相異相愛のはてに
「千染」
長く艷やかな濡羽色の髪が特徴的な美しい忍が、弟子の名を呼ぶ。
「わたし達のような容姿に秀でた忍はね、戦わなくてもいいのよ」
瑞々しい果実のような桃色の唇を動かし、言葉を紡ぐ。
「刀も苦無も持たなくていい。持つ必要がない」
「だって、わたし達そのものが武器なのだから」
美しい忍はしゃがみ込んで、まだ年端もいかない弟子の頬を撫でる。
「ああ、千染」
「おまえは本当に美しいわねぇ」
「成長したら、もっともっと美しくなる」
「きっとわたしを越えるでしょうね」
美しい忍の口元が、だんだんと、少しずつ、歪んでいく。
「わたしは……」
「わたしは……これから朽ちていく」
「枯れていくだけ……」
「老いには敵わない……」
優しく撫でるような穏やかな声に、震えが帯びる。
「わたしはこの先美しくなくなる……」
「美しくなくなったわたしに何の価値が……?」
「どうしよう、どうしよう……」
「誰もわたしを見なくなる……、誰もわたしを求めなくなる……」
美しい忍は嘆く。
「千染、わたしはお前が疎ましい……」
「憎たらしい……」
「わたしが朽ちる一方で、お前はこれから咲く花のように美しくなっていく……」
「何も実らない、男のくせに……」
美しい忍は妬む。
「千染、千染」
「お前はわたしを見捨てないわよね?」
「まさか、置いて行くなんてことしないわよね?」
「お前をそこまで育てたのは誰だい?お前に貴重な忍法を伝授したのは誰だい?」
「誰のおかげで今日の今日まで生き抜くことが出来たんだい?」
美しかった忍は縋る。
「千染……、ああ、そう」
「そう。だったら、いいわよ」
「わたしには“あて”があるから。ずっと黙っていたけど」
「せっかくお前だけには、お福分けしてやろうと思っていたのに」
「お前がそうするなら、もういいわよ。さよなら。わたしは日の下で生きるわ。こんな世界おさらばよ。でも、千染。お前は……」
「一生日の光に当たることなく、影で惨めに死ね」
美しい忍だった者は……去る。
弟子だった忍は見送った。
何も言わずに、遠くなっていくその背中を見送った。
目に涙を溜めて。
その感情を咎めるように、こちらへと引っ張るように、音もなく後ろから現れた眼帯の忍が彼の名前を呼ぶ。
名前を呼ばれた忍は、少しの間うつ向いた後、何事もなかったかのような表情に戻り、眼帯の忍の方を振り返る。
そして、もう二度と美しかった忍の方を振り返ることなく、迷いのない足で眼帯の忍の元へ足を進めた。
その二年後。
弟子だった忍は美しかった忍に再び会うことになる。
否、その末路を見ることになるといえばいいのか。
いずれにせよ、それが弟子だった忍の胸に刻まれる。
深く、深く。
焼きついて、染みついて、痛いほどに。
***
三日月が浮かんでいた。
草木生い茂る山林で、先ほど殺したばかりの屍達を周りに、千染は木に背を預けて座った状態で夜空を見上げていた。
青白く光る三日月。
それを見ながら、千染はぼんやりと考えていた。
夜雲のことを。
あの男の家に行かなくなってから、どれだけ経ったのだろうか。
数えてないし、数える気もないから、わからない。
でも約束を破ったことには変わりない。
怒っているだろうか。
次行ったら、さすがに殺してくるだろうか。
………そもそも、次なんてあるのだろうか。
(………ああ)
あの夜と重なるように、千染の脳裏にとある光景が過る。
(いやだ、いやだ……)
千染は無意識に蹲り、膝に顔を埋める。
(やめろ、思い出すな……)
自分にそう言い聞かせても、頭は千染の意思に反してその光景を見せつけてくる。
