相異相愛のはてに






忍として生きてきた。

生まれた時からずっと、忍としての在り方を叩き込まれて、それを受け入れて、浸透させて、生きてきた。

故に。

心はあって、ないようなもので。

感じることはあっても、思うことはあっても、忍のそれには何の価値もない。

何の意味もない。

何の役にも立たない。

影で生きて影で死ぬ者の心なんて、知るだけ無駄だ。

代わりがいくらでもいる、いずれは必要ですらなくなる消耗品の心なんて。

そうとわかっているから。

わかりきってるから、どうでもよかった。

……どうでもよくなった。

とりあえず生きているから、忍として仕事を全うして。

忍の唯一の特権とも言える殺しを楽しんで。

肉を斬る爽快さとほとばしる血を好んで。

いつか必ず訪れる死をなんとなく待っていた。

“仇討ち”という存在に、ほんの少しの期待を寄せて。


………そう。


自分は死ぬ。

忍だから、寿命を迎えることなく死ぬ。

死ぬつもりだった。

心を、自分の中の自分を晒すことなく、死ぬはずだった。

自分の心根を知らないまま、心の底に沈めた己の声を無視出来たまま、死ねるはずだったんだ。

なのに、なのに。

どうして。

こんなはずでは。





***




結論的に、千染はめちゃくちゃにされた。


夜雲が作ったらしい特別な媚薬が仕込まれた饅頭によって、呆気なく理性を壊されて、明け方まで彼に抱き尽くされた。
障子窓から差してきた朝日と小鳥の囀りによって目が覚め、箪笥の前で着替えている夜雲を見るなり尋常じゃないほどの殺意が瞬く間に込み上げた。
起き上がってすぐに傍らに畳まれていた忍装束から棒手裏剣を取って、夜雲に投げた。
夜雲はまるでこちらの行動がわかりきってたかのように、難なく避けた。
それが余計に気を逆撫でてきた。
今すぐ殺してやると小太刀を取ろうとしたが、腰に走った一瞬の激痛に動きが鈍り、その隙を見計らったかのように夜雲が素早く詰め寄ってきて、自分の腕を掴むなり畳に押さえつけてきた。
殺意を込めて夜雲を睨んだ。
いつもの無表情が、この上なく腹立たしかった。


「……怒ってるの?」


当たり前だろ、と怒りを込めた低い声で返した。
こんな感情的な声、自分でも出せたのか。


「そう……。ごめん。でも、どうしてもきみを知りたかったんだ」

「だって、きみ」

「ぼくに抱かれてる時も……なんて言えばいいんだろ。余裕そうというか……、別のこと考えてるというか……」

「だから薬に頼らないと無理だなって。忍のきみに効くかちょっと不安だったけど、効果抜群でよかった。海の向こうでもらった貴重な材料を使った甲斐があったよ」


夜雲の発言を聞けば聞くほど、握った拳が震えた。
どうしようもない怒りで震えた。


「……。……千染くん」

「相当怒ってるね」


ぶん殴りたい。
斬り刻みたい。
この能面のように変化のない顔を。


「ごめんね」

「でも、好きなんだ」

「きみが好き。きみを知りたいし、きみの全てが見たい」

「だから、とりあえずこうするしかなくて……」

「………」

「………千染くん」


糞餓鬼。
色情野郎。
盛りのついた猿が。
死ね、消えろ。
震える口から出ることのない罵詈雑言が、次から次へと思い浮かぶ。


「火に油を注ぐようなことを言うかもしれないけど」

「きみも……きみ自身を知るべきだと思う」

「きみの心に目を向けるべきだと思う」


うるさい。


「ぼくはありのままのきみを知りたいんだ。見たいんだ」

「そのためには、まずはきみがきみの本心を受け入れないと」


うるさい、うるさい。


「どうせ……そう遠くない未来、この日の本は平和になる」

「大きな戦いはなくなる」

「きみが刃を振るわなくてもいい世になる」


うるさい、黙れ。
忍でもない、生まれた時から日の下でのうのうと生きてきた糞餓鬼が。
ほざくな。
知ったような口を利くな。


「千染くん……。ぼくは……」


もう、聞くに耐えれなくて。
怒りで本当にどうにかなりそうで。
気がつけば、夜雲の腹を蹴り飛ばして、忍装束と小太刀を掴んで障子窓から飛び出ていた。






そんなこんなで今に至る。
千染はとある洞窟の中にいた。
洞窟の出入口には滝が止めどなく流れ落ちていて、水の壁を作っている。
薄暗い洞窟内に響く滝の音を耳にしながら、千染は抱えている膝に顔を埋めていた。
もちろん忍装束をちゃんと着た状態で。


