相異相愛のはてに
「夜雲、おはよう」
「夜雲、朝食出来てますよ」
「お、夜雲。お前も医学に興味があるのか?」
「夜雲、今日は母と散歩にでも行きませんか?」
「夜雲は賢いなぁ。将来、わたし以上の医者になるかもなぁ」
「あなた、夜雲。お芋を蒸してきました。勉学もいいですが、たまには息抜きをしないと」
「夜雲はお陽に似たんだろうなぁ。わたしと違って品のある顔をしておる。きっと見た目で損することはないだろう。ふふ、よいことだ」
「夜雲の頭の良さは一雲さんに似たのでしょうね。字の読み書きすら出来ないわたしに似なくてよかったです。夜雲には……幼い頃のわたしと同じ目に遭って欲しくないですから」
「夜雲、祭りに行こうか。お陽も連れて」
「夜雲、一雲さん。村の人からお魚をいただきました。今日はお二人の好きな魚の煮つけにしましょう」
「夜雲」
「夜雲」
「やくも」
「やくも……!!」
最後の切羽詰まったような声が聞こえた直後、夜雲は目を覚ました。
家の二階、自室で寝ていた夜雲は、ぼんやりとした様子で木造の天井を見上げる。
朝日が障子を通して室内を柔らかに差し、外からは小鳥の囀りが聞こえてくる。
親の夢を見るのは、これで何度目か。
眠りに落ちた時だけ会える両親。
夜雲の記憶の断片を拾い上げて、途切れ途切れに見せてくる思い出という名の映像。
それを時たまに見せつけられる夜雲は、どんな心境に陥っているのか。
相変わらず感情を表さないその表情から、心の変化なんて読み取れるわけがない。
夜雲はしばらくの間天井を見つめた後、ゆっくりと起き上がる。
布団から出て、畳んで、顔を洗いに外の井戸へと向かう。
行動もいつもと変わらなかった。
亡くなった両親に思いを馳せるわけでもなく、位牌の前で項垂れるわけでもなく、夜雲はいつもと変わらない朝を過ごした。
朝食を済ませて、片付けを終えて、いつものように花咲村へ下りて回診をする。
……はずなのだが、今日はそこだけいつもと違った。
夜雲は遠出用の着流しと足袋を箪笥から出して、それに着替える。
今日は花曇山の隣のそのまた隣の山を越えた先にある城下町に用事がある。
武家の娘が病気とのこと。
昨日花咲村の回診をしていたら、その武家の使いの者が現れて手紙をもらった。
文に書かれている症状を見る限り、急ぐほどのことではないと判断して、薬だけを渡し、明日太陽が真上に昇る頃に向かうと言付けた。
必要な医療道具と書物を背負い籠に入れて、それを持ち、戸口に向かう。
が、途中で立ち止まる。
「………」
何か考えているように、何か思い出したかのように、夜雲は宙をしばらく見つめた後、籠を下ろして家の奥に向かう。
廊下を歩き、仕事部屋も台所も通り過ぎ、日の当たらないところにある一つの戸。
そこに辿り着いた夜雲は、その戸を開ける。
そして、暗闇の中にあった”それ“を取り出す。
夜雲の手にある”それ“は……刀だった。
大きさからして、太刀。
重厚感のあるそれを見つめる夜雲。
どうして戦いとは無縁にあるはずの医者家系の家に、刀なんてあるのか。
それは、いつのことか、まだ父の一雲が健在だった頃。
母のお陽と幼い夜雲が洗濯物を干している時に、一雲が深手を負った武士をおぶって帰ってきた。
刀を下げていたからその時は武士だと思っていたのだが、後々に浪人だと知る。
とにかく危ない状態だったので、一雲は事情を説明するよりも先にその男の処置を施した。
お陽も夜雲も出来る限りの手伝いをした。
懸命な治療と看護の甲斐あってか、男の意識は戻り、数ヶ月後には山を一日中駆け回れるくらい回復した。
陽気で礼儀正しい男だった。
完全に回復するまでは、山菜狩りや家の手伝いをよくしてくれた。
道端で深手を負って倒れていたのは、以前仕えていた家の武士に絡まれて、悶着の末斬られてしまったらしい。
