相異相愛のはてに
「夜雲はかしこいなぁ。何を教えてもすぐ覚えてしまう」
「あっという間にわたしを越えるのだろうな、はははっ」
「お、そんなことまで知っているのか。すごいな」
「これからはわたしが夜雲に教わらないとな。はっはっはっ」
「え、夜雲が……?、………そうですか」
「……ん?ああ、夜雲。起きてたのか」
「ううん、大した話ではない。さ、一緒に寝よう」
「紅葉村の村長の娘さん、覚えているか?咳が止まらないと悩んでると言っていた。夜雲の助言どおりにしたら治ったよ。ありがとうな」
「ん?……そんなことあるもんか。どうしてそこでお前を疎ましく思わないといけないんだ?わたしはむしろ病気で悩んでいた娘さんが元気になって、とても嬉しく思っているよ」
「夜雲、わたしはね。例えわたしの自尊心や名誉に傷つくことがあったとしても、結果的に病気や怪我で苦しんでいる人が少しでも楽になってくれたらそれでいいんだ」
「自尊心とか名誉とか、そんなのどうでもいいことなんだ。わたしにとってはちっぽけなことだ」
「だから夜雲。わたしの気持ちとか気にせず、言いたいことは遠慮なく言いなさい。いいね?」
「夜雲」
「どうだ?今日の祭り、楽しかったか?」
「………そうか」
「ううん、いいんだ。夜雲が自分の気持ちを抑えるより、本音を言ってくれた方が父さまは嬉しいよ」
「そうだな。きっと、夜雲は何でも出来るから」
「何でも簡単に出来てしまうから。……色んなものが、平凡に見えやすくなっているのかもしれないな」
「大丈夫、大丈夫さ。人生は常に不明確。生きていたら、何が起きるかわからないさ」
「どんなにつまらない毎日でも、生きていたら、きっと思いがけない出会いがあるはずさ」
「それこそ、夜雲の心が思わず躍ってしまうような出会いが」
「だからな、夜雲」
「生きてくれ」
「生きて、父さまと母さまに、心からの笑顔を見せてくれ」
***
海鳥が優雅に飛び交う青空の下。
穏やかな波の音が心地よく聞こえる浜辺で、漁師たちは時折豪快な笑い声をあげながら、漁に勤しむ。
いつもと変わらぬのどかな風景、平和な花咲村。
いつものように回診を終えた夜雲は、漁師たちから離れた浜辺で海を眺めていた。
ふわりと吹いた潮風が、夜雲の頰を撫で、遊ぶように髪を小さく揺らす。
どこまでも続く青い海には、太陽の光を浴びてキラキラと小さな光が散りばめられている。
昔から見てきた海。
それを夜雲は見つめる。
じっと、感情の起伏を感じさせない藤色の瞳で。
その一方で、いくつもの民家があるところから浜辺へと一人の少女が歩いてくる。
長い黒髪を後ろに流した清楚な雰囲気のある少女。
由良だ。
畑での一仕事を終えて、気分転換に海を見に来たのだろう。
だが、歩いている途中で、木陰にいる夜雲の存在に気がつき、思わず立ち止まった。
(夜雲さまだ……、……)
由良は悩む。
声をかけようか、かけまいか。
家族も自分も元気だし、何か渡すものがあるわけじゃないし、これといった用事はないのだが……。
でも、せっかくだし……。
いやでも、もし何か考え事をされていて迷惑になってしまったら……。
と、うだうだもだもだと、悩んで迷って躊躇ってを繰り返す。
思考に伴ってやや挙動不審な様子になりつつも、しばらくして由良は大きく深呼吸をする。
そして、意を決したように拳を軽く握りしめて夜雲を見ると、彼の下へと歩き出した。
「や、夜雲さまっ」
少しうわずったものの、由良は夜雲の名前を呼ぶ。
海を見ていた夜雲は、その声に反応して静かな動きで振り返る。
こちらを捉えてきた藤色の瞳に、由良は全身に緊張が走るのを感じる。
が、なんとか不自然な動きを見せないようにと、いつもの愛想のある笑みを浮かべて夜雲の近くまで歩み寄った。
「今日もお疲れ様です。仕事終わりですか?」
「うん。由良ちゃんは、休憩中?」
「はいっ。種まきが一段落ついたので、ちょっと海を眺めようと思いまして……」
「そう」
短い返事だけをして、夜雲は再び顔を前に向ける。
よくある夜雲の反応なので、それに対して冷たいとか素っ気ないとかは微塵にも思っていない由良だが。
もうちょっと話しかけていいのか、ここにいていいのか、と自分の行動に迷ってしまう。
迷いながらも、夜雲の横顔を見る。
いつもの無表情だ。
