相異相愛のはてに
武家屋敷の前庭を通り過ぎ、頭を下げてきた門番に頭を下げ返しながら、夜雲は門を出ていく。
青空の中にある太陽は、そこそこ西に傾いている。
先を歩けば、市場の通りが見える。
幾多の人々が行き交い、商売人は客を呼び寄せるための謳い文句を大きな声で言い、活気づいている。
のどかな花咲村とは違い、城下町らしく賑やかだ。
夜雲はその通りを歩いていく。
目当ての物があるのか、それとも滅多に来ない場所だからとりあえず見て回ろうという考えなのか。
夜雲の表情や雰囲気からは全く読み取れない。
ふと夜雲の足が、小間物屋の前で止まる。
小間物屋には娘が数人集まって、弾んだ声をあげて並んでいる品物を見ている。
美しい装飾がなされた簪や前櫛、色とりどりの織物等が娘達の間から見える。
夜雲はしばらくそれらを見つめた後、小間物屋に向かって歩き出す。
これはどう、似合う、と髪飾りを手にとって頭に当てがいながら楽しそうに選んでいる娘達を傍らに、夜雲は並んでいる品物を見る。
全体を見た後、簪が並んでいるところに視線を留め、その中でも瑠璃色の石が飾られている簪に目が止まり、それを手に取る。
すると、すかさず店主らしき男が夜雲に近寄った。
「あ〜お兄さんお目が高いねぇ。それ、珍しい瑠璃色の石を使った簪でねぇ」
夜雲は反応する様子もなく、その簪を見つめる。
「日にあてると中がきらきら、きらきらと小さく光ってねぇ。まるで満天の星空のような……」
「買います」
「はぇ?」
「お値段は?」
男はぽかんとした。
それもそうだろう。
その簪を買うと言った者は今まで誰もいなかった。
あまりにも高くて。
だから、毎度の如く、とりあえず特徴を説明した後値段を言って、相手が渋った顔をしたら、すかさず安価で人気のある簪をすすめる。
そういった手順での売り込みをするはずだったのに、遮られてしまった。
予想外のことになかなか思考が動かないのか、男は口を開けたまま呆然としてしまう。
手にある簪に向いていた夜雲の視線が、男の方に向く。
「おいくら?」
言葉の形を変えた同じ質問を、夜雲は男に投げつける。
ぼ〜っとしていた男だったが、さすがに二度も聞かれてハッと我に返る。
そして、うろたえながらも夜雲に営業的な笑顔を向ける。
「え、えぇと、お客さん。その簪は他の簪より値が張ると言いますか……」
「これで足ります?」
「おぇえ!?」
どうせ勢いで言ったのだろうと思った男は、頭を切り替えていつもどおりのやり取りをしようとしたが、夜雲が差し出してきたものを見て思わず大きな声をあげてしまう。
ピカピカと眩いばかりの金の光を放つ……小判。
しかも、二枚。
つまりは二両。
それがどれだけの金額か商人だから当然わかる男は、一瞬固まって、ハッとまた我に返った後、夜雲の肩を掴んで小判を隠すような形で店の奥に連れ込んだ。
「あ、あんた……!二両って……!しかもそんな立派に綺麗なの……!」
「足りないですか?」
「いやそうじゃなくて……!!え、えぇ……!?し、失礼ですが、お金を使ったことは……?」
「あります」
「あるならその二枚がどれほど……!」
「じゃあ二枚あげますのでこれはもらいますね」
そう言って小判二枚を男に押しつけると、夜雲は持っていた簪を懐に入れて店を去ろうとした。
いつの間にか手に金ピカの小判二枚がある状態に、男は思考停止したが、またハッとなって慌てて夜雲を追いかける。
「待ってください待ってください……!ちょっとさすがにこれは貰いすぎです!」
「あげます」
「あげ……!?一枚でいいです!」
金ピカ小判をあっさり手放すような言い方をする夜雲の驚愕しながらも、男は夜雲の手を掴んで小判を押しつける。
黙ってもらっとけばいいものを、さすがに大金は良心が痛んだのか、それとも日和ったのか。
とにかく小判一枚でも十分貰いすぎなのだが、夜雲の一方的な態度からしてもう一枚を返すのでやっとだった。
