相異相愛のはてに
さて、今夜はどんなことがあるのやら。
半月が浮かぶ夜。
千染は夜雲の家に向かいながら、なんとなく思っていた。
木から木へと飛び移り、花曇山に入っていく。
首に襟巻きは巻かれておらず、代わりと言わんばかりに首元まである黒色の薄手の下着を忍装束の下に着込んでいた。
夜雲の家の近くまで来たところで、千染は足を止める。
(………)
夜影に染まっている木々に間から覗く夜雲の家を見つめながら、千染は前のことを思い出す。
夜雲に告白されたことを。
好きという意味でも、親殺しが事実という意味でも。
それらを全て伝えた上で、今宵の夜雲は何をしてくるのか。
どんなことを言ってくるのか。
いまいち想像がつかなかった。
一応、こちらは会話を持ちかけれたら持ちかけるだけで、他は今までと変わりなくといった感じに接するつもりだが……。
(やっぱり憎いから殺す!……とはなりませんよね)
殺意のさの字もない様子の夜雲の姿を思い浮かべながら、千染は淡々とした感じに思う。
(まぁとりあえず行ってみましょうか)
ここで考えたって時間を浪費するだけですし。
前に思考を整理したおかげか、千染は特に深く考えることなく、あっさりとした様子で彼の家に向かった。
夜雲は相変わらずだった。
相変わらず、文机に向かって日々の記録をしたためていた。
強いて変わっていると言えば、文机の隅に小さな木箱が置かれていることだけ。
それだけだった。
「……こんばんは」
開いている障子窓から入った千染は、とりあえずといった感じに挨拶をする。
夜雲は彼の声に反応して、筆の動きを止め、顔を上げる。
「あ……」
夜雲の口から声が漏れる。
微かな驚きを表したかのような声。
ここでいつもと違う様子を見せてきた夜雲に、千染は少しだけ意外そうにする。
もしかして、まさかと思うが……。
自分の気配に気づいていなかったのか。
夜雲の反応からして、千染はなんとなくそう察する。
蝋燭の灯りだけが頼りの仄暗い部屋の中、沈黙が流れる。
気まずいような、そうでもないような、そんな何とも言えない空気の中、夜雲と千染は互いに互いを見続ける。
「……こんばんは」
しばらくして、夜雲は挨拶を返す。
いつもの抑揚のない声で。
「来てたんだね。気づかなかった……」
そして、千染から目を離しながら呟く。
どうやら千染の推測は当たっていたみたいだ。
家の外からでも気配を察知するこいつが珍しい。
と、千染は思う。
だが、前回のこともあり、さすがの夜雲でもいつも通りというわけにはいかなくなっただろう、と予想する。
(一応こいつなりに思うことがあったのでしょうかね……)
千染が平然とした様子を装いながら夜雲の観察をしている一方で、夜雲は筆を置いて再び千染を見て、彼の首元に視線を落とす。
「……首」
「首?」
「……下の服、変えたんだね」
いきなり首がどうしたと思っていた千染だったが、彼の発言を聞いてああと気がつく。
「これなら首が隠れますからね」
「……この前あげた襟巻きは?」
「売りました」
夜雲の口が止まる。
「上質な素材で作られた襟巻きでしたので。わたしが使って傷物にして価値を下げるより、すぐに金にした方が得だと思いましてね」
と、柔らかな笑みを浮かべて売った理由を述べる千染。
だが、実は嘘である。
実際に売ろうとは考えていたが、一昨日、夜雲からもらったその襟巻きを首に巻いた状態で独影の襟巻きを返しに本人がいる長屋に行ったら、ちょうど心ノ羽が彼の家にお邪魔していて。
「うわぁ!?千染さまだぁ!きょ、今日は悪口言ってませんからね!?あ、今日もです!今日“も”!!」と毎度の如く鬱陶しい反応をしてくる心ノ羽の傍らで、自分の首元を見るなりにやにやとしてきた独影がまた更に鬱陶しくて。
「おー千染ぇ。随分といい襟巻きしてんじゃねぇか。買ったのか?もらったのか?あ、買ってもらったのか?」とわざとらしい質問をしてくる独影に対し、「え!?あ、ホントだ!綺麗な色の襟巻きしてますね!お似合いですよ!」とにこにこ笑って独影の言葉に乗る心ノ羽。