無表情……だが。
夜雲に何か感じたのか、由良は緊張しつつもこの場にいることを選択する。
由良も体を海の方に向けて、夜雲と一緒に海を眺める。
優しい細波の音、時折撫でてくるかのように柔らかく吹いてくる潮風。
そして、隣にいる夜雲の存在。
由良は、自身の心臓の脈が速くなっていくのを感じる。
夜雲に想い人がいるとわかっていても、変に意識してしまう。
それに。
「あ……海……」
「?」
「海……今日も綺麗ですね」
とりあえず会話をするための入り口として、まずは何気ない話から。
と、由良なりにその何気ない話を持ち出したのだが……。
でも花咲村の海が綺麗なのはいつものことだし、そもそも夜雲さまも前に同じようなこと言ってたから、もっと別の話題がよかったのでは。
と、言った直後に後悔しかける。
だが。
「そうだね……」
あまり間を空けることなく返ってきた夜雲からの言葉に、押し寄せていた後悔は瞬く間に消えた。
由良は安堵する。
それと同時に、胸の中がぱっと花開いたように明るい気持ちになる。
何故なら、夜雲の声色が……どことなく優しい感じだったから。
更には。
「由良ちゃん」
「?、はい」
「ちょっとだけ……お話、いいかな?」
夜雲から会話を持ちかけられ、由良は驚く。
そして、今度は胸いっぱいに心地よい光が広がっていくような嬉しさを感じた。
「も、もちろんですっ。わたしでよろしれば……」
なるべく今の気持ちを表に出さないようにと気をつけるものの、ついつい声色に出てしまう。
心が浮き立つとはこういうことだろうか。
そんな由良の気持ちを知ってか知らずか、夜雲は、ありがとう、と先ほど由良が聞いたのと同じ優しさのある声でお礼を言う。
そして、由良に向けていた視線を海に戻した。
「……会いたい人に会えたって」
夜雲は静かな声で言い出す。
「前に……由良ちゃんには言ったよね」
「はい。覚えてております」
「実はね、結構前にその人を怒らせてしまって……」
「えっ」
夜雲さまが?、と続けて出そうになった言葉を飲み込んで、由良は心底意外そうにする。
いつも落ち着きがあって、どんなことでも的確に冷静に対処する夜雲が、誰かを怒らすようなことをするなんて。
想像すらも出来ないその事実に、由良はただただ驚いた。
「それで……その人が家に来なくなったんだ」
更には例の想い人が夜雲の家に来ていたことに、強い衝撃を受ける。
しかも言い方からして一回だけではない。
夜雲への気持ちに踏ん切りつけたつもりだったが、やはりまだ日が浅いためか、由良は頭を鈍器で殴られたかのような錯覚に陥った。
それくらい衝撃的なことだったのだ。
少し前まで異性として想いを寄せていた人とまだ見ぬ彼の想い人が、既に一つ屋根の下で何度も会っていたということが。
由良の体がぐらりと揺れ、後ろに倒れそうになってしまう。
だが、それにすぐ気がついた夜雲が、咄嗟に由良の肩を掴んで支えた。
「大丈夫?」
「はっ……!」
すぐ近くから聞こえた夜雲の声と肩から感じた彼の手に、由良は目を見開いて我に返る。
今どんな状況か把握していくにつれて、顔が赤くなり、恥じらいや申し訳なさで頭の中がごちゃ混ぜになる。
そして、思考回路が破裂する寸前で、慌てて夜雲から離れた。
「す、すみません!話の腰を折るようなことをしてしまいまして……!」
「いいよ。それより体調、良くないのかな?顔も赤いし……」
「えっ、いえ、これは……」
「話はまた今度でいいよ。とりあえず今日は仕事もやめにして、家で安静に……」
「だ、大丈夫です!本当に大丈夫です!!少し驚いて、こうなってしまっただけですので……!!なので、続きを聞かせてください……!!!」
いつになく必死な様子で夜雲に意見する由良。
それもそうだ。
夜雲の方から必要以外で話を持ち出されるなんて、初めてのことだから。
これを逃したら、次はあるのか。
また今度と言ってくれたけど、その今度はいつになるのか。
瞬間的にそう考えた末の、反射的な発言だった。
波の音が聞こえる。
青空を飛んでいる海鳥が鳴く。
漁師たちは世間話をしながら、仕事に勤しむ。
そして……、夜雲は少し驚いた様子で黙り込んでいた。 長いようで短い間。
目を瞑って身構えているような様子だった由良だが、流れる沈黙にハッとなる。
