CHANGE





間違っていても。

歩むべき道から外れても。

君には生きて欲しいから。

生きれば生きるほど、傷つくことが多くなっていく………そんな世界だけど。

それでも、生きていたら、もしかしたら、いつか、君が笑顔でいられる日々が来るかもしれない。

君を心から大切に想って、愛してくれる存在が現れるかもしれない。

だから……これから先は、外の世界に出て。

君の目で見て、君の耳で聞いて、君の心で感じて。

好きだと思えるものに、たくさん出会って欲しい。

まだ見たことないであろう美しい景色を、たくさん見て欲しい。

心を許し、心から笑い合い、お互いを想い合えれる……そんな存在と出会って欲しい。

罪深い私に幸せな時間を与えてくれた君には……それくらい幸せになって欲しいから。

だから。

そうなるために。

そうなるまでに、一人でも大丈夫でいられるように。





君にこの剣をあげよう。






***





雨が降り注ぐ空。
東陸と北陸の境にある谷。
そこの片側にある山に入り込んだところで、数体のヒト型・半人半獣のイグノデゥスが、胸や腹から血を流して不様に倒れていた。
その死骸から少し離れた場所で、強面で紅色の逆立った髪に褐色肌といった容姿のイグノデゥス、ストーン・アームは大きな舌打ちをして苛立ちを露にする。


「くそが……!ばばあ如きに逃げられやがって!!」


バギイィィッ!

メキメキッ……ドシャアァッ!!


ストーンに殴られた木が、大きな音をたてて倒れる。
いともあっさり折れた木と苛立っているストーンを交互に見て、周りにいたイグノデゥス達は表情に焦りの色を浮かばせる。
ストーン・アームはイグノデゥスとしての実力も集団をまとめる力もそれなりにあるのだが、思いどおりにならないことがあると、周りに当たり散らす傾向があった。
怒りの矛先を如何に自分に向けないようにするか。
ストーン・アームの周りにいるイグノデゥスの大半ははそれ考えていた。
が、


「まぁまぁストーンさん」


緑肌の耳のとがったヒト型のイグノデゥスが、ストーンを宥めようと前に出る。
普段からストーンとよく会話をするイグノデゥスだ。


「確かにあの女の動きは予想外でしたけど、もう長くはないですよ。ストーンさんの一撃をくらったんですから」


自分の言葉なら少しでも聞いてくれるだろうと思ったのだろう。
それにここでストーンを宥めれたら、必然的に自分がこの群れのナンバー2だと他の者達に知らしめることが出来る。
その野心もあって、緑肌のイグノデゥスはしゃしゃり出たのだ。


「やられたヤツらは、どのみち使い物にならないゴミだったんですよ」

「……」


緑肌のイグノデゥスは愛想良く笑いながら、ストーンに近づく。
話しかけてくるイグノデゥスに対して、何も言わずに腕を下げるストーン。
その様子を周りにいるイグノデゥス達は、こわごわと見る。


「今頃あの女は野垂れ死んでいるでしょうし、あとは俺らに任せてストーンさんは住処に戻って休んどいて下さい」

「……」

「それにステイトも戻ってきましたし、またあいつで鬱憤を」


ゴジャ゛ッ!!


緑肌のイグノデゥスがストーンのすぐ側まで近づいた瞬間だった。
水を含んだ鈍い音と共に、緑肌のイグノデゥスの顎から上がふっ飛んだ。
傍らには血がついたストーンの拳。
潰れて肉塊になった緑肌のイグノデゥスの頭が、べちゃっと惨めな音をたてて地面に落ちる。
体も少し前後にぐらついた後、倒れる。
周りにいたイグノデゥス達は、ひっと短い悲鳴をあげて退く。
その場が一気に静まり返る。
緑肌のイグノデゥスに裏拳をくらわせた体勢で止まっていたストーンは、しばらくして拳を下ろすと後ろを振り返る。
そして、


