相異相愛のはてに
花曇山の麓にある花咲村。
海鳥が青空を悠々と飛び、漁師と村人達の笑い声が時折聞こえるのどかなその村で、青年……夜雲はいつものように回診をしていた。
いつものように必要なことを伝え、いつものように村人からお礼を言われ、いつものように民家から出て次の民家へと移る。
夜雲が外を歩く度、誰も彼もが親しみと尊敬を込めた眼差しで彼を見る。
時折夜雲に世間話方々声をかけたりする。
子ども達は……愛想の全くない夜雲がやはり苦手なのか、彼が近くを通ると少し気まずそうにする。
だが、それもいつものことだ。
いつもと変わらぬ日常。
いつもと変わらぬ村。
いつもと変わらぬ夜雲。
……だが、その日はちょっとだけ違った。
「夜雲さま」
全ての回診を終えて、浜辺で潮風に当たりながら海を眺めていた夜雲の元に、一人の少女が大根、芋、葱と野菜が入った籠を抱えて歩いてくる。
名前を呼ばれ、夜雲は振り返る。
長い髪を後ろに緩く結わえて、とても優しい顔立ちをした可憐な少女の姿が、夜雲の瞳に映った。
少女は穏やかな笑みを浮かべて、夜雲の側で足を止める。
「これ、うちで取れたお野菜です。よろしければ夜雲さまにと……」
聞けば誰もが落ち着くような優しい声でそう言って、少女は野菜が入った籠を夜雲に差し出す。
それをしばらく黙って見ていた夜雲だが、「ありがとう」といつもの抑揚のない声でお礼を言って受け取る。
同時に懐から小さな布袋を取り出す。
「いくら?」
「え?あ、いえっ、お金はいいんですっ。夜雲さまにはいつもお世話になっているので、わたし達家族のささやかなお気持ちです」
小銭を出そうとしてきた夜雲を見て、少女は慌てて手を振って受け取りを拒否をする。
普段なら、そう……とだけ言って、その場の空気にそった行動をする夜雲だったが、この日は違った。
少しの間考えるように少女を見た後、布袋を懐にしまい、今度は足元に置いていた背負い籠の中からとあるものを取り出す。
それは大きな葉に包まれた干し柿だった。
「これ」
「え?」
「あげる。少ないから弟と内緒で食べるんだよ」
「えっ、え、そんな……」
半ば押しつけられるように干し柿を渡され、少女はうろたえながらも受け取る。
そして、本当に受け取って良いのか迷っているような困っているような表情をして、夜雲を何度も見る。
そんな少女の視線を気にする様子もなく、夜雲は籠にある野菜を背負い籠の中に移していく。
おろおろしていた少女だったが、夜雲の横顔を見て何か気づいたような表情をする。
挙動不審だった動きが落ち着いていく。
夜雲は籠についた砂を手ではたき落とすと、静かに立ち上がって少女の方を向く。
「これ、返すね」
「あ、は、はい」
夜雲に声をかけられ、少女はハッとした顔をして差し出された籠を慌てて受け取る。
「由良ちゃんのご両親にもよろしく伝えておいて」
「は、はいっ。夜雲さまも干し柿、ありがとうございます。………あの」
「?」
由良(ゆら)と呼ばれた少女は少し悩ましげに口ごもられたが、意を決したような顔つきになると夜雲を見つめる。
そして、
「夜雲さま……何かいいことがありましたか?」
少女・由良の口から出たその問いかけに、夜雲は少しだけ目を大きくした。
微かにだが驚いたような反応を返してきた夜雲を見て、由良はあっと焦りの声をあげる。
「あ、も、もし勘違いでしたらすみません!な、なんだか今日の夜雲さま、表情がいつもより明るい気がして……っあ!い、いえ、いつもは暗いとかそういう意味ではなくて、むしろ夜雲さまはいつも落ち着いていて素敵なのですが、今日はなんだか……少しぱぁっとしている感じがあると言いますか……」
「………」
「す……すみません!過ぎたことを言ってしまいました!!」
何の反応も返してこない夜雲に、更なる焦りを感じた由良は咄嗟に深く頭を下げて謝る。
ああ、普段からお世話になっている夜雲さまになんて失礼なことを言ってしまったのだろう。
夜雲さまのことだから怒らないだろうけど、でも、でも、だからって思ったことをすぐに口に出していいわけがない。
何の根拠もないのに、自分の勘違いかもしれないのに。
申し訳ない。
本当に申し訳ない。
夜雲さまに嫌な思いさせてしまったかもしれない。
と、由良は頭を深々と下げながら心の中で謝罪と懺悔をする。
………だが。
その一方で由良を見ていた夜雲は、元の無表情に戻り、ゆっくりとした動きで海の方に顔を向ける。
青い、どこまでも青い海の先を、見つめる。
