相異相愛のはてに





殺す気はないのか。



青年を見上げながら、千染は思っていた。
てっきり両親の仇討ちとして殺されると思っていたのだが、青年が言ってきた「きみに勝ったら、なんでも言うこと聞いてくれる?」という言葉……。
これは、今すぐには殺さない、という意味だ。
少し……いや、わりと拍子抜けした。
親の仇討ちとなれば、すぐにでも殺しにかかってくるものではないかと思っていたから。
予想が……ちょっと外れた。
とはいえ、もしかしたらそのなんでも言うことの中に、自害しろって内容もあるかもしれないが。
それはそれで、ある意味屈辱的かもしれない。
仕事でも何でもない、今日たまたま出会ってしまった青年に命令されて自ら死ぬなんて。
下手したら拷問されるより惨めな死に方かもしれない。
何にせよ。
何にせよだ。


この男は一体何を考えているんだ。


千染は青年から目を離せなかった。
自分を見下ろす目、そして声。
抑揚がなく無気力とも言っていいくらいだったはずのその目と声が、今は妙に威圧的だった。
大人しく従え、逆らうことは許さないと暗に言っているかのように。
……復讐心を抱く者が復讐する者に対して、暴力的なぐらい支配的になるのはわからなくもない話だ。
だって、許せない相手なのだから。
憎くて憎くてたまらない相手なのだから。
嬲りたくなるだろう。
自ら死を乞うぐらいの生き地獄を味わわせたくなるだろう。
………だけど、青年からは。
この青年からは、それほどの強い憎悪や殺意、怒りを……全く感じなかった。
ただ、威圧的なだけ。
自分を抑えつけようとしているだけ。
それだけ。
それだけだった。
だから、千染はわからなかった。
青年の考えていることが。
わからないはずなのに、何故だが……ぞっとした。
妙な悪寒を感じた。
別に相手が内にある感情を隠すのが上手いだけの話で、本当はとてつもない憎悪が渦巻いているかもしれないし、もう今更どう足搔いてもどうもならないし、ただ自分は状況を把握して後は流れに身を委ねるだけで……それ以上に感じることは何もないはずなのに。


今、自分は何を感じたのだろうか。

恐怖?焦り?後悔?

このぞわぞわする感覚は一体……。



「ねぇ」



青年の声が、千染の思考を遮った。
千染は考えるのをやめて、再び青年に意識を向ける。


「何考えてるの?」


それはこっちの台詞だ。
お前こそ何考えてるんだ。
と、反射的に言い返しそうになった千染だが、なんとか口を強く閉ざして堪えた。


「……戦いで負けた人ってさ」


千染の返答を待たずして、青年は再び口を開く。


「勝った人の好きにされて当然なんだよね?」


そして、問う。
確認するかのように。
確信しているかのように、はっきりと。
それを聞いた千染は、真顔で青年を見上げていたが、しばらくしていつもの柔和な笑みを浮かべる。


「ええ、そうですよ」


千染も迷いなくはっきりと返事をする。
実際、嘘ではないから。
戦で負けた城は潰される。
戦で負けた国は侵略される。
敗者は全ての権利を取り上げられ、勝者は全ての権利を手に入れる。
弱きは悪、強きは善。
そういった世界なのだから。
生まれた時から、ずっと。
だから、千染はこれから起こる全てを潔く受け止めるつもりだった。
敗者として、青年に復讐されるべき仇として。


「……そっか」


少しの沈黙の後、青年はぽつりと呟く。
再び……抑揚のない声で。
千染の白い首に当てていた刀を、静かに下ろしていく。
この時点で、反撃の機はあるにはあったが、千染は何もしなかった。
ただ、青年の動向を見守った。
独影から死ぬ寸前まで足搔いて欲しいと何度も言われてきたが、残念なことにそうしようという気持ちになれなかった。
昔馴染みの血の通った願い事よりも、好奇心が勝ってしまった。
これから青年が何をするのか、自分がどうなるのか。
独影に申し訳なく思いながらも、千染は待った。
自分の行く末を。