それをたまたま通りかかって見つけた一雲が、見過ごすこと出来ずに助けたのだろう。
家を去る際に男は、「こんな金も地位もない浪人を助けてくれてありがとう。あなた方には感謝しかない」「わたしはこれを機に新たな人生を歩もうと思う」「そうだ。金でなくて申し訳ないのだが、どうかこれをもらって欲しい」と言って腰におさめていたそれを、刀を差し出してきた。
刀。
まさか、元とはいえ武士だった者が他人に刀をあげる、なんて誰が想像しただろうか。
幼い夜雲でも、武士にとって刀がどれほど大切なものか、なんとなく知っていた。
けど、夜雲よりも武士にとっての刀の重みをよく知っている一雲とお陽は、激しくうろたえた。
そんないいですよ、こちらが勝手にお世話しただけなので、それはあなたの魂そのものじゃないですか、今は余計思い入れがあるでしょうに、もらったとしてもうちでは使うことがないので、あなたが持つべきものですから、と……捲し立てるような勢いで二人は受け取りの距離をした。
それでも、男は引き下がらなかった。
刀を差し出したまま笑って、「命より大事な物だからこそ、あなた達に差し上げたいと思ったのだ」「そう思えるほど、あなた達は素晴らしいことをしたのだ。それは簡単に出来ることじゃない。どうか謙遜しないで欲しい」と言った。
男のその言葉と真っ直ぐな眼差しに、一雲もお陽も思わず黙り込んでしまった。
男は続けて言った。
「確かにあなたの仕事柄使うことないだろうが、もしかしたらいつか役に立つ時がくるかもしれない」「護身用に持ち歩くのもよし、つっかけに使うのもよし」「それでも不必要であれば質にでも売ってくれ。一応いい刀だ。値もそれなりにつくだろう」……そう言って男は笑った。
その笑顔に刀への未練も迷いも一切なかった。
男の笑顔と言葉に、一雲も男の気持ちを受け止める決心したのか、今度はうろたえることなく刀を見据えた。
そして、わかりました、とだけ言うと静かな動きで刀を受け取った。
売りもしないし使いもしないだろうけどこの刀はうちのお守りとして大切に置かせてもらいます、と言葉を添えて。
一雲の返事を聞いて、男はまた笑った。
今度は憑き物がとれたような、爽やかな笑顔だった。
それからお陽が用意していた握り飯を男に持たせ、家族全員で見送った。
感極まっているのか、こちらに向かって手を振る男の目には涙が浮かんでいた。
……というのが、医者家系であるはずの夜雲の家に刀がある経緯である。
父の一雲があの時以降刀を持つことはなかったが、夜雲は遠出の時は持つことにしていた。
護身のために。
刀を取り出した夜雲は、二階に上がってまた箪笥を開いて、その中から鼠色の刀袋を取り出す。
刀を刀袋に入れて、それを腰におさめると一階に下りて戸口に向かう。
そして、今度こそ立ち止まることなく、籠を背負って草鞋を履くと、家を出ていった。
山を越え、また一つ山を越え、ひらひらと舞う白い蝶の横を通り過ぎ、城下町へ続く草道の途中にある水茶屋で夜雲は一休憩することにした。
草団子二本に、熱いお茶一杯。
夜雲の注文した品が運ばれてくる。
「お侍さん、お使いですか?」
人の好さそうな老婆が、夜雲にそう声かけて縁台にお茶と草団子を置いていく。
「侍ではありません。医者です」
愛想の全くない、無感情な声で夜雲は老婆の問いに応じる。
老婆はお盆を胸に抱えて、きょとんとした顔をすると、背負い籠に寄り添うように置かれているどう見ても刀が入っていそうな布袋をまじまじと見る。
「えぇと、それは……何か特別な医療道具でしょうか?」
「刀です」
「へぇ?お医者さまなのに、刀を下げているのですかい?」
素っ頓狂な声をあげる老婆をよそに、夜雲はお茶をすする。
そして、少し遅れて「はい」とだけ返事した。
話が全く続かないし広がらない。
