相異相愛のはてに
千染は夜雲の家に行かなかった。
次の夜も、その次の夜も。
彼の足が夜雲の家に向かうことはなかった。
とにかく仕事に没頭した。
殺して、殺して、殺して。
対象を殺して、追手を殺して。
斬って、刺して、裂いて。
血飛沫を浴び、臓物を引き摺り出し。
行く先行く先を血の海にしていく勢いで、仕事を全うした。
何かを必死に掻き消そうとしているかのように。
ある日の夜。
巣隠れ衆忍頭・櫻世の屋敷にて。
蝋燭の灯りだけが頼りの仄暗い座敷で、櫻世と独影は向かい合っていた。
櫻世はきっちりとした正座で、独影は胡座をかいた状態でと、お互いを見る。
「千染のことだが、やはり原因は例の若医者か?」
「でしょうね〜」
櫻世の問いに、独影は間延びした声で答える。
独影の返答に、櫻世は「そうか……」と困ったように眉根を少しだけ下げる。
千染が仕事を立て続けにするのは別に珍しいことではないのだが、この前からやり方が妙に苛烈というか、やけくそ気味というか。
とにかくいつもと様子が違うことを、櫻世は早いうちに察していた。
それよりも早く独影の方が気づいていたが。
更には、独影から例の若医者……もとい夜雲のことを軽く聞いていたので、もしや彼が原因なのではというか彼しか思い当たらないので、とりあえず独影に聞いてみることにした。
で、今に至る。
「喧嘩でもしたのか?」
「じゃないんですかねぇ?一昨日、その若医者くんの話を持ち出したら急に殺気立って斬りにかかってきましたし」
「もう明らかではないか」
独影のその返答に、櫻世は確信する。
「ということは、若医者は殺されたのか……」
「いや、生きてますよ」
「何だと?」
「この前大吉使って確認しましたけど、生きてましたよー?大した怪我もない様子で」
「………」
あの千染が喧嘩相手を傷一つ負わせずに生かすなんて。
そんなことがあるのか……。
今までの千染の残忍性を覆すような展開に、櫻世はやや戸惑いを感じる。
敢えて殺さなかったのか、それとも……。
「まぁ、その若医者くんちょーっと謎が多いと言いますか」
色々と推測しようとした櫻世だが、独影の声によって遮られてしまう。
「はっきりとは言いきれないですが、戦闘面で千染より強い可能性があるんですよね」
「千染より?忍でも武士でもない医者が?」
「はい。事実、千染が彼の家に通うようになったのは彼に負けたからなので。まぁ実際戦ってるとこを見てないですから、何とも言えないですけど。もしかしたら、千染が不利な状況だったかもしれませんし」
「それでも千染は上忍の中でも更に腕の立つ忍だぞ。不利になったところで、そう簡単に若医者に負けるとは思えないのだが」
「でも千染のあの様子からして、本当に負けたみたいですからねぇ。となると、やっぱ若医者くんが千染より強かったか同等だったかが有力ですよね」
「……若医者だぞ?元が忍や武士だったわけではないのだろう?」
「ですね。だからこそ、謎と言いますか。彼がどこかで戦っていたような情報も全くありませんでしたし」
「………」
そこまで聞くと何か思うところがあったのか、櫻世は何とも言えない顔をして黙り込む。
櫻世の思ってることを察したのか、独影はからっとした笑顔を向ける。
「大丈夫ですよ〜。色々謎な部分はありますけど、若医者くんが千染にべた惚れなのは確実なんで。心配しなくても千染が殺されることなんて、まずないですよ〜」
「……お前がそう言うならそうなのであろうが……。何にせよ、妙なことを企んでないといいんだがな」
「企むですかぁ……。そんな感じには見えませんでしたけどねぇ」
「その口ぶりだと、若医者の様子をまた見に行ってたのか」
「まー千染の様子的に、そろそろどうにかしなきゃな〜と思ってるんで。そのためにはある程度相手の情報を知っておくべきじゃないですか」
やれやれと言った感じに、独影はため息をつく。
その様子と独影の発言を聞いて、櫻世はふと優しげに笑う。
