる独影は、若干呆れたような顔をする。
その一方で、蝶月の近くにいた美青年はすかさずといったように彼女に目を向けた。
「蝶月」
美青年は咎めるように蝶月の名を呼ぶ。
その声を聞いた蝶月は、一瞬ふて腐れたような顔つきになったが、すぐに嘲笑を浮かべて美青年の方を振り返る。
「だってぇ、事実じゃない〜。集会の時、こいつの忍法ほしがってる子いなかったじゃないのぉ」
蝶月の発言に、芙雪は目を見開く。
「いっちばんの不人気って言えばいいのかしらぁ。でもみんなの気持ちわかるわぁ。わたしだってやだものぉ。あぁんな不細工な忍法を使うなんて」
刀の柄を握っている芙雪の手が震える。
こめかみにもいくつか青筋が浮かんでおり、今彼女がどんな感情を抱いているのか、誰もが見てすぐわかるだろう。
その姿を横目で見ていた独影は、何とも言えぬ表情をする。
ここは芙雪に冷静になるよう呼びかけるべきだろうが、下手なことを言うと却って逆上してしまう可能性がある。
心ノ羽だったら、どんな声かけしてもすぐに芙雪を落ち着かせることが出来ただろうが……。
となれば、隙を突いて気絶させるのが妥当であろう。
けど、正直。
今の芙雪の気持ちがよくわかるのもあって、独影は芙雪に手出しする気になれなかった。
師からもらった大切な忍法を侮辱されたら、自分もそれなりに怒っていただろうから。
(……それに……)
独影は芙雪から目を離し、空に目を向ける。
(多分……そろそろか)
胸の内で、独影は意味深なことを呟く。
ここはむしろ何もしない方がいいのかもしれない。
そう思って独影は、芙雪の方に視線を戻した。
「うちの内情を喋るな」
一方で、惨途忍軍の美青年は淡々とした口調で、蝶月の軽率な発言を咎めていた。
「別に重大なこと言ってるわけじゃないんだから、いいじゃないのぉ。咸喪も頭が固いわねぇ」
「お前はそのまま重大なこともうっかり言いそうだからだ」
「何よそれぇ」
咸喪(みなも)と呼んだ美青年の指摘に、蝶月は口を尖らせる。
が、すぐに思い出したかのように独影を見ると
「あ、でも独影くんにならぁうっかり口を滑らしちゃうかもぉ」
と、妖艶な笑みを浮かべ、色気のある声で誘うように言う。
その発言を聞いた咸喪という美青年は、冷ややかな視線を蝶月に送る。
だが、その視線に気づいていても、蝶月は独影に熱い眼差しを向け続けた。
蝶月にとって、今は独影の純潔を食らうことが第一なのだろう。
蝶月のその思惑を察してか、独影は呆れた顔をして彼女の方に目を向ける。
「蝶月さん……あなた、そんな呑気なこと言ってる場合じゃないでしょう」
「え〜、何……」
が、と言いかけたところで蝶月は瞬時に足に力を入れ、後ろに飛び退く。
直後、蝶月のいた場所に長く鋭い刃が風を切る勢いで振り下ろされる。
芙雪だ。
芙雪が蝶月に向かって刀を振ったのだ。
大太刀を振り下ろした体勢のまま、芙雪はふーふーと荒い呼吸音をもらして、蝶月を睨む。
芙雪が激怒しているのは明らかだ。
その原因が何なのか。
わかっているはずなのに、蝶月は挑発的に嘲笑う。
「あら、どうしたの?猪みたいに鼻息荒くして」
「………」
「まさかわたしを殺そうしたの?っぷ……ふふ!殺されるわけないじゃないの。あんたみたいな図体がでかいだけののろま……」
と、蝶月が芙雪を罵っている途中で、近くにいた咸喪と後ろにいた屈強な体格の男が、何か気づいたように反応する。
そして、すかさず屈強な体格の男が蝶月に向けて足を踏み出した瞬間。
ひゅんっ
「!、きゃっ!」
急に腕を掴まれたかと思いきや横に引っ張られ、蝶月の体が半ば横に倒れかけるような形で傾く。
直後、紙一重といったように蝶月の顔横を何かが勢いよく通り過ぎていく。
そして、それは鋭い音を二度たてて後ろの木に突き刺さった。
その場がしん……とした空気に包まれる。
至って冷静な様子で蝶月を見る独影と、同じく冷静な様子で芙雪を見る咸喪。