「俺が考え事している時にィ…………話しかけんじゃねえぇっ!!!!」


こめかみに大きな青筋を浮かべ、地が鳴るような怒鳴り声をあげると、緑肌のイグノデゥスの背中を思いきり踏みつけた。
ストーンの足がイグノデゥスの皮を破り、肉を裂き、骨を折る。
途中で、メギッ、グシャッ、と何か硬いものが潰れたような音がする。
その瞬間、緑肌のイグノデゥスの体がビクンッと跳ね、そこからぴくりとも動かなくなった。
雨音が響く中、一部始終を見ていたイグノデゥス達は顔を強張らせて固まる。
ある者は恐怖で震え、ある者はどうやってやり過ごすかを必死に考える。
だが、そんな周りの雰囲気とは逆に、ストーンは大きく息を吐いた後、スッキリしたような表情をして顔を上げる。


「あ~~~……いいこと思いついたわ」


緑肌のイグノデゥスを殺して少しはすっきりしたのか、ストーンは先ほどと打って変わり穏やかめな声を出す。


「お前らはステイトを連れてこい。そもそもはあいつが、ばばあのことを知らせてきたんだからな」


ぐちゃりと嫌な音をたてて、緑肌のイグノデゥスの体からストーンの足が抜ける。
そして、そのままイグノデゥスの体を蹴り飛ばすと、ストーンは踵を返して歩き出した。
ストーンの発言と行動に、周りのイグノデゥスは少し戸惑いながら、お互いに顔を見合わせる。


「あ、あの、ストーンさん……。どこへ……」


鹿と人間を混ぜ合わせたような外見のイグノデゥスが、恐る恐るとストーンに声をかける。
それに対してストーンは、


「俺はばばあを探しにいく」


ストーンの足が止まる。
そして、後ろを振り返ってイグノデゥス達を見ると……


「死に間際に、愛しいペットちゃんをいたぶってるとこを見せつけてやんだよ」


と、凶悪な笑みを浮かべて言い放った。





***





一方、その頃……。
ストーン達がいる場所から大分離れたところにある崖下では、カヤが腹を抱えて踞っていた。
頭から血が流れており、持っていた長剣は数メートル先に転がっている。
崖から落ちたのであろう。
カヤは少し咳き込んだ後、なんとか顔を上げる。
そして、周りを見回し長剣を見つけると、土壁に片手をつけてゆっくりと立ち上がった。


長剣があるところに向かって、足を若干引きずりながら、カヤは歩いていく。
土壁を支えにして、もう片方の手で血が流れ出ている腹を押さえて、一歩一歩進んでいく。

あの時。

ぬかるみに滑って転けた時、ちょうどすぐ近くにイグノデゥスがいて、咄嗟にそいつの腕を掴んで、自分の前に引っ張って盾にした。
おかげで直撃は免れられた………が。
ストーン・アームの拳はイグノデゥスの体を貫いたとほぼ同時に、カヤの腹を抉った。
腹部から焼けるような痛みを感じた瞬間、カヤは致命傷だとすぐわかった。
もう自分が助かる術はない。
だから、カヤは死ぬもの狂いであの場から逃げた。
イグノデゥスを数体斬って、時折盾にして、草むらに飛び込み、そのままがむしゃらに走って、走って。
そして、気づいた時には崖を転げ落ちていた。


カヤは歯を食いしばり、足を踏み出していく。
手で押さえられている腹部からは、血が止めどなく流れ落ちていく。
痛い、苦しい、寒い、ツラい……。
けど……、まだ死ぬわけにはいかない。
死ぬ前にやらないといけないことがある。
カヤは震える手で何度も土壁に手をついて、濡れた地面を踏む。
そうして少しずつ進んでいくうちに、ようやく長剣の近くまで辿り着いた。
あれだけイグノデゥスを斬り、雨に打ちつけられているというのに、錆びることも刃が欠けることもなく、依然と銀色の切れ味の良そうな鋭さを保っている長剣。
それもそうだ。
これは『リバースホープ』にいた頃のカヤのために創られた特別な武器なのだから。
カヤはふらふらとしながらも、ゆっくりとしゃがみ込み、それを掴む。
同時に、腹部から手を離して、下げ緒をほどく。
背中にあった鞘が、小さな音をたてて落ちる。


(……)


