相異相愛のはてに
その日、夜雲は昼時までに花咲村での診察を済ませて、一階の仕事部屋で黙々と薬を作っていた。
紙の上に並べたいくつかの薬草を薬研に入れて、薬研車ですり潰していく。
そして、今度は傍らに置いていたいくつかの木の実を砕いたようなものが入っている器を手に取り、中身を薬研に入れる。
また薬研車の取っ手を掴んで、薬草と一緒にゴリゴリとすり潰す。
すり潰しながら、時折開いて置いてある書物の内容を横目で見ていた夜雲だが、ふと何か思いついたのか思い出したのか。
どちらかわからないが、とにかくそういった様子で薬研車を動かしていた手を止める。
「………」
夜雲は薬研車から手を離すと、その書物を手に取ってゆっくりと立ち上がり、部屋の隅にある薬棚に向かう。
一番右の上から三番目と指差しでなぞり、そこの引き出しを引いて中身を確認するように見る。
何もなかったのか、夜雲はその中から取り出すような素振りすら見せず、静かに閉める。
引き出しを閉めた体勢のまま、夜雲はしばらくその場に佇む。
そして、相変わらずの無表情でゆっくりと後ろを向き、作り途中の薬を見つめた。
「……今日は、無理だな」
いつもの抑揚のない声で、夜雲は呟く。
だけどその後、彼にしては珍しくどこか残念そうな感じに鼻で小さなため息をつき、作り途中の薬の元へ戻っていく。
薬研に入っている作りかけの薬を器に移し、その上を覆うように紙を乗せ、それを薬棚のまだ使っていない引き出しに入れる。
引き出しを静かに押して閉めて、そこに手を添えたまま……夜雲はまた鼻で小さくため息をついた。
***
夜。
仕事終わりのためいつもより少し遅くなったが、千染は約束を破ることなく夜雲の家に姿を現した。
開いている二階の障子窓から入る。
いつもと変わりなく文机に向かって日々の記録をしたためていた夜雲だが、窓際にいる千染を見るなり何か気づいたかのように動きを止める。
夜雲の視線に気づいた千染は、ああと忍装束についてる少量の血を見る。
「すみませんね。今日は仕事があったんです」
「……」
「これでもなるべく返り血を浴びないように気をつけたんですよ」
そう言って、千染は夜雲を見る。
だが、夜雲は返事をする気配もなく、こちらをじっと見つめている。
何も言ってこない上に凝視してくる夜雲に、千染は少しだけ訝しさを感じる。
返り血がそんなに珍しいのだろうか。
いや、返り血以前にお前は賊を一人自らの手で殺したではないか。
そして、その前に自分の殺戮場面も見ているはずだ。
なのに、どうして今更返り血ぐらいで……。
と、疑問に思っていた千染だが、程なくして夜雲の視線が忍装束についた血ではなく、首の方に向いてることに気がつく。
千染の首には、独影から貰った(正確には借りた)黒い襟巻きが巻かれていた。
再度夜雲を見て、視線の先を確認する。
やはり首を、この襟巻きを見ているみたいだ。
いつもの忍装束に襟巻きが加わっただけなのに、そんなに珍しいものなのだろうか。
「これが気になるのですか?」
襟巻きを軽く掴んで、千染は問いかける。
その問いに対して、夜雲は小さく頷く。
「……ただの襟巻きですよ」
なんで何の変哲もない襟巻きが気になるのかわからないが、千染はとりあえずといった感じに答えを返す。
だが、
「きみのじゃないよね?」
夜雲から返ってきた言葉は、予想外のものだった。
千染は思わずきょとんとする。
そんな千染を見ながら、夜雲は筆を置くと静かに立ち上がり、千染に近寄る。
目の前まで来た夜雲を、千染は見上げる。
相変わらず感情のない表情、感情のない目だ。
夜雲が何を思ってさっきのようなことを言ってきたのか、どこまでも無な表情と目から読み取れるわけない。
だから、千染は待つ。
彼の言葉を、行動を。
「………」
しばらく千染を見下ろしていた夜雲は、静かな動きで彼の首元に手を伸ばす。
伸びた夜雲の手が襟巻きを掴み、それを自分の顔に寄せる。
鼻の近くまで襟巻きを持ってきた夜雲は、少しの時間を置いた後、口を開いた。
「獣臭いね」
夜雲の視線が再度千染の方に向く。
「やっぱりきみのじゃない。……誰の?」
