CHANGE
「ねぇねぇ、カヤ」
死が纏わりつくと言われている“ならず山”。
その山の中にある家で、何も知らない俺はたくさん本を読んだ。
中でも特に面白かったのが、怪物から人々を守った英雄とか世界を救った勇者とかの話で。
「カヤって、実はすごい人だったりする?」
俺は、今から前のカヤを知らないから、もしかしてと思って、期待を膨らませながら聞いた。
俺の質問に、カヤは不思議そうな顔をしていた。
「なんだい、急に」
「だって、カヤは一見普通の人だけど、実は町の人達を怪物から助けた英雄だったりするんじゃないの?それだったら、すごいカッコいいのに!」
読んだ本を抱えて興奮気味に言う俺があからさま過ぎておかしかったのか、カヤは少しぽかんとした後、吹き出したように笑った。
「ぷっ……あはっ、あはははははっ!なるほどねぇ~~」
「?、何?何がおかしいんだよ?」
「いや~、ほんっとあんたってわかりやすいねぇ……。その本に出る英雄が、そんなにカッコよかったのかい?」
その言葉を聞いて、俺は何度も頷いた。
それがまたおかしかったのか、カヤは口元を手で押さえて笑った。
「ふふふっ……そうかいそうかい。でも、残念ながら私は英雄じゃないよ」
「え~~、そんなこと言って隠してるんじゃないの?」
「隠してないさ。どこにでもいるフツーのおばさんだよ。現に私に助けを求めて、この家に訪れる人がいないじゃないか。それが何よりもの証拠だよ」
「ちぇ~~」
胸で膨らんでいた期待が少しの会話で容易く潰えて、俺は本を抱えながらベットに転がった。
そんな俺を見てか、カヤもテーブルでしていた豆剥きをやめて、ベットの端に座ってきた。
「私が英雄だったら嬉しかった?」
カヤが俺の頭を撫でながら聞いてくる。
俺に触れてくるカヤの手はいつも優しくて、温もりがあって、心地好かった。
「ん~、英雄じゃなくても実は魔法使いだったとか王様だったとかでもいいよ?」
俺の返答に、カヤはクスクスと笑う。
「そうだねぇ……。もし仮に私が過去にすごいことをした人だったとしても、カエデには今の私だけを見て欲しいな」
「えっ?カヤ、何かすごいことしたの?」
「さぁね。でも私はあんたの知っている私でいるから。これからも、ずっと……」
「?、どういうこと?」
カヤの手が俺の頭から離れる。
カヤは俺を見下ろして、何とも言えないような笑みを浮かべた。
悲しそうな、苦しそうな……そんな複雑な笑顔。
初めて見る表情に、どうしたのかと俺は聞こうとしたが。
「はいっ、読書もいいけどそろそろ稽古の時間だよっ。ほら、準備準備っ」
カヤはすぐにいつもの明るい笑顔に戻ると、両手を叩いて立ち上がった。
カヤの言葉を聞いた俺は、壁に飾ってある時計を見てハッとなる。
「あっ、もうこんな時間!待っててー!」
「ふふふっ」
稽古の時間が迫ってるとわかった瞬間、本をベットに放って、慌てて準備を始めた。
その時にはカヤのよくわからない発言とあの笑顔のことなんて、頭の中から綺麗さっぱり消えていた。
けど……。
思えば結局、カヤが以前何をしていたのか。
どこで暮らしていたのか。
それすらも……全然聞けなかったな。
カヤは俺がイグノデゥスと知っていたけど、俺はカヤが何だったのか知らない。
何を見て、どんな気持ちで、俺と会う今の今まで生きてきたのか……知らない。
もっと、話すべきことはあったかもしれない。
………カヤ……。
***
ステイトはハッと目を開く。
思考が止まったまま、呆然と前を見続ける。
冷ややかな風が吹き、ステイトの髪が小さく揺れる。
そして、先ほどの光景が夢だと気づいたのは、木々のざわめきが聞こえてからだった。
血生臭い。
体が酷くだるい。
なんだか、胸辺りが気持ち悪い……。
