相異相愛のはてに






「名前を教えて」



約束を経てからの四度目の夜。
いつものように二階の障子窓から入るなり、千染は文机に向かって薬草を種類ごとに分けている青年に言われた。
千染は真顔で青年を見ながら、思った。
何を今更、と。

というのも、二度目も、三度目も青年は千染を前にするなり、押し倒してきた。
押し倒しては、唇を貪り、身体中を弄り、服を剥がし、最後まで致してきた。
しつこく何度も、何度も。
そんな感じだったから、今のところ身体目当て、欲を発散したいだけ、と思いかけていたのだが……。
まさかここで名前を聞かれるとは思わなかった。
名前なんてどうでもいいんだろうと思っていたのだが………あ、いや、よくよく思い返せば初めに会った時、聞かれた気がする。
その時の自分はこの男を警戒して答えなかったんだ。
となれば、一応名前を知ろうとしていたのか。
前から……。
と、考えて出た答えに、千染は一応納得した。


「……千染です」


薬草を分けていた青年の手が、ぴたりと止まる。


「……ちぞめ……」

「はい。千本の千に染物の染で、千染です」

「千染……、そう……千染って名前なんだ……」

「わたしも今更で失礼いたしますが、あなたの名前を聞いてもよろしいですか?」


流れに乗るような形で、千染も青年の名前を聞く。
仇相手に名乗る名はないと言い返されるかもしれないが、とりあえず聞いてみるだけ聞いてみようといった感覚だった。
これで青年が突っぱねても無視してきても、千染は特に気にするつもりはなかった。
そこまで知りたいとも思っていなかったから。
けど。


「夜雲」


青年は答えた。
抵抗らしい抵抗もなく、あっさりとした口調で。


「夜の雲と書いて、夜雲」


千染はそれを意外とも何とも思わなかった。
答えるならこんな感じに答えるだろうとも思っていたから。
やくも。
夜雲。
そうか、そういう名前なのか。
特に感動とか何か感じたわけでもなく、千染は淡白に思った。
名前を知ったところで大きな何かがあるわけではないから。
ただ青年の呼び方に、“あの男”“医者”に続いて“夜雲”と一つ追加されただけのことだったから。


「夜雲さん、ですか……」

「うん」


夜雲という青年はするりと流れ落とすように薬草を手放すと、静かな動きで立ち上がる。
そして、窓際にいる千染の元に向かう。
向かってくる夜雲を、千染は黙って見つめる。
見つめながら、思う。
今日も抱かれるだけで終わるのだろうか、と。
名前を聞かれるという変化はあったものの、結局今日も同じように終わる気がした。
千染は未だに夜雲の考えていることがわからなかった。
結局どうしたいのか。
性欲処理にしたいだけなのか。
それを相手に与える最大の屈辱と思っているのか。
だとしても、自分のこの様子を見たら効果があまりないとわかるはずなのだが……。
と、考えているうちに、夜雲が目の前まで来る。
夜雲の方が身長があるため、お互いに立っていても千染が少し見上げる形になる。
後ろには壁と閉ざされた障子窓、前には夜雲、と挟まれた状態になっても、千染は平然とした様子で夜雲の行動を待つ。
ここで夜雲が刃物でも持っていて刺してきたら……ちょっと面白いかも、と思いながら。
だが。


「千染、……くん」

「はい」


やはりと言えばやはりか。
夜雲にそういった気配はない。
千染はつまらないなと思いながらも、名前を呼ばれたのでとりあえず返事をする。


「きみは……、……」


いつもの感情の無いような目で千染を見下ろしながら何か言おうとした夜雲だが、途中で口が止まる。
言いづらいことなのか、言い方を考えているのか。
夜雲が何を考えているのか相変わらず読み取りづらいが、千染はそれでも平然と彼を見上げて待つ。
あれこれ考えたところで、答えはすぐ出るだろうから。