ある集落を拠点としている集団の主導者の暗殺。
その依頼を受けて、ただ任務を遂行して終わるだけのはずだった。
それだけのはずだった。
だけど、そこで見たものは……一糸まとわぬ姿で鎖に繋がれ、猿轡を口に嵌められて、手足がなく、目も潰されており、男にも女にも老若関係なく慰み者にされている女の姿。
その女に、見覚えがあった。
見間違えるはずが、なかった。
もはや人間として……ましてや忍としてですらなく、畜生のように扱われている“それ”。
屋根裏の隙間から見たその光景が鮮明に過った瞬間、千染は膝を抱えている腕に力を入れる。
なんとか頭から消そうとする。
その光景も、その時感じた自分の気持ちも。
(もう関係ない……、今のわたしには関係ないことだ……)
そう、だから。
だから、思い出す必要なんてない。
忘れていいことなんだ。
………なのに。
どうして、未だに消えていないのだろうか。
千染は下唇を噛む。
血が滲み出るほどに。
そして、また言い聞かせる。
自分は忍だと。
忍なんだと。
だから、忍として生き、忍として死ぬ。
最後の最期まで。
だからあれは。
あれは、きっと、薬のせいで血迷ったんだ。
薬のせいで、あんな発言を……。
自分の意思ではない。
だから、大丈夫だ。
自分は大丈夫。
大丈夫。
………。
(………)
膝に顔を埋めたまま、千染はふと思う。
大丈夫って、わざわざ思い浮かべてまで自分に言い聞かせてる時点で大丈夫ではないのでは……と。
不意に思ってしまう。
直後、どうしようもない気持ちになって、抑えきれない苛立ちに駆られてしまう。
殺したくて、斬り刻みたくて、何もかも滅茶苦茶にしたくなる。
これも全部あいつのせいだ。
あいつが悪い。
あいつが、あいつが。
夜雲を思い浮かべれば思い浮かべるほど、千染は怒りや苛立ちでどうにかなってしまいそうになる。
と……、その時だった。
ガサッ
「!」
突然聞こえた物音に、千染は反射的に顔を上げる。
そして、咄嗟に小太刀を抜いて立ち上がり構える。
しまった。
油断しきっていたか。
と、若干の焦りを感じていた千染だったが。
「にゃ〜」
「……」
またガサガサと音がした直後、一匹の猫が草むらから出てきた。
猫は千染を見るなり、人懐っこそうな鳴き声をあげる。
呆然した様子で猫を見ていた千染だったが、だんだんと眉間に皺が寄っていく。
まさか人と猫の気配の分別すらも出来なくなっているなんて。
今の自分の感覚の鋭さが落ちていることに、千染は情けない気持ちになった。
その場が静寂に包まれる。
微かな血の臭いが漂う中、猫はそこらかしこに転がっている屍を気にも止めず、千染を気にするかのように彼の元へ歩み寄っていく。
「にゃあ」
猫がまた鳴く。
気難しい表情をして顔をうつ向かせていた千染だったが、その鳴き声に反応して顔を上げる。
千染の足元まで来た猫は、彼の足に体を当て擦る。
それをニ度三度繰り返した後、猫はその場に座り込み、千染を見上げてまたにゃあと鳴く。
何も知らないけど気になるといった感じで、ガラス玉のような目でこちらを見上げている猫を見て、千染はますます気分が悪くなる。
動物はいいもんだ。
食うか寝るか、単純なことだけ考えればいいのだから。
人間みたいに、あれこれ小難しいことを考えなくていいのだから。
本当、羨ましい。
「……鬱陶しい」
吐き捨てるようにそう言い放つと、千染は猫を蹴る。
いや、蹴るというよりは、足で軽く押すようにして猫を自分から離す。
猫の体がぽてっと横に倒れる。
きょとんとした様子でこちらを見上げる猫を見ることなく、千染はその場を去ろうとする。
帰ろう。
