相異相愛のはてに
それは運命と呼ぶにはあまりにも歪で
それは恋と呼ぶにはあまりにも血腥い
そんな二人の、いや、一人の、滑稽なほどに一途で惨たらしい純愛物語。
丹後の国。
そこに片隅にある花曇山の中腹辺りに、一人の青年が住んでいた。
木造の二階建ての家。
屋敷ほど大きくないが、二階建てという時点でそれなりに金持ちなのは見てわかるだろう。
だが、青年には親がいなかった。
十四の時に亡くなったのだ。
この家と地位だけを残して。
だけど、青年は医者として立派に成長した。
どこかに引き取られたわけでもなく、一人で。
今は二十二。
亡くなった父親も医者だったため、多少なりともそこから教えを得たのもあるだろう。
けど、青年の場合は父親“以上”の腕前だった。
父親が青年にまだ教えていなかった部分どころか、その父親がまだ手を出していなかったであろう領域の知識と技術を青年は得ていた。
親を失った十四から猛勉強を重ねたのか。
数年ほど村の人が青年を見なかった時期もあったため、もしかしたら海の外で勉学に励んでいたのかもしれない。
色んな憶測があるが、とにかく青年の腕は確かだった。
今の日本にいる医者の誰よりも。
「ありがとうございます。夜雲さま」
「お大事に」
花曇山の麓にある花咲村。
海に面しているのどかで小さなその村で、青年はいつものように回診をしていた。
質素な民家の玄関から、丁寧に頭を下げてお礼を言う女性に業務的な一言を添えて、青年は去っていく。
夜雲(やくも)とは青年の名だ。
村人は皆、尊敬の意を込めてさま付けで呼んでいる。
それも当然のことだ。
花咲村にいる者のほとんどが、夜雲の手によって救われたのだから。
病も怪我も、致命的なものでない限り、夜雲の手にかかれば難なく治る。
そうなる前の予防法も教えてくれる。
彼が作った薬もよく効く。
まさに神の如き腕前。
遠くからわざわざ彼に診てもらうために来る者もいるほどだ。
しかも夜雲は貧困の者には金の要求をしない。
代わりに物か手伝いの要求をする。
それも相手が出せる程度、出来る程度の物と手伝いを。
完全にタダでやらないのは、後腐れがないようにと考えての上だろう。
そういった行いも含めて、村人達の夜雲に対する信頼は厚かった。
彼がいてこその平和な花咲村。
心の底からそう思う者が複数といるほどに。
ただ、確かに医療の知識・技術は父親を遥かに上回る彼だが、唯一父親より劣っているところがあった。
劣る……と言っても性格の違いと言われればそこまでだが、とにかく夜雲は父親の一雲(いくも)と比べて愛想がなかった。
一雲はいつもにこにこ笑って穏やかだった。
村人の家に訪問しては気さくに雑談を持ちかけたり、冗談にも笑って応じたり、子どもの相手も時折したりと、とにかく優しくて温かな人だった。
けど、夜雲はその逆だった。
逆と言っても辛辣にしているわけではなく、淡々としている、と言った方がいいだろうか。
挨拶も会話も必要最低限、笑顔どころか常に無表情で声も抑揚がなく単調。
冗談を言っても全く笑わず、口では「面白いこと言いますね」と言ってくれるのだが、本当に面白いかどうかはもう夜雲の表情と口調が物語っているので、かつてない気まずさを味わった者が何人もいるとか。
子ども達も夜雲のそういった感情らしい感情のない雰囲気が怖く思っているのか、夜雲には必要以上に近寄らない。
村人達との関わり方に関しては、父親とは大分温度差がある状態だ。
………それでも、村人達は誰一人として夜雲に不満を抱かなかった。
適切で高度な医療技術の施しを受けているからというのはもちろんなのだが、何よりも夜雲の過去を考えるとそうなるのも仕方ないと思えたからだ。
何度も言うように、夜雲は十四の時に両親を失っている。
経緯は不明だが、荷車に両親の遺体を運んで帰ってきた夜雲の姿から察するに城下町に出かけていた道中、辻斬りに遭ったのだろう。