腹部からの痛みに耐え、不規則な呼吸を繰り返しながら、カヤは後ろに手を回し、探り探りでなんとか鞘を掴む。
そして、結ばれている下げ緒ごと鞘を前に持ってきて、微かに震える手で長剣をその中に収めた。
もう自分が使うことはない。
その一言を胸の内で呟き、カヤは鞘に収まった長剣を脇に挟むと、再び腹の傷口を手で押さえ、歯を食いしばって立ち上がる。
手にある“相棒”を次の持ち主に渡すために、ふらつきながらも歩き出す。


痛くても、苦しくても。

自分が死ぬとわかっていても、これをあの子に渡さないといけない。

あの子がこれからを生きるために。

この剣を。


ひゅーひゅーと苦しそうな呼吸を繰り返しながら、カヤは元いた谷へ戻ろうとする。
あそこなら、また会えるかもしれない。
近くにいるかもしれない。
そんな根拠もない期待を抱きながら、カヤは歩を進めていく。
………だが。


「っ!」


ベシャッ


途中でカヤは膝をついてしまう。
腹部の痛みが増すと同時に、足がガクガクと震える。
いよいよ体が限界を迎えたのだろう。
意識が朦朧としかける中、カヤは足に力を入れ、なんとか立ち上がろうとする。
だけど、体が思うように動かない。
視界がぼやけたり、鮮明になったりとを繰り返す。


まだ何もやり遂げていないのに。

あの子に会ってすらもいないのに。

このポンコツ。

動け。

動け、動け……!


地に片手をつき、地面を睨みながら、カヤは心の中で自分に向けて言う。
腹部からの血は流れ落ち、カヤの下にある地面を赤く染めていく。
冷たい雨は容赦なく、満身創痍の体を打ちつける。
呼吸が浅くなり、視界がだんだんと狭まっていく。


そんな。

ダメだ。

このまま死ぬわけには……。

……カエデ……。

カエデ……。

カエデ……ッ。


カヤの脳裏に、今まであの山で一緒に暮らしてきた彼の姿が、次々と流れるように過ぎっていく。
笑って、泣いて、怒って。
楽しいことをたくさんして。
ちょっとしたことで喜んで。
たまにいじけたりもして。
喧嘩もたまにして。
仲直りした後のおやつは格別に美味しくて。
当たり前のことが当たり前でなかった自分にとって、彼との毎日が輝かしくて、新鮮で、楽しくて、暖かくて……。
ずっと。
ずっと、この時間が続けばいいと思っていた。
このささやかな幸せが、ずっと……。
………。
………でも、もう無理だから。
私はもうダメだから。
だから、せめて……。
せめて…………。
朦朧とする意識の中、カヤが最後に見た笑顔の彼を思い浮かべた………その時だった。



「はぁ……」



ため息が聞こえた。
気だるげで、呆れているような蔑んでいるような……そんな感情が混じったため息。
カヤは聞き逃さなかった。
まさかと思いながら微かな力を振り絞って、顔を上げる。
前方にいる存在が目に入った瞬間、朦朧としていた意識が一気に現実に戻される。
視界が開けていき、カヤは見開いた目で……先ほどのため息の主を見る。
カヤの視線の先……。


そこにいたのは………カエデだった。


否、今はステイトと呼ぶべきだろうか。
いつの間にそこにいたのかはわからないが、ステイトが佇んでいた。
佇んで、酷く冷めきった目で、カヤを見下ろしていた。


「……カエデ……」


カヤは掠れた声で、彼の名を呼ぶ。
愛情を以て呼んでいた名を。
言わないといけないこと。
やらないといけないことがあるのに、カヤはそれ以上何も口に出すことが出来ず、ただ見開いた目で彼を見続ける。
一方で、カヤを見下ろしていたステイトは、またため息を吐く。
先ほどと同じ、気だるげなため息。
そのため息も、冷めきった目も、突き放すような雰囲気も。
カヤと一緒にいた頃の彼とは別人のように違うのに……、それでも妙に似合っているのは、これが彼の本来の姿だからなのだろう。