二人のその鬱陶しさたるや。
もしかしたら過去一だったかもしれない。
「しかも買ってもらったのですか!?よかったですね!誰に買ってもらったんです?依頼主さまからですか?千染さま、意地悪ですけど仕事の腕だけは完璧ですからね!」という心ノ羽に対し、「心ノ羽ちゃん心ノ羽ちゃん、あんま余計なこと言うとまた千染にいびられるぜ〜?あとで俺が色々教えてやるから、ここは一旦しーっな」と心ノ羽に耳打ちする独影。
あまりの不愉快さと居心地の悪さに、千染は独影の顔面に彼の襟巻きを思いきり投げて、その勢いで首に巻いていた襟巻きも外して心ノ羽の顔面に投げた。
そして「その襟巻きはそこらへんで拾ったものですからあげますよ」と吐き捨てて、出ていった。
そう、つまりは心ノ羽にあげてしまったのである。
実際彼女はその翌日、「千染さまがくれたんです〜」と首に巻いてる襟巻きを指差して、里外れの林で共に朝練していた芙雪に伝えていた。
それを聞くなり芙雪はその襟巻きを取り上げて「毒が仕込まれてるかもしれない……!」と言って、心ノ羽の前から去っていった。
心ノ羽は驚いて「芙雪さま!?芙雪さまどこへ行くんですかー!?」と言って、遅いなりに追いかけていっていた。
夜雲からもらった襟巻きを見たのは、それっきりである。
多分もう二度と見ることはないだろう。
(とはいえ、わざわざこんなくだらない理由を言う必要もありませんし、売ったと言えば納得いくでしょう)
もらったものをどうしようがこちらの自由ですし。
と、千染は淡白に思う。
その一方で、口を閉ざして千染を見ていた夜雲は、静かに沈むように、視線を落とした。
「………そう」
千染の足元を見て、短く返事をする。
その声はいつものように単調でありながらも、どこか仄暗いものを感じさせた。
「もしかして後々返してもらうつもりでしたか?」
千染は聞く。
「それでしたら申し訳ありません。てっきり、くれたものかと思っていましたので」
わざわざ襟巻きのことを聞いてきたということは、返して欲しかったのだろうか。
どこか気落ちしているように見える夜雲の様子に、千染はそう察する。
とはいえ、あげると言ったのはそっちなのだから責められる覚えはないが。
なんて思っているうちに、夜雲が口を開いた。
「……返してもらおうなんて全く思ってなかったよ」
視線を落としたまま、夜雲は呟くような声で言う。
「きみの言うとおり、あの襟巻きはきみにあげた。……きみに使って欲しくて」
「……そうですか。でしたら、問題ないのでは?」
「………」
千染の反応に、夜雲はまた口を閉ざしてしまう。
無言になった夜雲を見て、千染は少しだけ首を傾げる。
襟巻きをもらって、お望みどおりその襟巻きを使った。
だったら、もうこの話は終わりではないか。
なのに、どうしてこいつはこう……なんて言うのか。
暗くなってると言うか、なんとなく不服そうな感じなのか。
そう疑問に思いながらも、千染は夜雲の反応を待つ。
程なくして。
「……そう」
夜雲は呟く。
今度はどこか納得しているような声で。
「なるほど……。まぁ……そうか。そうだよね」
どこか諦めてるような、どこか自嘲しているような声で。
夜雲の声があまりにも小さくてよく聞き取れず、千染は少し訝しげにする。
夜雲はまた口を閉ざすと、静かな動きで顔を文机の方に向ける。
そして、視線の先にある木箱をそっと手に取って立ち上がり、部屋の真ん中に座った。
「来て」
「………」
夜雲は自分の前を軽く叩いて、千染に言う。
夜雲の手にある木箱を気にしつつも、千染は素直に彼の言葉に従う。
障子窓から離れて夜雲の前まで来た千染は、彼と同じように正座をする。
向き合うように正座をした状態で、二人はお互いを見る。
千染を少しの間見つめた後、夜雲は視線を落として持っていた木箱を前に置く。
そして、木箱の蓋を開く。
すると、その中には……白い饅頭が入っていた。
(……饅頭?)