両親の遺体は母の方は首と体が綺麗に別れており、父の方は原形こそはちゃんとあったが体には深い傷が刻まれていた。
父の一雲ほどの愛想が昔からあったわけではないが、それでも両親が亡くなる前の夜雲は控えめながらも時たまに笑顔を見せたり、悲しげな顔をしたりと、今よりは感情を表に出していた。
そこらへん、きっと父よりも大人しくて物静かな母のお陽に似たのだろう。
性格だけでなく、見た目もだ。
お陽は飛び抜けて美人というわけではないが、どこか気品を感じさせる整った顔立ちをしていた。
それは夜雲も同じ。
夜雲も整った顔立ちをしていた。
お陽に似たものだから、男にしては涼しげで綺麗とも言える、そんな顔立ち。
だからこそ、夜雲に密かな想いを寄せる娘がわりと、いや結構、いたりもした。
当の本人はそれに気づいているのかどうか知らないが。
話の路線がずれたが、十四の時に両親を失って、更には両親が斬られたところを見たかもしれない夜雲に、愛想を求めるなんて誰が出来るだろうか。
もしかして、その時のショックで心が一部壊れてしまったのかもしれない。
だというのに、そうであるかもしれないというのに、彼は今もこうやって花曇山に留まって、花咲村の町医としていてくれてる。
まるで、生まれ故郷である花咲村を愛した父親の遺志を継ぐように。
そんな夜雲に不満や文句だなんて言語道断。
むしろ、支えなければならない、恩返しをせねばならない存在だ。
自分達は夜雲に何をしてやれるのだろうか。
何をすれば、彼は喜ぶのだろうか。
どうすれば、彼の支えになれるのだろうか。
それだけが、金も地位もない村人達のずっと抱えている課題だった。
当の夜雲はというと。
相変わらず無表情の無感情で何を考えてるのかわからない。
その一言だった。
「夜雲さま〜、見てください!今日は大漁にとれたんですよ!」
「そうですか。よかったですね」
「よろしければもらってやってください!何匹いります!?夜雲さまにならいくらでもあげますよ!」
「ありがとうございます。では一匹、いただきます」
海辺を歩いていると漁師に声をかけられ、夜雲は淡々と応じる。
漁師お手製の網の中に入った魚を一匹受け取り、青々とした海を眺めながら、歩き去っていく。
浜辺から村へと戻る夜雲。
そのまま花曇山に帰るのだろう。
相変わらず愛想は全くないが、それでも漁師達は嫌な顔するどころか尊敬の眼差しを夜雲の背中に向けた。
「本当、誰よりもすごいことをやりこなしてると言うのに偉ぶらないお方だ」
「わしが夜雲さまの立場じゃったら、食いもん寄越せ酒寄越せ女寄越せとえらげに言っとるがの〜」
「天はちゃんと見とるってことよ。誰に才を与えるべきかっての」
「ぬうぅ〜、言ってくれるのぉ」
と、軽口を叩きながらも、漁師達は捕まえた魚をせっせと桶に入れていった。
村人達に分ける用と、市に出す用に分けて。
夕方。
花咲村から花曇山に戻り、草木が生い茂る山を登って、家に辿り着いた夜雲は、玄関に置いていた手燭の蝋に火を灯して中にあがった。
薄暗い廊下に、床の軋み音だけが小さく聞こえる。
途中にある仕事用の部屋に薬箱と医療用の道具が入った箱を入れている背負い籠を置き、そのまま台所に向かう。
いつも通り夕食の用意をして、いつも通り魚や野菜に火が通るまで石臼に腰をかけて医学に関する文書を読んで、いつも通り夕食を茶の間に運んで、食べて、片付けて……。
いつも通り、二階の自室で日々の記録を書く。
所謂、日記というものだ。
何十と重ねて紐で上手いこと本のようにして束ねた紙に、夜雲は筆を走らせる。
その表情に相変わらず感情らしい感情は見えない。
発言も表情も、いや、表情に関してはもはや無に等しいが、とにかく必要最低限という言葉が相応しい彼が、両親が遺した家の中で一人、何を思って日記をしたためるのか。
それは、彼のみぞ知る。
………いや、もしかしたら。
いつか、誰かは知ることになるかもしれない。
