相異相愛のはてに






「今夜はもういいよ。ありがとう」


「きみと海を見れてよかった」


「……また、見に行こうね」


「それじゃあ気をつけて帰って」


「また次の夜ね」




そう言って軽い接吻だけしてきて、夜雲との夜は終わった。
初めてだった。
致すことなく、あの家を去るのは。
昼下がり、千染は里の外れにある林の木の上に座って思い出していた。
昨夜のことを。


(あの色情魔が珍しい……。頭でも打ってきたんですかね……)


それか……本当に、ただ自分と海を見たかっただけなのか。
昨夜、浜辺をする前に見た夜雲の横顔を思い出す。
表情自体に大した変化はなかったが、目の雰囲気からして嬉しそうだった。
頭に浮かんだその姿に、千染は少し複雑そうにする。
夜雲の自分に対する感情のこと、そして彼の親のことを……色々と考えてしまいそうになる。
が、目を閉じて、考えないようにする。
考えたところで、きりがないから。
思考の先を、夜雲ではなく昨夜見た海に切り換える。
月明かりに照らされた夜の海。
鮮明に思い出せば思い出すほど、波の音も聞こえてくるような感覚がする。


……浜辺から海を見るのは初めてだった。


昨夜感じた不思議な感覚の正体。
海は何度も見たことある。
崖の上から、山の上から、遠くからと何度も。
けど、ああやって……浜辺に足を踏み入れて間近で見る海は初めてだった。
浜辺から見る海はあんな感じなんだと。
波の音が耳に流れ込むように聞こえて、潮の香りが濃くて、あんなにも広く、大きく感じるんだと。
千染はなんとなく感じたままのことを思った。


(……太陽が昇っている時は、どう見えるんでしょうかね)


朝と昼の海。
夜雲が小さな頃から唯一綺麗だと思えたと言っていた海。
少し、ほんの少しだけ気になった千染だが……すぐに断念した。
日中は必ず村人がいるだろうし、かといってわざわざ変装してまで行く気にもならない。
だから諦めた……というより、どうでもよくなった。
千染は宙を仰ぎ、ふぅとため息をつく。
青々とした葉と葉の隙間から、柔らかな日の光がいくつも差してくる。
それを見上げながら、千染はまた夜雲の姿を思い浮かべる。
最近まで見てきた夜雲の姿と……一番初めに見たであろう十四の時の夜雲の姿を。


(………)


夜雲と関わっていたら、その時見た夜雲を自ずと思い出していくだろうと思っていたが、未だに思い出せていなかった。
あの時、忍でも武士でもない、ただの庶民と思わしき男女を斬った記憶はある。
そしてその後、逃げる暗殺対象を追う前に、その場にいた男女の子どもと思わしき少年を見た記憶もある。
それが夜雲なのは確かだ。
転がってきた女の首を足元に、佇んでいた。
……その姿形は思い出せるのだが、何故か顔だけが未だにはっきりと思い出せなかった。
記憶の中のその少年の顔だけに、真っ暗な影が顔全体を隠すように落ちていて……。
その時の夜雲がどんな顔をしていたのか、そして……。
当時の自分が、何故夜雲だけを切り捨てずに去ったのか。
それが未だにわからなかった。
自分のことなのに。


(たまたま見逃す気になったのか……。でも、そうだとしても何か違和感が……)


