相異相愛のはてに
還手専属の部下こと中忍の火斑は走っていた。
走って、走って、里から少し離れた山の木陰に座り込んでいた。
真っ赤な顔を未だに両手で覆って。
(うぅ……情けない……)
せっかく還手さまが気を遣ってくださったのに……。
逃げてしまうなんて……。
先ほどのことを思い浮かべながら、火斑は表向きだけでも冷静さを装えなかった自分に失望する。
けど、仕方ないといえば仕方なかった。
元々、火斑はそういったいやらしい行為が苦手で、今までその機会があったとしても断ってきたため余計に耐性がついていなかった。
いつかは経験しないといけないと思ってはいたものの、還手専属の部下になってから、彼女に仕えているだけで十分と思うようになってしまい、すっかりそのことは頭から消え去っていってしまっていた。
だからこそ、太壱からそれらしき発言を聞いた時凄まじい衝撃を受けたのだが、まさか……そこから自分もそういった行為をしようという流れになるなんて火斑は思いもしていなかった。
しかも思慕の念を抱いている還手から直々に。
(あうぅぅ……忍なら、還手さまに仕えている者なら潔く受け止めるべき場面だったのに……っ。こんな失態、雹我さまが知ったらどう思うか……)
恩師である雹我の姿を思い浮かべながら、火斑は頭を抱え込む。
年端もいかない頃の自分に目をつけてくれて、忍として隠密・戦闘技術の基礎から応用まで丁寧に教え、鍛えてくれた雹我。
忍頭の櫻世とほぼ同等の実力を持っている上忍。
彼も忍としての厳しさ冷酷さを持ち合わせているが、櫻世と古くからの付き合いなだけあってか、寛容で優しい部分もしっかりあった。
現に火斑が雹我の元から離れ、還手専属の部下になっているのがその証拠だ。
昔から育ててきた弟子であるにも関わらず、雹我は火斑が還手の元につくのを許した。
……いや、許すというより、折れた、が正しいのかもしれない。
そもそもはある日突然、修行中の雹我と火斑達の元に訪れてきた還手が「その子ちょ〜だ〜い〜、かえでにちょ〜だ〜い〜」と火斑を指差して要求してきたのだ。
初めはまた還手の我が儘かと思い断っていた雹我だが、この時いつになく還手の諦めが悪かった。
何度断っても、還手は強請ってきた。
いつもなら喋ること自体面倒くさくなっていつの間にか帰っているはずなのに……。
もしかしたら、還手は火斑のことを本気で欲しがってるのかもしれないと雹我は考え直した。
考え直した末に、火斑に聞いた。
還手の元につくか、と。
それに対して、火斑は悩む素振りは見せたものの、雹我さまと還手さまがよろしければと答えた。
火斑に明らかな拒否がないなら、断る理由もない。
そう思った雹我は、還手の要求を承諾した。
そして、今に至る……わけだが、実のところ火斑はずっと前から還手のことを意識していたのだ。
本人を見かけたり本人が近くを通った時はもちろん、雹我や他の忍仲間の口から還手の名前が出た時ですら頬を赤らめて緊張するくらいに。
もしかしたらそういったところも、雹我は知っていたのかもしれない。
(うぅぅ……そもそも太壱が悪いんだ……っ。俺が数日いないのをいいことに、出しゃばるから……)
思い返せば、今の状況になったきっかけはそれだった。
火斑が雹我の付き添いで数日里を不在にしなければならなかった時があり、自分の代わりを他の者に頼んでいたが、その頼んだ者が途中で体調を崩したらしく中忍の鍔女が代役をするつもりだったのだが……。
その時に太壱が名乗り出たらしい。
身の回りの世話は普段から弟妹の世話で慣れているし鍔女は休みなよ、と……。
それから帰ったら太壱が還手専属の部下に任命されていて、どれだけの衝撃を受けて驚いたか(太壱自身もまさかこうなるとは思ってなかった)。
しかも身の回りの世話は太壱にばかり頼むようになっている始末。
あれからもう太壱に対しては怒りやら妬みやらで腸が煮えくり返っている状態だ。
当時のことを思い出したらむかむかしてきたので、火斑は一旦考えるのをやめて、意識を切り替える。