ここにいたって余計なことを考えるだけだ、と。
だが、千染が数歩先歩いたところで猫はすっと起き上がり、軽やかな足取りで千染の元に向かう。
そして、また彼の足に自分の身を寄せて纏わりついた。
「……!?」
またもや自分の足元に来た猫に驚いた千染は、思わず足を止める。
猫は目を細めて何度も千染の足に頭や体を擦りつけて、その場に座り込み、彼を見上げる。
千染の赤い瞳と猫のガラス玉のような綺麗な瞳が、交わる。
怪訝な表情をして猫を見下ろしていた千染だが、だんだんと冷酷さを滲ませた表情になっていく。
「……そうですか」
抜いたままの小太刀を握っている手に力が入っていく。
「そんなに殺されたいですか」
殺意が滲み出た低い声が出る。
千染は静かな動きで、猫の方に体を向き直す。
猫はきょとんとした顔で、千染を見上げる。
その何も知らない、何もわかっていないといった目が、千染を余計苛立たせる。
無性に滅茶苦茶にしたい衝動に駆らせる。
この無垢な生物に、痛みも苦しみもわからせたいと思ってしまう。
絶望というものを知らしめたい。
この世界がどれだけ汚くて、おぞましく、醜いのか。
そのまっさらな体に、頭に。
だから。
どす黒い感情に囃し立てられるまま、千染は小太刀を振り上げる。
まずは腕か、足か。
すぐに殺してはいけない。
痛いというのを、苦しいというのを味わってもらわないと。
哀れな畜生だ。
何も知らなかったせいで、こんな目に遭うなんて。
何も知らないから。
何もわかっていないから。
だから、こうなってしまうんだ。
自分のようなやつにいたぶられ、殺されてしまうんだ。
恨むなら無知な己を恨め。
無垢で無防備な己を恨め。
心の内でそう述べながら、千染は猫に向けて刃を突き立てようとする。
………が。
猫は首を傾げるだけで、そこから動くことはなかった。
逃げる素振りもない猫に、依然として自分を見上げている猫に、千染は目を見開く。
振り下ろされた刃が逸れて、猫の真横に突き立てられる。
その場に、静かな空気が流れる。
「………」
「にゃ」
猫がまた鳴く。
何もわかってないような、純粋な鳴き声で。
それを耳にして、千染の見開いていた目が、だんだんと細くなっていき、複雑な感情の入り混じった目つきに変わっていく。
(………)
千染は猫から目を逸らす。
猫の視線が、やけに突き刺さってくるように感じる。
少しの静寂の後、千染な再び猫を見下ろす。
千染と目が合った猫は、腰を上げて、またにゃあと鳴いた。
嬉しそうに、尻尾をぴんと立てて。
(………)
本当に人懐こい猫だ。
疑いもせず、警戒もせず。
まるで……。
………。
………それでよく今まで生きてこれたものだ。
小太刀の柄を握っていた千染の手が、するりと離れる。
そして、その手はどこか恐る恐るとした動きで猫の頭に伸びていく。
指先が、猫の柔らかな毛に触れようとする。
……が、その時。
「ち〜ぞめ〜っ」
「!」
どこからともなく聞こえた声に驚いて、千染の手がビクッと小さく跳ねる。
直後、千染の後ろに一つの影が音もなく降りてくる。
聞き覚えのある……というより、知り過ぎてるくらい知っている声。
自分の後ろにいるのが誰なのか、すぐにわかった千染は一気に気難しい表情をすると、猫に伸びていた手をさっと引っ込める。
そして、そのまま後ろを向くと、そこにはやはり千染の思っていたとおり……独影がいた。
独影は千染と目が合うなり、いつもの飄々とした調子で彼に声をかける。
「仕事終わりにわりぃな。ちょっとお前と話がしたくよ。若医者くんのことで」
若医者くん、と聞いて千染の眉間にある皺がより深くなった。