刀を下げた青年は、千染から目を離さないまま更に彼の元へ歩み寄り、静かにしゃがみ込んだ。
千染と青年の目線が同じになる。
表情は相変わらず無表情。
だけど、青年の目から感じる妙な威圧感に、千染は何故だか胸にざわつきを覚える。
ここまできて、自分が恐怖を感じている……とは思いたくないのだが。
と、考えているとそれを遮るかのように青年に胸ぐらを掴まれ、半ば叩きつけられるように木に押しつけられた。


「ぼくのこと、本当に覚えていない?」


青年は千染を真っ直ぐ見据えながら、問う。
それに対して千染は、


「……言ったでしょう。知りません、と。殺してきた者……ましてや、その子どもなんてわざわざ覚えていませんよ」


と、呆れ混じりの口調で返答した。
とても挑発的な返し。
だが、相手のご機嫌とりはもちろんのこと命乞いなんてするつもりは端からないし、実際そうなのだからそれ以外に返す言葉がなかった。
青年の小さく開いていた口が閉じる。
表情に変わりはない……が、こちらを捉えている目が更に黒く濁ったかのような……そんなものを感じる。
これは怒った……と、判断していいものなのか。
ただ確かにわかるのは、決していい感情のものではないということだ。


「……そう」


青年は短く返事をする。
今度はどこか、冷たさを感じる声で。


「じゃあさ」


胸ぐらを掴んだ手に、力が入る。
強く握って、今度は自分の方に引き寄せる。
千染と青年の距離が更に縮まる。
これは殴られるか、死なない程度に刺されるか、罵られるか。
と、千染はなんとなく予想する。
そして、鼻と鼻がくっつくくらいの至近距離までに到達した後、



「これから覚えて」



そう言うなり青年は、胸ぐらを掴んでいた手を素早く千染の後ろ頭に回し、その髪を根元から半ば引っ張るように掴むと、半開きになった彼の口に食いついた。


予想外……どころじゃない。
一瞬何が起きたのか、さすがの千染も理解出来なかった。
青年の顔がすぐ目の前に、間近にある。
それだけならまだしもだ。
口。
口、どうなっている。
呆然としている間に、口の中に入ってくる。
生温かくて、柔らかいもの。
それが容赦なく侵入してくる。
無遠慮に入ってきて、口内をなぞってくる。
舐めてくる。
絡ませてくる。
まるで味わうかのように。
水気を含んだ不快な音をさせながら。
それが何なのか。
今、自分が何をされているのか。
千染はやっと理解する。
理解した瞬間、一気にぞわぞわとした不快感が込み上げてきた。


「ふ……ぐ、ぅ……!」


咄嗟に青年の肩を押したが、それよりも速く刀を手離したであろう青年のもう片方の手が、背中に回ってくる。
体が密着し、ほぼ抱き寄せられるような形で、千染は唇を貪られる。
青年から何かしらされるのはわかりきっていたことだったが、まさか“そっち”系だと思わなかった。
劣情、欲情、発情。
人の繁栄……いや、人に関わらずあらゆる生物の繁栄に必要な感情、欲求。
生命的反応。
それは正しい場面で正しい相手に行えば必要な生命の営みで終わるのだが、それ以外だと最大の屈辱的行為になる。
体も尊厳も踏み躙られる。
そうとわかって、そういったことをしてくる者は当然いた。
千染もそれなりに経験した。
やる方も、やられる方も。
この見た目だから尚更、男に欲望の対象にされることはあった。
それなりに。
だから、別に。
別にこんな接吻如き、どうってことない。
今まで経験したことに比べたら、些細なこと。
大したことない。
適当に相手してやろう。
………そう思うはずだったのだが。