その誰かは誰で、いつかはいつのことなのか、知らないが。
闇夜に浮かぶ三日月。
梟鳴く丑三つ時。
月の微かな明かりだけが頼りの暗い山の中を、一人、また一人と影が駆けていった。
数は五、六人といったところか。
目元以外、全て黒の衣服で覆われており……所謂、“忍者”という存在だ。
極力音をたてず、全員鋭い眼で闇の先を見据え、ただひたすら駆ける。
城の書物を奪った盗っ人を捕らえるために。
程なくしてひらけた野原に出た。
数十間ほど先に、一つの人影が見える。
一番前にいた者が右手を上げた瞬間、後の者達が散り散りに分かれる。
自分の置かれている状況をわかっているのか、野原の真ん中に立っているその人影……否、忍者は夜空に浮かぶ月を悠然と見上げていた。
赤い赤い、血のように赤い長髪を靡かせて。
ある程度接近したところで、赤髪の忍者を追っていた忍者は足を止める。
直後、後の五人も目に見えぬ速さで、赤髪の忍者を囲うように現れた。
張り詰めた空気を流すように、夜風がさぁと吹いてくる。
「追われている身でありながら、道草をくうとは愚かな」
「もう逃げれぬぞ」
それぞれが刀、鎖鎌、手甲鉤と己の得物を出して構える。
一対六。
しかも囲まれている状況。
どう見ても、赤髪の忍者の方が分が悪いだろう。
だけど、赤髪の忍者に焦っている様子も、弱気になっている様子もなかった。
それどころか、「ん〜……?」と不思議そうな声をもらして、月から目を離し、顎に緩く握った拳をそえて、考えているような仕草をした。
「あなた達……わたしを知らないのですか?」
「………大人しく巻物を返せば、見逃してやらないこともないぞ」
赤髪の忍者の問いかけに応じず、指揮役であろう忍者は一方的な要求だけをする。
他の忍者の気が張り詰める。
だが、相変わらず赤髪の忍者は周りの殺気なんぞ物ともせず、一人で考える。
そして、数秒経たずして、理解したようにぱっと顔を上げて指を鳴らした。
「あ〜、そうでした。知ってるわけありませんよね。野暮な質問を失礼いたしました」
申し訳なさそうに笑いながら、赤髪の忍者は周りに謝罪する。
状況がわかっていないのか、もう諦めきっているのか。
何にせよ、あまりにもいつもと変わらぬ調子といった様子の赤髪の忍者に周りの忍者達は不気味さを感じる。
それに話が通じていない。
出来れば巻物を返してくれた方がありがたいのだが、相手の様子からして難しいだろう。
大切な巻物が傷ついたり汚れたりする可能性は防ぎたかったが、致し方ない。
巻物はきっと懐か腰の巾着に入れてるのだろう。
そこは避けて、首から上を一気に……。
と、言葉を交さずとも全員の目論見が一致したところで、赤髪の忍者の口の端がつり上がった。
「だって、お仕事中でわたしの顔を見た人は……みぃんな死んでいますから」
その直後だった。
その直後、赤髪の忍者が後ろ腰におさめている小太刀の柄を握ったと思ったら消えた。
消えて、一人の忍者の首から血飛沫が噴いた。
驚く間もなく、もう一人の忍者の胸が貫かれた。
そこでやっと他の忍者達が臨戦態勢に入ったが、一人は顔全体を棒手裏剣で貫かれ、残りの一本は一人の片目を貫く。
片目を貫かれた者が唸り声をあげ身悶えしているところで、後の二人を始末しにかかる。
青々とした草達を赤色に染め上げながら。
後の二人も差ほど時間はかからなかった。
迫りくる刃も飛び道具も難なく避け、一人の首を太腿で挟んで折った後に、その忍者の腰にあった小刀を抜きとってもう一人の首目掛けて素早く投げたら見事命中して、あっという間に決着がついた。
片目に棒手裏剣が刺さった状態で地に膝をついていた忍者は、その光景に愕然とする。
「いや〜、どうりでどうりで。こんなにも腕利きなのに顔も名前も広まってないわけですよぉ」
小太刀を横に振って、刀身についた血を払う。
依然として変わらぬ笑みを浮かべながら、赤髪の忍者は最後に残った忍者の元へ静かに歩き出す。