「……本当……どいつもこいつも……」


覇気のない低い声。


「何しに来たんだよ、お前」


あの山で暮らしていた時とは全く違うその声色と雰囲気に、カヤは呆然としてしまう。
だけど、すぐに悟ったような表情をすると、静かに顔をうつ向かせた。


「……よかった……、会えて……」


今にも消えそうな声で、カヤは呟く。
そして、


「カエデ……いや、ステイト、だったね……」


言葉を続ける。
今度はステイトの耳に届くくらいの声を出して。


「あんたに……、渡したいものがあるんだよ……」


カヤは脇に挟んでいた長剣を掴み、ぎこちない動きでそれを前に持っていく。


「これを………」


膝を立てて、足に力を入れ、途切れ途切れの息を吐きながら、なんとか立ち上がる。
ちょっと前まではあんなにも立つに立てれなかったのに、今は体が重いだけで、不思議と痛みは感じない。
立ち上がったカヤは、ステイトを見据えて一歩、また一歩と彼に近づく。
今にも死んでしまいそうな状態にも関わらず、自分の元へ歩み寄ってくるカヤを、ステイトは怪訝な表情をして見つめる。
二人の距離が少しずつ縮まっていく。
そして、ステイトの前に来たところで、カヤは足を止めた。
雨が打ちつける中、二人はお互いを見つめる。
冷たい視線と慈しみのある視線が、交わる。
しばらくして……カヤは持っていた長剣を前に出す。
そして、


「これを……、もらっておくれ……」


カヤはステイトを真っ直ぐ見据えながら、切実さが混じった声で言った。
最後に自分がステイトに出来ること。
それは、かつての“相棒”を捧げることだった。
この時のために。
カエデが……ステイトが一人になっても生きれる道標として“稽古”をつけたんだ。
自分が教えれる限りのことを、全て教えたんだ。
ステイトには“自分が殺され続ける場所”ではなく、“自分が自分として思うままに生きれる場所”にいて欲しい。
そのためには、この世界でそうやって生きるためには、力と技量は必須で……。
最低でも、自分を守りきる術は持たないといけない。
だから、四年間………ずっと教えてきた。
そして、もう教えることはない。


「あんたに……いつかあげるって、言ったものだよ……。覚えてる……?」


カヤの問いに応じることなく、ステイトは視線を落として、カヤの手にある長剣を見る。


「あんたが……私がいなくなっても……、大丈夫なように……。一人でも……、生きて……られるように……」


カヤの口から血がこぷっとあふれ出る。


「これを……使って、……自分の道を……歩んで欲しい……」

「……」

「カエ……、……ステイト……私は……」


カヤは最後に伝えたいことを言おうとする。
……が、



バシッ



手に軽い衝撃が走る。
カヤは口を止めて、固まる。
雨の降り注ぐ音が、いやに大きく聞こえる。
少しの時間が経って、カヤの視線がゆっくりと下がっていく。
そして、自分の手元を見る。
持っていたはずの長剣が………ない。
ステイトに向けて差し出したままの自分の手をしばらく見た後、カヤは視線を横にずらす。
すると、わびしく地面に落ちている長剣が、目に入った。
何が起きたのか。
言わなくてもわかる。
ステイトに長剣ごと手を叩かれたのだ。


「人間如きが……、何を言うかと思えば……」


蔑みを込めた低い声が、聞こえてくる。
呆然としていたカヤだったが、その声に反応して、ゆっくりと顔を上げる。
それと同時に、ステイトは横に上げていた手を静かに下ろす。