と、その違和感の正体を見出そうとしていた時だった。



「今日は絶好の昼寝日和だな、千染」



木の僅かな揺れと共に隣から聞こえたその声に、千染は反応して顔を横に向ける。
すると、そこには巣隠れ衆・忍頭の……櫻世がいた。


「御頭……?」


怪訝そうな顔をする千染をよそに、櫻世は隣に座る。


「どうだ?最近は」

「……どうと言われましても」


気さくな様子で話しかけてきた櫻世に対し、千染は顔を前に向き直すと。


「別に、何の変わりもありませんよ」


と、素っ気なく答えた。


「ほぉ……何もないのか」

「……何が言いたいんです?」

「いや、お前が言いたくないのならいいんだ。ただ……」


限りなく無表情だが、どこか気難しそうにも見える千染の横顔を見て、櫻世は柔らかい目つきになる。


「最近のお前は、なんだか“素”でいることが多くなったように見えてな」

「は?」


千染の声色が、あからさまに不機嫌そうなものへと変わる。


「素ってなんですか?今までわたしが取り繕っているように見えていたのですが?」

「取り繕っているとまでは言わんが、最近はあのとって貼りつけたような笑みを浮かべないではないか」

「わたしだって笑いたくない時はあります。今はそれがずっと続いているだけの話です」

「ああ、わかったわかった。わたしの思い過ごしでお前の言うとおりだ。だから、へそを曲げるな」

「別に曲げてませんよ」

「………」


態度と言い方からして曲げているのだが……。
と思った櫻世だが、それを口に出すと千染が余計意固地になるので、黙ることにした。
何とも言い難い微妙な空気が流れる。
通常なら気まずくなるのだが、先ほどの千染とのやり取りで櫻世は何か感じるものがあったのか、少しだけ頬を綻ばせる。


「では、そのずっと笑いたくない気持ちになっている原因は……お前がたまの夜に会いに行っているお相手か?」

「………」


櫻世のその問いに、千染はすぐに答えず無言を続ける。
別に質問の内容に驚いたわけでも戸惑いを感じたわけでもなく、単にすんなりと答えたくなかっただけである。
里の者達が噂をし、冬風までもが知っていたことを、櫻世が知らないわけがない。
それに加えて、独影から軽く話を聞いている可能性もある。
だから、櫻世が知っていても違和感はなかった。


「そうですよ」


しばらくして、千染は気だるげにため息をついて櫻世の問いに答える。


「今まで会ったことのないような珍しい人でしたから、興味本位で付き合ってみましたけど……想像以上に頭おかしい男で色々疲れてるんですよ」

「ほぉ、人殺しを好むお前に頭おかしいと言わしめるとはやるな。その男」

「……」


妙に痛いところを突いてきた櫻世に、千染はいらっときたものの、返す言葉がないので黙り込んでしまう。


「まぁでも、悪い相手ではないようでよかった」


無言になった千染を気にするような素振りもなく、櫻世は安心したように笑う。
そんな櫻世に対して、千染は眉間に皺を寄せると


「頭がおかしいと言ったのにですか?」

「お前は嫌だと感じたら、すぐ殺すだろう」


すかさず返ってきたその言葉に、千染は黙り込んでしまう。


「或いは、二度と会いに行かない……か。そうであろう?」

「………」

「今でも会いに行っているということは、少なくともお前は相手のことを嫌だと感じていない……とわたしは思ったのだが、違うか?」


真っ直ぐと曇りのない目で、こちらを見てそう言ってきた櫻世を、千染は横目でじとりと見る。
里にいる者の大半がその視線だけで震え上がるものなのだが、さすが忍頭といったところだろう。
怯むどころか戸惑う気配すら一切なく、平然とした様子で千染の反応を待っていた。
千染は心の中で舌打ちをする。
櫻世に対して、妙に反発したい気持ちになる。
他人のくせに知ったような口を聞いて。
そもそも忍頭たる者が、こんなところで無駄話をしてていいのか。
こちらのことを聞くより、やるべきことがあるのではないのか。
前の忍頭はこんな気安くなかったぞ。
もう少し忍頭としての自覚を……、と次から次へと文句が浮かんできたが、程なくして千染は不満げな表情をすると共に浮かんでいた言葉を掻き消す。
わかっていたから。
“それ”が櫻世なんだって。
千染は何度目かのため息をつく。
諦めるかのように。
そして、周辺に意識を向け、ここにいるのが櫻世と自分の二人だけだとわかると彼から目を離し、少し考えるように視線を落とした。


「……御頭」

「なんだ?」


千染は少しだけ迷う素振りを見せたが、すぐに腹をくくったように拳を軽く握りしめる。
そして、


「肉親を……大切な人を殺されたら、……普通は殺した者を憎みますよね?」


櫻世に聞いてみたかったことを、素直に口に出して聞いた。
千染のその問いに、櫻世は目を大きくして反応する。
が……、すぐに何か察したのか、元の鋭さのある目つきに戻る。
そして、顔を前に向けると