夜雲の声が、僅かにだが……低くなる。
目からも僅かばかりに冷たさを感じる。
そんな夜雲を見上げながら、千染は思う。
まただ。
また、この“圧”。
一体何がきっかけでこうなるのかもよくわからない。
殺された親の話をしているわけでもないし、挑発もしていない。
この襟巻きが誰のかだなんて、心底どうでもいいことではないか。
というより、よく自分のものではないことに気づけたな。
と、思いつつも、千染はとりあえず夜雲の質問に応じることにする。
「わたしと同じ衆の忍者のですよ」
「そう……。その人、きみとはどういう関係?」
「別に……ただの昔馴染みですよ」
まさかの持ち主の言及に千染は内心意外に思いながらも、平然とした態度で答える。
「そう、昔馴染み……。なんで、その昔馴染みの人の襟巻きをきみがしているの?」
「首の痕を隠した方がいいって勝手に巻かれたんですよ」
「………」
「あなたが首にも容赦なく痕をつけるから、里で色々と噂が立っているようで。それを見兼ねたそいつが、貸してくれたんですよ」
少しの嫌みを込めて、千染は返答する。
だが、夜雲は表情を変えることなく、千染を見下ろし続ける。
じっと、何か窺うかのように。
「……で、それがどうしたんですか?」
いつもならここで黙り込み、夜雲の反応を待つ千染だが、今回は思ったことを素直に口に出した。
わからないなら、本人に聞けばいい。
今、正にそれだ。
夜雲がなんで今日たまたま首に巻いていた襟巻きに言及してきたのか、わからない。
どういった意味で、どんな気持ちで、襟巻きのことをそこまで聞いてきたのか。
千染は夜雲の答えを待つ。
一方で、夜雲は千染を見下ろしたまま、掴んでいた襟巻きをするりと手放す。
そして、
「……きみが」
夜雲の目から、僅かにあった冷たさが溶けるように消える。
「きみとぼく以外の匂いがするものを身につけてると……いい気分がしない」
声色も僅かに低かったものから、少しだけ暗さを帯びたものに変わる。
その返答を聞いて、その僅かな変化を見た千染は、少しの間を置いた後……不可解そうに首を傾げた。
「何故です?」
純粋に疑問だった。
ただ他の人の物を身につけただけで、どうして気分が良くなくなるのか。
千染としては誰が誰のものを身につけていようがどうでもいいことだった。
そんなの本人の好きにすればいい。
勝手にすればいい。
そういった考え故か、夜雲の発言の意味が全くわからなかった。
せっかく返答してくれたというのに。
「……わからないの?」
ここでまた珍しく、夜雲に変化が生じた。
少し、ほんの少しだが……表情に気難しさが浮き出ていた。
声色もどこか不機嫌な感じがする。
初めてと言っていいほど見せてきた夜雲のその表情と声に、千染は内心驚きと新鮮さを感じながらも、「ええ」と正直に答える。
だって、本当にわからないから。
わからない以上、わからないとしか言いようがない。
夜雲の口が閉じる。
なんだかへの字になっている気がする。
目も……なんて言えばいいのか。
今までにないくらい、感情が浮き出ている気がする。
不機嫌そうというか、呆れているというか。
どう形容すればいいのかわからない目つきだが……。
ここに来て初めて夜雲にしては感情らしい感情を表立って見せてきたというのに、その感情の元となる要因がわからず、千染は表向き平然としつつも内心困惑した。
「……匂いです?」
「……」
「慣れない匂いが嫌なんですか?結構潔癖なんです?」
とりあえずこれだと思ったのを口にして聞いてみるが、夜雲から答えは返ってこない。
それどころか、先ほどよりも一層に不機嫌になっているような気配がする。
何なんだ。
何だって言うんだ。
言いたいことがあるならちゃんと口に出して欲しい。
何も言ってこない夜雲に若干の苛立ちを感じながらも、千染は冷静に彼を見続ける。
しばらくして。
「……ぼくは」
もはや誤魔化しきれないくらいへの字になっていた夜雲の口が、開く。
答えを返すのか。
せめて自分が理解出来る答えを返して欲しい。
そう思いながら、千染は夜雲の言葉の続きを待つ。
すると、
「きみが好きだ」
次の瞬間。
