相異相愛のはてに





昼下がり。
花曇山からも住処である里からもずっと離れた山の崖の先に座って、千染はぼうっとした様子で山の下に広がる海を眺めていた。
ふわりと吹いてきた風から、潮の香りがする。
長い赤髪が、さらりと揺れる。
細波の音が静かに聞こえる中、昨夜、夜雲に言われた言葉が千染の頭の中で反復する。
彼の家を去ってから、ずっと。
ずっと、追いかけるかのように、彼とのやり取りが頭に纏わりついていた。


夜雲が。
夜雲がやっと、自分の意思を口に出してきたのに。
彼の親を殺したことが嘘ではないこともわかったというのに。
夜雲という男の気持ちが、更にわからなくなってしまった。
いや、気持ちというより心理といった方が正しいか。
彼が自分のことが好きなのは理解した。
親殺しが嘘でないことも理解した。
でもその二つがどうして同時に成り立つのか、わからなかった。
親として理想的で人として立派だったと夜雲自身が評していた親を殺されて、その親を急に失って深く悲しんだはずだし、困ったこともたくさんあっただろうに。
そして、普通は親を殺した仇に深い憎しみや怒りを抱くはずなのに。


ーーーきみが好きだ。


夜雲はそう言った。
今まで憎しみと恨みの気配を感じなかったのは、そういうことだったのか。
と……、すんなり納得いけたらよかったのだが。
親を殺した仇を好きになるとは、これ如何に。
普通は憎まないか。
普通は殺したいとか、それ以上に酷い目に遭わせてやるとか思わないのか。
千染自身そういう立場になったことがないので身を以てそういう者の気持ちを理解しているわけではないが、少なくとも今まで見てきた範囲では誰もがそうだった。
親や兄弟、大切な者を殺された誰もが怒りや憎しみに駆られて、仇討ちに身を投じていた。
だけど、夜雲はどうだ。
夜雲は怒りや憎しみを抱くどころか、その仇を抱いて、金までやって、しかも好きだと言ってきた。
親を殺された瞬間を目の前で見たはずなのに。
どういう心理なのか。
死んだ親の無念をそっちのけに、仇を好きになるほど親のことがどうでもよかったのか。
でも、それだと初めに親殺しの話題を出した時に感じた怒りに近い感情の説明がつかない。
どうでもよかったら、きみみたいな忍に殺される筋合いはなかった、なんて言うはずがないし……そもそも親のことを口に出さないはず。
出したとしても、どこかどうでもよさげな口ぶりがあるはずだが、夜雲からそれを感じない。
だとしたら、何なのか。 



ーーーきみは……誰かを好きになったことないんだ。

ーーー恋したことないんだ。

ーーーだからわからないんだ。



夜雲の言葉が、また脳裏を過る。
……そういうものなのだろうか。
太陽に反射してきらきらと小さな光が散りばめられている海を眺めながら、千染は思う。
確かに夜雲の言われたとおり、自分は誰かを好きになったことなんてない。
恋なんて以ての外だ。
相手を惑わすために知識としては取り入れているものの、心の底から誰かに恋情を抱いたことなんてない。
だから……そう。
そういうものなのかって、思ってしまう。
恋をしたら、親の仇なんて関係なくなってしまうのかって。
本当に恋をしたら……親を殺したことをあっさり許せる気持ちになってしまうのだろうか。
だとしたら、恐ろしい。
そこまで人を狂わせてしまうのか、恋というのは。
いくらなんでもそれは、殺された親が報われなさ過ぎるのではないか。
でも、夜雲がああでいる以上……そういうものなのかと思ってしまう。


(……だとしても)


千染は考える。
夜雲が自分に恋したことでああなったとしたとしてもだ。
そうなってしまうほどに、自分のどこに見惚れたのか。
疑問に思ってしまう。
まさか、容姿……だけとは思いたくない。
自分の容姿に見惚れるやつなんて今まで飽きるくらい数多と見てきたから、それらと同等にはしたくない。
そうだったら殺された両親が余計に報われない。
これも夜雲に聞くべきか。
千染は迷う。
どうしようかと考える。
………が、しばらくして、夜雲に言われたとある言葉を思い出し、思考を止める。


(………)


ーーー千染くん……。きみは……、


その言葉が千染の頭に浮かぶ。
はっきりと、鮮明に。




ーーーきみは……きみが思っている以上にまともだよ。


ーーーまともな人間だよ。




そう。
昨夜、夜雲はそう言ってきた。
話の流れを止めるように、急に。
まるで全て見透かしてるような目で。
わかりきっているような口調で。
それを思い出した瞬間、千染の眉間に皺が寄った。
胸がもやもや、むかむかとしてくる。
自分と大して関わったこともない若造が何を言っているのか。
何も出来ずに親を殺されたくせに。
自分のことを何も知らないくせに、いい加減なことを。
今まで数えきれないほど誰かを何かを殺してきた自分がまとも?
殺しという殺しを好み、任務遂行のためならどんな手段でも使う自分がまともな人間だと?
甚だおかしい。
何をどう見てそんなことを口走ったのか。