時間が経つにつれて感覚が戻り、ステイトは目の前にある状況を認識し始める。
そして……、
「……!」
ステイトは愕然とした。
目の前に広がるのは、赤、赤、赤、赤塗れ。
それが全て血とわかったのは、すぐのこと。
木の幹も地に敷き詰められた枯れ葉も、全て血に染まっていた。
ステイトの瞳が、激しい戸惑いに揺れる。
咄嗟に、左手で自分の体を触る。
痛いところも、大きな傷も……ない。
それどころか、ストーンに貫かれていたはずの胸にも傷はなかった。
まるで、最初からそうだったように。
ステイトは混乱した。
一体どういうことなのか。
自分はまだ夢の中にいるのだろうか。
そう思っていた時、動かそうとした右手から重みを感じ、ステイトは不思議そうに右側を見下ろす。
すると、そこにあったのは……
血塗れ長剣だった。
それを見たステイトは、目を見開いて驚愕する。
一度手離したはずの長剣。
それが何故か、自分の手に握られている。
しかも、刃の端から端まで血で赤く濡れている状態で……。
ステイトは愕然とした様子で、手元の長剣を見つめる。
そして、思い出す。
自分が意識を失う前のことを。
確か、自分はストーンの目を刺して。
それで、暴れたストーンに蹴り飛ばされて、剣を離してしまって……。
そこからずっと、いたぶられて、更には胸を貫かれて『核』を掴まれて……。
(……?)
思い出せば思い出すほど、尚のこと今の状況が不可解なものになる。
ステイトは長剣を見つめながら、訝しげにする。
どうして、手離したはずの剣が自分の手にあるのか。
この血は、誰のものなのか。
疑問を浮かべながら、ステイトは自分の体を見る。
その瞬間、彼の顔が強張る。
何故なら自分の体にも、長剣と同じくらいべっとりと大量の血がついてからだ。
確かに意識を失う前は、ストーンに胸を貫かれて服が血で汚れただろうが、それでもここまで酷くならないはず。
もしかして、あれから更に酷い暴行でも受けたのだろうか。
意識を失った後でもストーンは自分をいたぶっていたのだろうか……と、今の状況に至るまでの推測をしていたステイトだった………が。
ズリュッ……
ふと妙な音が聞こえてきて、ステイトは考えるのをやめる。
そして、ストーンの存在を思い出し、彼がいるのかと思って、恐る恐ると音が聞こえた方を振り返る。
視界に入るは……赤く染まった木の幹、枯れ葉。
次いで、腕や足、頭の部分と思わしき肉片の数々。
そして、飛び散ったかのように肉片に紛れて転がっている臓物……。
視界を移せば移すほど見えてくるおぞましい光景に、ステイトは嫌な汗を垂らす。
もしかしてストーンが別のイニミクスかリバースホープの連中かを見つけて、滅茶苦茶にしたのだろうか。
それとも……まさか……。
もう一つの可能性が思い浮かびかけたところで、ステイトの動きが止まる。
ステイトは固まったかのように、視線の先にあるものを凝視する。
肉塊。
他の散らばっている肉片よりも、大きな肉塊。
それは苦しそうに蠢いている。
惨めな音をたてて、蠢いている。
その真ん中で、半分埋もれたような状態で存在している……一つの目玉。
縦に細長い瞳孔がある濃い灰色の目玉……。
自分と同じく凝視するようにこちらを見ているそれを見て、ステイトはようやく理解した。
あれは、ストーンだと。
もう何が何だかわからなかった。
血に塗れた周りと自分。
右手の長剣。
そして、バラバラになっているストーン……。
自分が意識を失っている間に、何が起きたのか。
まさか、誰かが自分を助けてくれたのか。
いや………だとしたら、長剣を掴んでいる理由がわからない。
一体何故……。
「……あ゛……ぅ」
声が聞こえ、ステイトはハッと目を見開く。
考えるのをやめて、ゆっくりと顔を上げ、再び肉塊……ストーンを見る。