素っ気ないどころか冷たい領域まで達している夜雲の態度に、大抵の者は気分を悪くするであろう。
けど、老婆は余程心の広い人なのか、特に気を悪くしている様子もなく、続けて夜雲に質問した。
「は〜、するとあれでしょうか。父君が武士の者だったとか」
「いえ」
夜雲はお茶を飲む。
またそれだけの返事で終わるのか。
「父が助けた浪人からもらったものです」
どうやら今度は終わらせなかったみたいだ。
声の抑揚も表情の起伏も全くないため、どう出るのか非常にわかりづらい。
「は〜っ、なるほどなるほど。そういうことでしたかぁ」
無感情にも程がある夜雲の態度を気にするでもなく、老婆は素直に感心する。
本当にいい人である。
「浪人から刀を貰い受けるとは、お医者さまのお父さまはさぞかし立派なお方なのでしょうね」
「はい。せっかくもらったものなので、護身用に」
「そうですかそうですか。すみませんねぇ、てっきりお侍さんかと思いましたので……。どうぞ、ごゆっくり」
さすがに夜雲がお喋り好き……どころか、喋るのがあまり好きではない人だと察した老婆は、会話を切り上げていそいそと店の中へ戻っていく。
一人になった夜雲は何口目をかのお茶を飲むと、草団子に手を伸ばす。
ふわりと風が拭き、近くにある木々が軽く揺れて、葉と葉の擦れる音が聞こえる。
青い空には鳶が緩やかな曲を描いて飛んでおり、時折鳴き声が聞こえる。
草団子を一つ、また一つと食べながら、夜雲は草道を行き交う人や牛車を眺める。
いや、眺めているのかはわからないが、とにかく前を見つめる。
相変わらず無表情で何を考えているのかわからない。
せめて、今食べている草団子美味しいくらいは思っているといいのだが。
しばらくして。
一休憩を済ませた夜雲は、金銭を空皿の近くに置いて、籠を背負い刀袋に入った刀を腰におさめて再び出発する。
その際に空を見上げる。
太陽はまだ東側に傾いている。
目的の場所には、間に合いそうだ。
それから特に問題らしい問題はなく、盗っ人や賊に絡まれることなく、夜雲は武家屋敷に着いた。
腕利きの医者と人づてに聞いていただけなので、経験豊富な老人を想像していたのか、依頼人の武士は夜雲を見て驚いた。
こんな若造に大切な愛娘を任せられるか、と武士の性格からして夜雲を見るなり罵倒して門前払いしていただろう。
だが、事前に使いの者に渡した薬が夜雲の意図せず功をなしたのか、武士はあっさりと夜雲を屋敷に通した。
それくらい、夜雲の渡した薬がよく効いていたから。
娘は手紙に書かれていた内容にしては、元気そうだった。
まぁ薬のおかげなのだが。
夜雲は娘のいる布団の側まで近づき、背負い籠と刀を置いて、籠の中から医療道具を取り出した。
その際に、後ろにいた武士がむむっと声をあげた。
「夜雲どの」
「はい」
「それはもしや、何か特殊な医療道具ですかな?」
「刀です」
「刀!?」
「遠出する時は護身用に持っているんです」
「あぁ……。と、いうことはおぬしの父は武士というわけか」
「医者です」
「へ?」
「父が助けた浪人からもらいました」
「あぁ……なるほど」
おぬしの父はさぞかし立派なお方なのであろうな、と武士の言葉を最後に会話は終わった。
水茶屋の時とほぼ同じ会話である。
同じだからこそ、さすがの口数少な過ぎる夜雲も察して、武士が欲しいであろう情報を先手先手に出したのかもしれない。
実際はどうか知らないが。
娘への診察は滞りなく行われた。
やはり少し重めの風邪を患っていたようだ。
ここがボロ屋で食う物すらまともにない貧困層の家だったら、そもそもの回復の源となる体がもうダメなわけで、重い風邪なんてひいたら治る見込みなんてなかったが……幸いにもここは武家。
清潔な部屋で、栄養のある食べ物を摂取して、白湯に混ぜた薬を飲んで、何日か寝れば治るだろう。
娘の肉つきも悪くないし、病気に打ち勝つ体力があるのなら尚のこと。