「まぁ……普通はそうだな」


と、さらりとした口調で答えた。
櫻世の返答に、千染は何とも言えない表情をする。


「………そうですよね」

「……」 

「御頭、わたし……その相手の親を……昔、殺したんです」


告白とも言える千染のその言葉を聞いても、櫻世は驚くことも否定的な反応を返すこともしない。
ただ黙って千染の話に耳を傾ける。


「殺したのに、好きだって言ってくるんです。だから、そいつにとって要らぬ親だったのかと思ったのですが、そうでもなく……。それどころか、大切にされていたようで……」


千染の声に若干の震えが帯びる。


「何を言っても、どう問いかけても、わたしが好きだからの一点張りで……。結局わたしをどうしたいのかと聞いたら……。わたしに触れて、わたしを感じて、わたしを知って、それで……いつか……」


千染は一旦口を止める。
そして、軽く息を吸って、静かに吐くと


「わたしと……繋がりたい、と……」


千染がそう言ったと同時に、強い風が吹き、木々がざわめく。


「……本当に、とんでもない親不孝者がいたものですよ」


風が落ち着いたところで、千染は吐き捨てるように言う。


「さすがのわたしも、今回ばかりは殺す相手を間違えたと思いますよ。でなければ、こんなことには……」


膝の上にある拳を強く握りしめ、千染は気難しい表情をする。
それ以上何も言うことなく、落とした視線の先を睨むように見る千染。
顔を前に向けたまま千染の話を黙って聞いていた櫻世は、ちらりと横目で千染を見る。
そして、今の千染の横顔を見て、何か悟ったかのように目を細めると


「そうだな」


隣から聞こえた櫻世の声に、千染は反応する。
落ち着きのある低い声。
その声に引き寄せられるように、千染は彼の方に顔を向けた。


「本来なら、お前はそのお相手に憎まれるべきだ」


こちらに向いた赤の瞳を見据えて、櫻世は言う。
はっきりとした、重みのある声で。


「憎まれて、恨まれて、この上ないほどの呪いの言葉を吐かれて、心身共々いたぶられた果てに殺されて然るべきだ」

「……」


櫻世は容赦なく言う。
千染が本来受けるべきであろう処遇を。
それを、千染は黙って聞く。
特に表情を変えることなく、素直に聞き入れるような様子で。


「……けど、そのお相手がそのように言って、それを望んでいるのなら……応じてやれ。結果的にどうなろうとな」


櫻世の視線が千染から離れていく。


「まぁ、お前にその気があるのならばの話だ」

「………」


櫻世は顔を前に向き直し、目を閉じて、吹いてくる心地好い風を感じる。
櫻世が千染とその相手である夜雲との関係に何を思って、何を感じたのか。
それを口に出すことはなく、後はどうするのか……千染に委ねる。
そして、しばらくの沈黙が続いた後


「……はい」


千染は返事をした。
その短い返事が、何の意味を示しているのか。
どう判断を下すつもりなのか。
千染しか知らないその答えを櫻世は聞くつもりもなく、口を閉ざしたまま目はゆっくりと開け、再び千染の方に顔を向ける。
千染の横顔が、櫻世の目に入る。
どこか陰りが落ちているように見える……千染の横顔。
今、千染が何を思って、何を考えているのか。
おおよそ察しているのか、櫻世は彼の横顔をじっと見た後、静かに片手を上げる。
そして、その手で……彼の頭をぽんぽんと軽く、優しく叩いた。
櫻世のその行為に千染は目を大きくした後、すぐに気難しい表情をする。
が、特に抵抗することなく、大人しく彼のやりたいようにさせた。
程なくして、櫻世の手が千染の頭から離れる。
同時に顔を前に向き直した櫻世は、ふぅと鼻で軽く息を吐く。
何か悟るように。
受け入れるように。
そして、気持ちを切り換えるように今度は軽く息を吸い込むと、また千染の方に顔を向けた。