そして、蝶月の腕を掴んだまま静止してる屈強な体格の男。
一体、何が起きたのか。
それを知らせるのは、血が滲み出ている……芙雪の肩だった。
屈強な体格の男の傍らにいた蝶月は、呆然とする。
斜めに傾いていたため転けそうになりかけたが、男の腕に手をそえて体勢を立て直す。
芙雪が何をしてきたのか。
それを理解する前に。
「あぁ、残念だ……」
芙雪が口を開く。
そして、ゆっくりと顔を上げると
「その不人気で不細工な忍法で呆気なく死ぬ馬鹿女の無様な姿が見れると思ったのに……」
と、嘲笑を浮かべて蝶月を罵った。
そう。
芙雪は忍法を発動したのだ。
己の体内にある骨を駆使した忍法。
それが芙雪の忍法だ。
先ほどは、肩の骨の一部を分離し、棒状に形成、そして肉を突き破り、蝶月に向けて発射したのだ。
その証拠に、蝶月達の後ろの木。
そこに血が纏わりついた白の細長い棒状のものが、深々と突き刺さっていた。
芙雪の発言ですぐに全てを理解した蝶月は、目を見開く。
表情に怒りの色が濃く滲み出る。
「……上等じゃないの。このでかぶつが」
蝶月は傍らにいた屈強な体格の男の腕を押し退けるようにして離れ、芙雪を睨む。
嫌いな女に不意打ちをくらわされそうになったこと。
それに気づけなかったこと。
そして、今絶賛お熱の独影の前で恥をかかされたこと。
それぞれの理由が重なりに重なって、蝶月の感情が強い憤りとなり、殺意と変わっていく。
「蝶月」
蝶月の並々ならぬ殺気を感じた咸喪は、咎めるように蝶月の名を呼ぶ。
が、それで蝶月が止まるわけもなく。
「だぁいじょうぶよ。ちょっと痛めつけるだけだから」
そう言う蝶月の袖から、小さい刃が連なったような鎖がするすると出てくる。
彼女の得物だ。
それを使うということは、どう考えても痛めつけるだけで済まそうとしていないだろう。
咸喪は素早い動きで、蝶月の近くにいる屈強な体格の男に目配せする。
咸喪の視線に男は小さく頷く。
「はっ!少し脅しただけで武器を構えるとは、余裕がなさすぎではないか?それでよくわたしの忍法を馬鹿に出来たものだな……。却って哀れに思えてきたぞ」
一方で、蝶月からの殺気をものともせず、芙雪は鼻で嘲笑って挑発する。
来るなら来いと。
一瞬で終わらしてやると、そう言わんばかりの好戦的な眼差しを蝶月に向ける。
その後ろ側にいる独影は、特に芙雪を止める様子もなく至って冷静な様子で蝶月達を見る。
何か考えがあってのことか、それとも……。
「ちょっと隙を突けたからって調子に乗ってんじゃないわよ。傷物のでかぶつが……」
蝶月の足が一歩前に踏み出す。
「身の程ってのをわからせてあげる」
蝶月の袖から出ている鎖が、ちゃら……と小さな音をたてて動く。
刹那、芙雪は大太刀を構え、蝶月の近くにいた男は蝶月に目を向ける。
そして、蝶月が動き出そうとしたと同時に男の手が上がりかけた……その時だった。
「そこまでだ」
静かでありながらもどこか重々しさのある声が、突如として聞こえる。
どこからともなく聞こえたその声に、独影と咸喪以外の全員が目を大きくして、それぞれの動きを止める。
顔色一つ変えず独影の方に目を向ける咸喪に対し、独影はわかりきっていたかのように顔を横に向ける。
すると、
ざっ……
「!」
「……!」
「………」
木の上から飛び出てきた影が、五人から少し離れた位置に着地する。
全員がその影に注目する。
後ろに一つ束ねられた長い白髪に白灰色の忍装束、そして包帯で覆われた目元が特徴的な男。
容姿と佇まいからして、どこか神秘的な雰囲気のある……白髪の忍。
その場にいる全員が突如として現れたその忍の正体を知っていた。
故に、その忍を見るなり蝶月は渋い表情をし、屈強な体格の男と咸喪も表情には出さないものの纏う空気が一気に張り詰める。
そして、
「雹我さま……!?」
芙雪はひどく驚いた様子で、その忍の名を口にした。