(とにかく……落ち着いたら謝りにいかないと……。それで還手さまが……還手さまが変わらず夜の相手を要求してきたら……う、受け入れないと……)
強い恥じらいと未知の体験への恐怖に苛まされながら、火斑はとりあえず己の胸が鎮まるのを待つことにする。
目を閉じて、木々のざわめきを耳にして、自然と一体化するような心地よい感覚に身を委ねながら、落ち着きを取り戻していく。
が、程なくしてだった。
「火斑さん」
「!?」
前から聞こえた声に、火斑は目を見開く。
そして、視界に入った人物に更に目を大きくして驚く。
長く艷やかな赤髪と女と見間違えるほどの美貌が特徴的な忍。
そこには、千染がいた。
物音も気配も感じなかったのに何故急に声がと思った火斑だが、千染を見た瞬間すぐ納得した。
そりゃ何も感じるわけないし、目を瞑っていたら余計気づくわけないと。
そして、一気に全身に緊張が駆け巡った。
「ち、千染さま……!?申し訳ありません、すぐに気がつかず……!!」
今度は違った意味で心臓の脈が速くなるのを感じながらも、火斑は咄嗟に跪いて頭を下げる。
巣隠れ衆上忍の一人・千染。
里で彼の恐ろしさを知らない者はいない。
人殺しを好む殺人鬼。
その巧みな戦闘技術と速さでどれだけの人数が葬られたか。
噂では、気に食わない中忍・下忍に手をかけたこともあるとか。
実際仕事で、彼と同行した忍で斬られた者もいる。
命に別状はなかったものの、千染さまの側にいたらいつ殺されてもおかしくないと彼に斬られた者は恐怖に震えながら言っていた。
その千染が、今、目の前にいる。
(何か……してしまったのだろうか……)
極力恐怖心を表に出さないようにしつつも、火斑は千染が自分の前に現れた理由を必死に考える。
もしかしてさっきの太壱との言い争いを千染さまも見ていて、あまりの喧しさに殺意を抱いてしまったのだろうか。
と、予想した火斑は血の気が引くような感覚に陥る。
もしそうだったのなら、次の瞬間、自分の首が飛んでいてもおかしくない。
いつの間にか棒手裏剣が急所に刺さっているかもしれない。
それほどに千染の速さは尋常じゃないことを、火斑は知っていた。
同じ上忍ならまだしも、中忍程度の自分がこの方の速さを見切れるわけない。
「顔を上げてください」
前から聞こえた声に、火斑の心臓が跳ねる。
落ち着け、落ち着け、と心の中で自分に何度も言い聞かせながら、ゆっくりと顔を上げる。
こちらを見下ろしている千染の姿が、火斑の視界に入る。
美しい。
最初に頭に浮かんだ言葉は、それだった。
千染を近くで見るのが、初めてなせいだろうか。
顔といいしなやかな体型といい女顔負けの美しさを持ち合わせた千染に、火斑はつい見とれてしまった。
恐れられてはいるものの、抱きたい或いは抱かれたいという声もそこそこに聞く。
今なら少しだけ、そう口にしてしまう者の気持ちがわかる気がした。
「火斑さん」
「!、は、はい!」
「あなたに聞きたいことがあるんです。少しよろしいでしょうか?」
「も……もちろんです!」
え、と言いそうになったが、なんとかそれを飲み込んで火斑ははきはきと返事をする。
千染から自分に聞きたいこと。
それは一体何なのか。
思い当たることがなく疑問を感じたが、とりあえず千染が怒っている様子でないことに一安心した。
……が。
「あなた……還手のことが好きですよね?」
「………」
まさかの思わぬ質問に、火斑の思考は停止した。
緑生い茂る木々の葉が、風に揺れて擦れ合う音だけが聞こえてくる。
無表情でこちらを見下ろしている千染を、火斑は若干放心したように見上げる。
(返事……しないと……)
千染さまがわざわざ自分の元に来てまで質問してくれたんだ。
早く返事しないと、失礼ではないか。
てか、千染さまの機嫌を損なわせてしまうではないか。
早く……早く言わないと……。
え……?
てか、千染さまはどういった意味で俺が還手さまを好きと……?
え……え?
もしかして千染さまにまで見透かされていたのか……?