そそくさと店に戻る男を後目に、夜雲は掴まされた小判を見る。
そして、懐から武士からもらった包み紙を取り出し、それを開いて、返された小判を入れる。
中にはもう二枚金ピカの小判が入っていた。
あの武士は気前がいいどころか太っ腹だった。
日も暮れ。
あれから意外にも城下町に留まった夜雲は、花曇山へ続く帰路を辿っていた。
朝通った草道を歩く。
空は茜色から夜の色に変わりかけている。
これは花曇山に帰ってそこから花咲村に向かったとしても、真夜中で回診なんて出来るわけないだろう。
そうとわかっているはずなのに、何故城下町に長いこと留まってしまったのか。
………いや、あの時、残りの仕事があるからと言ったのは武士からの夕餉の誘いを断るための嘘の口実だったのかもしれない。
或いは、城下町での店巡りが思ったよりも楽しくて、時間を忘れて居座ってしまったのか。
真相は本人のみぞ知る。
いや、急いで帰ろうとしている様子が全くないのを見る限り、正解は前者なのかもしれない。
とにかく夜雲は朝と変わらぬ歩調で歩いた。
歩いて、歩いて、草道から一つ目の山道に入る。
暮れ時の山道は、両側から大きな木という木がこちらを覗き込んでいるようで、どこか不気味だ。
木々の隙間、暗がりの向こう側から夜鳥の鳴き声が聞こえてくる。
ガサガサガサと聞こえてくる音は、きっと鼬か狸が走っているのだろう。
そうでないと困る。
音の正体が物の怪だったら、とんでもないことだ。
いや、この場合は忍者や刺客の方が現実味あるか。
とはいえ、腕利きとはいえただの町医の夜雲に暗殺依頼なんて来るはずもないが……。
当の夜雲はというと、薄暗くて不気味な雰囲気が漂う山道を物ともせず、変わらない様子で歩いていた。
山を一つ越え、合間の草道を歩き、また山道に入る。
この調子で、普通に、何の変哲もなく、花曇山に帰っていくのであろう。
そして、またいつもと変わらぬ日々を送る。
平穏で何の波風も立たない日々を。
だが。
その時、夜雲の足が止まった。
何かするでもなく、少し離れた先にある別れ道を見つめる。
表情に変わりはない。
逆に変わっていたら驚きだ。
夜雲が動く気配はない。
その代わり、二手に別れた道の片方から灯りが見えてくる。
何かが、誰かがこちらに向かってくるのは確かだ。
灯りはだんだんと近づいてくる。
すると、夜雲は何を思ったのか、急に横へ駆け出し、木々の間に入り込み、そしてその中でも一際大きい木の後ろに回って身を潜ませた。
いきなりどうしたのか。
まさかあの灯りが危ないものと察したのか。
灯りは、夜雲がいた場所へと近づいていく。
やがてそれは木の陰からうかがっている夜雲の目にも、はっきりと見えた。
兵糧だった。
荷車に積んだ兵糧を数人がかりで運んでいた。
前で引いてるのが一人、後ろで押しているのが二人、横から押してるのが一人、そして灯籠を持っている者が前後ろと一人ずついた。
荷車を運んでいる者達はほっかむりを被っており顔は一応見えるのだが、灯籠を持っている二人は笠を深く被っていて顔がよく見えない。
荷車を運んでいる者達と違って、上等な着物を身に纏って腰に刀をおさめている辺り、どこかの大名に仕えている武士なのだろう。
明かり役兼護衛といったところか。
後ろにいる武士の刀は、前にいる武士の刀よりやや小さく見える。
向かう方向からして、ちょっと前まで夜雲がいた城下町に行くのだろう。
夜雲は影から見つめる。
通り過ぎていく彼らを。
そして、これまた何を思ったのか。
道外れの木々に身を潜ませながら、夜雲は彼らの後をつけた。
せっかく花曇山まであと半分といったところだったのに、兵糧を運んでいる彼らを追いかけているがために、どんどん離れていく。
山の合間にある草道に入ったところで更に距離をとって、草むらに身を潜めて、後をつけていく。
夜雲のこの行動に何の意味があるのか。