「どうでもいいんだよ……お前の言い分なんて」


憎々しさを込めた目でこちらを睨んでいるステイトの姿が、カヤの瞳に映る。
その目を、その姿を見て、カヤは胸の中が一気に凍りつくような錯覚に陥った。


「それよりこっちは計画を台無しにされたんだぞ……」


顔を強張らせ固まっているカヤに構うことなく、ステイトは言い続ける。
声に怒りの色を滲ませて。


「お前が大人しくストーン達に殺されていれば、少しは持ち返せたのに……無駄に抵抗しやがって」


ステイトが言葉を紡げば紡ぐほど。


「人間如きが……さっさと死ねばよかったのに……、なんで死んでくれなかったんだよ……」


カヤの胸に深く突き刺さる。


「ただでさえ立場が前より弱くなってるってのに……」


ステイトの憎しみがこもった視線も、怒気を孕んだ低い声も。


「更には……記憶を失った上に人間と暮らしていた能天気の馬鹿って……汚名を着せられてるってのに……、お前のせいで……っ」


……だけど。


「なぁ……なんであの時、俺を拾ったんだ?」


だんだんと震えを帯びてくるステイトの声を聞くにつれて。


「なんで俺にとどめを刺さなかったんだ……?イグノデゥスだぞ……?お前ら人間の敵だぞ……!?」


拒絶を露にしたステイトに、ただただ呆然とするしかなかったカヤだったが……。


「生まれもった能力の強さで上か下かが決まる……っこんなくそったれの世界からおさらば出来たってのに……!悔しくても、ムカついても、もう諦めるしかないから……やっと……やっと死ぬことを受け入れることが出来ていたのに……!」


感情をむき出しにしたその言葉に……気づく。
気づいて……少しずつ理解していく。
呑み込んでいく。


「なぁ、俺と暮らしてお前は何がしたかったんだ……?俺らの情報を得たかったのか……?それとも好奇心で観察してたのか……?」


痛いほどに冷たくなっていた胸の中が、ゆっくりと溶けていく。
だけど、それと入れ代わるように、違う痛みが……カヤの胸の中に広がっていく。
じんわりと滲んでいくような痛み。
カヤの表情が、悲しいような苦しいような……何とも言い難い表情になっていく。


「異能力すらないクソ人間までも俺をからかいやがって……!お前のせいで俺はまたこの世界に戻るはめになったんだぞ!前よりも最悪な形で!!」


抑えきれない怒りを露にして怒鳴るステイト。
だが、そんなステイトを前にしても、カヤは何も言わなかった。
ただ黙って、彼の心からの叫びを聞いた。


「謝れよ……」


ステイトは言う。


「謝れ……、死ぬ前に土下座して謝れよ!!」


今までのことなんて関係なく、感情のままに言いたいことをカヤにぶつける。
記憶が戻ったステイトにとっては、カヤとの生活なんてただの屈辱でしかなかった。
人間と争っているイグノデゥスが、その敵対する人間と五年近くも暮らしていたなんて。
これから自分は他のイグノデゥスからバカにされ、以前より見下されるだろう。
ストーン達から痛いことも苦しいことも恥ずかしいことも、たくさんされるだろう。
こいつのせいで。
この人間のせいで。
ステイトは歯ぎしりをして、憎しみを込めた目でカヤを睨む。
爪が食い込むほど、拳を強く握りしめる。
雨音が響き渡る。
今にも自分に掴みかかってきそうな雰囲気のステイトを見ていたカヤは、彼がそれ以上何か言ってくる様子もないのを確認すると、申し訳なさそうに目を伏せる。
そして、


「………ごめんね……」


微かに震えを帯びた静かな声で、謝った。
ステイトは眉間に皺を寄せる。
謝りはしたものの、頭を下げてくる様子のないカヤに、激しい苛立ちを感じる。
今すぐにでも殴り飛ばしたい衝動に駆られる。
だが、


「今……しゃがんだら……、多分……二度と立てないから……、土下座は出来ない……。けど……本当にごめん……、ごめんね……。私の都合で……あんたを付き合わせて……」


眉根を下げて、心底申し訳なさそう表情と声で謝ってくるカヤを見て、ステイトは少しだけ目を大きくする。


「私の勝手で……、あんたの生きてた道を……滅茶苦茶にしてしまったね……」


カヤは再び目を開いて、ステイトを見据える。


「でもね……、これを聞いたら……もっと怒るかもしれないけど……言わせてね……」


「最後だから」と言って、カヤは苦しそうに咳き込む。
自分の発言に対して、カヤがみっともなく言い訳してくるか逆に醜い本性を露にしてくるかと、予想していたステイトだったが。


