相異相愛のはてに
ごんっ
千染は目の前の木で造られた壁に頭をぶつける。
もちろん自らである。
そして、ここは千染の住処となる長屋。
武器と衣服がおさめられている棚が部屋の隅に置かれているだけの質素な部屋で、千染は壁と向き合って座っていた。
ここに戻るのはいつぶりか。
長いこといなくても、櫻世が下忍か中忍に頼んでたまに掃除しているみたいなので、清潔感は保たれている。
いつでも帰ってきていいようにと言わんばかりに。
頼んでもないことを勝手にする辺り、櫻世の世話焼き癖は相変わらずだ。
昔と変わらない。
………でも、正直、今……そのおかげでまだマシな気分なのかもしれない。
これで埃まみれの虫まみれ部屋だったら、今より気分が荒んでいたかもしれない。
今こうして静かに自分と向き合えているのは、目につくもの、耳障りなものがないから。
そう思うと、多少は櫻世に感謝の意を感じなくもなかった。
しかし。
今はそれよりも、である。
「………」
ーーーー今日は……ぼくを抱いてほしい。
昨夜、夜雲に言われた言葉。
あのあと、千染はどうしたのかと言うと……。
結論的には、応じた。
つまり、抱いたのだ。夜雲を。
今まで散々自分を抱いてきたくせに、今度は抱かれるのを要求するなんて何事かと思った。
というより、男が自ら女役を望むなんて……。
忍でも将軍の妾でもない、真っ当な男として生きてきたはずの夜雲が……。
しかも何度も抱いてきた自分相手に……。
さすがに疑問だったので、夜雲にどうしてそんな要求をしてきたのか聞いた。
すると、少し恥ずかしそうにしながらも、
ーーーーきみを……もっと感じたいから。
ーーーーそれに……こっち側だと……、きみがいっぱい……触ってきてくれそうな……気がして……。
なんて、返してきた。
なんだそれは、と言いそうになったが呑み込んだ。
夜雲がそうしたいのならもう応じるしかないし、なんとなく彼の珍しい姿が見れそうな予感がして好奇心が勝ってしまった。
あと初めてあそこにアレをいれられる痛みがどれほどのものか、味わわせてみるも一興だろう。
もしかしたら泣き叫ぶ姿が見れるかもしれない。
あの時の仕返しが出来るかもしれない。
見方を変えれば、またとない機会だ。
問題は……自分のが夜雲に反応するか。
なんせ今まで男側だった相手だ。
今更そういう対象として見るのはなかなか難しい気が………。
と、その時の千染は難題に当たっている気持ちでいた。
確かにその気持ちでいたのだ。
けど。
ガンッ
今度は拳で壁を殴る。
壁に頭をつけたまま。
昨夜のことを思い出せば思い出すほど、気がどうにかなってしまいそうで。
別に前のように夜雲に何かされたわけではない。
けど、千染にとっては色々耐え難かったのだ。
とりあえずと言わんばかりに夜雲の着流しをはだけさせていきながら前戯をしたのだが、その時点でもう雲行きが怪しかった。
愛撫する度に、汗ばんだ白い肌がびくびくと反応し、必死に閉ざした口の奥からくぐもった声が漏れ、顔は……既に羞恥の色に染まっていた。
その顔を見て、自分の下腹部がずくりと疼くのを感じた。
自分を抱く時も僅かに感じているような表情を見せてくるが、それとはまた格段に違う表情。
明らかに、される側の表情。
初めてのはず。
そう思いながら彼から出た体液を指に絡ませて、あそこにいれた。
痛そうにしていた。
けど、声を出さないようにして耐えていた。
その反応からして初めてなのは確定だったのだが、それにしては妙に……色気があった。
夜雲相手に自分のが反応するのか。
もはやそれが愚問だったことを思い知らされる。
ならば、せめて泣き叫ぶ姿だけでも見たいと、ある程度ほぐしたあそこから指を抜いて、容赦なくいれてやろうとあてがった時だった。
ーーーーち、千染……くん……っ。
ーーーーやさし、く……ゆ、ゆっくり……いれて……。
熱を帯びた目に涙を浮かべて、身を縮めて小刻みに震えながら、いつになく弱々しい声でそう言ってきた夜雲に、自分の中で何かが切れた音がした。