雹我(ひょうが)。
巣隠れ衆上忍の一人。
上忍七人の中で最も上忍の歴が長く、その実力は忍頭の櫻世にも匹敵する。
そして、櫻世の同期でもある忍だ。
驚いている芙雪の傍らで至って平然とした様子で雹我を見ていた独影は、後ろで飛び去っていく烏達の気配を感じ取り、意識をそちらに向ける。
(ありがとな〜)
と、心の中で烏達にお礼を言うと、それに応じるように三羽のうちの一羽がかぁと大きく鳴いた。
そう、独影はこっそりと忍法を使って、近くにいた相棒の大吉含めた三羽の烏にお願いしていたのだ。
ここから一番近くにいる上忍を連れてきてほしい、と。
この三人相手だと自分と芙雪だけでは心許ないと感じだ上での判断だった。
あと一人上忍がいれば、さすがに向こうも下手な手を打ってこないだろうと考えてのこと。
とはいえ、まさか雹我が来てくれるとは……。
ついている。
そう思いながら、独影は安心して後の流れを雹我に任せることにした。
「……芙雪」
少しの沈黙の後、雹我は芙雪の方に顔を向ける。
芙雪は少しうろたえながらも、「は、はい」と返事する。
「刀をおさめろ」
「……はい」
雹我の命令に渋々……というより、落ち込んだ様子で芙雪は構えていた大太刀を下ろし、背中にある鞘におさめる。
芙雪の手が柄から離れたと同時に、雹我は蝶月達の方に顔を向ける。
どうやら感覚でその場の状況を読み取っているようだ。
「咸喪、鍛架、蝶月」
落ち着きのある低い声で、雹我は三人の名を呼ぶ。
「芙雪が粗相したのなら謝ろう。だが、こやつが必要以外で刀を抜くのはでかい蛞蝓を見た時と大事なものを貶された時くらいだ」
「……」
「果たして、どちらであろうか」
依然として空気は張り詰めている。
蝶月も、鍛架(かじか)と呼ばれた屈強な体格の男も、何も言わない。
否、言う必要もないのだ。
どうせ、この雹我はわかっているのだから。
この状況の意味を。
どうして自分達がここにいるのかを。
そんな二人をよそに反応を示したのは……、
「いやはや申し訳ない。謝るのはこちらの方だ」
咸喪だった。
静かな足取りで蝶月と鍛架の前に出て、雹我を見据える。
「蝶月が芙雪どのの癇に障るようなことを言ってしまってな。それを事前に止めれなかった我々にも責任はある。すまなかった」
咸喪の発言を聞くなり、蝶月はふんっとそっぽ向く。
まるで、わたしは悪くないと言わんばかりに。
蝶月のその態度に、芙雪は眉間に皺を寄せる。
「……そうか。して、おぬしらは何故二人の前に現れた?ただ文を受け取るだけで惨途の手練れが三人も出向くことはないであろう」
「なに、下っ端同士腹を割った話がしたかっただけだ」
雹我の鋭く突くような発言をものともせず、咸喪は平然と当たり障りのない言葉を返す。
「腹を割った話、と……」
雹我は静かに呟く。
やけに重々しく聞こえたその声に、沈黙が戻る。
咸喪と独影以外は、窺うような様子で雹我を見る。
程なくして。
「……忍法か?」
雹我は短く、率直に、自身が察したことを口にする。
それに対して、
「ああ、そうだ」
咸喪も潔く肯定した。
誤魔化すことも、濁すこともせず。
咸喪の返答に、雹我は少し黙る。
独影と芙雪は特に何か言う様子もなく、雹我の言葉を持つように彼をじっと見続ける。
「……おぬしらも諦めが悪いのぅ」
呟くようにそう言いながら、雹我は芙雪と独影の元へ歩き出す。
「我らの忍法はもはや忍法にあらず。……人知を超え、在るべき人の形をも凌駕し、化け物の類と見なされても致し方ない過去の産物だ」
雹我の静かな声だけが、その場に聞こえる。
「戦の世では活きても、平和になれば持て余すだけだろう。否……、むしろここで消えた方がよいのだ」
雹我は芙雪と独影の前に来たところで、三人の方に体を向ける。
「戦のなくなった世に、異端の力は……新たな戦の元になる」
重くのしかかるような低い声。
雹我の白く長い髪がゆらりと揺れる。