今、自分が何をしたのか。
それを理解していくにつれて、由良の額から冷や汗が滲み出てくる。
やった。
やってしまった。
そう思った瞬間、由良は夜雲に向かって勢いよく頭を下げた。
「も、申し訳ございません!夜雲さまがせっかく心配してくださったのに、無下にするようなことを……!」
「……」
何も言ってこない夜雲に、由良は不安と焦りを感じる。
どうしよう。
いくら心の広い夜雲さまでも、さすがにさっきのは癇に障ってしまっただろうか。
あんな……夜雲さまの気遣いを遮るような言い方……。
色々と衝撃を受けたとはいえ夜雲に対して失礼な反応をしてしまったと、由良は後悔する。
そして、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
夜雲がずっと黙っているものだから、余計に。
だが、その一方で。
由良の過剰とも言える思い込みに反して、夜雲は至って落ち着いている様子だった。
驚いた様子があったのもほんの少しの間だけだったようで、いつもの無表情で由良を見ていた。
何を思っているのか、何を考えているのか。
感情らしい感情の見えてこない藤色の瞳からは、その片鱗すら読み取れない。
しばらくして、夜雲の視線が由良から外れ、海の方へと向いた。
「………その人が、来なくなって」
夜雲は喋り出す。
由良の要望に応えるように、話の続きを。
「ずっと……胸が重くてね」
頭を下げていた由良は、目をぱちくりとさせながらも、ゆっくりと顔を上げていく。
「重いだけじゃなくて……、時々、ぎゅっと締めつけられるように苦しくなったりもして……かと思えば、ほの暗いもやがかかっているような感じにもなったりして……」
その時に感じたことをなぞるように、夜雲は淡々と言う。
「こんなこと……今までなかったのに……」
初めはきょとんとした様子で夜雲を見ていた由良だったが、何かを感じてか、だんだんと親身に聞く姿勢になっていく。
「それでね、昨日の夜……その人がまた来てくれたんだ」
青い海を見つめながら、夜雲は思い出す。
昨夜のことを。
「そしたら……その人を見た瞬間、胸が一気に軽くなって、そこから何かがあふれるような感覚がして……」
いつものように単調だった夜雲の声に、微かな感情の色が乗る。
「気づいたら……抱きしめてた。離したくないって思った……」
浮き立っているような、不思議そうな、喜んでいるようにも感じれるような……そんなどれともはっきり形容し難い感情。
だけど、前向きな感情なのは確かだった。
夜雲は思い浮かべる。
彼を抱きしめた時のことを。
思い出す。
あの時感じた彼の体温を、匂いを、感触を。
自身の中を駆け巡った心地よい感覚を。
それらを鮮明に思い出すにつれて、夜雲の目に微かな感情の色が浮き出る。
そして、
「……誰かを好きになるって、こんなにも心が動くんだね」
いつになく。
いや、初めてと言えるほどはっきりと抑揚のある声で。
夜雲は思ったことをありのままに言った。
話を聞いていた由良は、目を大きくする。
少し大きめの波の音と共に吹いた潮風が、ふわりと由良の長い黒髪を揺らす。
由良の青みがかった黒い瞳に、夜雲の横顔が映る。
表情に変わりはない。
変わりはない……が、その横顔は昔から見てきた何も感じていない虚無のようなものではなく、確かな生気と明るさを感じさせた。
その夜雲の横顔を見た瞬間、由良は心の底から理解した。
夜雲は本気でその想い人が好きなんだと。
前はそれを知って、胸に痛みを感じた。
けど、今は……。
「ごめんね」
見とれるかのように夜雲の横顔を見ていた由良だったが、再び聞こえた彼の声にハッとなる。
同時に、夜雲は静かな動きで、由良の方に顔を向ける。
またこちらを捉えていた藤色の瞳に、由良はどきっとしてしまう。
「由良ちゃんには前にその人のこと話してたから……つい話したくなって……。こんなこと初めてだし、何よりも嬉しかったから……」
そして、夜雲のその発言を聞いて、由良は少し驚いた後、全身が浮つくような感覚に包まれた。
夜雲が自分に話したいと思ってくれていたことはもちろん、その嬉しい気持ちを伝えてくれたことに……由良も嬉しさを感じた。
なんだか以前よりも夜雲が心を開いてくれてるような気がして。