本人のお願いに背いて、容赦なく、乱暴にやった。
やってしまった。
夜雲は痛そうな、苦しそうな声をあげていた。
けど、泣き叫びはしなかった。
目に涙をためながらも、時折自身の指を噛んで、苦痛に耐えていた。
そして、確かな快感を拾っては、あそこが蠢き、口の隙間から甘さを帯びた声をもらしていた。
頬を赤く染めて、快楽に濡れた目でこちらを捕えて、途切れ途切れに何度も名前を呼んできて……接吻をねだってきて……。
……確かに珍しい姿を見れた。
今まで見たことのない姿を曝け出させることが出来た。
けど、違う。
思っていたのと、違う。
初めての痛みに泣き叫ぶ夜雲を見下ろして、鼻で笑うつもりだった。
やっぱりやめてと抵抗してきたら、ほれ見たことかと心の中で嘲笑うつもりだった。
けど、そうはならなかった。
むしろ、また夜雲にしてやられた。
そんな気がしてならなかった。
あの時の自分は……一時であれ、快楽に身を捩らせる夜雲の姿に、確かな劣情を抱いてしまった。
普段から何も感じてなさそうな能面男が、毎度自分の上にいる男が、自分に一度負けを認めさせた男が、……自分の下で乱れている。
その事実だけでもそれなりにくるものがあるのに、夜雲の感じ方が控えめでいじらしいのがまた……、そのくせ名前だけは何度も呼んできて唇を求めてくる。
その光景を思い出せば思い出すほど、千染は何故か無性に頭を抱えたくなった。
というより、気づけば抱えていた。
「ないないないない、あり得ない……あり得ませんよ……」
壁に向かって、千染はぶつぶつと呟く。
その拒絶は何に対する拒絶か。
千染自身も正直よくわかっていなかった。
とりあえず今朝は本人が起きる前にそそくさと帰ったが、次会う時はどういう顔をすれば……。
いや、普通の顔をして会えばいいのだろうが……。
「あぁ……もう……なんなんだ、あいつ……」
「なんなんだろうな」
「今まで散々わたしを犯しておきながら、今度は自分を犯せだなんて……」
「えぇえっ?若医者くんが?」
「………」
気にせず独り言を呟いていたが、途中でようやく違和感に気づき、千染は黙り込む。
頭を抱えていた手をゆっくりと下ろし、後ろを振り返る。
すると、部屋の真ん中辺りで、干し柿を片手にしゃがみ込んだ体勢でこちらを見ている独影の姿があった。
独影は千染と目が合うなり「よっ」と片手をあげて挨拶をする。
一方で、千染は露骨に嫌そうな顔をする。
「わ、すげぇ顔」
「……いつからいたんですか?」
「さっき来たばっか。なんか千染が珍しくここに帰ってきてるみたいだから、お邪魔しよーと思って」
「勝手に上がらないでくださいよ」
「しょーがねぇだろ?何度呼んでも返事がなかったんだから。てか、お前だってよく俺んち断りもなく上がってるだろー?」
「………」
返す言葉もなく、千染はまた黙り込む。
「あ、そうそう。先に櫻世さまから一緒に食えって」
そう言って、持っていた干し柿の一つを千染に投げる。
千染はそれを難なく受け取る。
「で、さっきの話本当か?」
独影は胡座をかいて座り込み、興味ありげに問う。
その姿を見て、千染は心底鬱陶しそうな表情をしたものの、半ば諦めたようにため息をつくと、独影の方に体を向き直して正座した。
「ええ。抱いてほしいと言われました」
「は〜〜、お前相手にねぇ。で、結局どうしたんだ?」
「……やりましたよ」
吐き捨てるように千染は言う。
それを聞いた独影は、目を大きくして驚いた。
きっと、断ったのだと予想していたのだろう。
「え……やったのか?」
「はい」
「お前が?若医者くんを?」
「そうですよ」
「………へ〜〜〜」
心底意外と言わんばかりの声をあげながら、独影は干し柿を一口齧った。
「まぁ……女役もしたくなるくらいお前に夢中ってことなんだろうな」
咀嚼した干し柿を飲み込んだ後、独影は自分なりの解釈を口にする。
それを聞いた千染は、少し疲れたような表情をして視線を落とす。