「ぅ゛……ぁ……」
ストーンは何か言いたげだった。
肉の塊となった体を蠢かせ、言葉にならない声で呻く。
ストーンが今何を思って、何を言おうとしているのか。
ステイトはわからない。
わかるはずが、ない。
呆然とした様子で、戸惑いを滲ませた目で、何かするわけでもなく肉塊状態のストーンを見ていたステイト。
………だが。
ドクンッ
胸の内側で、何かが鳴る。
ドクンッ
弾む。
ドクンッ
熱が巡る。
自分の胸の中で、確かに何かが動いている。
感情と共鳴するかのように、動いている。
それは、今までなかったもの。
イグノデゥスが持ち得ないもの。
ステイトは少し苦しそうに、胸を片手で押さえる。
ドクン、ドクン
自分の中で弾んでいるこれが、何なのか。
わからない。
わからないけど、でも……ステイトはこの音を聞いたことがあった。
(……)
“ならず山”で五年ほど一緒に暮らしていた人間……カヤ。
カヤが自分を抱きしめてきた時に、その音はよく聞こえていた。
今と同じような音である時もあれば、トクン、トクン、と静かで、優しくて、心地好い音の時もあった。
それと同じ音が今……自分の胸の中で鳴っている。
(………)
自分の身に何が起きているのか……。
もう……考えるだけ無駄だとステイトは悟った。
熱が胸から下へ伝うように落ちていく。
下腹部辺りから鈍い痛みが生じ、ステイトは顔をしかめる。
妙に不快感のある痛み。
それが何かもステイトは特に考えず、一旦目を閉じる。
深い呼吸を繰り返し、少しの時間が経った後……ゆっくりと目を開く。
瞼から出てきた琥珀色の瞳が、先にある肉塊を再び捉える。
肉塊は未だに蠢いている。
こちらに向いている濃い灰色の瞳は、酷く動揺しているように見える。
ステイトは落ち着いた目で、それを見つめる。
吹いてくる冷たい風が、ステイトの髪や服の裾等を小さく揺らし、血の臭いを乗せて通り過ぎていく。
ずっしりとのしかかるような空気を感じながら、ステイトは力無い動きで立ち上がる。
「あ゛……ぁ゛……、ぅ……ぉお゛……っ」
立ち上がったステイトを見て、まるで焦ったかのように、肉塊は先ほどよりも抑揚のある声を出す。
だけど、その声に耳を傾けるわけなく、ステイトは血塗れの長剣を片手に……肉塊の元へ歩み寄る。
一歩、また一歩と……相手の焦燥を煽るように近づく。
「お゛……ぁ゛……ぁ゛お゛~~っ……!」
虚ろめいた目でこちらを見ているステイトに、必死な様子で声を出し続ける肉塊。
肉塊……ストーン自身も、何故こんな状況になっているのかわからなかった。
あの時。
ほんのちょっと前。
ステイトの核を掴んで、脅して、自分に対する恐怖と従属をとことん叩き込んでやろうと思った。
もう二度と自分に噛みついて来ないように。
拒絶して来ないように。
なのに。
気絶したのかと思いきや、核を掴んでいた手が急に熱くなって、手首ごと弾けて。
驚く間もなく、ステイトに蹴り飛ばされた。
数メートル先にある木に叩きつけられるほどの威力で。
何が起きたのか、考える余裕もなかった。
とにかくステイトを目で捉えるのが、やっとだった。
………いや。
もうあの時点で、ステイトは“ステイト”ではなかった。
地面に倒れて、次に目に入ったのは……剣が落ちてあるところにいつの間にか移動していたステイトの姿。
ステイトはふらふらとしながらも剣を拾うと、こちらを振り返った。
その時見たステイトの目は異様なほど爛々としていて、顔は不気味な笑みを浮かべていた。
少し前にステイトから感じていた得体の知れなさが、完全なものとなっていた。
姿そのものはステイトなのに、違う。
わからないけど、ステイトの体にあった痣や胸の大きな傷が瞬く間に治っていくのを見て、“それ”がとんでもなく危険なものと感じて、すぐ様に逃げようとした。