千染の耳に入ったのは、とてもわかりやすくて、とても理解し難い、夜雲の率直な感情がこもった言葉だった。
千染の思考が止まる。
平然と夜雲を見上げたまま。
「きみが好きなんだ」
夜雲は続けて口にする。
千染への気持ちを。
迷うことなく、躊躇うことなく。
「好きだから……きみが他の人のものを身につけているのが嫌だし、きみの口から他の人を意識した発言を聞くのも嫌だ」
表情や声色から僅かにあった不機嫌さは消え、とても落ち着いた口調で、夜雲は言う。
「ぼくの言ってること、わかる?……わからないよね」
千染の返事を待つことなく、確信するように言う。
「きみは……誰かを好きになったことないんだ」
伝える。
「恋したことないんだ」
突きつける。
「だからわからないんだ」
断言する。
千染は思考が動かないままでありながらも、夜雲の言葉をしっかりと聞いていた。
聞いて、ようやく回路が動き出したかと思えば、浮かんだのは疑問。
やはり疑問だった。
夜雲がようやく自分に対する気持ちを、感情を口にしてきた。
けど、それは。
それは、つまり。
「わたしは……」
千染は重くなっていた口をなんとか開く。
そして、
「あなたのご両親を……殺したのですよね?」
確認するように、問いかけた。
夜雲の言っていることが、嘘か、本当か。
ここではっきりとわかるのではないか。
けど、千染は内心確信していた。
嘘だったのではないかと。
親を殺されたのは。
だって、じゃないと、こんなはっきりと言えない。
言えるわけがない。
好きだなんて。
嘘じゃないと、こんな……。
「そうだよ」
夜雲の返事が、千染の思考を遮った。
そして、彼の確信をあっさりと覆した。
千染は呆然としてしまう。
さすがに、平然とは出来なかった。
ここで本当は嘘だった、きみの気を引くための嘘だったんだ、と言っても何の違和感もないし、むしろ嘘だとバラすには絶好の機会だったはずだ。
けど、夜雲は肯定した。
否定しなかった。
「ぼくが十四の時、きみは父さまと母さまを殺した」
無言になった千染をよそに、夜雲は言葉を続ける。
「それこそきみと再会した山道で……いや、正確には草道との境目辺りかな?」
当時の詳細を口にする。
「きみに追われていた武士か刺客か……よくわからないけど、たまたま城下町帰りのぼく達に遭遇しちゃって、父さまに助けを求めてきて」
とても、とても落ち着いた口調で。
「そしたら山道の外れから現れたきみに体をばっさり斬られちゃって」
表情も変わることなく。
「きみに追われていた人は今度は母さまを掴まえて盾にしたけど、次の瞬間には母さまの首から上がなくなっていて」
淡々と、語る。
「真っ赤になっていく母さまの体を投げ捨てて、その人は逃げて……そう。その時にきみと目が合ったはずなんだけどな」
夜雲の話を聞いていた千染の目に、疑念と困惑の色が浮かぶ。
「でも一瞬だったから、覚えてないのも仕方ないかな。きみ……すぐその人を追っていったし」
これは嘘か。
作り話か。
千染は見極めようとする。
嘘だと確信しようとする。
……だけど。
「咄嗟に後を追ったんだけど、気づかなかった?まぁ……その人を殺した後、きみはすぐ去ったし……気づいてるわけないよね」
嘘には聞こえない。
作り話とは思えない。
「きみは覚えてないから、ぼくの言ってることが信じきれないのかもしれないけど……でも、本当のことだよ」
それどころか。
「きみはあの山道と草道の境で、ぼくの両親を殺したんだよ」
頭に一瞬、過った。
日が暮れ、茜色に染まった草むらが広がる中。
人の良さそうな顔つきの男を斬り。
大人しそうな感じの女の首を跳ね。
そして、逃げる暗殺対象を追う前に、ふと見たもう一人の存在。
地面に転がっている女の首の前に佇んでいた少年。
それが点滅するように頭に浮かび、千染は目を見開く。
そして、思わず退いた。
その場が静寂に包まれる。
閉ざされた障子窓に背をつけて呆然と夜雲を見る千染と、依然として落ち着いた様子で千染を見る夜雲。
音のない時間がしばらく続く。
目を見開いたまま自分を見る千染をいつもの感情のない目で見ていた夜雲は、彼の顔を覗き込むように首を少しだけ傾げる。