「っぐ……!ん゙、ぅ゙、っ〜〜〜……!」


何故だか、異様なくらい不快だった。
おぞましくて、気持ち悪くて、たまらない。
逃げたい。
抜け出したい。
そんな気持ちに駆られた。
約二十年、徹底して忍だった彼が。
初めて……逃げ腰になった。
とはいえ、青年が千染を解放する気配なんてなく、ただひたすら彼の唇を貪り続ける。
飢えた獣のように。
舐めて、なぞって、絡めて、吸って……。
いい加減しつこいと感じた千染は、僅かばかりに苛立ちを感じ、そのまま青年の舌を噛もうとした。
噛んで、ちぎろうとした。
だが、その思惑を察したのか、青年はその直前で千染の後ろ頭に回していた手を素早く口元に移動させ、隙間から彼の口内に親指を突っ込んだ。
直後、千染の歯が、上から下からと青年の指に食い込む。
食い込んで、食い込んで、強く食い込んで……青年の指から血が滲み出る。
かなり痛いはずなのに、青年の表情から苦痛の色は浮かばない。
が、やはり何か感じるものはあったのか、青年は接吻をやめた。
千染の口から青年の口が離れる。
唾液が糸を引いて、ぷつりと切れる。
その瞬間、千染は勢いよく顔を背ける。
青年の親指も千染の口内から抜け、冷たい外気に当たる。
千染の微かに乱れた呼吸音を耳にしながら、青年は血と唾液が絡まった親指を見つめる。


「……嫌だった?」


そして、再び千染に視線を戻して、問う。
それを聞いた千染は、ハッとしたように固まった後、視線を落として山賊達の血で赤く染まった地面を見る。
呼吸も瞬く間に落ち着いていき、千染の口の端が微かに上がる。
そして、柔らかな笑みを浮かべて青年を再び見ると、


「……少し、驚いただけですよ」


白々しい言葉を返した。
明らかに抵抗の意思を見せていたというのに。
けど、もう手遅れとわかっていても、素直な感想を言うのは癪だった。
なんだか、一本取られた気がして。
…………一本取られた?
何を言っているのだろう。
一本取られるも何もこちらは既に負けているというのに。
己の思考の矛盾に戸惑いながらも、千染はそれを一切表に出さず、柔和な笑みを浮かべ続ける。


「………そう」


そんな千染の心境を知ってか知らずか、青年は短く返事だけすると、千染の背中に回してる手を離し、傍らに置いていた刀を取った。
そして、その刀を……鞘にしまった。


「………」


彼の動きを見ていた千染は、理解する。
やはりこの青年は自分をすぐ殺す気はないと。
となれば……さっきの続きか。
死体だらけのこの場で辱めてくるか。
千染はそう予想する。
刀の柄を掴んでいた青年の手が、千染の顔に向かって……静かに伸びる。
……が、


『カァーッ!カァーッ!』


真っ暗な道外れ、かつ近いところから、烏の鳴き声が聞こえてくる。
それに反応するように、青年の手はぴたりと止まった。
ばさばさばさと暗闇から羽ばたく音がする。
その音を耳にしながら、千染は青年を見る。
そして、青年も千染を見つめる。


「……さまぁー!……め、さまぁーー!!」


烏に続き、山道の向こうから少女の声が聞こえてくる。
心ノ羽だ。
きっと村人達と荷物を小春城へ無事送り届けた後、いつまで経っても来ない千染を心配して、戻ってきたのだろう。
足音がだんだんと近づいてくる。
表情は変えないものの、千染は僅かな苛立ちに駆られる。
心ノ羽め、城で城の者や村人と仲良しこよしでもやって一晩過ごしていればよかったものを。
どうする。
こいつが心ノ羽を見たらどう行動に出るか……。
と、千染が思考を巡らしている一方で、青年は彼の顔に伸ばしかけていた手を……静かに下ろす。
そして、千染に少しだけ顔を近づけると、


「花曇山」

「……?」


心ノ羽の方に意識を向けていた千染だが、青年の言葉に反応して意識を再びそちらに向ける。


「明日の夜、花曇山にある家に来て」

「……」

「約束。待ってるから」


それだけ言うと、青年は千染から顔を離し、静かに立ち上がる。
そして、少しの間だけ千染を見下ろした後、踵を返し、向かい側にある道外れへと歩き去っていった。


(………)


千染は追いかけることも声をかけることもなく、暗闇の中へ入る青年を見続ける。
青年の姿も、気配もなくなり、その場に六つの死体と木に背を預けて座り込んでいる千染だけが残る。


