相異相愛のはてに
青い空に白い雲が浮かぶ昼時。
花曇山の山頂近くで、夜雲も籠を片手に薬草の採取をしていた。
木という木に囲まれ、地で生い茂る草花を見渡して、その中に紛れて生えている薬草を見つけては採る。
この花曇山は薬草はもちろんのこと、時期によっては山菜もたくさん生えてくる。
だから。
「おや、夜雲さま」
こうやって、山菜狩りしている花咲村の人に会うこともたまにある。
摘んだ薬草を籠に入れているところで、木々の間から現れた初老の男性に声をかけられ、夜雲は「どうも」といつもの無表情・抑揚のない声で挨拶した。
「奇遇ですね〜。夜雲さまも山菜を採っているのですか?」
小さな背負い籠の中にある山菜を見せつけるように、夜雲に背を向けながら男性は聞く。
それに対して、夜雲は首を横に振る。
「いえ、薬草を少し……」
「ああ、そうですか。でしたら、少し持って帰りませんか?」
そう言って男性は背負い籠を外し、中から山菜を取り出し、夜雲の差し出す。
それを見た夜雲は、
「ありがたいですが、それだと弥七さん達の分が……」
と、声色は相変わらずであるものの遠慮がちに言う。
その言葉を聞いた弥七(やしち)という初老の男性は、にこにこと笑いながら差し出した山菜をそのまま夜雲の持っている籠の端に置く。
「いいですよ〜。たくさん採りましたから。それに夜雲さまのおかげで、こうやって年寄りになっても元気に山を歩き回れるんです。少しはお礼させてください」
「お礼ならお金で十分もらっていますが……」
「お金といってもはした金じゃありませんか。それだけじゃ足りませんよ。言われた額よりも多めに払おうとしたら断りますし」
「………」
「夜雲さまはもう少し欲張りになっていいと思いますよ?そうなって許せるくらい、夜雲さまは村に貢献なさっているのですから」
「……父さまがやってきたことをしているだけですけど」
「かっかっかっ、その一雲さまのやってきたことをするのが難しいのですよ。夜雲さまにとっては簡単なのでしょうが」
「………」
「夜雲さまのその謙遜的な性格は、お陽さまに似たのでしょうね」
夜雲は弥七から目を離し、手元にある薬草と山菜が入った籠を見る。
それと重なるように、過去の光景が頭に浮かぶ。
わりと大雑把な性格で、薬草採取してる最中に山菜を見つけたらそれも一緒に次から次へと籠に入れていた父の夜雲。
毎度そうやって持って帰っては、薬草と山菜の分別に時間がかかって、母のお陽から山菜用の籠も持っていってくださいと注意を受けていた。
けど、持っていったとしても両方の籠に薬草と山菜をごちゃ混ぜに入れるという大雑把極まった行動をとるため、色々と諦め悟ったお陽が薬草採取についてくるようになったのはいつのことだったか。
三人で一緒に薬草採取・山菜狩りをしていた期間の方が長かったから、そこらへんの記憶は曖昧だ。
ただ、よく笑っていたような気がする。
父の一雲も、母のお陽も。
お陽が一雲の大雑把な一面に大して文句を言わなかったのは、一雲が医者として仕事する時はその一面を決して出さなかったし、一雲自身がお陽に対してだけは素直に甘えることが出来ていたから……だと思う。
とにかく仲睦まじい両親だった。
そして、子どもである自分にもとても優しく接してくれた。
薬草採取・山菜狩りがある程度終わったら、花咲村がよく見えるところまで移動して、三人一緒に握り飯を食べた。
自分がうっかり握り飯を落としてどこかにやってしまった時には、一雲もお陽も迷わず持っている握り飯を差し出した。
どっちの握り飯をあげるかで少し言い合いになっていたが。
結局はお陽の握り飯をもらい、二人は一雲の握り飯を半分こして食べていた。
帰り道には疲れて今にも眠りそうな自分を一雲がおぶって、お陽が二つの籠を持って慈しみのこもった目で自分を見ていた。
幸せな光景、とはこのことだろう。
不意に頭に浮かんだ両親との思い出に、夜雲は思う。
父さまも母さまも本当に僕を大切にしてくれていたな、と。
「あ……」
その一方で、手元にある籠を見たまま何も言わなくなった夜雲を不思議そうに見ていた弥七だったが、次の瞬間にはしまったと言わんばかりの顔をした。