けど、無理だった。
走り出した瞬間、まだ離れたところにいたはずのステイトが真横にいて。
気づいた時には、両足がなくなっていた。
倒れる間もなく、次は右手、次は太股、次は左胸、次は胴……と。
ステイトの姿をした“それ”は、体の至るところを切り刻んできた。
生かさず殺さず……。
確か、どこかでそのような言葉を聞いたことがあるが、正にそうだった。
核を壊されていないため死ぬに死ねず、更には意識を失うことすらもなく、ただただ全身を切られ、貫かれ、削ぎ落とされる痛みがやむことなく襲ってきた。
一方的に蹂躙された。
剣を振るうたびに吹き出る血を浴びながら、真っ赤な世界で、“それ”は笑っていた。
狂暴な感情を剥き出しにして。
叫んで、笑っていた。
ずっと。
ステイトの身に何が起きたのか、わからない。
気がつけば、自分はこんな姿になっていて、もうまともに動くことも喋ることも出来なかった。
終わりだと思っていた。
けど……。
“それ”が急に座り込んで、しばらく動かなくなった後………ステイトに戻った。
俺のよく知っているステイトに戻っていた。
横顔だけでわかった。
ステイトだ。
見間違えるわけない。
あの哀れなくらい儚い感じ。
弱さを隠しきれない目。
俺のステイトだ。
「お゛~、おぉ゛~~!」
ステイト。
俺だ。
ストーンだ。
わからないのか。
あんなに可愛がってやったのに。
何度もお前を助けてやったのに。
ずっと近くに置いてやったのに。
それなのに、俺がわからないのか。
そもそもはお前が悪いんじゃないか。
五年前、勝手に群れから離れて、安全区域を出て、いつの間にか『リバースホープ』のヤツらにやられて。
探したんだぞ、ずっと。
壊れた核はなかったから、まだどっかで生きてると信じて。
「お゛ごぉ~~!」
まさか“ならず山”にいて、しかもあんな萎びた女と暮らしていたなんて。
二人っきりで。
「お゛う゛~~っ!!」
ふざけんなよ……。
どんなに役立たずでも、お前は追い出さなかったじゃねぇか。
どんなに腹立っても、お前は殺さなかったじゃねぇか。
お前だけは特別に扱ってやったじゃねぇか。
いつか『眷属』になったら。
お前に認められて、お前が俺を、俺だけを見るようになって。
お前と……。
なのに……こんな。
こんな終わり方………。
「ごお゛お゛ぉぉ゛~~~ッッ!!!」
肉塊となったストーンは叫ぶ。
こちらに歩み寄ってくるステイトに向けて、自分だと訴える。
ステイトが肉塊の自分を既にストーンだとわかっているとも知らずに。
そんなストーンの叫びをよそに、ステイトは歩を進める。
そして、彼のすぐ前まで来たところで、足を止める。
ステイトは見下ろす。
足先にいる惨めな肉塊を。
冷ややかな目で。
「お゛~~!あ゛お゛ぉ~~~ッ!!!」
肉塊の叫び声が響く中、ステイトは持っていた長剣をゆっくりと上げていく。
やるなら、今しかない。
上げた長剣の刃先を、肉塊に向ける。
肉塊の中にある最後の砦。
『核』を貫くために。
これだけ肉体が滅茶苦茶になっていたら、『骨鎧』もほとんど溶けて、『核』も一突きで壊せるくらいの脆さになっているだろう。
きっと、もう二度とない機会だ。
今に至るまでの過程も、胸の中で動いてるものも、下腹部の不快な痛みも、全ての疑問を無視してステイトは狙いを定める。
肉塊の叫びが、より一層大きくなる。
ステイトは眉間に皺を寄せ、肉塊を睨む。
木々のざわめきも、風の冷たさも、じっとりした空気も、血の臭いも、全て遮断される。
叫びながら懇願するように一つ目で自分を見ている肉塊に、集中する。
これで。
これで終わる。
過去をなかったことに出来る。
こいつを殺せば、俺は一人だ。
自由だ。