「千染」

「?」

「それはそうと、お前に一つ聞きたいことがあってな」


なんだと言わんばかりの顔で、こちらを向いてきた千染。
千染と目が合った瞬間、櫻世の口が止まりかける。
一瞬。
一瞬だけ……今の千染と“あの頃”の千染の姿が、重なる。
儚げで今にも折れてしまいそうなくらい、か弱かった頃の千染が。
不意に見えたその姿に、櫻世の漆黒の瞳が揺れかける。
が、揺れる前に、こみ上げてきた感情が表に出る前に、櫻世は元の鋭い目つきに戻った。


「お前の忍法だが………」


櫻世は言いかける。
ここに来た本題を。
だが、途中で言葉が途切れる。
千染を見たまま、櫻世は動かなくなる。
当然ながら、その様子の変化に気づいた千染は、怪訝な顔をする。


「御頭……?」

「気配を消せ」


すかさず出てきた命令。
千染は余計なことを考えず、瞬時に従う。
櫻世と共に気配を消す。
柔らかな風が吹き、木々が小さく揺れる。
時折、鳥の鳴き声がどこからともなく聞こえてくる。
千染と櫻世はお互いを見たまま、ぴくりと動かない。
………しばくして。
小さな物音と共に、穏やかではない声が聞こえてきた。



「……ん、……さん……!っ……兄さん!!」



二人の耳にしっかりと入ってきた声。
春風だ。
櫻世はもちろん、千染も声を聞いた瞬間、誰かわかった。
そして、近くにいるのが春風だけではないことも。


「兄さん!待ってよ!待てって!」


怒鳴るような春風の声。
そのあとに聞こえたのは、



「なんだぁ?今日はやけに追ってくれるじゃねぇか」



ひどく優しいようで、却って嫌みったらしくも聞こえる声。
春風の兄。
冬風だ。
二人の声が聞こえるということは、近くのどこかにいるのは確かだが、姿は見当たらない。
少なくとも、櫻世と千染の視界に入る範囲では。


