相異相愛のはてに





明け方。
夜雲が起きる前に、半ば逃げるように彼の家から出て、川で体を洗ってついでに滝行で頭を冷やして、巣隠れの里がよく見える木の上で一人でぼんやりしていたら、仕事から帰ってきた独影がやってきた。
隣に座るなり、「これ食えよ」と小魚を干したやつを渡され、千染はそういえば昨日の晩から何も食べてないことを思い出し、一口食べる。
食べで噛んで、しっかり噛んで飲み込んだ後、千染は頭がなくなった小魚を見つめながら独影に話した。
昨夜のことを。
そして、夜雲が何故そういうことを要求してくるのかわからないということを、素直に言った。
すると、独影は至極あっさりと答えた。


「そりゃあ、お前にべったべたに惚れてんだからそうしてくるのは当たり前だろ」


その発言に、千染は耳を疑った。


「……惚れてる?」

「そっ。惚れてる」 

「誰に?」

「お前に」

「……」

「あれ?もしかして気づいてなかった?」


そう言いながら干した小魚の最後の頭部分を口の中に放り込む独影。
むしゃむしゃと小魚を咀嚼する独影の横顔をしばらく見た後、千染は顔を前に向ける。
ほれてる。
惚れてる。
惚れてる?
独影が言ってきた言葉が、頭の中で反復する。
そして、千染は不可解そうにする。
夜雲は自分に親を殺されたと言っていた。
親との関係も悪くなかった。
自分に殺される筋合いはない親だったと、強い口調で言ってきた。
なのに、惚れてる?


「……わたしは」

「?」

「彼の親を殺したんですけど」

「嘘なんじゃねーか?」


すかさず飛んできた独影のその発言に、千染は口を止める。


「お前の気を引きたくて或いはお前が逃げ出さないように、嘘ついたのかもな」


千染にわかりやすいように、独影は言葉の補足する。
それを聞いた千染は、手元にある食べかけの干した小魚を見つめて、思い出す。
親のことを話していた時の夜雲を。
確かに嘘の可能性はある。
一応相手が噓をついてるかどうかの見極めは出来る方であると自負しているが、それでも相手が自分より上手の嘘つきだったら……多分見極められないだろう。
実際に、嘘だったら納得もいく。
独影の発言も、夜雲の言動も。
……だけど。
何故だろうか。
夜雲の言ってることが、いまいち嘘と思いきれない。
そうだと確信してもおかしくない状況なのに……。


「まぁ嘘でもつかねぇと、お前と接点持てれねぇもんな。腕利きのお医者さんと殺生がだーい好きな忍者なんて」


考えている千染をよそに、独影は片膝を立てて頬杖をつきながら言う。


「なんかこうして言葉にして出すとあれだな。お前ら本当に対極的だよな。医者と忍者、日の下で生きる者と影で生きる者、人を生かす存在と人を殺す存在……、本来なら相容れないはずなんだけどな」

「………」

「なのに、こうやって出会って、しかも医者である相手の方から熱烈な好意を受けているときた……ちょっと運命感じねーか?」


にやにやと笑って千染を見る独影。
そんな独影の視線を若干鬱陶しく感じながらも、千染は顔を前に向けたまま、口を小さく開く。


「……根拠は?」

「ん?」

「あの医者がわたしに惚れていると確信出来る根拠は何ですか?」

「直感」

「……」


根拠もくそもない。
夜雲が自分に惚れてると思った理由を聞けば多少なり彼の心理がわかるかと思ったのだが、どうやら無駄な質問だったようだ。


「確かにこれだって言える根拠はねぇけどよ」


呆れ返っている千染の気持ちを察するように、独影は言葉を続ける。


「大吉の目を通してあの子がお前に接吻してる姿を見た時、俺はすぐに思ったんだぜ?あ、この子、千染に惚れてるなって。それくらいお前に夢中な様子だった、って……前言ったよな?」


千染は残っている小魚を再び食べ始め、独影の言い分を話半分に聞く。


「だからあの日、お前があの子の家に行くのを止めなかったのは、あの子がお前を殺すことは絶対ないって確信があったからなんだぜ?やばそうだったら止めてるっての」

「そうですか」

「どうでもよさそうな返事。まぁ、いいや」


千染がもう真面目に話を聞いてないとわかった独影は、ため息をつきながら首に巻いていた黒い襟巻きをと外す。
そして。それを千染の首にふわりと緩く巻いた。
突然のことに千染は怪訝な表情をする。


「?、なんです?」

「お前は気にしてねぇのかもしれねぇけどよ……。やっぱそれ、隠しておいた方がいいぜ?」


そう言って独影は、自分の首を指差す。
独影の動作を見て、千染は首を傾げる。
が、すぐに気がつく。
独影が何を指摘しているのか。
千染は襟を軽く引っ張って、その下を見る。
忍装束の下にある白い肌には、薄っすらとした赤い痕が点々とついていた。
それが何なのか、千染は知っている。
きっと首にもこれがついている、ということなのだろう。