(わたしが大人しく従っているから、調子に乗らせてしまったのかもしれませんね……) 


だったらもう一度刃を向けてやろうか。
その気になれば不意打ちで殺すことが出来るとわからせてやろうか。
そしたらそんな能天気で巫山戯たこと、口が裂けても言えなくなるだろう。
いらいら、むかむか、もやもや。
そういったものが、千染の中をぐるぐると渦巻く。
軽率な台詞を吐いた夜雲のことを思い出せば思い出すほどに。
……だが、しばらくして。
千染の表情が、元の冷静なものへと戻っていく。
下から聞こえる細波のように、落ち着いていく。


(………馬鹿らしい)


ほんのり暖かい潮風に吹かれ、変わらぬ海の景色を眺めながら、千染は投げ出すように思った。
夜雲の不可解な心理を考えるのも、夜雲の発言に不愉快な気持ちになるのも、なんだか不毛な気がして馬鹿馬鹿しくなった。
結局それを考えたところで、そう感じたところで、何になるのか。
金になるわけでもないし、仕事に結びつくわけでもない。
確かな答えすらも出るわけない。
そう思うと、すとんと冷めた。
先ほどの渦巻いていた感情が嘘だったかのように。
それに、夜雲のことでこうして思考と時間を消費しているのが、なんだか彼の思惑通りな気がしたから。
だから、千染はやめた。
考えるのを。


(あいつがわたしのことをどう思って、何を感じていようが、あいつの勝手ですし……。どうでもいいことに時間を費やしてしまいました……)


心底冷めた表情をして、千染は膝に置いていた独影の襟巻きを手に取り、その場から立ち上がる。


(まぁそれくらい衝撃的だった……のは、事実ですね。あそこまで理解不能な人間、初めて見ました)


生きているとこういうこともあるんですね。
と、付け加えて、千染は踵を返す。


(……とりあえず、彼がわたしを殺す気ないのなら……どうしましょうか)


耳触りの良い細波の音を背に、千染は冷たい目つきになる。


(一応、彼の動向をまだ観察したいですし……それでいよいよ飽きたら正々堂々と殺しにかかってみましょうか)


正直……もう一度、彼と一戦を交えたくもありますし。
と、千染はちょっとした本音を漏らす。
殺すなら不意打ちが一番いいとわかってるし、そうしようとも何度か思ったが……せっかくの稀な素材なんだ。
今までと同じように、片付けるのはなんだか勿体ない。
だから、終わり方としてちょっと変化を加えるとなれば、一対一の真剣勝負しかないかと。
今度はちゃんとお互い万全の状態で真正面から戦ってみたい。
彼に仇討ちをする気がないのなら、せめて最後はそういった展開に。
こちらを本気で斬りにかかってくる彼と……戦ってみたい。
殺し合ってみたい。
きっと、それはそれで今までにない景色を見れるだろうから。
自分よりも強いであろう存在に、どこまで自分の技が通用するのか。
勝つのか、負けるのか。
殺すのか、殺されるのか。
そんな不確定な結果を前にした戦いなんて、実に十何年ぶりになるのだろうか。


(復讐心に駆られたわけでもなく、戦いとは無縁な医者を生業としてる彼が、どうして賊の頭をあっさりと殺しわたしを負かすほど強いのか……それも彼と関わり続ければいずれ知れるのでしょうかね。わたしに惚れた理由も、時々無性に逃げ出したくなる気持ちも……)


そう思いながら、千染は一歩踏み出す。


(……とにかく、今回でよーくわかったのは)


一歩、また一歩と木々が生い茂る山の中へと向かう。



(恋なんてするものではない、ですね)



千染は今回の件で確かに学んだことを、胸の内で呟く。
夜雲が本当に恋をしたことによってああなったのなら、自分は一生しなくていい。
恋自体そもそも興味のないことだったが、今回でとんでもない毒になることがよくわかった。
恋することによって正常な思考や判断力を失うくらいなら、そんな感情ずっと芽生えなくていい。
誰かを好きにならなくていい。
わからなくていい。
今でいい。
自分は今のままでいいんだ。
千染はそう確信する。
千染が歩く度に、首に巻いてある薄紫の襟巻きの端が小さく揺れる。
里に帰ったらきっと、独影か櫻世にこの襟巻きのことを聞かれるだろう。
櫻世はともかくとして独影にはまた気に障ることを言われるかもしれない。
……なんだか面倒くさいから、首元が隠れる装束に着替えようか。
それにこの襟巻き、肌触りからして結構上質だ。
売ればそれなりの金になるかもしれない。
夜雲があげると言ったのだから、後はどうしようがこっちの自由だろう。
なんとなくそんなことを考えながら、千染は木漏れ日の差す山の中へと消えていった。




近い未来、夜雲のことを考えるのが不毛と思えなくなるとも知らずに。

夜雲のことを知れば知るほど、自分のことも知ってしまうとも気づかずに。



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