「………ずっと」
「え……?」
海から流れてきた心地良い潮風に、癖のある灰色がかった白髮がふわりと揺れる。
海を見つめてる夜雲の目が、微かに細くなる。
そして、
「会いたかった人に……会えたんだ」
穏やかな波の音に紛れて、夜雲は呟くような声で言う。
それを聞いた由良は、顔を上げるなり目を大きくした。
「……だから、由良ちゃんの言ってることは間違いじゃないから。気にしないで」
「……」
「あんまり、表に出してるつもりはなかったんだけどな……。由良ちゃんは些細な変化にも気づけるんだね。すごいね」
「あ、いえ、そんな……」
ほんの微かに夜雲の声色が優しくなったのを感じて、更には褒められて、いつもなら素直に喜べただろう。
嬉しくて嬉しくてたまらなくなっただろう。
それと同じくらい照れて、顔も赤くなっていただろう。
だけど、由良はそうなれなかった。
そうなるどころか、胸の奥につきりとした痛みを感じた。
微々たる変化だが、海を眺めている夜雲の横顔が先ほどよりもなんだか柔らかくて、普段は何も感じていないような無気力な目も……微かにだが生気を感じる。
それに加えて、会いたかった人に会えた、という言葉。
由良はすぐに察してしまった。
夜雲の変化とその発言が何を意味しているのかを。
(………)
由良は若い。
夜雲より五つ以上年下だ。
けど、いくら若くてももう異性を意識してもおかしくない年頃だ。
甘酸っぱい気持ちが芽生えてもおかしくない年頃の少女だ。
……だから。
だから、少なくとも、夜雲にそれに近い感情を抱いていた。
燃え上がるように熱くはっきりしたものではないが、淡い灯火ような気持ちが由良の中には確かにあった。
もちろん、初めは感謝の気持ちや尊敬、憧れに留まっていた。
けど、年を重ねて夜雲を見る度に、彼とこうやってたまに話す度に……。
(……夜雲さま……)
由良は視線を落とし、心内で切なげに夜雲の名前を呟く。
いつから、勝手に確信していたのだろうか。
いつから、傲慢に思い込んでいたのだろうか。
夜雲とのこうした時間が、変わらぬ日々が続くって。
腕の立つ医者で、とても優しくて、献身的で。
こんな素晴らしくて医者としても人としても優れた人に、相手がいないだなんて。
想い人がいないだなんて、なんて烏滸がましい思い込みをしていたのだろう。
恥ずかしい。
申し訳ない。
……でも、少し。
少しだけ、悲しい。
色んな感情を抱きながら、由良はうつ向く。
そして、その感情を出さないようにぐっと堪えると、笑顔を作って再度顔を上げた。
「……よかったですね」
「ん?」
海を眺めていた夜雲は、由良の声に反応して彼女の方に顔を向ける。
「夜雲さまがお会いしたい方に会えて。どなたかは存じ上げませんが、夜雲さまがそれで嬉しい気持ちになられているのでしたら、わたしもとても嬉しいです」
優しく笑って嬉しそうな声でそう言ってきた由良を、夜雲は黙って見る。
「ちなみにどなたでしょうか?先ほどの言い方からして花咲村の者ではありませんよね?」
「……うん。遠くにいる人。名前は……………言ってもわからないと思う」
「あ、そ、そうですよね。わたし、村の外まだあまり歩き回ったことありませんから……」
教えたくないのか、まんまの意味なのか。
そのお相手の名前を言おうとしたところで、すごく間が空いたのを気にしつつも、由良は名前に関してはそれ以上言及せず無難な言葉を返す。
「その人とは、昔会って長いこと離れ離れだったのですか?」
「うん。正直……もう会えないかと思っていたんだ。会う手がかりもなかったし」
「では、何かしらの偶然で再会なされたと?」
「そうだね。本当に奇跡的な偶然だったよ。会うために色々とやってきたけど、結局は運次第だったね。無駄なことをしてしまったよ」
「……いえ、夜雲さまがそうしてまでその方と会いたいという気持ちがあったからこそ、実を結んだのですよ」
「………そうかな?」
「そうですよ。天はいつだって頑張っている方を見ているのですから」
「………」
「特に夜雲さまは普段から良い行いをしていますから、きっと神様がその人と夜雲さまが再び会えるように導いてくださったのですよ」
「……そう。神様って、案外お人好しなんだね」
「ふふ。夜雲さまだからこそですよ」
「………」
「あの、夜雲さま」
「何?」
「もし、その、不都合とかありませんでしたら……いつかその人を連れて、村に遊びに来てくださると……嬉しいです」