包帯に覆われた目で、三人を見据える。
そして、
「戦乱の元になりうるものは断つべし。おぬしらが何と言おうと我らの忍法を継がせる気は毛頭ない」
誰が聞いても明白な拒絶の意思を三人に伝える。
それに対して、咸喪は目を鋭く細めると
「それは櫻世どののご意思か?」
と、すかさず問い返す。
「そう受け取ってもらっても構わぬ。例え某と櫻世の意見が違ったところで、結論は同じだからな」
対して雹我もすかさず答えた。
その返答を境に、またもや沈黙が流れる。
蝶月は不服そうに眉間に皺を寄せ、鍛架は無表情のまま咸喪に視線を向ける。
一方で、咸喪は特に変わった様子もなく冷然と雹我を見続けていたが、途中でふと冷笑を浮かべた。
そして、
「遷見忍軍壊滅の件で……お前らの誤解を解くために大きく貢献してやったのにな」
弧を描いた口から出てきたのは、恩情を煽るような言葉だった。
冷たく言い放たれたその言葉に、芙雪はもちろんのこと、ずっと平然としていた独影も少しだけ顔をしかめた。
「……恩知らず、と言いたいのか?」
二人と違い、雹我は顔色一つ変えず静かな声で問い返す。
「いいや?思ったことをそのまんま言っただけさ。俺は頭に指示されたことをやっただけだから、別にお前らに恩を売ったなんて微塵にも思っていない……が」
咸喪は冷ややかに目を細める。
「他はどうだろうな」
冷淡さが込められた声で、咸喪は含みのある発言をする。
その場の空気がより一層重くなる。
芙雪も独影も、不愉快そうな目で咸喪を見る。
「……忍法のこと以外なら、いくらでも手を貸そう」
程なくして、雹我が言い出す。
「ここで事を荒立てて困るのは、おぬしらであろう」
「………」
「話は終わりだ。ここであったことは櫻世には黙ってておいてやる。今日は大人しく帰れ」
半ば強制的に話を切って帰るように促す雹我。
通常なら不服の意を唱えられるだろうが、咸喪達にその様子はない。
それどころか。
「承知した」
雹我の言葉を潔く受け入れた。
咸喪のその返事を聞くなり、蝶月は忌々しそうに芙雪を睨んだ後踵を返し、鍛架も雹我、芙雪、独影を一通り見た後静かな動きで踵を返す。
二人に続くように、咸喪も数歩後ろに下がっていく。
そして、再び雹我を見据えると
「では、また」
冷ややかに笑ってそう言い放つと、風を切るような音と共にその場から一瞬で消えた。
咸喪の後ろにいた二人も、それに倣うように消える。
三人がいなくなり、その場に雹我と芙雪、独影の三人が残る。
日が昇り、更に明るくなっていく山の中。
どこからともなく聞こえてくる小鳥の囀りと共に、辺りに充満していた重い空気が軽くなっていく。
しばらくして、独影が大きく息を吐き、雹我の方に顔を向ける。
「ありがとうござ」
「申し訳ありませんんん!!!!!!」
安心しきった笑顔で雹我にお礼を言おうとした独影だったが、芙雪の大声謝罪によって遮られた。
その騒音の如く凄まじい声に、独影は思わず目を瞑り、雹我はやや困惑した様子になる。
「わたしとしたことが巣隠れの上忍でありながら!!とんだ未熟な姿を晒してしまい!!!本っ当に申し訳ありません!!!」
瞬きした瞬間には既に平伏していた芙雪。
全力謝罪の様子からして、自分の冷静さを欠いた行動で雹我に余計な手間をかけさせ、更には巣隠れの恥になることをしてしまったと思っているのだろう。
しかも惨途忍軍の前でだから余計に。
芙雪のそんな心境を察した独影は生暖かい目で芙雪を見守り、雹我はなんて声をかけようか考える。
が、悠長な時間はなく。
「お詫びとして……!」
頭を勢いよく上げた芙雪は、懐から苦無を取り出す。
それを見た……というより気配で感じ取った雹我は、はっとする。
「ここで腹を斬らせてもらいます!!!」
芙雪は持ってる苦無を自身の腹に向ける。
切腹だ。
雹我は困惑通り越して呆れた様子で、懐に手を突っ込む。
そして、
キンッ!