ついうっかり、一雲さまとお陽さまの話題をだしてしまった。
もう何年も前とはいえ、夜雲さまにとっては大切な両親をあんな悲惨な形で失ったことには変わりないのに。
古傷を開くようなことを言ってしまった。
そう思うや否や、弥七は慌てて夜雲に頭を下げた。
「も、申し訳ありませんっ。夜雲さま」
前から聞こえた声に反応して、夜雲は視線を籠から弥七に移動する。
「山菜狩り中に夜雲さまに偶然会えて嬉しかったとはいえ、つい軽はずみな発言を……」
申し訳なさそうに頭を下げる弥七の姿が、夜雲の目に入る。
「お、お詫びと言ってはなんですが、山菜を好きなだけ取ってくだされば……」
「いいですよ」
山菜が入った背負い籠を差し出してそう言ってきた弥七の声を遮るように、夜雲は言う。
その、いいですよ、はどっちの意味なのか。
それで許してあげるという意味なのか、お断りの意味なのか。
すぐにわからず、一瞬きょとんとした夜雲だが。
「父と母が亡くなったのはずっと前の話なのですから。別に気にしていませんよ」
どうやらお断りの意味だったようだ。
続けて出てきた夜雲のその言葉に目をぱちくりさせた後、弥七はほっと安堵の息を吐く。
それは山菜を取られずに済んだという意味ではなく、夜雲が落ち込んでいなくてよかったという意味でだった。
「そ、そうですか。それならよかった……」
「はい。ですから、父と母の話は遠慮なく出してもらって構わないです。むしろ、そうしてくれた方が二人も報われると思いますので。……自分達のことを今でも覚えていてくれる方がいるという事実だけでも、幾分か」
「そう、なんですか……」
弥七は、少しだけ驚いた。
そのせいで、やや詰まったような声で反応してしまった。
何故なら、両親のことでここまで喋る夜雲を見たのは初めてだったからだ。
もしかしたら他の村人にもこういった話をしたことあるのかもしれないが、とにかく弥七は初めてだった。
以前は今日のようにうっかり親のことを話題に出しても、薄すぎるくらい薄い反応だけ返して終わることがお約束みたいなもんだったのに。
いや……よくよく考えればだ。
夜雲がこうやってこの場に留まって会話に応じてること自体珍しくないか。
大抵は会話したとしても、すぐにぶった切るような言葉を返してさっさと去るというのに。
一体どうされたのか。
どういう心境の変化があったというのか。
そんな弥七の疑問に応じるかのように……。
「ところで……」
「?」
「弥七さんはお清さんが好きなんですよね?」
「へ?」
「好きだから、夫婦になったのですよね?」
「は、はぁ……そうですが……」
突然、妻のお清の話題を出されて弥七は困惑しながらも、とりあえず質問に応じる。
その返答を聞いた夜雲は、ほんの少しの間を置いた後、再び口を開く。
「では、お清さんを好きになった時……どんなことをしましたか?」
「え?」
「あ……いや、正確にはどのように接したのかと言いますか……。どうやってお清さんと……その、深い仲にまでなれたのか、知りたくて……」
「わしとお清の……?」
「はい。あ、ちなみにお清さんにそういった感情を抱いているわけではないので安心してください。ただ……ちょっと参考にしたくて……」
夜雲のいつもと全然違うその様子とその発言に、弥七は察した。
お察しせざるを得なかった。
夜雲に何の心境の変化があったのか。
それは……恋だ。
夜雲は誰かに恋したのだ。
彼が急に口数多くなったのも。
いつもは淡々とした調子なのに、こうやって年相応な様子を躊躇いなく見せてきたのも。
そういうことだ。
否、それしかない。
話の流れ的にも。
(そういうことだったのか……)
少し困っているような悩んでいるような様子の夜雲を見て、弥七は納得する。
と同時に、胸がぽかぽかと温かくなるような嬉しさを感じる。
夜雲に、あの夜雲にこうして感情らしい感情を見せるほど好きな人が出来るなんて。
実に喜ばしいこと。
そして、前向きな変化だ。
漁師の平吉達が夜の遊びに誘っても、夜雲から治療を受けた役人がお礼にと上等な娘を紹介しても、夜雲は全て素っ気なく断ってきた。
それを弥七は知っている。
直に見たこともあれば、人伝いで聞いたことも。
だから、少し心配だった。