「………」
「夜雲さまがずっとお会いしたかった人がどんな方なのか、一目見たくて……」
「…………」
「あ、えっと、その……っ、ま、また過ぎたこと言ってましたらすみません!でも、どうしても気になりまして……!」
また無言になってしまった夜雲に、由良はハッとした顔をして慌てて頭を下げて謝る。
二人の間に、ふわりとした潮風が通り過ぎていく。
遠くから聞こえる漁師の笑い声、青空から聞こえる海鳥の鳴き声。
穏やかな波の音、暖かな日差し。
平穏を象徴するそれらに反するかのように、由良は緊張と恐れで肩や手を小刻みに震わせる。
その姿を見ていた夜雲は、少しの間を置いた後、ゆっくりと由良に向かって手を伸ばす。
そして、その手を……由良の頭に優しく置いた。
頭から感じた温もりに、由良は驚いた顔をする。
「わかった」
由良が恐る恐ると顔を上げたと同時に、夜雲は口を開く。
「大分先になるだろうけど、いつかは連れて来るよ」
そう言って、夜雲は由良の頭を優しく撫でる。
「その時は、その人の話し相手になってくれるかな?」
「あ、も、もちろんです……!わたしでよろしければ……!」
「ありがとう。由良ちゃんは本当に優しい子だね」
柔らかさのある声でお礼を言うと、夜雲は由良の頭から静かに手を離す。
もう少し夜雲の手の温もりを感じたかったと密かに思いつつも、由良は頬を仄かに赤らめて、嬉しそうに笑ってうつ向く。
夜雲は由良の反応を見届けた後、ゆっくりと再び海の方に顔を向ける。
澄みきった美しい青色の海。
太陽の光に反射してきらきらと光っている海を眺めて。
同時に“会いたかった人”の姿を浮かべて。
夜雲は目を柔らかく細める。
「海……」
「?」
「綺麗だね」
夜雲の言葉に反応して、由良も海の方を向く。
心地良い潮風に吹かれながら、青い空の中を優雅に飛ぶ海鳥とその下に広がる海を見る。
見て……、だんだんと慈しみが滲み出た笑みを浮かべていく。
そして、
「……はい。とても綺麗です」
花咲村ののどかな空気と夜雲とのこの時間を噛みしめるように、由良は愛しさを込めた静かな声で言った。
何の会話もない、穏やかな時間だけが流れていく。
夜雲の存在を近くで感じながら、由良は海を眺める。
眺めながら、幸せを感じる。
夜雲に想い人がいても、自分の気持ちが伝わらなくても、実ることが決してなくても……これでいい。
こうして、たまに夜雲と一緒に海を眺めているだけで……十分幸せだ。
心の底からそう思い、由良は流れ行く時間に身を任せようとする。
………が。
「由良ー!」
「!」
「………」
突如聞こえた大きな声に、由良はハッと目が覚めたように反応する。
由良より先に、夜雲が声のした方に顔を向ける。
村の民家の方から、一人の少年がまだ幼い子の手を引いて浜辺に足を踏み入れたところで足を止める。
「そこにいたのか。ねねがいないって、沿良が泣いてたぞ」
「ねねぇ……」
「あ、あぁーごめんっ。ごめんね、沿良〜っ」
由良は振り返るなり、慌てて少年と沿良(そら)と呼んだ幼い男の子の元へ走っていく。
由良の弟だ。
由良が近くまでくると、幼子の沿良は少年から手を離し、由良に飛びつく。
沿良を抱き上げた由良はそのまま立ち上がって、夜雲の方を向く。
「では夜雲さま、長いことお話してすみません。失礼いたします」
「うん……」
由良は夜雲の向かってぺこぺこと頭を下げると、隣にいた少年に声をかけて、民家に向かう。
由良に抱きかかえられてる沿良は、夜雲を見ることなく由良の肩に顔を埋めている。
そして、由良を呼びに来た少年はというと……どこか気難しそうな表情をして夜雲を見ていた。
身軽そうな服装によく鍛えられた筋肉質な体、漁師の息子といったところだろうか。
年も由良と同じくらい、と見ていいかもしれない。
とにかくそんな少年が何故夜雲を疎ましそうに見ているのかと言うと……まぁそういうことだ。
色恋沙汰に鋭い人はすぐ察するだろう。
少年は少しの間だけ夜雲を睨むように見た後、振り切るように前を向く。
そして、先に民家に向かった由良の後を追いかけた。
「………」
その一部始終を見て、一人になった夜雲はゆっくりと海の方に再び体を向ける。
いつもの無表情で。
特に由良達を気にかけるような様子もなく。
海をしばらく眺めて、今度は視線を落とし、胸の前に持ってきた手を……否、正確には白い布が巻かれた親指を見る。
その親指を見て夜雲は、
「……名前、まだ聞いてないな……」
と、呟いた。