「当たり前じゃないか!まだ話が終わってないのに……!」


だけど、見えなくてもわかる。
二人が今、どういった状況なのか。


「くははっ。話したところで、どうせお前がへそを曲げるだけだっての。時間の無駄だぜぇ?それでもいいのか?」

「うるさい!!」


二人の声が遠のかないのを聞く限り、どこかで立ち止まっているようだ。
春風がこちらの存在に気づいていないのは明白だが、冬風はどうなのやら……。


「へぇ……。そぉんなに気に入っていたのか、あのシノビ」


冬風のねっとりとまとわりつくような声が聞こえる。


「気に入っていたとかそんなんじゃない!せっかく……せっかく仲良くなれてたのに……!友達になれそうだったのに……!!」


今度は春風の怒り混じりの悲痛な声が。
二人のやり取りを聞いて、櫻世と千染はすぐに理解する。
冬風が“また”やったのだと。


「なぁに言ってんだ。他里の忍なんて信用ならねぇだろ?同じ里のモンでも絶対に信頼出来るとは言いきれねぇのに」

「彼は違う!心から信頼出来る人だった!」

「ふぅん?」 

「ぼくと会う度にぼくの話を親身になって聞いてくれた……!彼も彼自身のことも話してくれた……!それで……この先、痛みも苦しみも分かち合おうって……っ」

「……」

「昨日もまた、今までのように話が出来ると思ってたのに……。っ……兄さんは何がしたいんだ……?ぼくと関わる人関わる人みんなに手を出して……!!」

「手ぇ出してねぇよ。俺は話しかけただけだって」

「一緒だよ!話しかけただけであろうがなかろうが、兄さんが近づいた時点で手を出したも同じだよ!!」

「……」

「もう……お願いだから……っ、頼むからぼくに構わないでよ!放っといてよ!自由にさせてよ!!」

「………」

「どうして……どうしてこんなことばかり……。っ兄さんはその気になれば何でも手に入るだろ……!?なのに、なんで……!」

「そりゃあ、お前が大事な大事なたった一人の弟だからさぁ」

「……!」

「欲しいからとかお前から奪いたいからとか、そんな陳腐な理由で近づくわけないだろ?全部お前のため、はるのためなんだぜぇ?」

「……」

「かわいいかわいい弟には、清らかに健やかに生きてほしいからなぁ。そうとなると、やっぱまず第一にあるべきなのは確実な安全なわけで……」

「っ……」

「相手がどんな性格をしていようが、何を考えていようが、そして……お前が何を言って、どんなことをしてこようが、絶対に逆らわない。そんな相手じゃないと、やっぱり兄としては不安なわけよ。お前が騙されたり、裏切られたりなんかして、傷つくんじゃないかって」

「………さい……」

「俺なりにお前を思いやってのこと何だぜ?その証拠に“関わるな”とは一言もいってねぇじゃねぇか。だから」

「うるさい……うるさい!!何が大事な弟だ!何が思いやってだ!そんなこと微塵にも思ってないくせに!!」

「……」

「結局兄さんは奪いたいだけなんだ……!ぼくに嫌がらせしたいだけなんだ……!!」

「そんなことねぇよ」

「そんなことある!!」

「………」

「じゃないと……ここまで突っかかってくるわけがない……!、っ……本当は……気がついてるんだろ……?兄さんは……。ぼくが……ぼくが、本当は………」


二人の言い合いをただ黙って聞いていた櫻世だが、何か意味ありげなことを言い出した春風に、少しだけ反応する。
気にするような目をして。
だが。



「はるぅ」



冬風の声が、春風の言葉を遮る。
いつになく強めの口調で。


「何のことか知らねぇけどよ。少なくとも俺はお前を陥れようなんて思ってないぜ?何があってもどんな状況になっても、俺にとってお前はかわいい弟だ。それは絶対変わらない。なんならここで誓ってやってもいいぜ?」

「………そんな……」

「まぁ信じてくれないよなぁ。はるは俺がどれだけの言葉を並び連ねても信じてくれねぇもんなぁ。じゃあどうすればいい?どうしたら信じてくれる?」


冬風の声がまた優しくなる。


「言葉がだめならあとは行動しかねぇもんな。だから遠慮なく言ってくれていいんだぜ?おれにしてほしいこと。はるが信じてくれるようになるなら、なぁんでもするぜ?」


冬風の発言を聞くにつれて、櫻世の隣にいる千染の目がだんだんと冷ややかになっていく。
知っているから。
冬風のことを。
彼の性格を……それなりに。


「騙すことも殺すことも犯すことも、なんだってする。なんだったら、その逆でもいいぜ?はるが俺にそうしたいのだったら、俺は受け入れる。はるのしたいことなら、どんなことでも受け入れる」