ずっと途方もないくらい離れていた距離が、一気に縮まったような……そんな気がしたから。
それが例え勘違いであっても、夜雲が自身の気持ちを話してくれたのは事実だ。
由良は胸元に当てていた手を握りしめる。
そして、いつもの柔らかな笑みを浮かべて夜雲を見つめると
「そうだったのですね」
嬉しさの滲み出た優しい口調で、由良は言葉を返す。
「夜雲さまは……本当にそのお方が好きなのですね」
「……うん。今回で改めてよくわかったよ」
「………」
「もう嫌がることはしないように気をつけないと……。さすがに次も同じことがあったら、また……探しに出ちゃうかも」
夜雲の迷いない返答を聞いても、由良の胸は痛まなかった。
それどころか、暖かい気持ちでいっぱいになる。
「大丈夫ですよ。夜雲さまがそれだけそのお方を大切に思っているのでしたら、ご本人にも伝わっているはずです」
その気持ちの赴くままに、由良は言う。
夜雲に安心してもらうための言葉を。
一方で、夜雲は“大切”という言葉に少しだけ反応する。
「同じことは起きませんよ」
「………大切……」
「?」
まるで確かめるかのようにそう呟いて、再び海の方に顔を向けた夜雲を見て、由良は不思議そうにする。
夜雲は青い海を見つめる。
脳裏に、昔の光景が過る。
ここで、今と同じ場所で、よく一緒に海を眺めていた二人。
父と母との記憶。
頭に浮かんだ二人の影に、夜雲は微かに目を細める。
「……そっか……、好きになったら……大切にするんだよね……」
「……?」
思い出したかのように、そう呟く夜雲。
その発言と夜雲の様子に、由良は首を傾げる。
それから数秒経たずして、夜雲は目を伏せた後、ゆっくりと顔を横に向けて由良を見る。
「由良ちゃん、ありがとう」
「えっ」
「大事なことを思い出せた。やっぱりきみに話してよかったよ」
「あ、い、いえ。わたしは思ったことを言っただけで……。こちらこそ、わたしの我が儘を聞いてくださりありがとうございます」
どういうことなのかはわからないが、夜雲にお礼を言われたので由良も咄嗟に頭を下げてお礼を言う。
それに対して、夜雲は首を小さく横に振る。
「ううん、我が儘を言ったのはぼくの方だよ。由良ちゃんの調子を無視して話を聞いてもらったんだから……」
「あっ、いえ、調子は元からいいんです……!朝から元気なんです……!本当にちょっと驚いただけで……」
「?、ぼくが好きな人を怒らせたの……そんなに驚くことだったの?」
「そ、それも確かに意外に思いましたが、その後の発言に一番驚いたと言いますか……」
「……。その人が家に来なくなったこと?」
「は……はい。ま、まさか夜雲さまとそのお方がそこまで進んでるとは思わなかったので……」
「………そう」
由良が言っていることの意味をいまいち理解してなさそうな様子の夜雲だったが、特に深く言及することなく短い肯定の言葉で終わらせた。
「とにかく由良ちゃんの調子が悪くないのなら、よかった」
「は、はい。申し訳ありません。誤解を生むような反応をしてしまいまして……」
夜雲さまに変なとこを見られてしまったな、と由良は再び恥じらいを感じる。
そんな由良の心境を察してか、夜雲は海から目を離すと静かに踵を返す。
「それじゃあ、ぼくは帰るよ」
「あ、はいっ。お気をつけて」
「……由良ちゃん」
「?」
夜雲は足を止める。
そして、
「もし、よかったら……またお話ししてもいいかな?」
由良に背を向けたまま、静かな声で言う。
予想外のその発言に、由良は目を大きくした。
由良の表情が瞬く間に明るくなっていく。
「はい……!もちろんですっ。夜雲さまがよろしければ、いつでもっ」
断る理由なんてあるわけなかった。
由良は快く返事をする。
嬉しかった。
夜雲から次も話をしようと誘われたも同然のことを言われ、ただひたすら嬉しかった。
「ありがとう。由良ちゃんは優しい子だね」
「い、いえ。そんな……」
「じゃあまたね」
「!、は、はいっ」
またね。
夜雲から初めて言われたその言葉に、由良は嬉しさで胸いっぱいになる。
浜辺から離れ遠くなっていく夜雲の背中を、優しい眼差しで見送る。
昔からずっとお世話になっている若医者様。
憧れの人。
尊敬している人。
密かに想っていた人。
………だからこそ。