困惑、戸惑い、衝撃……様々な感情が差し迫ってくるのを感じながら、火斑はついつい色々と考えてしまう。
「どうなんですか?」
「!」
が、再度聞こえてきた千染の声に、火斑の肩がびくっと大きく跳ねた。
先ほどまでの思考をぶん投げて、火斑は冷や汗を滲ませながらも慌てて口を開く。
「あ、え、えぇと、そ、そうですね!還手さまのことはお慕いしております!も、もちろん尊敬する忍として……!!」
「へぇ……尊敬、ですか」
「………」
「………」
「……ぁ、その、実は……一人の女としても……お慕いしております……」
千染さまに嘘や誤魔化しは通用しない。
むしろ変に誤魔化したら殺されるかもしれない。
理不尽だが、千染さまならあり得る。
と、瞬時にそう思った火斑は、素直な答えも付け加えた。
「そうですか」
千染の声色に、特に変わりはない。
とりあえず怒りに触れてないことに、火斑は内心ホッとする。
「では、何故好きになったのですか?」
そして、次に投げつけられた質問に、火斑はまた困惑する。
何故好きになったのか。
つまりは、好きになった理由。
千染はそれを聞きたいのだろう。
どうして千染がそんな質問をするのか。
火斑はむしろこちらから千染に質問したい気持ちになった。
(な、なんでこんな急に俺の還手さまへの気持ちを………ハッ!)
火斑の脳裏に、一つの可能性が浮かぶ。
(まさか……千染さま……)
千染さまも……還手さまにそういった感情を抱いていて……!?
この流れからして十分あり得る可能性に、火斑は衝撃のあまり小さく震えた。
(つ、つまりは……俺の還手さまに対する想いを聞くだけ聞いて、その後に『あなたに還手は相応しくありません。諦めなさい。諦めないとどうなるか……わかりますよね?』って脅す気では……。そ、そんな……酷すぎる……っ。そもそも恋敵が千染さまって時点で勝ち目がないようなものなのに……っ)
火斑の表情が悲しさと苦しさに歪む。
ここで己の長年胸に秘めていた想いも終止符を打ってしまうか……。
(うぅ……つらいけど、諦めるしか……。……でも……還手さまと千染さまの組み合わせ、か……)
火斑は想像してみる。
いかにも恋仲という雰囲気をさらけ出して、お互いに向き合って見つめている還手と千染の姿を。
(………あれ?)
普通なら想像でも悲しみのあまり打ちひしがれるところだが、不思議とそうならなかった自分に火斑は疑問を感じる。
むしろ、見ていたいというか……。
千染の見た目が美女も同然なせいか、男女というより女同士で向き合っているように見えてしまう。
その光景はさながら白菊に傾げづく紅椿のようで……。
儚くも美しく思えるその光景を影からずっと見つめていたい。
そんな気持ちに……。
「妙なことを考えてたら殺しますよ?」
「あっ、あっあっ!も、申し訳ございません!!」
尊いという心境に陥っていた火斑だが、前から聞こえた低い声に一気に意識が現実に戻され、顔を真っ青にして土下座をした。
「……で。どうして還手が好きなんですか?」
「え、えぇと、そうですね……」
「わたしからして見ればあんなものぐさで身勝手な女、好きになるどころか関わりたいとすら思いませんですけど」
「………」
その言葉で、火斑は己の察したことが大いに的外れだったと思い知らされた。
「でもあの胸は確かに立派ですからね。あなたもそれに惹かれたのですか?」
「!、い、いえそんな!俺は決して還手さまをそんないかがわしい目で見ておりません!」
「では顔です?男共からの評判がよろしいようで」
「か、顔も確かに愛らしく思いますが……、……」
千染からの質問に答えていくにつれて、火斑は考え込むようになる。
自分はどうして還手に想いを寄せるようになったのか。
その決定的な理由は何だったのか。
考えて、探って、思い出す。
「……少し疑問だったのですよね」
思い出して、言おうか迷っていたところで、先に千染から声をかけられ、火斑は若干戸惑いながらも再び視線を上げて彼を見た。
「あなた、雹我さんの弟子でしたよね?」
「は、はい」
「で、途中から還手に仕えるようになったのですよね?」
「そう……なりますね」
なんだろう。
もしかして、そのことについて責められる野だろうか。
と、嫌な予想をしてきりきりと胃を痛めながら千染の言葉を待っていた火斑だが。
「あのまま雹我さんの元にいれば今頃上忍になれていたはずですのに、どうして還手を選んだのですか?」
「えっ」
投げかけられた言葉は予想に当てはまらないものだった。
「還手は確かに忍としての才能は誰よりもありますが、誰かを育てる力はてんでありません。まぁ見てわかると思いますけど。事実、あなた未だに中忍ですし」
「……」
「上忍になれば、里での立場が著しく上がるのは誰もが知っていることです。あなたも然り。なのに、何故そうなれる道を蹴ってまで還手を選んだのですか?」
言い方からして千染が一番聞きたかったのはそのことだろう。
ほぼ約束された地位への道に背いてまで、還手に付き従う理由。
そこまでして彼女を慕う理由とは、何なのか。
