相異相愛のはてに







男としても、女としても。

人であることすら否定されたら、何として生きろというのか。


遠い、遠い昔に、捨て去った不毛な疑問。
己の境遇に苦しんでいたあの頃が懐かしい。
体を無理矢理割り開かれ、泣いていたあの頃が懐かしい。
誰かを斬る度に、手の震えが止まらなかったあの頃が懐かしい。
伸びてくる手に、怯えていたあの頃が懐かしい。
むせ返るおぞましい臭いに、吐いていたあの頃が懐かしい。
覚えのない罪に、許しを乞いていたあの頃が懐かしい。


光に気づいてしまって、羨ましそうに、恨めしそうに、それを見ていたあの頃が……懐かしい。


全部全部、切り捨てた。
全部全部、手離した。
ここで嘆いても、捌け口にされるだけ。
奪われるだけ。
何も変わらない。
何も。
ならば、奪えばいい。
奪う側になればいい。
全てを受け入れて、諦めて、奪われる側から、奪う側へ。
許されなくていい。
ずっと影でいい。
どうでもいい。
とにかく奪って、奪って、奪って、奪わなくてもいいものまで奪って。
そうやって、いつか、自分に返ってきて。
誰かに全てを奪われて。
終わる。
呆気なく終わる。


そう思っていた自分が

それを望んでいた自分が

日の下でどうやって生きていけるのか。

どう生きていけというのか。

奪うことでしか、現実も、自分も、全て受け入れられなかった自分が、どうやって……。




***




「千染くん、今日はちょっとだけ……外に出てみない?」



約束の夜。
毎度のように夜雲の家に来た千染は、二階の障子窓から部屋に入って早々に本人から誘いを受けた。
千染は怪訝な顔をする。
夜雲を抱いた日から半月経つが、あれ以降も夜に会っては少しは話をしては抱いて抱かれての繰り返しだったってのに、急にどうしたのか。
まさか。


「外でしたいのですか?」

「そんなんじゃない」


即答だった。
間髪入れずに否定してきた夜雲に、千染は黙り込む。


「………きみと、海を見たくて……」


しばらくして、夜雲が言い出す。
膝の上にある両手を、少しもじつかせて。


「海?」


千染はまた怪訝そうにする。
その問い返しに、夜雲は頷く。


「……海を見て、どうするのですか?」


夜雲の反応を見た後、千染は思ったことをそのまま問いかける。
それに対して、夜雲は首を横に振る。


「どうもしないよ。ただ一緒に見るだけ」

「見るだけ?」

「うん」

「………」

「………」

「それは……どういう意味があるのですか?」

「……」

「夜雲さんにとって、得があることなのですか?」


混じり気のない、純粋なる疑問。
そういった様子で聞いてきた千染に、夜雲は少し考えるように目を伏せる。
そして、


「損も得も……ないよ」


夜雲は返す。


「きみと海が見たい……、ただそれだけの気持ちだよ」


再び視線を上げて、千染の目を真っ直ぐ見つめて、言う。
千染は特に反応らしい反応も返さず、夜雲を見続けた。
じっと、まじまじと。
いつもの無表情、いつもの抑揚のない声。
いつもの……感情らしい感情が見えてこない藤色の瞳。
いつもと変わらぬ夜雲。
目に映るものを見ただけでは夜雲の裏を読み取るのは非常に困難だが、もはやその行為も今となっては野暮というものだろう。


「……そうですか」


夜雲がそう言うならそうなのだろう。
そんな単純な考えで、夜雲の言葉を受け止める。
けど。


「ちなみに……どこで海を見るつもりですか?」

「花咲村の浜辺」

「……」


夜雲の返答に、千染はやや渋い表情をする。
花咲村とはこの山の麓にある海に面した村。
村……ということは、当然ながら村人がいるということだ。
変装している状態ならまだしも、もし今の姿を村人に見られたら……。
その想定と共に、腰におさめている小太刀に意識が向く。
今まで自分がやってきたこと。
千染が忍としてやってきたこと。
もし村人が自分を見たら、見てしまったら、その村人を………。