「あの千染さまにいい人が出来たんじゃないかって」


独影がおかしそうに笑いながら言う。


「みんな言ってるぜ?」

「………」


独影の発言にすぐ応じることなく、千染は静かに襟元を整える。


「……みんなとは大袈裟ですね」

「まぁ里の者全員とは言わねぇけど、そこそこ噂にはなってるみたいだぜ?」


他人事のように言いながらも、独影はその里で噂してる者達の気持ちを内心理解する。
上忍でも上位を誇る実力者でかつ殺戮を好み、里の大半の者から恐れられてる千染。
その千染が最近では返り血だけではなく、定期的に首元にそれらしき痕をつけて帰ってくるようになったら……まぁ驚くし、色んな憶測が飛び交うだろう。
そういう仕事を最近しているのか。
それともそういう行為を許せる相手が出来たのか。
だとしたら、一体誰があの千染さまをいいようにしているのか。
千染が隠さないせいで、里ではあっという間にその話で持ちきりになった。
ただ一人、心ノ羽だけは「千染さま、あんなに虫に噛まれて……いつも意地悪ですからきっと天罰が下さったんですねっ」と得意げに言って笑っていた。
違うのに。
その様子を芙雪が隣で見ていて微笑ましそうにしていた。
芙雪は千染の首の痣の意味をわかっているだろうに、敢えて心ノ羽に教えないのは、心ノ羽に恥ずかしい思いをさせたくないのか、そのまま純粋でいて欲しいと願ってる故か。
まぁ二人のことはさて置き。
正直、独影も今回に限っては、


「千染もさぁ、あの子のこと本当は満更でもねぇんじゃねぇの?」


少し意外に感じていた。
千染が大好きな殺しのことでもないのに、あの青年の要求を今でも応じていることに。
青年に負けたからって言っていたが、それだけで千染がここまで言うこと聞くのは考え難い。
いつかは隙を見て殺すんじゃないかって思っていたのだが、今のところその様子もないし、むしろ相手のやりたいようにさせてるみたいだし……。
これは。
これは、もしかすると……。


「別に。独影が思っているような感情は抱いていませんよ」


先手を打つように、千染は答える。
独影が余計な憶測をして面白がらないように。


「ただ……あんな思考回路がよくわからない特殊な人間、早々巡り会うことありませんからね。物珍しさで相手しているだけですよ。飽きたらすぐ切り捨てます」

「ふーん……」

「……なんですか」


なんだか鼻につく反応を返してくる独影に、千染は気難しい表情をして彼を睨む。
そんな千染からふいっと目を離すと、「別になんでも〜?」と言って立ち上がる。


「まぁとりあえず、それはしばらく貸してやるからさ。自分の襟巻き用意するなり、首元を隠すような装束に変えるなりしろよ。あ、なんならお前に夢中なあの子に買ってもらえば?お前に似合いのを探してくれると思うぜ?」

「は……?」

「まー一度試しによぉ。お前が疑問に思ったことそのまんまあの子に言ってみろよ。そしたらあの子の思考回路が少しくらいわかるはずだぜぇ?何事も会話だ、会話」

「………」

「それじゃあな〜っ」


千染に噛みつかれる前にと言わんばかりに、にやけ顔の独影は木から木へ移ってその場から疾風のように去っていった。
瞬く間に木の茂みの向こうへと消えた独影を、千染はしばらく睨み続ける。
どこからともなく小鳥の囀りが聞こえてくる。
独影の気配を全く感じなくなったところで、千染は疲れたようにため息をつくと、首に緩く巻かれてある襟巻きを軽く掴む。


(………)


ーーーーそりゃあ、お前にべったべたに惚れてんだからそうしてくるのは当たり前だろ。


独影に言われた言葉が、脳裏を過る。
惚れてる。
千染は心の中で、再度確認するかのようにその言葉を呟く。
そして、今まで見てきた夜雲を思い返す。
彼の表情、彼の目、彼の言葉、彼の行動……。
どれも一貫して何を考えているのかわからない、が正直なところだが……確かに言えるのは初めて会った時から昨夜と明け方にかけて、彼が憎しみや恨みの感情を自分に向けたことは一度もなかった。
たまに見せてくる威圧的な態度からも、その気配だけは一切なかった。
ただ唯一。
唯一……親のことを話した時だけは、一瞬だけ声色と雰囲気が刺々しくなった。
けど、そこからも憎しみや恨みといったものは感じなかった。
敢えて言葉に言い表すなら……怒り。
その時だけ、夜雲から怒りに近い感情を感じた。
僅かにだけだが。
とはいえ、そういうものなのだろうか。
決して関係は悪くなかっただろう親を殺されて、ちょっとした怒りだけでおさまるのだろうか。
あの時、夜雲から感じた僅かな怒りらしき感情で、彼の言ってることが嘘ではない……と考え直したのだが、こうして考えるとまた疑問に思ってしまう。
先ほどの独影の発言もあるから尚更。


(嘘……か)


だとしても、自分に惚れるなんて。
趣味が悪い、いや、見る目がないと言うべきか。
自分がどれだけの命を嬉々として奪ってきたか。
標的を捕まえて嬲り殺しにしてきたか。
手も体もどれほど血塗れの手垢まみれで汚いのか、あの医者はわかっていないだろう。
大した想像もしていないだろう。
あの様子だと。


(親殺しがもし本当に嘘だったとして……あいつはいつどこでわたしを見たのか、医者のくせにどうしてあそこまで強いのか……)


千染は考える。
考えている途中で、


ーーーー……ぼくのこと、覚えていない?