「………私にとってはね」


何か違う、と気づく。


「ステイト……、あんたとの生活は……かけがえのないものだったよ」


カヤから感じるそれが何なのか、ステイトはわからない。


「あんたと暮らしてから……、私は幸せだった……」


わからないまま、聞く。
憎くて大嫌いな人間の……最期の言葉を。


「……本当はね」


カヤは腹部を押さえている手に、少しだけ力を入れる。
口が止まって、無言になる。
だが、それもほんの少しの間だけで



「私は……あんたに殺されるつもりだった」



カヤは言った。
あの日。
五年前、瀕死のステイトを拾った本当の目的を。
それを聞いたステイトは、眉間に皺を寄せて訝しげにする。


「……私は、ずっと間違えてた……」


カヤは視線を落として、言葉を続ける。


「間違え続けていた……」


カヤの唇が、微かに震える。
かつての記憶が甦る。
苦しくて、痛くて、血生臭い……『リバースホープ』にいた頃の記憶が。
望む未来を信じて、苦難を乗り越えて、信じて、ずっと信じ続けて、……いつの間にか取り返しのつかないほど罪を重ねて、気づいた時には何もかも遅くて、それに向き合えずに逃げて……一人になった自分。
確かに、自由は得れた。
あそこにいた頃よりは、はるかにマシな生活を送れていた。
………それでも。


「……やっぱり……ずっと……苦しくてね……」


カヤはぽつりと呟く。
何の脈絡もないその発言に、ステイトは若干不可解そうにする。
そんなステイトの視線を感じながら、カヤは深呼吸をする。


「……この先……、生きて……私は……あそこから出られないから……。出ても……、幸せには絶対なれないから……だから、最後は……イグノデゥスのあんたに殺されて……惨めに死のうと思った……」


でも、と言ってカヤは言葉を途切らせる。
暗い記憶を塗り替えるように、あの日の記憶が浮かぶ。
目を覚ましたステイト………“カエデ”と初めて言葉を交わした日の記憶。
大切な思い出。
暖かい日々の始まり。
骨をとった鮎を渡すと、嬉しそうに笑ってきたカエデ。
おいしいと言ってくれたカエデ。
その姿を思い出して、カヤの頬が自然と緩む。
そして、


「あんたが……、あんまりにも……可愛かったから……」


カヤの口からこぼれたその言葉に、ステイトは目を大きくした。


「本当に……可愛かったから……、一緒に……生きたくなってねぇ……。あんたの……都合も考えず……勝手にごめんねぇ……」


呆然としているステイトを前に、カヤは頬を綻ばせながら言葉を紡ぐ。


「あんたの喜ぶ顔が……もっと……見たくて……」


カヤの頭に、カエデと過ごした日々の光景が思い浮かぶ。


「あんたと……もっと……話したくて……」


鮮やかに、目映いほどに。


「一緒に……ごはんを食べることも……、一緒に……掃除することも……、寝る時の布団が……誰かと一緒だと……暖かくて……心地好いのも……」


次々とカヤの脳裏を過ぎっていく。
カエデとの日々が。


「何気ない話で……笑うことも……、ケンカすることも……、仲直りした後の……おやつが……格別に……美味しいことも……」


思い出せば思い出すほど、言葉を紡げば紡ぐほど、カヤは自身の目頭が熱くなっていくのを感じる。


「誰かのことで……必死になるのも……、誰かのことで……思い悩むのも……」


やがて、その熱はカヤの目からこぼれ落ちていく。


「誰かと……、……大切に思ってる人と……手を繋いで……歩くことが……、どれだけ……尊くて……嬉しいことなのかも……」


一粒、また一粒と。
雨と共に、カヤの頬をつたい落ちる。
それに気づいてか否か、ステイトの瞳が微かに揺れる。
無意識に片足が後ろに退く。
カヤは大きく息を吐いた後、一旦口を止める。
そして、ゆっくりと視線を上げると