「千染さまぁあ〜!あ、ちぞ……うひぃーーーっ!!?」


青年の気配がなくなったほぼ直後、現場に辿り着いた心ノ羽が血まみれの惨状を見て悲鳴をあげる。
あの後、村人達と無事突破した後、山賊達は多分千染に皆殺しにされているんだろうなと複雑な気持ちで思っていたが、千染が全く追いついてこないし城に着いて待っても来る気配がないから、もしやと思って駆けつけてきたというのに……。
案の定の結果だった。
思っていたとおり、山賊達は皆殺しにされていた。
いつになっても苦悶の表情で死んでいる姿は慣れない。
とりあえずなんとか深呼吸を繰り返して落ち着き、心ノ羽は死んだ山賊達に向かって両手を合わすと、千染の元へ駆け寄った。


「千染さま!ご無事っぎゃ!?」 


だが、すぐ近くまで来たところで額に強めの衝撃を感じ、心ノ羽は悲鳴をあげて数歩退いた。
千染に石を投げられたのだ。


「いたいぃ〜〜っ」

「お前は本当に間が悪いですね……」


額を両手で押さえて蹲る心ノ羽を文句を言い放ちながら、千染はゆっくりと立ち上がる。
そして、少し離れた場所に転がっている小太刀を拾いに行く。
その姿を見た心ノ羽は、額の痛みに涙目になりつつも今の状況の過程を察する。


「ぞ、賊の方達……結構強かったのですね……。千染さまの手から武器を離させるなんて……」

「……いえ」


千染は小太刀を拾う。


「この人達じゃないですよ」

「へ?」

「見知らぬ若い男でした」

「へぇ?えっ……、つまり賊の方達以外にも敵がいたと……?」

「……」 


頭がこんがらがっている様子の心ノ羽を無視して、千染は拾った小太刀を鞘にしまう。
そして、道外れに生い茂っている木々を見上げる。
暗闇に潜んでいた烏が鳴き声をあげて、ばさりと飛んでいく。
星が輝く夜空の向こうへと飛んでいく。
それを見届けた千染は、顔を前に向き直し、静かに歩き出す。


「帰りますよ」

「えっ」

「お金はもらいましたか?」

「あ、は、はい!小春城の城主様、頑張ってくれたからと言われていた額より少し多めにくださりました!すごくいい人です!太っ腹です!」

「……そうですか」


向こうでもお得意の媚び売りを発揮したか。
と、吐き捨てるように思いながら、千染は里へ帰るべく一気に駆け出した。
その後を心ノ羽も慌てて追いかけた。
無惨に転がっている六つの死体だけを残して……。






その一方で、道外れに戻った青年は、歩いていた。
目的の場所に向かって、夜鳥の鳴き声が聞こえる暗がりの中、歩いていた。
歩いて、しばらくして、木の根元に置いていた背負い籠が見える。
背負い籠のすぐ側まで来た青年は、それの中身を確認し始めるが、途中で手の動きが止まり、ゆっくりとしゃがみ込む。
背負い籠の前で蹲っている青年の肩が小さく震える。
微かに、ほんの微かにだが……息の音が聞こえる。
震えを帯びた……息遣い。
それに感情が込められているのは確かだが、怒っているような、悲しんでいるような、笑っているような……どれにも当てはまるような息遣いで、はっきりとはわからない。
程なくして、何も聞こえなくなる。
青年の肩の震えも止まる。
不気味な静寂だけが……漂う。


「………」


夜鳥が三度鳴いたところで、青年はゆっくりと顔を上げる。
何時もの無表情で、目の前の木を見つめる。
少しの間を置いて、青年は再び手を動かし、籠の中身を確認するとそれを持って立ち上がる。
籠に繋がっている縄に腕を通し背負うと、籠の縁に引っかかっている刀袋を取る。
刀を腰から抜き取り、刀袋に入れながら歩き出す。
何事もなかったかのような様子で。
人を斬った後とは思えないくらい落ち着いた様子で。
何も無い表情で。
歩いて、今度こそ帰路を辿りながら、青年は千染に噛まれて赤くなってる親指を口元に持ってくる。
そして、その傷口をなぞるように舌を這わせた。
ゆっくりと、味わうかのように……。



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