「大丈夫だよ」


前から聞こえた夜雲の声が、千染の思考を遮る。
千染は下げていた視線を上げて、反応する。


「今ぐらいだったら花咲村の人、外にいないから」

「……」

「もしいるようだったら、すぐに伝えるよ。だから……いいかな?」


千染を見つめる夜雲の目に、僅かな感情の色が浮かぶ。
縋る……というより、ねだっているような、甘えているような……そんな感情の色。
その目を見て、千染は思わず眉間に皺を寄せる。
よくわからないけど、最近夜雲がたまに見せてくるその目がやけに鼻につく。
そんな目をしてこっちが思いどおりになると思ったら大間違いだ……なんて。
天邪鬼なことを思ってしまう。
どうしてなのか……と考えていたら、とある少女の影が千染の頭の中でちらつく。
忍として生まれたくせに、馬鹿みたいに素直で、馬鹿みたいに感情豊かで、どじで間抜けで、媚びを売るのだけは一丁前の、千染の大嫌いなーーーー。


「少しだけですよ」


あの小娘の姿なんて、一瞬、一秒たりとも思い浮かべたくない。
その一心で、千染は快く返事をした。
それまでの千染の心境をしるわけない夜雲は、彼の返事を聞いて「うん」と返すと、嬉しそうな雰囲気を出した。







花咲村の浜辺まで、夜雲と千染は一緒に移動することになった。
千染としては、本当は別々に行きたかったところなのだが、それで村人に遭遇したら本末転倒だし、何よりも夜雲が一緒に行こう行こうと言って聞かなかったのだ。
なので、渋々ながらも夜雲と歩いて、浜辺に向かうことにした。
道中、会話らしい会話はしなかった。
人はいないかとか、熊や猪は出ないかとか、そんな必要最低限の会話だけ。
千染も、夜雲も、必要以上には喋らず、お互いに黙って夜鳥の鳴き声が時折聞こえるだけの静かな夜の山を下りていった。

夜雲はどうかわからないが、千染はこの無言の時間に気まずさを感じていなかった。
千染自身、お喋り好きでもないし、相手を気遣って話題を出すような柄でもない。
だから、普通に平気だった。
……けど、それとは別に。


(………)


なんとなく、千染は隣をちらりと見てみる。
暗がりに紛れて、夜雲の横顔が千染の目に入る。
暗くてもわかる、相変わらずの無表情。
何を考えているのかわからない。
いや……何も考えていないのか。
変化らしい変化のない夜雲の横顔と、二人分の小さな足音。
それを見て、それを耳にして、夜雲の存在を感じながら、千染はふと思う。


こうやって、独影以外の誰かと肩を並べて歩くのは……いつぶりだろうか。


千染は夜雲から目を離す。
独影は……昔馴染みというのもあり、必要以上に構ってくるからそうなるのは必然として……他はどうだろうか。
中忍・下忍が自分の隣を歩くなんてまずあり得ない。
むしろ、少しでも離れていたいと思われているくらいだ。
となれば、独影以外の上忍は?
芙雪は……自分の隣なんて絶対歩かないし、歩きたくもないだろう。
芙雪からして見れば、自分は可愛い妹分に酷いことをする忌々しい男だから、当然といえば当然。
それに顔を合わせると高確率で喧嘩になるのだから、隣を歩く歩かない以前の問題だ。
還手は……別に仲が良くも悪くもない関係だが、歩きが基本的に遅い。
遅いから、道中を共にしても必ず自分が前にいる。
で、たまに「つかれた〜おんぶして〜」なんてほざいて後ろからしがみつかれることもある。
鬱陶しい。
嫌いではないが、とても鬱陶しい。
よくよく考えれば還手の隣なんて歩いたら、やれ抱っこしろやれおんぶしろと我が儘な要求をされるばかりではないか。
こちらから御免だ。
冬風は考えるまでもなく論外。
春風も……論外といえば論外だ。
春風が自分の隣を歩く姿も、逆に自分が春風の隣を歩いてるも想像出来ない。
関心がないから。
関心を持たないように……してるから。
………。
……雹我は、こちらが望めば隣を歩いてくれるだろうし、勝手に隣を歩いても咎めはしないだろう。
だけど、正直……彼の隣を歩くのは恐れ多い気持ちがある。
上忍の中で最年長だからというのもあるが、彼に比べたら自分はまだまだ未熟で、彼と対等に接せれるほどの実力があると思えないから。
雹我はそんなこと思っていないだろうが。
あとは……忍頭の櫻世。
櫻世は……、………。