ステイトは長剣を静かに引いて構える。
それを咎めるように、肉塊は叫び続ける。
その姿は酷く滑稽で、かつて群れを率いていたイグノデゥスの面影なんて微塵にもなかった。
そんな肉塊を見下ろして、ステイトは何とも言えぬ表情をする。
そして、息を深く吸って止めると、自身の支配者であった彼に向けて刃を勢いよく突き出したーーー……。
***
どこからともなく夜鳥の鳴き声が聞こえてくる。
全てを終えて、ステイトは崖下沿いを歩いていた。
空はもうすっかり暗くなっており、幾多もの星が輝いている。
あんなにも禍々しいくらい赤かった空が、今では皮肉なくらい美しい夜空だ。
輝く星々に見下ろされながら、ステイトは雨でぬかるんだ地面を踏んでいく。
鞘におさめた長剣を背負い、血でほとんど赤くなった服を纏って、憔悴しきった顔をして、目指す場所へと向かっていく。
力無い足取りで歩いていくうちに、二つの死骸が見えてくる。
長髪のイグノデゥスとうねり髪のイグノデゥスだ。
長髪のイグノデゥスは首と体が離れた状態で、うねり髪のイグノデゥスは両腕がない状態で倒れている。
どちらも胸の真ん中におびただしい数で刺されたであろう酷い傷があった。
無様に転がっているその二体の間を、ステイトは通り過ぎていく。
べちゃ、べちゃ、と……泥を踏む足音だけが、その場に聞こえる。
更に進むにつれて、目的のものがだんだんと見えてくる。
暗いところから自分の視野に入ってきたそれを見つめて、ステイトは歩き続ける。
そして、程なくして足を止める。
「……」
目的のもの。
ステイトの視線の先にあるもの。
それは、カヤだった。
未だ全身濡れた状態で、うつ伏せで倒れているカヤ。
ここを離れる前から一切変わっていないカヤを、ステイトは無表情で見下ろす。
静寂が続く。
無意味な時間だけが、過ぎ去っていく。
ステイトは何かするわけでもなく、ただ黙ってカヤを見続ける。
どれだけ待っても、カヤが起き上がるわけないとわかっておきながら。
しばらくして、夜鳥の鳴き声が聞こえてくる。
ずっとその場に佇んでいたステイトは、ぐらりも崩れ落ちるように地に膝をつく。
そして、濡れた地面の上に座り込み、項垂れた。
「カヤ……」
今にも消えそうな弱々しい声。
「……俺は……これでよかったのか……?」
微かに震える口を開いて、ステイトは言葉を紡ぐ。
「俺みたいなヤツが、生きててもいいのか……?」
カヤに向かって、問いかける。
だけど。
「俺が生きたって……何も、……誰の得にもならない……」
カヤは何も言わない。
「ただ苦しいだけだ……、迷惑なだけだ……」
カヤは動かない。
「それでも……生きてていいのか……?」
ただステイトの声だけが、冷たい空気に虚しく溶けていく。
答えは返ってこない。
返ってくるわけがない。
深い静けさだけが、その場を包み込む。
ステイトは口を止め、小さな小さなため息を吐くと、ゆっくりと顔を上げる。
「……」
虚ろな目でカヤをしばらく見つめた後、足に力を入れ、重い腰を上げていく。
ぺちゃ……ぺちゃ……と、泥まみれの小さな足音をたてて、カヤのすぐ側に近寄る。
そして、しゃがみ込む際に、少しだけカヤの顔を見る。
目を閉じたままのその顔は、苦悶や恨みつらみの色なぞ一切なく、どこか穏やかそうに見えた。
決していい死に方をしたわけではないのに。
(……)
それに対して、ステイトは特に何か思うわけでもなく、カヤの腕を掴むとゆっくりと引っ張り上げる。
掴んだ腕を首に回して、カヤの体を背中に乗せて、若干ふらつきながらも立ち上がる。
重い。
重くて、冷たい。
人間が死ぬと、こんなにも冷たくなるんだ。
なんとなしにそう思いながら、ステイトはカヤを背負ったまま歩き出そうとする。
が、一歩踏み出したところで。
(……?)