(………)


何をされても何ともないはずだった。
とりあえず様子見で、やりたいようにさせて、そういう行動とるのかって。
そんなこと言うのかって。
そんな感覚で終わるはずだった。
幾度の逆境も乗り越えて、幾度の拷問も耐えてきて、地獄と思える場面に何度も出会して、それを通り抜けてきた自分が、夜雲というたかが一人の若医者のやることに翻弄されるわけない。
心を揺さぶられるわけない。
ましてや感情的になることなんて。
そう思っていた。
そう思っていたから、わざと罠にかかってやった。
ちょっとした好奇心と新鮮なものを感じたいから、あの饅頭を口にした。
夜雲のやりたいことに付き合ってやろうという感覚で。


だから。


……だから、別に、いつものように平然とすればいいだけなのに。
ちょっともやもや考え事をしたとしても、結局はどうでもいいとあっさり切り捨てればいいだけのに。


今回は……今回ばかりは、そうはなれなかった。


渦巻く感情が鎮まらない。
胸の中がずっと忙しなくざわついている。
どうでもいいといつものように思いたいのに、どうでもいいと思えれない。
らしくもなく、そうなってしまう原因は、当然のことながら昨夜のことにあった。
薬のせいで記憶が完全にぶっ飛んでるならまだしも、多少なりとも最中の記憶が頭に残っているから、千染は現在の状態になっていた。
断片的でありながらも、確かにある記憶。
押し寄せてくる熱の波に抗えず、もはや抵抗の意思すらも見せる余裕もなく、夜雲の手によってよがり狂っていた記憶。
別に、快楽に溺れている姿を見せることに抵抗はない。
それに対して、今更恥じらいもくそもない。
問題は、その最中の自分の反応だ。
発言だ。


夜雲の責めは容赦なかった。
こっちが急激な性欲の高まりにのたうち回りそうになってるにも関わらず、いつものように、否、下手したらいつも以上に触って、撫でて、舐めて、吸って、身体の隅から隅まで貪ってきた。
夜雲の手が、指が、舌が、唇が、肌を這えば這うほど、濡れそぼった部分に触れれば触れるほど、あまりの快感にどうにかなりそうだった。
脳天を突き抜けるような強い刺激に、狂いそうだった。
逃げたい、けど欲しい。
逃げたいのに、身体は夜雲を求める。
夜雲に抱かれたくて、犯されたくて、その昂りに貫かれたくて、身体が勝手に開く。
身体が勝手に、夜雲を許す。
その時に見た夜雲は、顔が少し汗ばんでいて歪んでいた。
快楽に耐えている様子だった。
それだけでもゾクゾクとした。
あの感情をなかなか表に出さない鉄仮面のような顔が、こんな淫らに歪むなんて。
結局、夜雲が食べた方の饅頭に媚薬が入っていたのかはわからない。
相手の表情の変化ですら快感を拾うようになっていた自分に、そんなことを考える余裕もなかった。
夜雲は何度も呼んできた。
千染くん、千染くん、と。
熱を帯びた声で、自分の名前を何度も。
その合間に、好き、きみが好きだ、好きなんだ、と言ってきた。
耳元で囁くような声。
それすらも身体中に熱をより強くするには十分だった。


もうだめだった。

もう無理だと感じた。


いつ頃そう思い始めたのかは、わからない。
けど、確か、そう。
夜雲が体位を変えて、今度は後ろから責めてくるようになった時。
急に頭の片隅辺りが冷えた。
開いた口から涎を垂らし、熱い吐息と共にやらしい声を漏らして。
何度も突き上げてくる熱に揺れる体を腕で支えて、熱で溶けているような景色を見つめながら、本能的に思った。