「全部……あんたが教えてくれたんだよ……」



ステイトを真っ直ぐ見据えて、しっかりと彼の耳に届く声で言った。
呆然としていたステイトの表情に、微かな戸惑いの色が滲み出る。


カヤがどういう気持ちで。


「あんたがいてくれて……毎日が楽しかった……」


どんな感情をもって、そんなことを言ってきているのか。


「あんたのおかげで……、幸せな時間を……過ごせた……」


ステイトはわからない。
理解出来ない。
自分を嵌めようとしているのか。
油断させて、逃げ出そうとしているのか。
一瞬、そう疑いかけたステイトだったが



「ありがとう……」



その言葉が耳に入った瞬間、ステイトの思考が止まった。
ありがとう。
知っている言葉。
人間がお礼や感謝をする時に使う言葉。
だけど、使ったことのない言葉。
そして、使われたこともない言葉。
この人間がどうして、それを自分に言ってきたのか。
その答えを聞く間もなく、カヤは近づいてくる。
小さな歩幅で少しずつ。
それに気づいたステイトは、思わず退こうとする。
だが、


「逃げないで……」


カヤの縋りつくような声に、足が止まってしまう。


「すぐ……終わるから……、痛いことは……しないから……」


そう言いながら、ステイトの元へ歩み寄るカヤ。
人間の言うことなんて、聞く必要ないのに。
無視すればいいのに。
どうしてか……、ステイトは動けなかった。
カヤがすぐ目の前までくる。
琥珀色の瞳と黒色の瞳。
二人の視線が、短い距離で交わる。
微笑みを浮かべながらステイトを見るカヤと、困惑した表情でカヤを見るステイト。
そして、


「……!」


次の瞬間。
カヤがステイトを抱きしめた。
地面を打ちつける雨音だけが聞こえる。
ステイトの表情と目に、ますます動揺と困惑の色が濃く現れ出る。
体中から感じるカヤの温度。
強く、それでいて優しく包み込んでくる腕。
予期していなかったこと……否、頭の中に存在すらしていなかった行為をされて、ステイトは何の言葉も思い浮かべることが出来なかった。
ただただ、胸の内が妙に騒がしくなって、戸惑った。
降りしきっていた雨が、小雨になっていく。
目の前が少しずつぼやけていくのを感じながら、カヤは少し息を吸い込むと、ステイトの背中に回していた片方の手を、ぎこちなくもゆっくりと上げていく。
そして、残った僅かな力で、彼の頭を愛しそうに撫でた。
ステイトの目が、大きく開く。
胸のざわつきが、瞬く間に静まる。
だけど、思考は未だに動かず、ステイトは硬直したまま前を見続ける。


「………カエデ」


カヤはか囁くような声で、彼の名を呼ぶ。
敢えて、自分と一緒に暮らしていた時に呼んでいた方の名前で。


「お願いが……あるの……」


言いたいことはたくさんある。
けど、もう時間がない。


「どんな手を使ってもいいから……自分の道を……切り開いて欲しい……」


自分のことも、彼との思い出話も。
彼への愛情からくる言葉も。
それら全てを呑み込んで、自分の胸の奥にしまって、カヤは言う。


「この世界の……ルールや……使命に縛られず……、あんたが……あんたとして……生きたいように……生きて欲しい……」


自分が思う限りの必要な言葉だけを。
これからを生きるステイトのために。


「しなければ……いけない……ことじゃなくて……、あんたがしたいことを……して……心のままに……生きて欲しい……」


ステイトの頭を撫でていたカヤの手が止まる。


「……あんたは……私と……違うから……」


カヤに抱きしめられているステイトは、動けないまま、カヤの言葉を聞く。


「ちゃんと……素直に……、笑うことも……怒ることも……泣くことも、……謝ることも……お礼を言うことも……出来るから……」


カヤの声が震える。


「だから……大丈夫……。あんたは……私のように……ならない……。どうか……っ、自分を信じて……」


後悔も、悲しさも、苦しさも、痛みも、だんだんと薄れていく。
意識と共に。


「……カエデ……」


ほとんどが暗くなった視界の中、カヤは再度彼の名を呼ぶ。
返事はない。
でも、それでいい。
また彼の声を聞いたら、愛しくて、切なくて、離れがたくなるから。
カヤは最後の力を振り絞って、息を吸い込む。