日だまりのような暖かさで満たされていく胸を押さえながら、由良はゆっくりと視線を落としていく。
すると、
「由良」
「!」
横から声に由良は目を大きくする。
そして、顔を横に向けると、そこには魚の入った桶を片手にこちらを見ている少年がいた。
目つきは鋭いものの若干幼さの残る顔立ちに浅黒い肌、動きやすい軽装に筋肉質な体……。
以前夜雲を睨んでいた少年だ。
「休憩中か?」
「あ、うん。ちょっと気分転換に海を眺めようと思って」
「ふーん。……夜雲さまと随分楽しそうに話してたな」
「やだ、見てたの!?」
「嫌でも見えるわ」
顔を赤くして驚いてる由良に対し、少年は不機嫌そうに言葉を返す。
「ふん。好きなら好きってさっさと言っちまえばいいのに」
「な、何言ってるの波人!憶測で勝手なこと言わないで!それに夜雲さまには心に決めた人がいるのだから……!」
「は?」
由良の発言に、波人(なみと)と呼ばれた少年の眉がぴくりと動く。
「なんだ?あの人、そういう相手がいるのにお前と仲睦まじく話してんのかよ」
「……悪いの?」
波人の言い方がちょっと鼻についたのか、由良の口調も少し刺々しくなる。
「別に悪いとは言わないけどよ。意外と配慮が出来ない人なんだなぁって思って」
「配慮って……何の配慮?」
「考えてみろよ。もしさっきそのお相手さんがここらへん通ってお前ら見たら、どんな気持ちになると思う?」
「……」
「下手したら変に誤解されて、お前がそのお相手に責められるかもしれないんだぞ。そういうことも想像出来ないんだな、あの人」
「……波人」
「なんだよ」
険しい表情をした由良の手が、静かに上がっていく。
そして、
むぎゅ〜っ
「むぎぃ!?」
「も〜波人はどうして夜雲さまにだけは辛辣なの!?みんなには優しいのに!」
素直になれない口にお仕置き、と言わんばかりに波人の頬をつねった。
「大丈夫よ。夜雲さまが見初めた方だもの。誤解されたとしても、話をすればちゃんとわかってくださるわ」
「………」
由良の手が離れ、波人はつねられた頰をさすりながらぶすっとした表情をする。
「それにね。わたし、夜雲さまとその方のことを応援したいの」
由良は海の方に体を向けて、胸元で両手を組む。
太陽の光に反射して、きらきらと光る海を見ながら、ここで見た夜雲の横顔を思い浮かべる。
いつもの無表情であるものの、確かな明るさを感じさせた夜雲の横顔。
生を感じさせるその横顔に、由良は頬を緩ませる。
「ねぇ、波人」
「あ?」
「好きな人が幸せに向かっていることって、こんなにも嬉しい気持ちになるんだね」
「………」
目を閉じて心の底からそう感じてるような声で言ってきた由良に、波人は白けた視線を送る。
何を言い出すかと思えば……というより、こいつ今さっき“好きな人”って言ったな。はっきりと。
と、自分がなんとなく予感していた由良の夜雲に対する感情が決定的となり、何とも言えぬ気持ちを抱きながら波人は吐き捨てるようなため息をついて由良に近寄る。
そして、持っていた桶を彼女の腰に軽くぶつけた。
「きゃあ!?」
「お人好しが」
それだけ言って民家に向かう波人を、由良は自身の腰を擦りながら睨みつける。
「これ、お前んち置いとくな。親父からこの前の野菜のお礼だって」
「わぁ、ありがとう!……の前に言うことあるでしょ!」
由良は怒った顔をして、波人の後を追いかける。
そして、彼の肩を拳く叩き、仕返しをする。
「ってぇ……」と言いながらも由良からの拳なんてへでもない波人は、隣でお叱りの言葉を述べている彼女を半ば無視するように民家へと歩いていく。
由良とは昔馴染みでこういったやり取りは昔からだ。
波人に接する時の由良に、照れも恥じらいも緊張も一切ない。
気心の知れた仲と言えば聞こえはいいが、逆に言えば男として見られていないということ。
そのことに波人は不満を持たざるを得なかった。
由良に昔馴染み以上の感情を持っているからこそ。
だから由良に男として見られている夜雲をつい妬んでしまうのが正直なところだった。
……本当は、この村の面倒を見てくれているお医者様として感謝しないといけない存在なのに。
そんな複雑な男心もつゆ知らず、一昨日弟と行った山菜狩りであったことを楽しそうに話し出す由良に、波人は小さなため息をついた。