「本当……お前は昔から変わらないな」
「へ?」
「昔と変わらず友達想いだということだ」
思ったことを、そのまま独影に伝える。
それを聞いた独影は、またからっと笑う。
「あはは〜、まぁ俺にとっては大事な昔馴染みですからね。千染は全くそう思ってないでしょうけど」
「そんなことはないはずだ。ただあれは忍としての生き方・考え方が他の者より深く染みついているだけで、無意識下ではお前を大事な友と思っているはずだ」
「そうですかね〜。ま、櫻世さまがそう言うのでしたらそうだって思っときます」
いつものように飄々とした調子でありながらも、どこか嬉しそうな様子の独影に、櫻世もつられるように笑みを浮かべる。
独影は実力だけを見れば十二分に優秀なのだが、忍としての資質はあまりないのかもしれない。
でも、いいのだ。
それを悪かのように糾弾する者は、もういないのだから。
今の忍頭は自分なのだから。
「しかし……」
昔から変わらぬ独影と千染の仲に微笑ましさを感じていた櫻世だったが、ふと浮かんだ疑問に思わず声を漏らす。
「?、どうしました?」
「いやな。その若医者が千染に惚れているのは別にいいのだが、やはりきっかけが少し気になるというか……」
「……」
「互いの生まれと生業からして接点がほぼ皆無だと言うのに、若医者はいつどこで千染と会ったのか……そこまではまだ知らないか?」
櫻世の問いに、独影は表情を変えないものの黙り込んでしまう。
千染が彼の両親を殺したのがきっかけ、なんて言っていいものなのだろうか。
と、独影は櫻世から目を離さずに考える。
以前、千染がまだ今のようにやけくそ気味ではなかった時に、夜雲について少し話を聞いた。
その中で、例の両親殺しの話も出てきて、千染は「あいつは嘘をついていなかった」と言っていた。
嘘ではない。
ということは、本当のことというわけで。
つまりあの若医者くんは両親殺した張本人に惚れているということで……と、この時点で独影は夜雲の感性がいまいち理解出来なくなっていた。
だけど、まぁ何か事情があるのだろうと深く考えないようにした。
何がどうであれ、彼が千染に惚れ込んでいることには変わりないのだから。
とはいえ、いざこうやって他者から……しかも櫻世からそのような質問をされると、解答に困るのが事実だった。
(それに知ってるっつっても、俺は直接若医者くんから聞いたわけじゃねぇしなぁ……)
千染の見極めを信じてないわけじゃねぇけど、親殺しに関して本当にそうなのかって正直まだ疑っているし……。
とりあえずって提で親殺しのことを言ったとしても、多分櫻世さまのことだからいい反応はまずしないだろうし……。
そもそも、こういうことって俺の口から言っていいもんかって躊躇っちまうし……。
と、迷いに迷った結果、独影は曖昧に答えることにした。
「あ〜、なんか何年も前に千染に会ったことあるみたいですが、詳しいことは特に……」
「……そうか」
「………」
櫻世の反応を見て、独影は思う。
まぁ、すぐに答えなかった時点で察するよな……と。
こちらのことを見透かしてるような目で見てきている櫻世を前に、独影は内心悟る。
櫻世は気づいている。
自分が何か知っていることに。
だけど、それ以上何も聞かなかったのは、問い詰めてまで知る必要のないことだと判断した上でのことだろう。
それか、こちらの気持ちを汲み取ってくれたのかもしれない。
何にせよ、独影がそう思えるくらいに櫻世は人格者だった。
冷酷な一面や厳しい一面はもちろんあるが、歴代の忍頭と比べると櫻世は優しくて思いやりがある。
身内に対しては、だが。
それでも独影はそんな櫻世を慕っていたし、櫻世が忍頭になった後に上忍になってよかったとも思っていた。
部下の私事や私情にここまで気にかけてくれる忍頭がいただろうか。
こうして仕事外のことで面と向かって話し合ってくれる忍頭がいただろうか。
……多分、いなかっただろう。