どうして千染がそれを聞きたいのかよくわからないが、とりあえず質問された以上答えないといけない。
うっかり彼の機嫌を損ねて、還手と永久のお別れになりたくないから。
「……お、俺は……」
「……」
「昔……まだ雹我さまの元についてない頃……、還手さまに助けられたことがあるんです……」
火斑の発言を聞いて、千染は意外そうな顔をする。
あの自己中の面倒くさがりが誰かを助けることがあったなんて。
「ある任務で……追手から逃れるために俺が囮になることがあって……、その時の俺は忍として使えないくらい愚図でしたから……せめて役に立って死ねという意味もありまして……」
その時のことを思い出しながら話してるせいか、火斑の顔にやや陰りが落ちる。
だが、千染はそれを聞いても可哀想とは微塵にも思わなかった。
当たり前のことだから。
使えぬ忍なんて使い捨ててなんぼだ。
別におかしいことではない。
けど、その使い捨てを還手が助けたかと思うと、些か疑問だった。
当時の還手が何か勝手な行動をしていて、それがたまたま助けたように見える形になっただけの話なのではないのか。
「囮作戦は成功して……、いよいよ追手に追いつかれて終わりだと思った時でした。俺と追手の間に、ずたぼろの武者が割り込んできたんです。そしてその武者は奇怪な動きをしながら、追手を次から次へと殺しました」
とりあえず口を挟まずに、千染は火斑の話を最後まで聞くことにする。
「初めは何が起きてるのかわからなくて、武者には蛆がわいててあからさまに死体であるのにも関わらず動いてる様は不気味で……恐ろしくて……。後にそれが還手さまの忍法だったと知るのですけど……、その時の俺は何も知らないから……ただただ震えることしか出来ませんでした」
還手の忍法。
ということは近場でたまたま忍法の練習でもしていたのだろうか、と千染はなんとなく思う。
「その武者も追手から猛攻を受けていたため、結局は最後の一人を残して倒れてしまいました。何が起きたのかわからないけど、今度こそ終わりかと思いました。けど、そう思った矢先にその最後の一人の首目がけて小刀が飛んできたんです。そして、その忍の首に突き刺さったと同時に……還手さまが現れました」
一方で、火斑は当時のことを話しながら、その時の光景を思い出す。
忘れもしない。
忘れるわけがない。
あの時のことを。
屍と血の海と化したその場に、上からふわりと降りてきた還手。
その姿は、どこか幻想的で、美しくて。
「……天女さまのようだ、と思いました……」
心の声が無意識に漏れる。
そして、火斑はすぐにハッとした後、気恥ずかしそうにしつつ話を戻す。
「それで、還手さまは俺を見ることなく『これだめだぁ〜』とだけ言って帰りました……」
(やはり意図的に助けたというより忍法の練習してただけですか……)
「でも還手さまに助けるつもりはなかったとしても、俺からしてみれば助けられたも同然なんです。ですから、初めは恩返しがしたかったのです」
けど……、と言葉を添えたところで火斑は口を止める。
何か考え込むように。
それに対して、千染は急かす様子もなく、彼の言葉を待つ。
程なくして。
「……何と、言えばいいのでしょうか……」
火斑は少し迷うような素振りを見せながらも、言葉を紡いでいく。
「還手さまのことを目で追うようになって……還手さまがどれだけすごい方なのか知って……、尊敬するようになって……少しでも還手さまに近づきたいと思うようにもなり……、それで……いつの間にか還手さまを強く意識するようになりました……」
火斑のその発言を聞いた千染は、少し考えた後口を開いた。
「つまりは……、その時点で還手を好きになった、と」
「そう……ですね。きっと、そうなんだと思います」
「………」
「ですから、……還手さまに引き抜かれた時はすごく嬉しかったです。叶うなら、還手さまの近くにいたいと思っていましたので……。俺にとっては上忍になることよりも、そのことが大事だったのです。それまでお世話になった雹我さまには、大変申し訳なかったのですが……」
「そうですね。囮にされるほどの無能をわざわざ手間暇かけて指南してくださったのに無下にするなんて、恩知らずな弟子ですよね」
「……じゅ、重々承知しております……」
千染の容姿ない正論が己の身にぐさぐさと刺さり、火斑はそれ以上何も言えなくなってしまう。
一応、今でも雹我の呼び出しがあれば還手に許可をもらって、なるべく応じるようにしているが、それでも師の時間と労力を無駄にしてしまったことには変わりない。
もしかして千染はそのことを説教しに来たのか……と、火斑は気が滅入るような気持ちになったのだが。
「でも……そうしてまで還手を好きになったのですね」
続け様に出てきた言葉は、火斑が思っていたのとは違った。
意外に感じたのか、落ち込んだ表情をしてうつ向いていた火斑は、顔を上げて千染を見る。
すると、こちらから目を離して、何か考えている様子の千染の姿が目に入った。
「なるほど……、……」
(……?)