「……きみは、慣れてるの?」


程なくして、夜雲が問いかける。
主語がないから、初めは何のことを聞いているのかわからなかった千染だが。


「他の誰かとしたことあるの?」


その言い方で、すぐに察する。
そういうことか、と。
さすがに気づかれるか……いや、むしろやっとか。


「ありますよ」


千染は迷わず率直に答える。
別に言い訳とか考える必要ないし、本当のことだから。
夜雲は少しの間、黙り込む。


「……それは、仕事で?」


そして、言及するように問う。


「はい」


千染はしれっとした様子で答える。


「……何人くらいとしたの?」

「さぁ……わかりませんよ」

「わからないくらいしたの?」

「そうかもしれませんね」


千染は否定せずに答える。
実際そうだ。
そういった行為をしてきた者の数なんて数えていないし、覚えてもいない。
覚える必要もない。


「……忍者ってそういうものなの?」

「そういうものですよ」


夜雲が腕を掴んできても、千染は平然と肯定的に答える。
彼の質問に否定する要素がないから、肯定する。
素直に、正直に、答える。


「……そう」


夜雲は抑揚のない声でそう呟くと、静かな動きで視線を落とす。
表情に一切の変わりがないため、夜雲が何を思っているのかはわからない。
けど、両腕を掴んできている手に、少しばかり力が入ってくる。
どういった感情なのかは特定出来ないが、何かしらは感じているみたいだ。
夜雲の些細な変化を見逃さないように、千染は彼をじっと見つめる。


「………千染くん」


視線を落としたまま、夜雲は千染の名前を口にする。


「はい」


それに対して、千染は変わらぬ様子で返事をする。


「わからない……ってことは、今までしてきた人達の名前も……もちろん、覚えていないよね?顔も、名前も」


腕を掴んでいる手の力が、更に強くなる。


「ええ。覚えていませんよ」


両腕から若干の痛みを感じながらも、千染は涼しい表情で答える。


「そう……」


夜雲は静かに視線を上げる。
視線を上げて、千染を見つめる。
こちらを捉えてきた目に、千染は少しだけ。
少しだけ、背筋が冷たくなるのを感じた。
何故なら、表情は全く変わっていないものの、こちらを見下ろしている夜雲の目は……どす黒かった。
淡くて儚げな藤色の瞳なのに、黒くおぞましいものを感じた。


「じゃあさ……、ぼくのことは覚えてよ」


夜雲の片方の手が、千染の腕から離れて……なぞるように彼の頬へ移動する。


「ぼくの顔も、目も、唇も、手の感触も、匂いも、声も、全部覚えて」


頬に触れていた手の親指が、今度は千染の唇を撫でるようになぞる。


「ぼくの名前を何度も口にして」


千染は夜雲から目を離せず、ただ彼の行為を受け入れる。
彼の言葉を聞く。
千染の唇をなぞっていた親指が、口の端に辿り着いたところで止まる。


「いいね?」


放たれたその声に、抑揚はなかった。
なかったが、底知れない圧があった。
無理矢理抑えつけるような圧。
錘を乗せて従わせるような圧。
あの時と同じだ。
千染の首に刃を当てて、己の勝利を確認した時と。
千染はその光景と重ねて、それを感じながら、


「わかりました……」


つとめて落ち着いた声で、返事をした。
静寂。
千染は無表情で夜雲を見上げ、夜雲も無表情で千染を見下ろす。
夜雲の目から、どす黒いものが……だんだんと溶けるように消えていく。
いつもの感情らしい感情が見えない、淡い藤色の瞳に戻る。
千染の頬にあった夜雲の手が、撫でるようにして千染の後ろ頭に移動する。
そして、腕を掴んでいた方の手は背中に回り……静かな動きで、千染を抱き寄せた。


(……)


千染はされるがままに、彼の肩に顔を埋める。
埋めるというより、埋めさせられる。
夜雲の匂いがする。
少し薬が混じっているような清潔な匂い。
三度抱かれて、三度とも確かに感じた匂い。
だから何だって話だが、とりあえず覚えのある匂いを感じながら、千染は思っていた。
よくわからないやつだ、と。

背中に回っていた夜雲の手が、下がっていく。
撫でるようにすぅと下がって、忍袴の隙間に手を入れる。
千染の体がぴくりと小さく跳ねる。
いつもの行為が始まると察する。
夜雲にやりたいようにさせて、漏れる息に熱が帯びていくのを感じながら、千染は頭の片隅で考える。

四度目。
いや、一番初めを含めると五度目か。
五度も会ったというのに、こんなにも中身が見えないやつ、今までいただろうか。
五度も会って、こんなにも進展しないことがあるのだろうか。

布の擦れる音がする。
生温いものが、内ももをつたって落ちる感覚がする。
足を震わせ、両手を彼の背中に回し着物を掴む。

ただ性欲を発散したいだけかと思えば、意味があるのかわからない質問してきて、目の色だけを変えて。
こういった行為に慣れているから、何だ。
他の誰かとしたことあるから、何だ。
何人としたとか、覚えているかいないかとか。
だからそれが何だって言うんだ。
何の関係があるんだ。
それを知る必要があるのか。
知ったところで、何があるというのだ。