(………)


千染の頭に、過去の光景が浮かぶ。
遠い昔の記憶。
三日月が浮かぶ夜空の下。
虫の鳴き声が聞こえる原っぱで、今よりも更に未熟だった頃の自分の手を引いて隣を歩いていた青年。
時折こちらに顔を向けて笑いかけては、忍らしくないことを言ってきていた若かりし日の………。


(………今は、あり得ないですけど)


その言葉と共に、千染は浮かんでいた記憶の景色を掻き消した。
再び夜雲を横目で見る。
先ほどと全く変わらない無表情で、前を見て歩いている夜雲。
喋る出す気配すら一切ない。
そんな夜雲を見て、千染はなんとなく思う。
こいつは今、どんな気持ちで自分の隣を歩いているのだろう……と。
あれだけ一緒に行こうと言ってきたのだから、何かしらは感じているのだろうが、やはり彼の表情や雰囲気からははっきりした感情は読み取れない。
楽しいのだろうか。
それとも、つまらなく思っているのだろうか。
怖い……はないだろう。
絶対にない。
………この時間は何なのだろうか。
何の意味があるのだろうか。


「………」


夜雲に今の気持ちを聞いてみようかどうか、少し迷った末に、やはり聞いてみようと千染は口を開きかける。
が。


「着くよ」


それよりも先に、夜雲が口を開いて言う。
その言葉に反応して、千染は口を止める。
そして、夜雲に向けていた視線を前に戻す。
すると、少しずつ広くなっていっている木々の間から、ぼんやりとした月の光に照らされた海が見えてきた。
波の音が聞こえてくる。
ほのかに潮の香りがする。


(海……)


少しずつ近づいてくる海の景色に、千染は不思議な感覚に包まれる。
海なんて何度も見てきたはずなのに、何故だか、初めて見たかのような……新鮮な気持ちになってしまう。
どうして、と怪訝に思っていた千染だが。


「千染くん」 


夜雲が立ち止まり名前を呼んできたので、千染も反射的に足を止める。
振り返って彼を見ると、


「一応誰もいないか確認してくるから、ちょっと待ってて」


それだけ伝えると、夜雲は千染の横を通り過ぎて浜辺へと向かう。
千染は特に何も言わず、その後ろ姿を見送る。
だが、少し進んだところで、夜雲はまた足を止めて振り返る。


「帰らないでね」

「帰りませんよ」

「………」

「………」


目を離した隙に千染がいなくなるかもしれないと思ったのだろう。
釘を刺すようなことを言って、千染の返事を聞いた後、早足で浜辺に向かっていった。




それからあまり時間が経つこともなく戻ってきた夜雲と一緒に、浜辺に出た千染は、彼と肩を並べて海を見ていた。
穏やかな波の音が絶え間なく聞こえてくる。
時折吹いてくる潮風に、二人の髪や服の裾が小さく揺れる。
何か起こるわけでもない、ただただ静かな夜の時間だけが流れていく。


(………)


しばらくして、黙って海を見ていた千染が……隣にいる夜雲をまた横目で見る。
何一つ変わらない表情で海を見ている夜雲の横顔が、目に入る。
その顔を見ながら、千染は思う。
本当にこの時間は何なのだろう、と。


(わたしと海が見たいだけ……。その言葉のとおりなのでしょうが、退屈と思わないのですかね……)


