相異相愛のはてに






三度の夜。

約束の夜。

千染は来なかった。



その翌日の昼下がり。
晴れ渡った空の下、夜雲は家の近くにある井戸で水を汲んでいた。
縄を引き、澄んだ水が入った桶を手に取って、家の中に入っていく。
しばらくして、今度は底の浅い桶を持って、夜雲は出てきた。
ちゃぷちゃぷと桶の中にある水が、夜雲の歩調に合わせて揺れる。
だが、中にあるその水は先ほど持って入ったのは違い、薄っすらと赤みがあった。
夜雲はその水が入った桶を家から少し離れた木の根元に持っていく。
水をそこにかけるわけではなく、桶ごとそれを置いて、家に戻っていく。
中に入って、戸を閉めて、またしばらくして薬箱と医療道具が入った籠を背負って、夜雲は花咲村へと下りていった。



それから夕方になって、夜雲は花咲村から戻ってきた。
木々の間から差す夕暮れ色の道なき道を通り抜けて、家の前まで来た夜雲は、昼に桶を置いた木の方に顔を向ける。
すると、その根元には……一匹の猫と二匹の猿が桶を囲うようにして、死んでいた。


夜雲はその光景を見ていた。

じっと、じぃっと。

何の感情も宿さない藤色の瞳で。


桶に入っていた薄赤の水。
それは布団についていた血を抽出したものだった。
その血はもちろんながら千染の血。
前の夜、行為の最中に吐き出した血だ。
あの日、あの夜、突然血を吐いた彼に、夜雲は固まった。
それは、驚いた、と言ってもいいだろう。
苦しそうに咳き込みながら血を吐く千染を、夜雲はとりあえず見ていた。
見て、観察していた。
病気であるか、否か。
後ろから千染の肌色を見て、咳の音や呼吸音を聞いて、見定めていた。
そして、熱の有無を確かめようと彼の額に手を当てようとした時。



ーーーしに……たく、ない……。



声が聞こえた。
途切れ途切れの、苦しそうな彼の声。
それを聞いた瞬間、夜雲は手を止めた。



ーーーこんな……、こんな……しにかたっ……いや……。



彼は確かに。



ーーーこんな……、こんなの……。



泣いていた。



ーーーいやだ……、いやだぁ……っ、こんな……。



布団を掻くように握りしめ、肩を小刻みに震わせ、すすり泣いていた。
ずっと、心ここにあらずだった彼が。
初めて、見せてきた……心の一部。
心のままの姿。


夜雲の手は、彼の額ではなく、彼の体に回っていた。
後ろから、彼を抱きしめた。
欲の赴くままではなく、優しく、包み込むように。
彼の体の震えが止まるまで、ずっと抱きしめ続けた。


その時のことを思い出しながら、夜雲はしゃがみ込んで、桶の周りにいる死骸を見つめていた。
眺めるように、観察するように。
そして、


「………“忍法”ってやつ……かな」


考えて、導き出した答えを、ぽつりと呟く。
その呟きに応じる者なんているわけもなく、代わりといったようにひんやりとした風が吹いていく。
夜雲の灰色がかった白髪が、ふわりと揺れる。
しばらくして、夜雲は死骸から目を離して、また思い出す。
あの夜のことを。

千染の口元を、近くに脱ぎ捨てていた帯で拭って、それから今度は優しく抱いた。
彼の名前を何度も呼んで、ごめんと囁いて、頬や瞼に唇を落として、優しく優しくまぐわった。
その時には薬の効果も大分薄まっていたはず。
彼自身、疲れきっていて、意識も朦朧としていたはず。
だけど、途中で、彼は……首に腕を回してきた。


抱きしめてきたのだ。


覚えている、しっかりと。
自分の下にいる彼に引き寄せられたあの瞬間を。
体と体が密着した時に感じた熱を。
その時のことを思い出して、夜雲は頬杖をつくように頬に手を当てて、相変わらず無表情でありながらも、どこかうっとりとしているような目をした。
頬に仄かな紅色が浮かぶ。
茜色の空が、だんだんと夜の色に染まっていく。
一番星がきらりと光った頃に、夜雲ははっとしたように頬から手を離す。
三つの死骸と桶が視界の隅に入る景色を少しの間見つめた後、いつもの感情らしい感情が見えない目に戻り、ゆっくりと立ち上がる。
それに伴って、表情に僅かばかりの陰りが落ちる。