「そうなんでしょうね……」
「お?なんか素直だな。ようやく若医者くんの気持ちがわかったのか?」
「まぁ、それなりに……。……それなりに……」
「……なんか……大丈夫か?」
心ここにあらずといった様子の千染を見て、独影は少しだけ心配そうにする。
「しっかしお前若医者くん相手に反応出来たんだ……ってか、下手したら男相手で突っ込む側なのは初めてなんじゃねーか?」
「………」
独影の発言に、千染は反応らしい反応も返さず無言でいる。
つまりは、そうなのである。
女は抱いたことあれど、男は抱いたことなかったのだ。
夜雲を抱くまで、一度も。
それもこれも千染のこの容姿。
女と見間違うほどのこの美貌のせいで、男相手だとどうしても女側になってしまうのだ。
なってしまう……というより、されてしまうが正しいか。
だから、夜雲が初っぱなから押し倒してきた時、別に違和感はなかった。
よくあることだから。
なんなら、今までの経験から考えるとまだ優しい方……生ぬるい方だ。
……媚薬で狂わされたあの日を覗いては。
だから、これからも、夜雲との関わりが続く限りそうなのかと思っていたのだが………まさか。
まさか、逆を求められる日が来るなんて思いもしていなかった。
男に対するやり方は知らないわけないから、その面で困ることはまずないのだが……。
予想外だったのは……。
予想外だったのはーーーーー。
「もしかして若医者くん、結構よかった?」
思考の中に飛んできた独影の問いに、千染は思わず目を大きくした。
その場に、何とも言えない空気が漂う。
千染の様子からしてなんとなく察していた独影だったが、その反応を見て確信する。
「は〜……なるほどねぇ」
「……何がですか」
一人で勝手に納得している独影を、千染は睨むように見る。
余計なことを言ったら殺すと言わんばかりに。
その殺意がこもった視線を躱すかのように、独影はへらりと笑う。
「んま〜若医者くんが毛むくじゃらで筋肉隆々の強面男じゃなくてよかったじゃねーか。さすがの千染もそれ相手だと反応出来なかっただろうし〜」
「……」
「若医者くんもまぁいい顔立ちしてるもんな。お前ほどの美貌じゃないとはいえ。なんつーか、無駄がない品のある顔っつーか。それに細身だし、そっち側になってもあんま違和感ないかもな」
「………」
独影のその発言を聞いて、千染はふと思った。
まさか昨夜のをきっかけに目覚めたりしないよな……と。
夜雲一人だけの問題なら別にどうでもいいのだが、もし今後もずっとあんな感じだったら……。
と、不意に千染の脳裏に昨夜の夜雲の姿が過る。
その瞬間。
ドンッ!
「うぉあっ」
千染は反射的に床に拳を振り下ろした。
込み上げてきた何かを掻き消すように。
千染の唐突な行動に、さすがの独影も少し驚く。
「ど、どうした?」
「……なんでもありませんよ」
「そ……そっか」
千染から感じる妙な雰囲気にちょっと怖じ気づいたのか、独影は特にそれ以上言及しなかった。
言及しなかったものの、今の千染の様子を見て少し安堵したような表情をする。
そして、何か考えるように少しの間視線を横に向けた後、再び千染を見る。
「なぁ、千染」
「……なんです?」
「もしよ、そう遠くない先……世の中が平和になって俺らが影で動く必要なくなったら、お前はどうする?」
独影のその問いに、千染は床を見たまま、少しだけ目を大きくして反応する。
「仕事さ、だんだん減ってきてるじゃん?」
独影は続けて言う。
「んで、俺らはお抱えの城もないわけじゃん。里全体で守らなきゃいけねぇものがないっつーか」
「………」
「いよいよ外の誰かさんが天下統一して、大きな戦をするほどの争いがなくなって、平穏そのものの日々が続くようになったら……もう俺らへの仕事はぱったり来なくなると思うんだよな」
独影の話を黙って聞いていた千染は、床に下ろしていた拳を静かに上げていく。
「そうなったらさ、千染はどうする?」