前も後ろも弄られて、水を含んだ音が途切れることなく聞こえて、そこから身体中にかけて熱が巡っていく。
小さく開いた口から、濡れた声がこぼれる。
着物を掴んでいる手に力が入る。

ただの性行為をしたところで意味がない。
仇である自分の身も心も踏み躙れない。
それを確認するための質問だったのならわかる。
けど、多分違う。
この様子だと、違う。
多分、いつものようにしてくる。
いつものようにして、いつものように終わる。
そんな気がする。
だったら、本当にあの質問は何だったのか。
あの背筋が冷たくなるほどのあれは何だったのだろうか。
こいつは結局、自分をどうしたいのだろうか。

膝から崩れ落ち、それを見計らったかのように覆いかぶさってきた彼を抵抗せず受け入れる。
忍装束を乱され、足を割り開かれ、太もも、腹、胸、首すじ、耳、と唇を落とされ、舌を這わされ、吸われ、全身の一つ一つがじっくり食べられていく。
一通り味わって、味わって、味わった後に……。



「千染、くん……」



下腹部からじくじくとくる鈍い熱にむず痒い煩わしさを感じている中、確かに聞こえた声に千染は反応する。
視線を上げると、夜雲がこちらを真っ直ぐ見下ろしている。
着流しが肩下までずれて、熱に浮かされて肌が微かに赤らみ、情欲を微かに覗かせた表情と相まってその姿が妙に色っぽい。
普段、何も感じていないような様子だから余計そう思うのかもしれない。
顔も整っているし、これに抱かれて嫌な女はそうそういないだろう。
しかも医者という立場なら尚更。
単に性欲発散したいなら、相手はいくらでもいるだろうに、どうしてこいつは男……しかも親を殺した仇である自分を抱くのか。


「名前……」


千染の意識が夜雲に向く。
彼の言葉を認識する。


「名前……?」

「名前、呼んで……。ぼくの名前……」


思わぬ要求に、千染はつい口を止めてしまう。
疑念を浮かべた目で、夜雲を見てしまう。


「……こういうことをする時」


夜雲は続けて言う。


「相手の名前……口にしたことある……?」

「………」

「ない?ないのだったら……、初めてなのかな……?」


夜雲の問いに、千染は答えない。
答えないというより、答えられなかった。
夜雲の要求が予想外だったのもあり、今までこういった行為する時……相手の名前を呼んだことがないのに気づかされたから。


「ねぇ」


しばらくして、夜雲がまた声をかけてくる。


「呼んでよ、名前……。千染くん……」


ゆっくりとじっくりと急かすように、動きを再開する。
中を行き来する熱の塊に、千染は意識をとられ、熱のこもった息と共に濡れた声をもらす。


「千染くん……」


夜雲は口にする。


「千染くん……、千染くん……っ」


何度も何度も。
熱がこもった声で。
鼓膜を通して脳髄を犯してくるような感覚に、千染は少し身悶えてしまう。
あの時と同じような感覚を思い出す。
どうしようもないほど不快で、逃げ出したくなる感覚。
らしくもなく、また抵抗してしまいそうになってしまう。
あの時、夜雲から食らいつくような接吻された時と同じように。
だけど、さすがに二度目は耐性がついたな、夜雲に突き上げられながらも、千染はなんとか口を開く。


「や……」


艶のある口を開いて。


「やく、も、さん……っ」


彼の名前を口にする。


「やく、も……さん……、や、ぅ、……くも、さ、ん……」


なんとか声を絞り出して、夜雲の名前を呼ぶ。
何度も、出来る限り。
夜雲の名前を呼ぶ度に、何故だがぞくぞくして、ぞわぞわして、中にある熱を強く感じて、千染はまた逃げ出したくなった。
逃げたい衝動に駆られた。
けど、それを防ぐかのように、夜雲が覆いかぶさってきた。
汗ばんだ熱い肌が密着してくる。
耳元で興奮混じりの吐息が聞こえる。
もはや千染は、夜雲の名前をこれ以上呼べなかった。
口に出来なかった。
ただただ夜雲の全てを受け入れて、夜雲のやりたいようにさせて、この時間が終わるのを待った。
早く終わることを無意識に願って。





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