不意に、初めて会ったあの山道で夜雲に投げかけられた言葉が、千染の脳裏を過る。
その言葉を思い出し、千染は少しだけ眉間に皺を寄せる。
そして、夜雲の顔を思い浮かべ、記憶を遡らせる。


(あいつの顔……)


夜雲の言っていることが嘘かどうか。
それを決定づける一番の証拠となるのは……己の記憶だ。
そう思って、千染は何度も思い返したことがある。
夜雲の顔を思い浮かべながら、何度も。
十四くらいの夜雲らしき少年。
とにかくその面影を感じるような顔を見たことあるか。
……斬って捨てた相手なんて、いちいち覚えていない。
覚える必要もないから。
だけど、意図的に見逃した相手なら……多少なりとも記憶に残っているはずだ。
それこそ滅多とないことなのだから。
夜雲が自分を見て、自分も夜雲を見ているはずなら……。
…………。


(……駄目だ。わからない)


記憶を探ってはみるものの、夜雲らしき顔が出てこない。
ならば、本当に噓なのだろうか。
親を殺したことも、自分が夜雲を見たことも。
嘘、ならば……彼の自分に対する生温い仕打ちも独影が言っていたことも、納得いかなくもないのだが……。
あの例外的な強さを除いて……。


ーーーー何事も会話だ、会話。


(………会話、か)


去り際に独影が言ってきた言葉を思い出す。
会話。
夜雲との会話。
夜雲ともっと話すこと。
今の状況で最も手っ取り早く疑問を解くのはそれだと、千染も一応はわかっていた。
口数が少ない夜雲に対し、自分が積極的に話しかけること。
思っていることを素直に聞くこと。
それが相手への理解に少しでも近づく。
……そう。
彼との会話こそが、親殺しの真偽と彼の思考回路を解き明かす鍵だ。
表情の変化が乏しく、目からも雰囲気からも感情らしい感情を出してこない夜雲だからこそ、余計に。
わからないなら、聞けばいい。
そのわからない元の本人に。
至極簡単で単純なことだ。
簡単で単純なこと………なのだが。


(………)


何故だか。
千染は、その誰でも出来る簡単で単純な方法にいまいち踏み込めなかった。
夜雲に聞きたいことを聞く。
思ってることを素直に言う。 
本当に簡単なことで、別にそうしたくない理由なんてどこにもないはずなのに。
どうしてなのか……、それを躊躇っている自分が確かにいた。
わからないから、知りたい。
夜雲が何を考えているのか、知りたい。
現に彼の言動が理解出来なくて、独影に相談みたいなことをしてしまったというのに。
それなのに、何故自分は夜雲と会話することに……彼を知ることに躊躇いを感じているのか。
あまりの矛盾に、千染は眉間に皺を寄せた。
その躊躇いに何の理由があるのか。
自分に問いかけても答えは出てこない。
ただ漠然と……躊躇っている。
それは恐怖からか、嫌悪からか……。
本能がそうしているのか……。
………もし。
自分の直感が、夜雲への理解に嫌な予感を察知しているのなら……それに従うのが賢いのかもしれないが。


(……どうせ、彼に殺されるつもりだったんです。今更どうなったっていいでしょう……)


千染は思考を放棄して、夜雲との踏み込んだ会話を試みることにする。
胸の奥にある小さなざわつきを無視して。


(それに……)


首元にある独影の襟巻きを巻き直しながら、千染は思う。
たまに、夜雲の行為に対して込み上げてくる拒絶感。
逃げ出したくなる衝動。
一人前の“忍”になってから無縁だったはずのそれらが、どうして今になってまた出てきたのか。
この十数年、何をされても胸の内は冷たく、静かでいられた自分が。
自分は夜雲に何を感じて、何を拒んでいるのか。
夜雲のことを知れば、それを知ることにも繋がる。
千染はそう感じていた。


(なるほど……確かに今までにないことは起きてますね)


たかが一人に、こんなにも思考を費やされるなんて。
気分は良いとは言えないが、新鮮と言えば新鮮。
自分がずっと抱いていた夢想から少しずつ離れていっている気がするが、これもまた未知の領域。
予想の範疇から出た展開なので、悪くはない。
夜雲が何を考えていて、これから自分がどうなるかわからないが、とにかくどうか。


どうか、一気に冷めてしまうような展開にだけはならないように。


それだけを願って、千染は静かに立ち上がると近くの木から木へと飛び移り、瞬く間にその場から消え去っていった。



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