「………」


夜雲が今何を考えているのか。
それは夜雲にしかわからないが、大方、昨日の夜千染が来なかったことを気にしているのだろう。
多分。
夜雲は顔を静かにうつ向かせる。
力無く垂らしていた手に、微かな震えが帯びる。
その震えはだんだんと大きくなり、夜雲の唇までもが震え出したところで、彼は振り切るかのような動きで顔に手を当てる。
片手で自身の顔を覆う。
もう片方の手は拳を作った状態で震える。
夜雲の口から、荒い呼吸音が出る。
肩を上下に動かし、その呼吸音に紛れて、泣いているようにも笑っているようにも聞こえる声が漏れる。
手が赤くなるくらい、拳を強く握りしめる。
吹いてきた風に乗せられて、周りにある木々がざわざわと騒ぐ。
星が一つ、また一つと夜空に輝きを灯す。
不安定な呼吸を繰り返す夜雲が、今どんな表情をしているのか。
彼の顔を覆っている手のせいでわからない。
だけど、手の下から少し覗いている口の端が……。
微かに……ほんの微かに上がっているかのように見えた。


しばらくして、夜雲の呼吸音が静かになっていく。
手や肩の震えもなくなり、顔を覆っていた手も……するりと落ちるように離れていく。
そこから現れた夜雲の顔は……いつも通りの無表情だった。
何の感情の起伏も感じさせない目で、夜雲は目の前の景色を見つめる。
夕暮れの色から夜の色に染まった景色を。
どこからともなく夜鳥の鳴き声が聞こえる中、夜雲は静かな動きで視線を落とし、薄赤の水が入った桶と三つの死骸を見る。
そして、それの元に歩み寄り、後片付けを始めた。
桶の中にある水をそこらへんに撒き、鍬を取りに家へと戻る。
鍬を片手に再び出てきた夜雲は、死骸が転がっている木の根元に来ると、鍬を使って手際よく穴を掘っていく。
適当な深さまで掘って、鍬を近くに突き刺すと、死骸を掴んでその中に放り込んでいく。
何の躊躇いもなく。
物を捨てるかのように。
再び鍬を持って、死骸の上にどんどん土を被せていく。
被せて、軽く叩いて土を固めたところで、夜雲は鍬を持ったままゆっくりと空を見上げる。
半月より少しふっくらとした月と、夜空中に散りばめられている星が、夜雲の目に入る。
きらきらと、星が輝く空を見上げながら、夜雲は最後に見た彼を思い出す。


いつになく、否、初めて感情を露にしてきた彼。
怒っていた。
表情からして、声色からして、怒りをむき出しにしていた。
あの様子だと、夜の記憶が僅かばかりに残っていたのだろう。
そして、その記憶の中にある自分が、気に食わなかったのだろう。
どこからどこまで覚えていたのかはわからないが、とにかくそんな自分を無理矢理引き出したこちらのことが許せなくなったのだろう。


(………でも、仕方ないじゃないか)


こうでもしないと、きみはきみを見せてくれないから。


とか思いつつ、夜雲の藤色の瞳が、暗く、沈む。
次の夜は明後日。
彼は来てくれるのだろうか。
もし、このまま来なかったら………。


「………千染くん……」


いつになく掠れた声で、夜雲は彼の名前を呟く。
暗がりが広がる木々の奥から、夜鳥の羽ばたく音が聞こえてくる。
夜雲は鍬を持っている手をだらりと力無く垂らすと、踵を返して、家に向かう。
静かな足取りで、一歩、また一歩と。
そして、特に何かするわけでもなく、家の中に入り戸を閉めた。





その一方で、屋根の上には一羽の烏がいた。

いつからいたのかはわからないが、烏は夜雲がいた場所を見下ろしていた。

まるで、そこであった一部始終を見ていたかのように。

しばらくして、烏は顔を上げる。

そして、漆黒の翼を広げ、数多の星が輝く夜空に向けて羽ばたいていった。




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