息を呑むような声がする。
春風が怯んでいるのだろう。


「だからさ、もう我慢するのはやめな?苦しいだろ?つらいだろ?抑圧されたものが膨らんで、膨らんで、はち切れそうだろ?」

「っ………」

「はるのやりたいようにやっていいんだぜ?俺ははるを拒絶しないから。なんなら試しにここで……」

「っーーーやめろ!!!!」


春風のけたたましい叫び声に、近くの木にとまっていた小鳥達が逃げるように羽ばたいていく。
わき上がる感情に震える息遣いが、聞こえてくる。


「もういい……。よくわかった……!やっぱり兄さんとは話にならない……!」

「ああ、そお。やっぱこうなるかぁ」

「そうやってぼくも捨て駒の一つにしようとしてるんだろ……!」

「捨て駒なんて人聞きの悪い。たまたま手元にあるから使ってるだけの話だろ」

「使って、それで終わりだろ……?」

「………」

「もういい。もう兄さんには何も望まない。好きなようにすればいい。………けど」

「………」

「心ノ羽さまにだけは……何かしたら絶対に許さない」

「……ふふっ、はははっ。安心しろよ。心ノ羽さまには何もしねぇよ。御頭の大事な姪御さんだからなぁ。何かしたら一瞬で殺されちまうよ。あと個人的に興味そそらねぇし」

「……」

「なぁ、はる」

「………」

「例のシノビ。もう“安全”だから安心して関わってもいいんだぞ?昨日も約束の場所に来たんだろ?」

「………いいよ。いらない」


春風の声が一旦止まる。
そして、



「兄さんのモノになった人なんて、いらない」



嫌悪を露にした低い声。
櫻世も千染も今まで聞いたことのない春風の声だった。
櫻世と千染の表情は変わらない。
だけど、時折櫻世の目が、二人を気にしているかのように声が聞こえる方へ向いたりした。
その場が静かになる。
聞こえてくるのは自然の音だけで、また声がするような気配はない。
多分、春風が去ったのだろう。
だけど、冬風はまだいるのか、櫻世の気が緩まる様子はない。
それに従って、千染も周りに意識を配りながら、気配を消し続ける。
……そして、程なくして。


「………ふぅ」


櫻世が肩の力を抜いて、軽く息を吐いた。
冬風もいなくなったのだろう。
櫻世のその姿を見て、千染も気配を消すのをやめて肩の力を抜く。
そして、何とも言い難い空気が少しの間だけ流れた。


「……冬風は……結局相変わらず、か……」


緑生い茂る木々を見つめて、櫻世はぼやくように呟く。
そんな櫻世の横顔を見ていた千染は、冷然とした様子で顔を前に向けると


「あいつは変わりませんよ」


と、現実を突きつけた。
千染の言葉を聞いて、櫻世は「そうか……」とだけ返して小さなため息をつく。


「ちなみに千染」

「?」

「お前は冬風に何かされてないか?」

「……別にされていませんよ」

「……」

「されたとしても、何も無かったも同然ですよ」

「……そうか」


櫻世は静かにそう返すと、その場から立ち上がる。
千染はまた、櫻世を横目で見る。


「すまんが、用を思い出した。お前とまだ話したいことがあったが、また今度にしよう」


きっと、その用とは春風のことだろう。
春風が心配だから彼のところへ行くと正直に言えばいいのに……。
と思いつつも、千染は敢えて黙っておく。


「が……、その前に一つだけ先に聞いておきたいことがある。短く答えてくれ」

「どうぞ」

「お前はお前の忍法を誰かに継がせる気はあるか?」

「ないです」


即答だった。
千染は迷う素振りも考える素振りすらもなく、すぐに答えた。
その返答を聞いた櫻世も、戸惑う様子もなく、むしろどこか納得するように頷く。


「わかった。では、またな。今夜の任務、頼んだぞ」

「……はい」


千染が返事をした直後、櫻世は一瞬のうちにしてその場から消えた。
柔らかな風が吹いてくる。
艶のある長い赤髪がさらりと揺れる。
木々の小さなざわめきを耳にしながら、一人になった千染は櫻世がいた場所から目を離す。


(………)


夜雲とのこれから。
関わり方。
接し方。
櫻世に言われたことを頭の片隅に、千染は考える。
考えて、おおよそ決める。
………決めたのだが。


(………)


不意に冬風の姿が脳裏を過る。
今まで見てきた冬風の姿が。
そして、先ほどの春風とのやり取り。
それらが頭に浮かび、千染の表情に少し……ほんの少しだけ険しさが覗く。
一つの可能性が、千染の中で浮かぶ。
冬風は……知っている。
夜雲の存在を。
夜雲個人を特定出来ているかはわからないが、三度の夜が来る度に自分が会いに行っている存在を知っている。
だから、もしかして………。


(…………馬鹿らしい)


千染は頭を横に振って考えるのをやめた。
もし冬風が夜雲の元に行ったとして、自分に何の関係があるのか。
それで夜雲が冬風の手に堕ちたらそこまでだ。
そこまでの男だった……というだけだ。
そう割り切ると千染は、その場で横になる。
今夜は仕事がある。
今のうちに寝ておこう。
寝ていれば、余計なことを考えずにも済む。
起きたら気持ちを切り換えよう。
と、自分にそう言い聞かせて、千染は半ば強制的に眠りにおちた。


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