納得したように短く呟いた後無言になった千染に、火斑は不思議そうにする。
自分の行動を叱責しにきたわけではないのか。
千染の意図がよくわからず、若干困惑していた矢先。
「……では、例えの話ですけど」
千染が再び口を開く。
そして、
「もし……還手があなたの大切な者を殺しても、好きになれてましたか?」
「………え?」
あまりにも唐突な質問に、火斑は思わず疑問の声を漏らしてしまった。
一時の間が空く。
質問の意味を理解するのに時間かかっているのか、呆然としたまま答えてくる様子もない火斑を見て、千染は顎に指を添えて考える。
「そうですね……例えば、あなたの親……ああ、あなた孤児でしたね。では親しい友人でもいいです。とにかくあなたにとって失いたくない存在を還手が殺したとします」
「……」
「それでもあなたは、還手を好きになれますか?」
「………」
質問の意味がわからない。
火斑の頭に浮かんだのは、その言葉だった。
千染が何を思ってそんな質問をしてきたのか。
「どうなんです?」
でも相手が上忍……しかも殺人鬼と恐れられている千染である以上、どんな質問でも答えないといけない。
先ほどよりも圧のある千染の声に、肝が冷え、震えるのを感じながらも、火斑はとにかく何か言わねばと口を開いた。
「こ……殺した、理由によります……」
千染は無言になる。
次を言えと促すように。
「忍である以上……どうしてもやむを得ず殺さねばいけない時もあります。必要な死があります。そういった事情があってのことでしたら、俺の気持ちは変わらないと思います。……けど」
火斑の口が一旦止まる。
悩んでるような、迷っているような、そんな目をして。
そして、数秒待たずして再び口を開くと、
「もし……特に理由もなく殺したのでしたら……わからない、……のが正直なところです。」
「……わからない?」
「はい。明確な答えを返せず申し訳ありません。けど……今と同じ気持ちでおられないのは確かです」
「………」
火斑の返答を聞いた千染は、また何か考えるように彼から目を離す。
思い浮かぶのは、例の“彼”。
自分にこんな無益な行動をさせる原因となった本人を思い浮かべ、考える。
その一方で、視線を落とし困惑している様子の火斑だったが、ふと思うことがあったのか、だんだんと気難しい表情になっていく。
「……ですが」
火斑が言い出す。
その声に反応して、千染は再度彼を見る。
「還手さまが何の理由もなく……里の者を殺すわけありません」
先ほどまでとは違い、静かでありながらもしっかりとした声。
「もし、そういう事態が発生したとしても……必ず免れられない事情があったと……俺は信じます。還手さまを」
言葉を濁すことなく、火斑は自身の意思を口にする。
火斑の握った手に、力が入る。
例え話でも、一瞬だけでも、還手が“そうする”と思ってしまった自分が腹立たしい。
するわけないのに。
彼女が。
確かにものぐさで性格に多少難はあれど、気分や大した意味のない理由で、里の者を切り捨てるわけがない。
我が儘は誰に向けてもよくいえど、還手が里の者に対して殺意や攻撃的な感情を向けたところなんて見たことない。
還手はいつだって。
いつだって……。
昔から見てきた還手の姿を思い出し、火斑は苦しくて切ない気持ちになる。
だが、
「そうですね」
前から聞こえた声にハッとする。
感覚が一気に現実に戻り、火斑は反射的に顔を上げる。
すると、
「還手はわたしと違って、無意味に無闇に殺すことはしないですもんね。失礼いたしました」
そう言って微笑む……千染の姿が、目に入った。
その瞬間、火斑の全身が強張った。
不意に脳裏に過る記憶。
過去に一度見た光景。
血が飛び交い、敵を次から次へと亡き者にして愉しそうに笑う千染……。
「も、申し訳ございません!」
勝手に体が動いたと言っても過言ではなかった。
気づけば火斑は、地に額を擦り付けるくらい頭を深く下げていた。