なんとなくそう思いながら、千染は視線を前に戻す。
そして、再び海を見る。
………そういう千染こそ退屈なのではないかと思うところなのだが、実のところそうではなかった。
千染にとって、やはりこの景色がとても新鮮に感じていた。
初めて見るような感覚。
足から感じる砂浜の感触も、ふわりと鼻を通る濃い潮の匂いも、近くに聞こえる波の音も、果てしなく広がる夜色の海も……。
全て新鮮に思えた。
よく見てきたただの海であるはずなのに。
と、不思議に思いながらも今見える景色を堪能していた千染だったが………途中で、ふと気がついた。
そういえば……、とその原因を理解したと同時に。


「千染くん」


隣から声が聞こえる。
夜雲に名前を呼ばれたのだと少し遅れて気づいた千染は、思考を一旦止めて意識を彼の方に向けた。


「ぼくの我が儘……聞いてくれて、ありがとう」


千染は顔を向けて夜雲を見る。
夜雲は相変わらず海を見ていた。


「きみと……見たいと思っていたんだ。……海を」


海を見つめたまま、夜雲は言葉を続ける。


「父さまと母さまとの思い出の場所が二つあってね。そのうちの一つがここなんだ」


夜雲の口から出た父と母という言葉に、千染は少しだけ反応する。


「ぼくが生まれて間もない頃から、母さまはよくぼくを抱っこしてここに連れて来てたんだって」


在りし日の親を思い出してか、夜雲は微かにだが目を細める。


「海が綺麗ねって、ぼくの名前を呼んでは母さまはよくそう言ってきた……。時々、父さまも一緒に……」


懐かしそうな声で、夜雲は言う。
言い続ける。


「昔からずっと……この海を見てきた」


波の音と夜雲の声が重なる。


「だからかな」


夜雲の髪が風に乗ってふわりと揺れる。


「ここから見える海だけは……少しだけ特別だった」


月明かりの青白い筋だけが浮かぶ真っ暗な海を見つめて。


「海だけは……母さまと父さまと同じように、普通に、綺麗だって……思えたんだ」


夜雲は言う。
その瞬間。
一瞬だけ、夜雲の目に映る景色が……明るい景色に変わる。
朝と昼。
太陽の下できらきらと光る青い海。
どこまでも広がる澄みきった青い海。
昔から見てきた……花咲村の海。
刹那に見えたその景色に、夜雲の表情がほんの少しだけ……柔らかくなる。


「その海を……きみと見たかった」


どこか明るさを感じさせるそんな声で、夜雲は千染に言った。
波の音が聞こえる。
夜雲の話を聞いていた千染は、冷ややかに目を細める。
そして、


「ご両親を殺した張本人と、ですか」


と、皮肉を込めた言葉を吐いたが。


「そうだよ」


と、夜雲は変わらぬ口調で返した。
千染は怪訝な顔をする。
そんな千染をよそに、夜雲は続けて言う。


「海は確かに綺麗と思えた……。けど、それだけ」


静かな波の音と共に、夜雲は千染の方に顔を向ける。
千染の視線と夜雲の視線が交わる。
そして、


「ぼくの心を動かしたのは……きみだけだよ」


と……優しい声で、夜雲は千染に言った。
波の音だけが聞こえてくる。
静かな夜の空気に包まれながら、互いを見つめる夜雲と千染。
今の目つきと顔つきのせいか、笑ってはいないだろうけど若干微笑んでるようにも見える夜雲に、千染はますます訝しそうにする。


「……わたしの罪を突きつけるために、ここに来たのではないのですか?」


そう。
夜雲は確かに言った。
ここは親との思い出の場所の一つと。
そして、語った。
親との思い出を。
懐かしそうに。
それは、そういうことなのではないのかと。
親との思い出の場所に連れてきて、親との思い出を語るということは、犯した罪を知らしめるため。
お前はぼくの両親を殺したんだと、深く、重く、その現実を突きつけるために……こんな意味のないような行動を求めていたのかと。
千染は察した。
そして、納得もしかけた……が。



「きみは罪だと思っているんだね」



返ってきた夜雲の言葉に、千染は目を大きくする。


「ぼくの親を殺したことを」


思考も……不意に止まる。
返す言葉も思い浮かばないまま、千染は呆然としたように夜雲のを見続ける。
ほのかな潮の匂いが漂う中、夜雲は無言になった千染を見つめる。
そして、その目をゆっくりと細めると