足裏からの違和感に、ステイトは思わず動きを止める。
何か小さな塊を踏んでしまったようで、足を下げる。
初めはただの小石かと思っていたステイトだが、途中で何か気づいたような顔をする。
ゆっくりと腰を屈めて、ぬかるんだ土に半分埋もれているそれを指先で摘まみ取る。
よく見えるように、それを目の前まで持ってくる。
そして、ステイトは確信する。
紫の中に白が混ざったような色の……丸い小石。
それは、いつしか自分がカヤにあげた綺麗な小石だった。
(……)
見開いた目で、目の前にある小石を見るステイト。
何故、これがここにあるのか。
たまたま転がっていたのか。
……いや、そんなわけない。
こんな綺麗な石、あの川でしか見たことないのだから。
だから、ここらへんにあるわけない。
………となれば。
この小石は………。
(………)
背中にいる存在が、より一層重くなったように感じる。
ステイトは指先にある小石を少しの間見つめた後、ゆっくりと握りしめていく。
屈めていた腰を上げて、横にずれかけていたカヤの体を直して、彼女をおぶりながら……また歩き出す。
(……)
カヤがどれほど自分を想っていたのか。
(……)
カヤがどれほど自分を大切にしてくれていたのか。
(………)
今更。
全部今更だ。
今更気づいたところで、もう遅い。
どうにもならない。
本能だったから仕方ない。
人間と自分達は敵同士なのだから仕方ない。
いずれ必ずしもこうなることだったんだ。
結末は同じだったんだ。
だから、悪くない。
俺は、悪くない。
そう言い聞かせる。
心の中で、何度も、何度も。
これは必然的なことだったんだと、結果を肯定する。
……だけど。
肯定すればするほど、胸が痛くなって、息が詰まりそうになる。
目に妙な違和感を覚える。
唇が震え、喉の奥から擦り切れたような声が漏れる。
しばらくして、ぼろり、ぼろり、と……目から冷たい何がこぼれ落ちる。
それは止まることなく、ステイトの頬をつたって地面へ落ちていく。
今にも崩れ落ちそうな足を踏ん張らせて、ステイトは頼りない足取りで先へ先へと進む。
「……っ……ぅ……」
横にずれ落ちそうになるカヤを何度も背負い直しながら、暗闇が広がる山の中へと向かっていく。
「……………ん……」
不規則な呼吸音を漏らし、頬を濡らしながら、ステイトは震える声で呟く。
「……め……ん……、ごめ……ん……っ」
口の中でこもっていた声が、少しずつ大きくなっていく。
「ごめん……、ごめんな………っ」
今度ははっきりと、言葉を吐く。
「っ……ぅ……ごめん……カヤ……、ごめん……ごめんなさい……ぅうっ……」
届けたい相手に、決して届くことのない言葉を。
全部なかったことにして。
一人になって。
残ったのは………愚かで無価値な自分だけだった。
もうあの日々は戻らない。
もうカヤとの時間を過ごすことはない。
記憶がなかったからとはいえ、確かに楽しかったはずなのに。
毎日が明るくて、安心して自分らしくいられたはずなのに。
全部ダメにした。
全部壊した。
自分が。
何もかも。
「ぅぐっ……ひっぐ……ぅ……うっ……」
自分はカヤを拒絶した。
自分はカヤを否定した。
憎悪した。
嫌悪した。
その結果、こうなってしまった。
本能に抗えなかったのは、自分の立場と周りの目を酷く気にしてしまったのは、自分のカヤに対する気持ちが足らなかったから。
大切に思う気持ちが。
暗い山の中に、ステイトの嗚咽混じりの声だけが聞こえてくる。
留め金が外れたかのように、容赦なく押し寄せてくる感情に、ステイトは胸が苦しくなるのを感じる。
トクン、トクン、と胸の中で静かに動くそれが、強く絞めつけられるような感覚に教われる。
今まで感じたことのない感覚。
胸の中にある……以前はなかったはずの存在からくる感覚。
これが何なのか。
どうして自分の中に出来たのか。
………そんなこと、今のステイトにとって些細なことでしかなかった。
自分の身にどんな変異が生じていようが、どうでもよかった。
ただひたすら、カヤのことを後悔し、カヤを思って泣いた。
「うっ……ぅえ……、ぐすっ……うぅう……っ」
目と口から込み上げてくる感情をこぼし、ステイトは泥の道を歩いていく。
背中から犯した過ちの重さを感じながら、ふらつく足を踏ん張らせて向かっていく。
暗闇の先へ。
カヤの家があるならず山へ。
ステイトの姿が、泣き声と共に山の中へと消える。
静寂が戻った崖下沿いに、イグノデゥス二体の死骸だけが寂しく残る。
夜鳥の鳴き声が、また聞こえてくる。
一羽の黒い鳥が、空に向けて羽ばたいていく。
地上は血と泥と死骸とであふれているのに、夜の空は星がどこまでも煌めいていて。
醜い地上を嘲笑うように、美しかった。
つづく