彼なりに何か思うことがあるのか。
目的があるのか。
夜雲の一切変わらぬ表情からは何も読み取れない。
相変わらず。
荷車が次の山道に入る。
それを追って、夜雲はまた山道の片側にある木々に身を隠す。
その途中で、ずっと荷車をとらえて離さなかった夜雲の視線が、前に移った。
山道の先に広がる暗闇。
そこに何か感じ取ったのか、夜雲は足を止めて、身を屈める。
その直後だった。
暗闇の先から……いかにも悪そうな男達が姿を現した。
きっと、ここらへんを縄張りにしている山賊だろう。
前に現れた男達を見るなり、荷車を運んでいた男達はもちろんのこと前を歩いていた護衛の武士までもが怯えた様子で後退りしている。
護衛の意味とは。
一番前にいる山賊頭らしき男が、抜いた刀を彼らに向けて何か言っている。
大方、命が惜しくば兵糧を置いていけ、と言っているのであろう。
後ろにいる男達が卑しく笑っている。
荷車を運んでいた男達は、恐怖に震えながらも兵糧を守るようにして荷車を掴む。
前にいる武士はとりあえず刀を抜いたものの、刃先も足も震えまくっている。
遠目から見てもわかるくらい頼りない武士である。
そんな武士を見て嘲笑う男達。
事が始まらずとも武士側が劣勢なのは明らかなのだが、それでも夜雲は何かするわけでもなく、見守っていた。
相変わらずの無表情で、じっと。
なかなか兵糧を引き渡そうとしない武士と荷車にしがみつく男達に苛立った山賊達は、再度刀を向けて凄む。
それでも前の武士は頼りないながらにも、刀を構え続ける。
荷車にしがみついてる男達は、縋るような目で前の武士を見る。
と……その時だった。
後ろでずっと、さも他人事かのように落ち着き払った様子で静観していた武士が、静かに歩き出した。
恐怖と困惑に歪んだ表情をして荷車にしがみついてる男達の横を通り過ぎ、弱腰の武士の隣から一歩前に出たところで足を止める。
前にいる武士から何を言われたのかはわからないが、弱腰の武士は驚いているような反応をした直後、何か喚き出す。
それを無視するかのように前にいる武士は持っていた灯籠を、弱腰の武士に向けて投げる。
弱腰の武士は慌てた様子で灯籠を受け止めると、いそいそと刀を鞘にしまい込み、後ろに下がっていく。
下がった際に、荷車にしがみついてる男達に何か話しかける素振りを見せる。
怪訝な様子で二人のやり取りを見ていた山賊達だったが、次の瞬間には前に出てきた武士を睨みつける。
先ほどまでとは打って変わり、山賊と武士の間に張り詰めた空気が漂う。
互いに動く様子もなく、口を開いて何か言っているあたり、最後の交渉をしているのだろう。
だが、それも長いことは続かなかった。
刹那。
本当に一瞬のことだった。
瞬きした直後と言っても過言でないくらい、山賊頭の左側にいた二人の首から、突如として血が噴出した。
誰も彼もが、何が起きたのかわからなかった。
否、離れた場所から全体を見ていた夜雲はわかっていたかもしれない。
前にいたはずの武士が、いつの間にか消えていた。
その直後に、山賊二人の首が斬れた。
それはつまり……。
夜雲は、食い入るように見ていた。
表情には依然と変化はない。
けど。
その目には、僅かな……いや、夜雲にしては大きな変化があった。
興味、関心。
山道の光景を見つめている目に、その色が強く宿っていた。
夜雲は静かに背負い籠を下ろす。
懐から小判入りの包み紙と瑠璃色の石が飾られた簪を取り出し、籠にそっと入れる。
そうしている間にも、山道での光景を見つめている夜雲の目が関心の色に満ちる。
怖いくらいに。
腰におさめている刀袋の紐を解き、それだけを取り外して籠にかける。
刀を直に掴み、夜雲は鍔に指を添える。
それと同時に夜雲の目が、微かに、大きく開く。
そして、弾けるように鯉口を切った瞬間、山道に向けて駆け出した。
夜雲が刀を抜くために鯉口を切ったのは、これで三回目である。