(ここは櫻世さまに甘えよ〜っと)
櫻世を信頼していないわけだが、やはりこの件は結構繊細だろうし出来れば慎重にいきたい。
千染のこれからに関わることだから。
やや申し訳なく思いつつも、独影は櫻世の厚意に甘えて黙りを貫くことにする。
だが、そんな心境の独影をよそに、櫻世はほんの少し目つきを鋭くして視線を襖の方に向けた。
「そこにいないで、お前も話に混ざったらどうだ?」
先ほどまでとは違い、幾分か厳しさのある口調で誰かに話しかける櫻世。
櫻世のその発言と様子の変化に、独影はきょとんとする。
櫻世の言葉に応じるように、開いている襖の影から音もなく一つの影が出てくる。
姿を現したその影に、櫻世は依然として鋭い目つきをしたまま、そして遅れて襖の方を見た独影は少しだけ目を大きくする。
櫻世と独影の間にある蝋燭の火が、ゆらりと揺れる。
仄かな灯りが、開いた襖の間にいる影の姿を照らす。
口元を覆っている黒い覆面、暗めの白群色の髪。
そして、凍える冬を彷彿させるような冷たい目をした男。
冬風(ふゆかぜ)。
巣隠れ衆の上忍の一人だ。
(うわぁ〜……冬風さんいたんだ……)
全然気づかなかった。
と、悠然と佇みながら櫻世を見おろしている冬風を見て、独影は若干嫌な汗を垂らしながら思った。
「いえ……俺から話すことは特にないですよ」
冬風は目を細めて櫻世に投げられた言葉に応じる。
淡々とした感じでありながらも、どこか耳にじっとりと纏わりつくような声だ。
「ならば、何用だ?」
「依頼主から預かった文を櫻世さまに渡しに来たんですよ。で、何やらお話している最中でしたから、お邪魔しては悪いと思って待機していたんです」
懐から折りたたまれた紙を取り出して尤もらしい理由を述べてきた冬風を、少しの間黙って見ていた櫻世だが。
「文なんて渡せばすぐ終わることだろう。本当は千染の話が気になったのではないか?」
冬風の真意を見抜いたかのように、はっきりとした物言いで問いかける。
若干気まずそうな目で両方を交互に見る独影をよそに、冬風は鼻で笑う。
「そうですねぇ。櫻世さまの仰るとおり、気にならなくもなかったですね」
どこか捻くれた感じのある言い回しで、冬風は櫻世の発言を肯定する。
「ここ最近、仕事外での外出が多くなったかと思えば……まさか暗殺対象でも何でもない男を誑し込んでいたなんて。いやぁ、やはりさすがは寄磨さんの元弟子なだけありますねぇ」
寄磨(よとぎ)、と聞いて櫻世は少しだけ眉をひそめ、独影は顔から表情を消す。
その場の空気が、僅かに重くなる。
「あれ?俺、何かまずいこと言いましたか?」
わざとらしく、厭味ったらしく。
冬風は笑みを浮かべたまま、櫻世に問う。
「……千染は寄磨とは違う」
櫻世は静かな声で応じる。
「欲に飢えても、己の美に縋ってもおらん。……その発言、決して千染の前で言うな。よいな?」
が、最後辺りで威圧的な重々しい声色に変わる。
その声を聞いて、独影は表情を変えないでいながらも、ぞくりと背筋が寒くなるような感覚を覚える。
やはりいくら歴代に比べて優しいと言っても、櫻世が忍頭であることに変わりないことをわからされてしまう。
一方で、冬風はというと、怯えている様子も動じている気配も一切なく、くくっと声を押し殺すようにして笑った。
「それはそれは。櫻世さまの気分を害したようで、大変申し訳ありませんでした」
「わたしの気分なんぞどうでもいいことだ。それより、お前が千染の逆鱗に触れて殺されんかが心配だ」
「とかなんとか言って、本当は千染を傷つけるようなことをして欲しくないんですよね?」
「当たり前だ。あいつはああ見えて脆いところがあるからな」
櫻世の迷いのない返答に、冬風は口を止めて冷ややかに目を細める。
「いい加減、悪戯にちょっかいかけるのはやめろ」
それを見計らったかのように、櫻世はすかさず釘を刺すように言う。
櫻世の発言が何を意味しているのか。