木箱の中に一個だけ入っているそれを見て、千染は怪訝そうにする。
それがどうしたのか。
どうするつもりなのか。
と、千染の疑問に応じるかのように。
「これ、作ったんだ」
夜雲はいつもの抑揚のない声で言う。
「きみと一緒に食べようと思って」
そう言って、箱の中にあった饅頭をゆっくりと取り出す。
その発言を聞いて、千染はすぐに察する。
この饅頭に何か仕込まれているのではないかと。
じゃないと、不自然だ。
こんな急に、饅頭を一緒に食べようだなんて。
しかも手作りなんて、何か入れていますと言っているようなものではないか。
やり方が稚拙というか何というか。
それに……。
「言っておきますが……、わたしに毒は効きませんよ」
先手を打つように、千染は微かな笑みを浮かべて夜雲に己の体質を伝える。
それを聞いた夜雲は、手にある饅頭から目を離して千染を見る。
「忍は幼い頃から毒を少しずつ飲んで耐性をつけさせる……という話を知りませんか?」
「………」
「まぁ全ての忍がそうであるわけではありませんが、残念なことにわたしはそれに該当している上に更に特化されたものでありまして……。毒という毒は全く効かないのですよ」
当然のことながら、それは千染の忍法に大きく関係していた。
胃に溜めた血を猛毒に作り変える忍法。
どんな猛者も一飲みで即死させるほどの猛毒を胃に留めていても、性欲が高まるだけで他は何の支障も来さない。
だから効かないのだ。
効くわけないのだ。
そんな猛毒に耐えうる胃が、体が、外部から入ってきたありきたりな毒に負けるわけがない。
実際、食べ物に毒を盛られたり、毒が塗られた矢が腕を掠めたこと等あったが、全く効かなかった。
だから、無駄だし無理なのだ。
自分を毒殺しようだなんて。
仕込まれてるのが毒と決まったわけではないが、それでも千染は先に伝えておこうと思った。
夜雲の反応も見るために。
ここで動揺の色が少しでも見えたら、仕込まれているのが毒とほぼ確定する。
そうとなれば、やはり。
好きと告白しておきながら、なんだかんだ許せないのではないか。
親を殺されたのが。
と、そんな感じに考えながら夜雲を見ていた千染だったが。
「……毒なんて入れてないよ」
夜雲の口から出たのは、否定だった。
しかもその口調は、明らかに不機嫌そうだった。
仕込んでいるのが毒だとバレたから不機嫌、という感じの不機嫌さではない。
なんというか、強いてあげるならば……拗ねている、というのだろうか。
その言葉が一番しっくりとくる感じの反応だった。
夜雲の様子を見ていた千染は、少しの間を置いて、微笑を浮かべたまま口を開く。
「……何を怒ってるのですか?」
「別に怒ってないよ。怒ってないけど……ちょっと気分悪くなった、かも……」
「何故?」
「………言ったよね?きみが好きだって」
夜雲の言葉に、千染は思わず口を止める。
「好きな人に毒を盛るわけないじゃないか」
「……」
「でも……ぼくがこれに毒を盛っていると思ったということは、きみには伝わってなかったんだね。ぼくの気持ちが……」
不機嫌そうな口調からいつもの落ち着きのある口調に戻り、夜雲は饅頭を半分に割る。
そして、その半分を自分の口の中に入れた。
大した大きさではないため、少しの咀嚼だけで、夜雲はそれを飲み込む。
その一部始終を、千染は冷静に見つめる。
饅頭の半分を食べた夜雲は、千染を見る。
「まぁ……あの程度では伝わらないよね」
千染に語りかける……というより、独り言のように夜雲は呟く。
「だから、もっとわかりやすく伝えないといけないんだよね。それに……ぼくはきみのことを知りたい」
そう言って、夜雲は残った半分を千染に差し出す。
「きみの全てを見たいんだ」
真っ直ぐこちらを見つめてそう言っていた夜雲を、千染は笑みを消して見つめ返す。
少しの静寂。
いつもと変わらぬ無表情で自分を見つめる夜雲を見ていた千染は、視線を落として彼の手にある半分の饅頭を見る。
「正直に言うよ。毒は盛っていない。けど、それ以外のものは入れているよ」
「………」
「でも危険なものじゃない。そもそも危険なものだったら食べてないしね」
確かに。
夜雲が饅頭の半分を食べたところを今さっき見た。
確かに彼は口に入れた饅頭を飲み込んだ。
となれば、命を落とすほどの危険性はないのだろうが……、この饅頭がただの饅頭ではないことに変わりはない。
一体何を入れているのか、と……聞きたいところだが。