「これは……あれですね。一人くらい逃した方がいいでしょうか?そうすればそこからわたしの名前が広まって、お仕事で会う人会う人、わたしがわたしだって気づいてくれるでしょうか?」
忍者は赤髪の忍者の問いに答えない。
いや、答えないというより答えられなかった。
五人を血祭りにあげながら、笑顔で穏やかに自分の名前が広まるかどうかてまか聞いてくる赤髪の忍者の神経が理解出来なくて、恐ろしくておぞましくて、口が開かなかった。
口どころか、全身が動かなかった。
「あぁ……でも」
赤髪の忍者は口元についていた血を舌で舐め取る。
「わたしを見てすぐ逃げるようになっても困りますねぇ」
緩い弧を描いていた口が、今度は大きく弧を描く。
まるで夜空に浮かんでいる三日月のように。
「やっぱり殺しましょう」
片目を負傷している忍者の目の前まで来た赤髪の忍者は、立ち止まって言う。
恐怖で脂汗を流しながら自分を見上げている忍者を、楽しそうに、愉快そうに笑って、見下ろす。
「でもせっかく最後に残したのですから、冥土の土産くらいは差し上げましょうか」
赤髪の忍者を見上げている忍者は思う。
こいつは。
こいつは、何なんだ。
どこに仕えている忍だ。
こんなのを扱える主がいるのか。
「わたしの名前は、千染。千本の千に、染物の染と書いて“ちぞめ”です。巣隠れ衆の忍です」
千染と称した赤髪の忍者は、持っていた刀を振り上げる。
「あの世でお仲間の皆さんに教えてあげてくださいね。……あぁ、いいですねぇ……その目。そういう目も大好きですよ、わたし。残した甲斐があるというものです」
ぼんやりと青白く輝く三日月を背後に、艷やかな赤髪を揺らして嗤うその忍者の姿は、忍装束から覗く白い肌にしなかやかな体つき、端麗な顔立ちも相まって、全てが美しくて。
美しいはずなのに、顔や身体中についた血と愉悦を帯びた笑顔が、おぞましくて。
目の前の忍者は恐怖にかられながらも、魅入ってしまう。
今から自分を殺す者に。
「またいつか。そう遠くない未来、あの世でお会いしましょう」
ぞっとするくらい優しくて穏やかな声が、忍者の鼓膜を舐めつける。
「それでは」
その言葉を最後に。
忍者の視界は真っ赤に染まり、身体中の感覚がなくなったと同時に暗闇に堕ちた。
冷たい夜風が吹く。
風に吹かれて草がざわざわと騒ぐ野原に、一人佇む忍者と六つの死体。
長い赤髪が風に乗ってさらりと靡く。
赤髪の忍者は機嫌良く笑って、死体の一つから破りとった忍装束の一部で小太刀の刀身についた血を拭いとって、それをぱっと手放す。
「はぁ〜……御頭からは見つかったら逃げきれと言われてましたが、せっかく追いかけてくださってるのに無視なんて出来ませんよぉ……」
小太刀を鞘におさめて、周りにある死体達を眺めて赤髪の忍者は笑う。
「しかも六人なんて……ふふっ、ふふふふっ……。こんな機会、みすみすと逃すわけないじゃないですか……」
口を歪めて、妖しく笑う。
ゆっくりと腰を屈め、足先に転がっている死体の目から棒手裏剣をずるりと抜く。
棒手裏剣から、血が滴り落ちる。
ぽたり、ぽたり、と落ちていく血を、赤髪の忍者はうっとりとした顔で見つめる。
「こんな楽しいことを逃すなんて……。………っふ、ふふふっ。ふふふふふふ……!」
赤髪の忍者は、今度は声を出して笑う。
楽しそうに、気持ち良さそうに。
返り血に染まった、おぞましい姿で。
一頻り笑った後、ゆっくりと立ち上がり、血を拭った棒手裏剣を懐にしまって静かに歩き出す。
「さ、帰りましょうか。あまり遅いと御頭に怒られてしまいます」
死体の横を通り過ぎたところで、赤髪の忍者は足に力を入れ、一気に駆け出す。
野原から赤髪の忍者の姿が瞬く間に消える。
残ったのはなすすべもなく散った死体だけ。
その哀れにも無様な姿が、今の時代を物語る。
天下泰平……がまだ行き渡っていない、戦がまだ残る時代を。