独影は千染を真っ直ぐ見据えて、問う。
表情から動作まで、千染の反応を少しでも見逃さないように。
………だが。
「別に……どうもしませんよ」
返ってきたのは、素っ気ない言葉。
「そもそも、そうなるまで生きてるかわかりませんし……生きたところで、ただ野垂れ死ぬのを待つだけですよ」
千染も独影を真っ直ぐ見返して、さも当然のように答える。
それに対して、独影は特に表情を変えることなく、首だけ傾げる。
「そうなのか?」
「そうですよ」
「………」
「………」
「若医者くんがいるのに?」
千染の目が少しだけ大きく開く。
が……、すぐに元の目つきに戻る。
「……あれとは」
千染は静かな声で言い出す。
「今だけですよ」
夜雲の姿を思い浮かべながら。
「これから先、ずっとはないでしょう」
冷静に、言う。
冷静に……先の未来を見据えて。
千染のその発言を聞いて、独影は呆れを含んだ小さなため息をつく。
「でもよぉ……若医者くんはお前と一緒にいたいんじゃねぇのか?」
独影の問いに千染はすぐに返事をすることなく、ただ黙って独影を見る。
「今はお前をこうやって里に帰しているけど、本当はお前と一緒に暮らしたいのかもしれねぇぞ?」
「………」
不意に、脳裏に。
ーーーーーどうせ……そう遠くない未来、この日の本は平和になる。
前に、夜雲に言われた言葉が……過る。
ーーーー大きな戦いはなくなる。
ーーーーきみが刃を振るわなくてもいい世になる。
ーーーー千染くん……。ぼくは……。
あの時、あのあと、夜雲は何を言おうとしたのか。
感情のままに遮ってから、聞いていないままだ。
………今更、聞く必要もないだろうが。
ーーーーきみに触れて……きみを感じて……きみを知って……それで……、………いつか……。
ーーーーーきみと……繋がりたい、のかも……。
そして、次に過ったのは昨夜言われた言葉。
夜雲が自分に向けて言った言葉。
望んでいること。
それらを思い出して、千染は独影から視線を離し、静かに目を伏せていく。
「………そうと言われましても……」
千染の脳裏に、今度は違う記憶が過る。
暗い記憶。
黒い記憶。
痛くて気持ち悪い記憶。
真っ赤に染まった記憶。
殺して、殺して、殺して、とにかく殺した記憶。
次から次へと流れゆくように、自分が今の自分となるまでの映像が断片的に過り、千染の目が……諦観の色に染まる。
「生きてきた世界が……違い過ぎますよ」
それは……独影に対する返答か、それとも夜雲に対する返答か。
どちらにせよ、これ以上言葉を交わす気がない千染は静かに立ち上がった。
独影の横を通り過ぎ、戸口に向かう。
千染の気配が遠くなっていくのを感じながらも、独影は彼を呼び止める様子もなく、前を見続ける。
呼び止めたところで、そのまま無視して出ていくとわかっていたから。
戸が開き、小さな音をたてて閉まる。
千染の気配が、瞬く間に消える。
部屋に残った独影は、軽く息を吐いて宙を仰ぐ。
無音の時間だけが、過ぎ去っていく。
そして、
「……でも、嫌じゃないんだな」
と、今ここにいない千染に向けて、独影は理解を示すように呟いた。
***
曇りがかった空の下。
お昼頃、夜雲は花曇山の頂上付近に向かっていた。
片方の手には家の裏で摘んだ数本の白い花を、もう片方の手には薄紫の蛇の目傘といった姿で、木々の間を通り抜けていく。
土の中から盛り上がった大きな石や木の根を跨いで、足元に気をつけながら、坂を上っていく。
時折腰に走る痛みに立ち止まったりもしたが、そう時間をかけることもなく、目的の場所に辿り着く。
鬱蒼としていた木々が開けた場所。
花咲村がよく見える場所。
一雲とお陽がまだ生きていた頃に、よく来た場所だ。
二人の大人と子供一人が座れるくらいの大きな石。
そこに三人一緒に座って、持ってきたおにぎりを食べて、花咲村とその先に広がる海を眺めていた。
何気ない会話を交わしながら。