とりあえず、娘の命に関わるほどの病気ではないことと治るまでの過ごし方、薬の飲み方を伝えて、夜雲は必要な薬を用意する。
診察の結果を聞いた武士は、ほっと胸を撫で下ろす。
そして、よかったな佐代、と安堵の笑顔で娘に声をかけた。
佐代と呼ばれた娘は、ええ、ありがとうございますお父さま、とだけ言うと夜雲をちらりと見て布団の中に引っ込んだ。
病気が治るとわかって安心したのだろう、と娘の行動を見てそう察した武士たが、実は夜雲に体を見られたり触られたりしたのを恥じらっていたなんて知る由もなし。
娘も娘でまさか若い青年が来るなんて思ってなかったのだろう。
しかも“いい男”の部類に入る、端正な顔立ちをした青年が。
風邪がしんどくて化粧もろくにしていないし、髪も乱れていて、更には素肌を晒すことにもなって……今の娘は悩ましい気持ちでいっぱいだろう。
どうせ来るならきちんと身なりが整ってる時に来て欲しかった、なんてついつい思ってしまうのだが、身なりを整えれるほど健康だったら夜雲がここに来る理由がないのである。
そんな娘の心境なんて露知らずといった様子で、夜雲は用意した薬を武士に渡し、帰る準備をする。
「夜雲どの。もしよろしければうちで夕餉でも……」
金銭を渡す際に、武士は夜雲を夕食に誘おうとする。
薬といい診察の手際といい、腕利きの医者として噂通りの力量を発揮した夜雲に、興味を持ったのだろう。
この方にならうちの料理を振る舞っていいと思うくらいに。
だが、
「ありがとうございます。ですが、申し訳ありません。まだ残っている仕事がありますので」
夜雲は断った。
残っている仕事とは、きっと花咲村での回診だろう。
それを聞いた武士はそうかと残念そうに言い、その後ちょっと待てと夜雲に呼び止めて、屋敷の奥へと向かう。
程なくして小さな包み紙を片手に戻ってきた。
「なら餞別だ。もらってくれ」
武士は夜雲の手を取って、半ば押しつけるように包み紙を渡す。
手のひらにある小さな包み紙。
その中に何かあるのは重さからして明白だった。
夜雲は感触を確認するように、親指で包み紙を撫でる。
それで中身が何かわかったのか、夜雲は依然とした無表情で武士を見る。
「お代は既にもらっていますが……」
「なぁに、ちょっとした気持ちばかりさ。それで良いものでも食え」
夜雲は武士から目を離し、再度手元の包み紙を見る。
「あんた、無愛想だが医者としての腕は確かだ。ずっと咳き込んで鼻水も止まらず夜もろくに眠れなかった娘が、あんたの薬を飲んで伝言どおりにしたらいくらか落ち着いて、昨晩は久方ぶりに眠れていた。今夜からは更に落ち着いて眠れるだろう」
「……」
「今の世の中、あんたみたいな人が一番必要で、誰よりも長生きするべきだ。……もし金とか困ったことがあったら、うちを訪ねるといい。あんたの部屋くらい用意してやる」
「……お心遣いありがとうございます。では、これはありがたく頂戴いたします」
「ああ。まだ日も明るい。ここらで買い物する余裕はあるだろうが、暗くなると賊が出やすくなる。気をつけて帰られよ」
「はい。それでは」
夜雲は武士に頭を下げると大戸口を出ていく。
武士にしては気前がいい。
いや、それほどに娘を大切に思っていてのことだろう。
母親が出てこなかった辺り、忘れ形見か……。
それを抜きにしても、ここの武士は数いる侍の中で人格者の部類に入るだろう。
遠回しに、この世は大名に仕える自分よりも医者のあなたが必要だ、なんて。
そんなことを言える武士が何人いるのだろうか。
だけど、武士の厚意も称賛も心に響いていないのか、はたまた表に出してないだけで内心噛みしめているのか。
夜雲は相変わらずだった。
相変わらず、無表情で何を考えているのか、むしろ何も考えていないような……そんな様子だった。