「今まで……ありがとう……」


夢も希望もなかった自分の人生に、温もりと明るさを与えてくれたステイトに、またお礼を言う。
そして、



「………元気でね……」



最後に、彼の身を案じる言葉を口にして、カヤの意識は完全な暗闇の中に落ちた。



























パンッ


ヒュ~~……パンッ



音が聞こえる。
懐かしい音。
ずっと昔に聞いたことがある音。
これは、花火だ。
ぼんやりとする中、音につられて目を開けると、やはり思ったとおり……夜の空に綺麗な火の花が咲いていた。
川岸の向こうで、何度も何度も咲いている花火。
この光景、どこかで……。


「綺麗ねぇ」


不思議に思っていると前から声が聞こえた。
声の方を向くと、大きな肩越しに着物を着た女の人と甚平姿の小さい男の子が手を繋いで歩いていた。


「ねー!次はりんご飴かってよね!」

「はいはい。来年もまた来れたらね」


男の子の我が儘に対して、女の人は穏やかに応じる。
その姿とやり取りを見て、あ、と思った。
知ってる。
見たことある。
これは。
この光景は。


「来れるさ。来年も、再来年も」


すぐ近くから、声が聞こえる。
男の人の声だ。
そう、この人も……知ってる。
暖かい。
広くておっきな背中が心地好い。
薄れかけていた、それでも唯一頭の中に残っていた……遠い、遠い、昔の記憶。


「でもあなた……仕事が……」

「祭りの日は休めるように調整すればいいだけの話さ。それに」


男の人がこっちを向く。
眼鏡の奥にある優しい目、そして柔らかい笑顔。
ああ、やっぱり。
お父さん。
お父さんだ。


「来年こそは浴衣を着たカヤとも、一緒に歩きたいからね」


そうだった。
そうだったね。
そんなこと言ってた。


「なー、カヤまだ寝てんのかー?」


お兄ちゃん。


「ううん、花火見てるみたい。綺麗だもんねぇ」


お母さん。


ああ、また、こうして……会えるなんて。


……ずっと思っていた。
この光景が続いていたら、どんな生活が待っていただろうか。
お父さんも、お母さんも、お兄ちゃんも、イグノデゥスに殺されてなかったら、私は来年も……みんなと一緒に祭りに来れていただろうか。
夜空に打ち上げられる花火を、みんなと一緒に手を繋いで見れただろうか。
みんなが生きていれば、私はどんな人生を送っていただろうか。
『リバースホープ』に送られることもなかっただろうか。
この光景の続きが、もし可能なら、見たい。
知りたい。
イグノデゥスを殲滅すれば、この続きが見れるのだろうか。
使命を成し遂げれば、望む未来を得て、この続きを見て、私は幸せになれるのだろうか。
いや、なれる。
きっと、なれるんだ。
そう信じていた。
もう信じるしかなかったから、強く信じ続けた。
周りが見えなくなるくらいに。
……その結果……私は後戻り出来なくなってしまった。
あの山から出れなくなってしまった。


………けど。


そのおかげで、カエデと出会えれた。
望んでいた続きが見れた。
知ることが出来た。
ちょっとしたことが楽しくて、自然と笑顔になれて、ケンカもしたけど、それでも温もりにあふれている………きっとこんな生活を送っていたんだろうなって。
カエデとの生活は、陽だまりのようだった。
……本来なら、憎むべきイグノデゥスだろうけど……だけど……カエデは特別だから。
特別に大切で……大好きな子だから。
私がいなくなった後も、笑っていて欲しいから……。




だから、カエデ。

生きてね。

絶対に生きて……私のようにならないでね。

きっと、あんたなら大丈夫だから。

……カエデ。

今まで……本当の本当にありがとう。



意識が暗闇の中へ沈んでいく。
心地好い温もりと共に。


「あらあら、また寝ちゃったのね」

「ねー、母ちゃん~。俺もおんぶ~っ」

「ふふっ、帰ったらすぐに布団を用意しないとな」


かつて聞いた三人の何気ない会話を最後に、カヤは心穏やかに深い、深い眠りについた……。





つづく
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