「かわいいね」


どこか笑い混じりに言っているように聞こえた言葉。
夜雲のその発言を聞いた瞬間、千染は一気に頭に血が上るような感覚に襲われ、突発的に小太刀の柄を掴む。
……が、それを抜くことなく、苛立ちと戸惑いが混ざったような表情をして、夜雲を睨むように見た。
二人の間の空気が、一瞬にして張り詰める。
いつ小太刀を抜いてもおかしくない千染を、夜雲は身構える様子もなく、じっと見つめ続ける。
が、しばらくしてゆっくりとした動きで千染から目を離すと、再び海を見た。


「……だったら、いいんじゃないかな?」


夜雲が言ってきた言葉に、千染は眉間に皺を寄せて訝しげにする。
いい?
何がいいのか?
千染が抱いた疑問の答えを、


「父さまと母さまを殺したこと、もう気にしなくても」


夜雲は言う。
それを聞いた千染は、目を大きくして唖然とした。
何を言っているんだこいつ、と。
今度は違った意味で返す言葉がない状態の千染をよそに、夜雲は再び口を開く。


「いい加減……ぼくの親を殺したこと抜きで、ぼくに接してほしい」


夜雲の声色が変わる。


「余計なことを考えないで……ぼくの話を聞いてほしい」


懇願するような……か細い声。


「せめて……ぼくと一緒にいる時だけでも、ぼくだけを見てほしい」


夜雲は一旦口を閉ざすと、再び千染の方に顔を向ける。
切実に求めているような、そんな目でこちらを見てきた夜雲に、千染は自身の心臓が小さく跳ねたのを感じる。
妙な緊張感が、全身を巡る。
そんな千染の状態を知ってか知らずか、夜雲は体も彼の方に向けて、彼を真っ直ぐ見つめると


「ぼくもきみがいる時はきみしか見ていない……。きみのことだけを考えている。……だから、ぼくを見て……千染くん。きみの前にいるぼくだけを……」


彼に望んでいることを、ありのままに伝えた。
沈黙が流れる。
困惑の色が浮かぶ目で夜雲を見る千染と、縋るような目で千染を見つめる夜雲。
どうしてそこまで、と思ってしまう千染だが、きっとそれを口に出して問うても返ってくるのは“きみが好きだから”だろう。
でも、これを、このやり取りを死んだ両親が見ていたらどう思うのか。
親のことを考えたら、これはあまりにも……。
………。



ーーーーきみに会ってから、きみを見たあの日から……ぼくは自分の心が確かに動いてるのを感じるようになったんだ。

ーーーーあの時、初めて……。

ーーーー生きている実感というものを……感じたよ。



不意に、千染の脳裏に前に夜雲が言ってきた言葉が過る。
脳裏を過ったそれに、千染の表情がだんだんと……何とも言えないようなものになってくる。
小太刀を握りしめていた手の力が抜けていき、最終的に離れる。
そして、するりと避けるように夜雲から目を離すと


「………善処します」


とだけ言って、再び海の方に顔を向けた。
それ以上何か言ってくる気配のない千染。
その横顔を、夜雲は黙って見つめる。
そして、しばらくして夜雲も千染から目を離して、再び海を見る。
月の光に照らされた夜の海を。


「……千染くん」


夜雲はまた千染の名を呼ぶ。
千染は何も応じない。


「ぼく、夜の海はあんまり見ないし……朝と昼の海みたいに綺麗とは思ったことなかったけど」


それでも夜雲は話しかける。


「今日初めて……、夜の海も綺麗だと思えたよ」

「………」

「きみがいるからかな?」


波の音が聞こえる。
静かで耳触りのいい波の音が。
その音を聞き、月明かりだけが頼りの夜色の染まった海を見て、隣にいる夜雲の存在を感じて、千染は冷ややかに目を細める。


「さぁ……」


そして。


「知りませんよ」


素っ気ない言葉を返す。
それに対して夜雲は、


「………そう」


とだけ返して、口を閉ざした。




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