相手がこうして何の躊躇いもなく、見せつけるようにして食べてきたのだ。
ならば、それに自分も応じるべきか。
そもそも飽きるまで夜雲のやることに付き合うと決めたのは自分だし。
ここで変に警戒するのもおかしな話か、と思った千染は、差し出された饅頭に手を伸ばす。
「……わたしの全てを見たい、ですか」
静かな声でそう言いながら、千染は饅頭を摘まんで受け取る。
「もう十分見ているはずですけど」
指先で摘んでいる饅頭を、観察するように見る。
見た目だけは、特に何の変哲もない饅頭だ。
「……見ると言っても、それは姿形に限った話じゃないよ」
夜雲は千染の様子を見ながら、彼の言葉に応じる。
「そうですか」
千染は特に興味を示す様子もなく、短く言葉を返すと、観察していた饅頭を口元に持っていく。
そして、それを口の中に入れて、少しの咀嚼の後……飲み込んだ。
千染の喉が動いたのを見て、夜雲の目が微かに細くなる。
(……味は普通にただの饅頭でしたね)
特に苦みや酸味もなかった饅頭に、何が仕込まれていたのか。
夜雲が食べれたということは、危険性が高いものではないのだろうが……。
だとしても、毒が通用しない自分に食べさせて意味があるのか。
本当に、ただ一緒に同じ饅頭を食べただけになるのではないか。
………この男は何がしたいのだろうか。
何をするつもりなのだろうか。
この時まで。
この時までの千染にとっては、夜雲に何されようと、彼が何しようと、全て受け入れるつもりでいた。
受け入れる……というよりは、好きに泳がせる、と言った方がいいだろうか。
自分が飽きるまで。
飽きて、壊すまで。
そうするつもりだった。
そのつもりだった。
この時、この瞬間までは。
「千染くん」
夜雲が千染に声をかける。
それに反応して、千染は視線を上げる。
だけど。
「ぼくはきみが好きだ」
夜雲の何度目かの告白が、千染の耳に入る。
けど。
「だから嬉しかった。すごく、嬉しかった」
千染の視界が歪む。
「きみにまた会えて。ずっと、恋い焦がれていたきみに……」
夜雲の声が遠くなったり近くなったりする。
「こうしてきみに何度も会って、きみを見て、きみに触れて、きみを抱いて、きみと言葉を交わして……夢のようとは正にこのこと……」
心臓がやけに速く脈打って。
「………けど」
身体中から頭にかけて熱が巡る。
「どれだけきみに触れたところで、きみを抱いたところで、きみはきみを見せてくれない。きみの心を晒してくれない」
口から乱れた呼吸音が漏れる。
「まぁ、きみは忍だから。そういうものなんだろうし、忍の心なんてあってないようなものなんだろうけど」
正座を保てなくて、膝が崩れる。
「それでも、きみは人間だ。いくら忍で在っても人間として生を受けた以上、人間に変わりはない。故に、心というものはあるわけで……」
畳に手をついてしまう。
「ぼくはきみが好きだから」
自分の身に何が起きているのか。
わからない……と思いたいが、忍として身をもって様々な経験をしてきた千染は、嫌でもわかってしまう。
身体中を巡るこの熱が何なのかを。
「きみを知りたいんだ」
熱に侵されていくのを感じながら、ゆっくりと自分の眼前まで近寄ってくる夜雲を見ながら、千染は疑問に思った。
「身体だけじゃなく……きみの心も」
同じ饅頭の半分を食べたはずのこいつは何故平気なんだ、と。
「だからさ」
仕込んだ薬に耐性があったのか、もう半分には入ってないよう器用に仕込んだのか。
「こうするしかないじゃないか」
或いは、解毒たるものをあらかじめ飲んでいたのか。
「きみが見せてくれないなら、見せてしまうようにすればいい」
夜雲の手が頬に触れてくる。
ひんやりして、気持ちいい。
気持ち、よすぎる。
「その心根を覆う殻を、理性を、壊せばいい。きみが生きてきて見事に作り上げた忍というぶ厚い皮を剥がせばいいんだ」
これから自分がどうなるのか。
この男にどうされてしまうのか。
わかるけど、わかりたくない。
いや、もうその思考すら、熱で、溶けて。
「千染くん」
夜雲は千染の名前を呼ぶ。
だけど、千染は返事をしない。
咄嗟に逃げようと身を引きかけるが、すぐに夜雲の手に捕えられてしまう。
夜雲はある種の熱に侵されて抵抗もままならない千染を引き寄せて、その耳元に口を寄せる。
そして、
「さぁ、見せて。ほんの少しでもいいから。きみの心を。その胸の中を」
そう囁いて、何かを叫びかけた千染の口を自身の口で塞ぎ、彼の唇を貪りながらそのまま押し倒した。