「意図せずとはいえ、千染さまの気分を害するようなことを言ってしまい……!っ本当に申し訳ございません!!」
「………」
「ち、千染さまは千染さまでもちろん尊敬に値する方だと思っております!我々には出来ないこともいとも容易くやりこなして……!」
「そうですねぇ。任務遂行のために、仲間も罪のない部外者も簡単に切り捨てますもんね、わたし」
「えっ、あ、そ、その、そういう、わけでは……、っ」
体も思考も恐怖に支配されてしまう。
考えようにも上手く考えれない。
口から声が出なくなってしまう。
やってしまった。
その一言が、火斑の頭に大きく浮かんだ。
相手が千染だから、いつも以上に言葉に気をつけないといけないのに、つい還手のことで熱くなってしまった。
黙っておけばよかったものを。
けど、あの発言は、決して千染への否定を込めて言ったのではない。
あくまで還手に対する信頼を証明するための意思表示に過ぎなかった。
とはいえ。
とはいえ、だ。
千染からしてみれば、遠回しに己を否定されたようなもの。
とにかく彼がそう受け取ったのなら、そうなのだ。
言い訳なんて通用しない。
(どうすれば、どうすれば……)
千染に許してもらうための言葉を必死に探すが、見つからない。
それどころか、思い浮かびすらもしない。
恐怖と混乱で頭の中がぐちゃぐちゃになる。
まとまらなくなる。
体が、呼吸が、震える。
いつ殺されてもおかしくない。
次の瞬間、自分の首と体が離れているかもしれない。
そう考えると、体の震えはより一層酷くなるばかりだった。
冷静にならないといけない場面なのに。
とにかく何か言わねばと火斑は口を開こうとする。
だが。
「もういいです」
頭上から聞こえた声が、火斑の行動を拒否する。
ばっさりと切り捨てるように。
火斑の息が、止まる。
全身から嫌な汗が滲み出る。
「お話、ありがとうございました。それでは」
柔らかなその声に、火斑は死を覚悟した。
受け入れるしかなかった。
自分が千染の動きを見切れるわけない。
きっと一瞬、いや、もしかしたら既に死んでいるのかもしれない。
火斑は後悔する。
これなら還手にもっと積極的に接すればよかったと。
少しでも自分の気持ちを伝える努力をすればよかったと。
せっかく師の雹我が気を遣って、還手に仕えることを快く許してくれたのに……。
雹我にもまだ何も恩返しらしい恩返しが出来てないのに。
それに………まだ太壱に謝っていない。
今までのことを。
自分のくだらない嫉妬でたくさん困らせて、嫌な思いさせてしまって……。
せめて……せめてそれだけでもしたかった。
太壱にちゃんと素直に謝りたかった。
でも、もう………。
と、平伏したまま心の中で長々と懺悔を述べる火斑。
(…………、……?)
だが、しばらくして違和感に気づく。
なんかずっと意識があるな、と。
まさかと思い、火斑は恐る恐るとした動きで頭を上げていく。
そして、顔も上げて前を見ると…………そこに千染の姿はなかった。
どこからともなく鳥の鳴き声が聞こえてくる。
木々と木漏れ日だけが広がる山の中を、火斑は呆然と見つめる。
「………」
少しの時間が経った後、火斑は自身の首をそっと触ってみる。
首を隅から隅まで指でなぞる。
そして、首と体がちゃんと繋がっているとわかるやいなや、脱力したようにその場に座り込んだ。
「はぁ……はぁ……」
緊張の糸が切れ、全身に汗を滲ませながらも、火斑は荒い呼吸を繰り返す。
しばらくして呼吸も落ち着いていき、肩の力も抜けていく。
大きく息を吐いた後、後ろにある木に背を預ける火斑。
風が吹き、木々の心地よいざわめきを耳にしながら、何もない宙を見つめるその姿は心ここにあらずといった様子で……というより、もはや放心状態そのもので……。
先ほどまで何が起きていたのか。
それを理解する前に、火斑はぼそりと呟いた。
「太壱に……謝りに行こう……」