櫻世が、何を、どこまで、知っているのか。
おおよそ察した冬風は、首を少しだけ傾げ、冷たく笑った。
「すいませんね。俺好みですから、つい」
またもや意味ありげな返答をすると、冬風は数歩前に出て跪き、持っていた文を櫻世の前に置く。
そして、静かに立ち上がり、踵を返して座敷を出ようとする。
その際に、冬風の目が……独影の方に向いた。
冷たい、吹雪が吹き荒れ、凍えるような冬の色をした瞳が、独影を捕らえる。
何か言いたげな、何か思っていそうな、そんな目。
いやに突き刺さる視線。
だけど、独影は素知らぬ顔をして、冬風から目を反らした。
すっとぼけたような反応をしてきた独影に、冬風は冷ややかに目を細める。
そして、視線を前に向き直すと、そのまま溶けるように影の中へと消えていった。
座敷内に、音一つない静寂が漂う。
視線を落としたまま黙り続ける櫻世と、そんな櫻世を見ながら同じく無言でいる独影。
しばしの何も無い時間だけが流れていく。
そして、反対側の障子の外から小さな風の吹く音が聞こえたところで、櫻世はふぅと力無く息を吐いた。
「すまないな。嫌なことを聞かせてしまった」
「あ、いえいえー。大丈夫です。それに冬風さん、昔からあんな調子ですから慣れっこです」
櫻世が喋ったということは、冬風は完全にここから去ったということなのだろう。
そう判断した独影は、櫻世に合わせて口を開く。
「冬風のあの骨の髄まで歪みきった性格は、一生直らんだろうな……」
「ま〜あの人も色々あったんですよ、きっと」
それはそれとして、千染に変な絡み方しないで欲しいんだけどなぁ。
と、独影は心の中で付け加える。
「あ〜でも冬風さん、あの様子だと若医者くんの話聞いていましたよね〜。茶々入れて来ないといいんですが……」
「気づくのが遅かったわたしの責任だ。冬風が妙な動きを見せたらわたしか雹我に言ってくれ。対処する」
「え?いや、そんな……」
「若医者と千染の繋がりを途切れさせたくないのだろう?」
櫻世の問いに、独影は思わず目を大きくする。
独影の反応を見て、櫻世は優しい目つきで笑う。
「お前がそこまで気にかけるほどだ。その若医者は、千染にとっていい相手なのだろうな」
櫻世が夜雲についてしつこく言及してこなかったのは、必要がないからとかこちらの気持ちを汲み取ったからとかではなく。
「それならわたしが干渉する必要もないだろう。静かに見守ることにする。が、困ったことがあれば相談してくれ。善処する」
自分を信頼しているから、と独影は気づく。
その瞬間、独影は嬉しさやら照れ臭さで胸がいっぱいいっぱいになった。
胸の中にある感情があふれて、抑えきれず顔に出そうになってしまう。
まずい、表情筋が緩んできている。
さすがにその姿を見せたくないと思った独影は、慌てて立ち上がった。
「は、はい!ありがとうございます!いやー櫻世さまに話してよかったです〜、あっはっはっ!それじゃあまた何かありましたら、お伝えしますね!ではではおやすみなさい!」
「あ、ひと……」
名前を呼ぶ間もなく、その場から瞬時に消えた独影に、櫻世は何度も大きく瞬きをする。
仄暗い座敷に、櫻世と僅かばかりの灯りの元である蝋燭だけが残る。
独影がいた場所をしばらく見ていた櫻世だが、小さく息を吐いて肩の力を抜き、宙を仰ぐ。
(……そうか)
櫻世の脳裏に、遠い昔の光景が過る。
二人分の温もりがある布団に包まれ、自身の腕の中で小さく震えていた赤髪の子ども。
そして、次に過ったのは、飛び交う血飛沫で赤く染まり、傍若無人に殺戮を繰り返す赤髪の忍の姿。
その光景に、櫻世の表情に陰りが落ちる。
だが、
(……あの千染に、か……)
まだ見ぬ若医者の存在に、櫻世の表情から陰りが瞬く間に消える。
口角が自然と緩やかに上がる。
そして、何もない宙を見据えている深い青の瞳に、どこか安堵を思わせるような色を覗かせながら、櫻世は燭台と文を手にとってその場からゆっくりと立ち上がった。