「……もしかして、思い出した?」
いつもの抑揚のない声。
その声で、夜雲は問う。
だけど、千染は答えない。
答えるどころか、ますます不可解そうな様子で夜雲を見る。
完全に思い出したわけではないが、夜雲の発言と合致するような記憶は確かに過った。
嘘じゃない。
こいつは嘘をついていない。
最後に出た少年の顔だけやけに陰っていてはっきりと見えなかったが、多分あれは夜雲……いや、夜雲しかいない。
ここまで当時の状況を言えているのだから……。
だとしても。
嘘ではないとわかったとしても。
「あなた……」
千染の口から、絞り出したかのような声が出る。
「自分の親を殺した奴が……好きなんですか?」
そして、問う。
「親を殺した仇を……好きになれるんですか……?」
思ったことをそのままに。
その声には隠しきれない戸惑いが滲み出ていた。
忍として完璧に感情を切り離してきた彼が。
忍として徹底して生きてきた彼が。
己の心の揺れを隠しきれなかった。
それくらい、夜雲の心理が理解出来なかった。
千染のその様子を見て、その問いを聞いた夜雲は、何か理解したように目を少しだけ細める。
「……やっぱり、そうか」
「……?」
急に納得したような発言をしてきた夜雲に、千染は疑問を浮かべる。
何が、やっぱりそうか、なのか。
その疑問に応じるかのように、夜雲は千染を見据えると、
「千染くん……。きみはーーーーーー」
耳に入ってきた夜雲の発言に、千染の目が大きくなっていく。
文机の上にある蝋の火が、ゆらりと揺れる。
夜雲は口を閉ざすと、呆然としている千染を気にすることなく、静かに踵を返す。
そして、箪笥に向かい、大きめの引き出しを開けて、その中を探るような仕草をした後、何かを取り出した。
引き出しを閉めることなくその何かを手に、千染の元へ戻っていく。
「これ」
夜雲はそれを千染に差し出す。
けど、千染は反応らしい反応を返すことなく、目の前にいる夜雲をただ呆然と見る。
その様子を見兼ねてか、夜雲は一旦それを下げて自身の腕にかけると、千染の首に巻かれている黒い襟巻きに手を伸ばす。
そして、それを静かな動きで外すと、腕にかけていたもの……薄紫の襟巻きを彼の首に巻いた。
「その襟巻き、きみにあげるよ」
夜雲は薄紫の襟巻きから手を離すと、持っていた黒い襟巻きを適当に畳む。
「だからこれは持ち主に返してね」
そう言って夜雲は、黒い襟巻きを千染に差し出す。 千染は何の言葉も発せないまま、とりあえず差し出された襟巻きを受け取る。
それを見た夜雲は、千染から目を離し、文机に向かう。
「今日は帰っていいよ」
夜雲が言ってきたその言葉に反応して、千染は彼の方に目を向ける。
文机の前に座って筆を持つ夜雲の姿が、目に入る。
「お金はまた次の時に渡すよ」
「………」
「言いたいことや聞きたいこと、あるのかもしれないけど……とりあえず今日は帰りなよ。今の状態のきみを抱く気になれないし」
「………そう、ですか」
とりあえず。
とりあえず、千染は返事をする。
無難な返事を。
色々と思うところや聞きたいことはあるが、今日は確かに帰った方がいいだろう。
帰って、一旦頭の中を整理した方がいい。
そう思った千染は、踵を返して障子窓を開ける。
そして、そこの縁に足をかけたところで。
「またね」
夜雲の声が聞こえた。
千染は動きを止めて、振り返る。
夜雲はこちらを見ておらず、紙に文章をしたためている。
その姿を少しの間見た後、千染は口を開くと、
「……はい。また」
静かな声でそう言葉を返し、顔を前に向け足に力を入れると、一気にその場から飛び去っていった。
木の揺れる音が二、三回した後、外からは何も聞こえなくなる。
千染がいなくなり、二階の部屋に夜雲だけが残る。
夜の静けさが戻ったその場で、夜雲は表情一つ変えることなく筆を走らせる。
だけど、しばらくして筆を止めると、顎を上げて宙を見つめる。
そして、
「次が楽しみだな……」
そう呟きながら、夜雲は筆を掴んだまま頬杖をつき、たった今去っていった存在に思いを馳せるように瞼を閉じた。