このまま、夜雲は心に傷を抱えたまま一人で生涯を終えるのではないかと。
だけど、そんな心配は杞憂だったようだ。
弥七の頬が自然と緩んでいく。
そんな弥七の心境を知ってか知らずか。
「……好きな人の……」
夜雲は再び口を開く。
そして、
「全てを見たいって思うのは……いけないことですか?」
また質問をした。
今度は静かに……かつ真剣みを帯びた声で。
「お清さんとのこと言いづらいようでしたら、これだけに対する返答で構いません」
夜雲の遠慮がちな言葉を聞いた弥七は、ハッと我に返る。
どうやら喜びのあまり、意識がどこかへ飛んでしまっていたようだ。
そして、頬だけでなく頭までも緩んでいた自分を叱咤するように己の頬を叩くと、すぐに夜雲の方に笑顔を向けた。
「いえいえ、そんなことはありませんよ」
弥七は隠しきれないほどのご機嫌な声で、夜雲の質問に応じる。
「誰だって、誰かを好きになったら、その好きな人の全てを見たいと思いますよ。見て、知りたいと思います」
「そう……なんですか」
「ええ、もちろん。それこそわしもお清に惚れてから、お清のことを誰よりも知りたくて積極的に話しかけたもんですよ」
「……」
「そのおかげで今があるんです。わしはお清を知って、お清はわしを知って、そこから更に互いを好きになって夫婦になったのです」
「………」
「ですから、むしろ知った方がいいんです。知るべきなんです、好きな相手のことを。そうすればより一層相手の理解が深まり、自分が相手の何が好きなのか具体的にわかってきて、だんだんとその相手が自分にとって唯一無二の存在になってくるのです」
「………なるほど……」
「もちろん、それは自分のことも相手に知ってもらう前提の話でですよ。好きな人に好かれたいのであれば、自分の長所を積極的に出すべきです」
「……長所を、出す……」
「そうです。まぁ夜雲さまは長所ばかりですから、そこらへんお困りになることはないでしょうが、とりあえず一つの助言として敢えて言わせていただきました」
「………そうですか」
弥七の言葉にそう短く応じると、夜雲は視線を横にずらす。
何か考えるように。
「ありがとうございます。勉強なりました」
そう言って、夜雲は静かに踵を返す。
「いえいえ。お相手が誰か存じませんがこの弥七、夜雲さまを全力で応援いたします。また気になることがありましたら、遠慮なく聞いてください」
「はい。山菜もありがとうございます。帰り道に気をつけてください。山頂辺りは足場が荒いので」
「はい、夜雲さまも」
背を向けたまま弥七に気遣いの言葉だけをかけて、夜雲はその場を去っていく。
その後ろ姿を、弥七は優しさと仄かな希望を宿した目で見送る。
そして、夜雲が見えなくなったところで、なかなか締まらない頬のまま、山の麓に向かって足を踏み出した。
(そうかそうか。夜雲さまに好きなお方が……。なるほどなるほど、実に良いことだ)
弥七の足が自然と軽やかになる。
こんなに嬉しい気持ちになるのはいつぶりか。
それに加えて、安心感も込み上げてくる。
これは村のみんなに伝えなければ。
夜雲のことを気にかけているみんなに。
きっと、自分と同じくらい安心するだろう。
そして大層喜ぶだろう。
かと言って、変に話を持ちかけたり、囃し立てるようなことをしたりするのは厳禁だと釘を刺しておかないと。
夜雲には夜雲の恋愛の仕方があるだろう。
自分達はあくまで見守りだ。
喜びを露わにするのは、夜雲から直接知らせを受けた時だけでいい。
(どうか……、夜雲さまの恋が成就しますように……)
弥七はそれだけを強く願って、緩みに緩んだ表情のまま山を下りていった。
その一方で、家がある方向に進んでいた夜雲は、途中で今回採取が少なかった薬草を見つけ、足を止めてそれを摘んでいた。
一枚一枚、薬草の状態を確認するように見ていたが、数枚摘んだところて、夜雲の動きが止まる。
どこからともなく小鳥の囀りが聞こえてくる中、夜雲は何か考えるように薬草を見つめる。
見つめたまま、しばらくして……口を小さく開く。
「そっか……」
夜雲は言葉を漏らす。
そして、
「やっぱりそういうもんなんだ」
と、珍しく安堵が混じった声で呟いた。