死ぬ。

死ぬかもしれない、と。


その瞬間、口から出たのは、否定の言葉だった。
拒絶の言葉だった。



嫌だ、嫌。

やだ、やだ。

死にたくない。

死にたくない。

いやだ。

こんな死に方はいや。



確かに。
自分はあの時、そう言った。
そんな感じのことを言った。
もがいて、叫んだ。
それと同時に、夜雲の動きも止まった気がする。
そして、腰にあったはずの彼の手が、指先が頬に触れかけた直後。



血を吐いた。

猛毒と化した血を。



自分の意思関係なく、忍法が勝手に発動した。
何が原因でかはわからない。
強過ぎる快楽のせいか、防衛反応か。
とにかく毒血を吐いた。
咳き込みながら、それなりの量を。
体位が体位だったおかげで、幸いにも夜雲にかかることはなかった。
いや……こっちにとっては不幸にも、か。
その時の夜雲が、どんな反応をしていたのかわからない。
安易に血に触れようとしなかった辺り、やはり勘は鋭いと言えよう。
だからこそ、腹立たしい。
もし夜雲がその血に触れていたら、自分が多少なりとも冷静さを取り戻して夜雲を忍法で仕留めていたら。
この先の光景を見られることなかったのに。
知られることなかったのに。
夜雲も、自分も。


血を吐ききった後、わたしは身を縮めてみっともなく泣いた。

死にたくないとまた言った。

覚えてる、知っている。

こんな死に方は嫌だ、と。

泣いて。

同じことを、今度は懇願するように言った。


確かに言った。
覚えている。
記憶に残っている。
だから、今、叫びたい気持ちになっている。
わたしが、忍が、死に方の選り好みをするなんて。
情けなく泣いて、懇願するなんて。
あってはならないことだ。
あり得ないことだ。
これは絶望か、失望か。
とにかく、あの時の自分を思い出せば思い出すほど、気がどうにかなってしまいそうだった。
しかもその姿を、あの男に見られている。
最悪以上の最悪だ。
あの男が腹立たしくて憎らしくて殺したくて仕方ない。
やはり逃げずに殺せばよかった。
あんな無様な姿を晒すなんて。
わたしが、わたしが、このわたしが。
あんな餓鬼に。
あの後の記憶はない。
いや、それ以外の記憶が残ってない。
だから余計に、狂いそうになる。
その記憶外のわたしがどんな反応をしていたのか、何を言っていたのか。
そして、その全てをあの餓鬼が見ている事実に。
想像もしたくない。
記憶にある部分だけでも、どうにかなってしまいそうなのに。



どうでもいい。
どうなってもいい。
そう思いたいのに、思えれない。
いつものように、流れるままに現状を受け入れたらいいのに、受け入れたくない自分がいる。
むしろ、どうして。
なんで、自分はあんなことを言ったのか。
言ってしまったのか。
あんな醜態を晒したのか。
疑問と同時に苦しくなる。
頭を抱えたくなる。


(………あいつが……悪い……)


膝に顔を埋めたまま、千染は思う。
握った拳に力が入る。


(あいつが……あの男が悪いんだ……。全部全部あいつのせいだ……)


今のこの状態を、心境を、全て夜雲のせいにする。
もう考えたくなくて、思い出したくなくて、少しでも気を紛らわしたくて、怒りの矛先をとにかく夜雲に向ける。


(親を殺した仇を好きになる罰当たりの気狂い男が……、知ったような口を利きやがって……っ)


明け方に夜雲から言われた言葉も思い出し、千染は胸の内で悪態をつく。


(くそっ……くそ……っ、ちくしょう……っ)


千染は下唇を噛みしめる。
血が滲み出るほどに、強く。


(死ね、死ね……死ね死ね死ね死ね……っ)


どうしてこんなにも感情が落ち着かないのか。
心が冷めないのか。
胸の中が、ずっと荒れ続けているのか。


(こっちが従順にしていれば調子に乗りやがって……)


千染はわからない。
否、わかろうともしない。


(死ね、死ね、手足もがれて虫に身体中を食われて死ね……)


今感じるのは、夜雲に対する憤り。
ただそれだけ。


(死ね……っ、………)


滝の流れる音だけが、薄暗い洞窟に響く。
千染は顔を上げる様子もなく、ずっと蹲る。
肩を小さく震わせ、荒れ狂う心を抱えたまま。




次の三度目の夜。


千染が夜雲の家に行くことはなかった。




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