また親子が座るのを待っているかのように、変わることなくそこにある石をしばらく見た後、夜雲は顔を反対側に向ける。
目に入ったのは、金柑の実がなっている木の前にある一枚の細長い木の板。
一雲とお陽の名前が刻まれているそれは、二人がその下で眠っているを示していた。
つまりは、墓だ。
月に二度、夜雲は二人の墓に訪れる習慣があった。
そして、今日がその日である。
夜雲は二人の墓に向かって、静かに歩いていく。
いつもの無表情で。
そして、その前で足を止めると、持っていた白い花を供えて、ゆっくりとしゃがみ込む。
毎度のように両手を合わせて、目を閉じ、祈る。
ほんの、十秒にも満たない祈り。
それを終えた夜雲は、目を開いて、合わせていた手を下ろしていく。
「………父さま」
少しの間、墓標を見つめた後、夜雲はいつもの抑揚のない声で話しかける。
この土の下で眠る父に。
「好きな人が出来てから……ぼくはたくさん色んなことを感じるようになったよ。父さまが教えてくれたことは、本当だったね」
ほんのり湿った風が、夜雲の髪や金柑の葉を優しく揺らす。
「ぼくは今…、確かに生きていることを感じている。生まれてきてよかったって、今なら嘘偽りなく言えるよ」
墓標を見つめている夜雲の目が、微かに細くなる。
「でもね、父さま」
夜雲の声色に僅かな抑揚がつく。
「ぼく……もっと感じたいんだ」
落ち着いた口調でありながらも、ほの暗い穴の底から這い上がってくるような……そんな声。
「生きているのを、心がもっと動くのを感じたい。この上ないくらいに……、ずっと動き続けてしまうくらいのを……」
夜雲は下げていた手の片方を、ゆっくりと上げて、胸に当てる。
「だから、ぼくは……。………」
とくん、とくん、と動く心臓
それを布越しに感じながら、夜雲は顔をうつ向かせていく。
「………」
顔に影がかかり、夜雲の表情が見えなくなる。
ざぁと強めの風が吹き、空の雲行きが怪しくなっていく。
金柑の葉が大きく揺れる音と共に、夜雲の肩が小刻みに震え始める。
その震えはだんだんと大きくなっていき、夜雲の口から……不気味な声が聞こえてくる。
笑っているようにも、泣いているようにも聞こえる……そんな声が。
同時に、胸に当てがわれていた夜雲の手が、襟元を握りしめる。
きつく、きつく、握り潰さんばかりに。
と、その時。
バサバサバサッ
金柑の木に潜んでいた数羽の雀が、羽ばたいていく。
その音に反応するように、声が消える。
肩の震えも、ぴたりと止まる。
「…………」
少しの時間が経った後、襟元を握りしめていた手の力も抜けていく。
夜雲の顔がゆっくりと上がる。
顔を覆っていた影が引いていき、再び墓標を見つめたその顔は……いつもと変わらぬ無表情だった。
「父さま……、母さま……」
夜雲は二人を呼ぶ。
「いつか……そう遠くない先、ぼくはここに来なくなると思う」
いつもの抑揚のない声で。
「少しずつだけど……近づいてきてるんだ。ぼくのやりたいことに」
話しかける。
「そのやりたいことを始めたらね。ぼくはもうここに来れなくなる」
濃い灰色の雲が、花曇山の上まで来る。
「本当の本当に、今度こそ……父さまと母さまとお別れすることになるんだ」
ぽつ……、ぽつ……と雨の粒が落ちてくる。
「……可哀想な……父さま……、可哀想な……母さま……」
夜雲は囁くように言う。
そして、
「………ごめんね」
謝る。
相変わらずの無感情な声で。
雨がいよいよ本格的に振り始めたところで、夜雲は静かに立ち上がり、持っていた蛇の目傘を開いてさす。
「それまでは……ここに来させてね」
傘に当たる雨粒の音だけが聞こえてくる。
濡れていく墓標をしばらく見つめた後、夜雲は踵を半歩返すと
「またね」
と、それだけ言って、その場から去っていった。
薄紫の蛇の目傘と共に、夜雲の姿が山の中へと消えていく。
降り注ぐ雨は、墓標とその前に供えられた白い花を容赦なく濡らしていった。
休むことなく、ざぁざぁと。
まるで、その下で眠る二人が泣いてるかのように。