「!」
芙雪が苦無を振り上げたところで、懐から取り出した手裏剣を投げ、苦無を上手いこと弾き飛ばした。
弾かれた苦無が、手裏剣と共に地面に突き刺さる。
「……芙雪、一旦冷静になれ」
「うぅ……」
雹我の言葉に、芙雪は地面に手をついて項垂れる。
「某はおぬしの行動を恥だとは思っておらん。が……相手の戯れ言を少しは聞き流せるようにならぬとな」
「はい……しかと肝に銘じておきます」
「詳しいことはまた里に帰ってから聞こう」
「はい……」
「それと独影」
「はい」
やや苦笑いしながら芙雪を見ていた独影だったが、雹我に名前を呼ばれてすぐ反応する。
「大吉達が某のところに来たのは、お前の指示か?」
「あ、はい。近くに上忍がいたら連れてきてほしいとお願いしました」
「そうか。よい判断をした。礼を言う」
「いえいえ、礼を言うのはこちらの方です。雹我さんが来てくださったおかげで、何事もなく会話だけで済みましたので。本当にありがとうございます」
そう言って独影は雹我に向かって頭を下げる。
律儀な反応をしてくる独影に、雹我は優しげな笑みを浮かべる。
が、すぐに元の無表情に戻った。
「しかし、意外としつこいですね。惨途の方々」
「ああ……」
独影が頭を上げたと同時に、雹我は惨途忍軍の三人がいた場所に顔を向ける。
「戦も今や終わりにかかっている。今も戦力として残っている忍衆に勝つことを考えると、あと一つ抜きん出た力がほしいと思っているのだろう」
「それがうちの忍法ですか……」
「そうだ」
「………」
「だが、我らの忍法は……いや、我らの忍法こそ、ここで戦と共に終わらせるべきなのだ。……特に某の忍法はな」
雹我の言葉に、独影も、地に座り込んでる芙雪も、何とも言えない表情をする。
「とはいえ、それはあくまで某の考えだ。おぬしらの忍法をどうするかはおぬしらに任せる」
「……」
「……」
「ただ……惨途忍軍の者達のように、“野心”の匂いが少しでもするような者には決して受け継がせるな。それだけは約束してほしい」
「承知」
「もちろんでございます」
独影に続いて、芙雪も即答する。
それを聞いた雹我は少しの間を置いた後、複雑そうに笑みを浮かべる。
「師から受け継いだ忍法を大切に思っているおぬしら二人に、こんなこと言う必要もないのだがな……」
そう言って、雹我は足を一歩前に踏み出した。
「……千染や還手ちゃんはともかくとして、冬風さんと春風くんは少し、不安ですね」
雹我に続くように独影も歩き出し、芙雪も静かに立ち上がる。
「そうだな。双方、違った意味で危ういな」
「冬風さんは求められたら修業過程をあっさり教えてしまいそうですし、春風くんは上手いこと騙されそうで……」
「春風にはまたよく言い聞かせるとして、問題は冬風だな……。今のところ、惨途の者達から煙たがられてるのが幸いしているが……」
「特に鍛架さんが冬風さんを毛嫌いしていますからね。というより……憎んでる、と言えばいいでしょうか」
「……冬風のことだ。鍛架の大切なものを知らず知らずに壊してしまったのであろう」
「………」
「もしかしたら忍法のこと以前に、冬風はいつか鍛架に葬られるかもしれぬな……。その時は冬風が招いた災だ。荒立てることなく、受け入れよう」
「はい……」
「はい」
雹我について行くように歩きながら、独影は少し考えるように、芙雪は当然といった感じで、返事をする。
次の瞬間には、雹我はその場から消え、近くにあった木から木へと飛び移っていく。
独影も足に力を入れて、木に飛び乗り、雹我の後に続く。
そこから少し遅れて、芙雪も。
(……)
先を行って雹我と話の続きをする独影の背中を、芙雪はじっと見つめる。
その際に。
ーーーー外の誰かが天下を取って、世が平和になって、いよいようちに仕事が来なくなったら……俺は里を抜けるつもりでいますよ。
あの場で、独影が言った言葉が……不意に脳裏を過る。
里を抜ける。
独影が、里を抜ける。
その言葉が突きつけるかのように浮かぶ。
そして、流れ込むように過ったのは、楽しそうに笑いながら独影と話している心ノ羽と……よく独影の隣にいる千染の姿。
直後、芙雪は眉間に皺を寄せ、怒っているような困惑しているような……苦しそうな、そんな複雑な表情をした。