CHANGE
少しでも楽になるためには、全てを捨てるしかなかった。
自分が自分として生きるためには、一人になるしかなかった。
孤独の道を選ぶしかなかった。
“あの方”もそう言っていた。
……だけど。
罪悪感は消えることなく……。
ずっと、つき纏っていた。
それは影のように。
呪いのように。
だから……。
だから、あの時……。
カエデを見つけた時……。
私は………。
…………。
***
暗雲が立ち込める空。
ざぁざぁと降る雨が、容赦なく山を濡らす。
木や岩に飛び散っていた赤い血が、雨によって流れ落ちていく。
そして、雨に紛れて流れていく血の近くには、獣型と異形のイグノデゥスの死骸が転がっていた。
原型がわからないほど、無残に斬り裂かれた状態で……。
そこらに落ちている肉片も臓物も、枯れ葉と共に雨で出来た水溜まりに浸っていく。
無惨なイグノデゥスの死骸は一体、また一体と、山の外に向かって点々と続いていく。
「ギシャア゛ァア゛アアア゛ッ!!」
険しい山道を抜けた先で、イグノデゥスの断末魔が聞こえてくる。
大きな蜥蜴のような見た目のイグノデゥス。
それが首、腕、足、胴とバラバラに斬り刻まれた状態で、バチャバチャと音をたてて地面に落ちる。
その肉片の前にいた人影は、持っていた長剣を地面に突き刺し、それを支えにしながら激しい息切れを繰り返す。
首筋まである黒髪に大きな傷が頬にある四十代後半くらいの女。
これまでに対峙したイグノデゥスを斬殺した張本人……カヤは、呼吸を整えながらなんとか顔を上げて、柄を握りしめている手を睨んだ。
微かに震えている己の手。
それを見たカヤは、眉間に皺を寄せた。
やはり老化には抗えないと思い知らされる。
筋肉も体力も、何もかもが衰えている。
カエデに稽古をつけるようになってから、多少は体を動かしていたが……。
やはり、それだけではどうにもならないとわかった。
今の時点で、手は震え、体力の限界が近づいている。
………それでも。
カヤは再度顔を下げる。
(カエデを見つけないと……)
ここで止まってはいけない。
一緒にごはんを食べて笑っているカエデの姿を思い浮かべ、カヤは自分にそう言い聞かせると、深呼吸をする。
そして、手と腕に力を入れて、地に刺した長剣を抜くと、踵を半歩返してその場から去った。
ざぁざぁと雨は降り続ける。
全身を濡らしながら、長剣を片手にカヤは崖沿いを歩いていく。
その途中で、顔を横に向けて、崖の下に広がる東大陸の風景を見る。
雨のせいで見渡しはそこそこ悪いが、山や林に囲まれ、小さな村や町が所々にある先に、都市らしき景色が小さく見える。
僅かな明かりが灯っているそれを見て、カヤは少し苦々しい表情をする。
そして、振り切るように顔を前に向き直すと、崖沿いの先に向かって駆け出した。
(残すは“群れ”か……)
さっきの山には会話が出来るイグノデゥスがいなかったけど、群れにはいるはず……。
いや、もしかしたらそこに……。
一つの可能性が思い浮かび、カヤの目つきが鋭くなる。
向かう先は東大陸と北大陸の境にある谷。
そこに、イグノデゥスの群れが潜んでいることをカヤは知っていた。
途中で道を外れ、崖を滑り降りる。
地面に着地したところで、また駆け出し、木々の間を通り抜けていく。
道中で『リバースホープ』に遭遇しないことを願いながら。
山の麓を走り、野原を抜け、雨に打たれて全身が冷えていくのを感じながら、カヤは例の谷に辿り着く。
川原のところで足を止めて、呼吸を整えながら、周りを見回す。
………イグノデゥスの気配は感じない。
あるのは、冬なのに両側で鬱蒼としている木々と延々と続く川砂利、そしてその真ん中を流れている川。
普段は澄みきった綺麗な川だが、今は雨のせいで濁流となっている。
(……もっと奥まったところに行ってみるか)
そう思い、カヤは先へと進もうとする。
と、その時だった。
ピチャッ……
雨音でも川の音でもない音がした。
それを確かに聞き取ったカヤは、踏み出した足を止める。
そして、警戒心を高めて周りを見回す。
先ほどと変わりない谷の景色が、カヤの目に入る。
自分の存在に気づいたのか。
その上で隠れ潜んでいるのか。
と、周囲に意識を集中させていたカヤだった……が。
その途中で、ハッと何かに気づいたかのような表情をする。
雨の音も、濁流の音も、カヤの耳を通り抜ける。
全身の力が抜けていき、どこか呆然とした様子で、カヤはその場に佇む。
そして、しばらくして……ゆっくり、ゆっくりと顔を横に向けていく。
激しく流れている川の向こう側。
色褪せた葉が残っている木々の間。
そこから、こちらを見ている存在。
癖のある赤みがかった茶色の髪に、琥珀色の瞳。
よく知っている顔立ち、容姿。
着ている服は近未来風の和装だったが、それでもカヤはすぐにわかった。
カエデ。
カエデだった。
カエデがそこにいた。
カヤは目を大きく見開く。
時が止まったかのような錯覚に陥る。
雨が降りしきる中、二人はお互いを見る。
戸惑いに揺れる黒い瞳と静か過ぎるくらい静かな琥珀色の瞳。
表情に困惑の色を覗かせるカヤと訝しそうな表情でカヤを見るカエデ。
カヤは食い入るようにカエデを見つめる。
カエデの目つきと顔つきからして、カエデが“今までのカエデ”でないことは一目瞭然だった。
……それでも。
それでも、カヤは。
「………カエデ……」
あらゆる感情が混ざる。
言いたい言葉も思い浮かばず、縋るような弱々しい声で彼の名を呼ぶ。
長剣の先を静かに下ろして、カヤはカエデの方へと一歩足を踏み出す。
だがその瞬間、カエデの表情が一気に険しくなった。
鋭い目つきで自分を睨んできたカエデに、カヤは目を大きくして思わず足を止める。
直後、カエデはカヤから目を離すと、上へ大きく飛び、木の枝に乗る。
そして、木からまた違う木へと飛び移り、カヤの前から姿を消した。
カヤはカエデに睨まれたショックか、少しの間その場に佇む。
だが、ハッと我に返った後、慌てて駆け出した。
「カエデ!!」
必死な声で彼の名を呼ぶ。
川を勢いよく飛び越え、着地した瞬間転けかけたが、なんとか足を踏ん張らせてバランスを持ち直す。
そして、顔を上げてカエデが去っていった後を見ると、カヤは迷うことなく走った。
雨に濡れた草木を掻き分け、山を登る。
緩い坂からだんだんと平地になり、息を切らしながら、カヤは周りを見回す。
「カエデ……!カエデーッ!!」
何度もカエデの名を呼ぶが、見えるのは雨が降り注ぐ山の中だけで、聞こえるのは雨音だけで、カエデの影すら見えてこない。
「……カエデ」
先ほど見たカエデの姿が、不意にカヤの脳裏を過ぎる。
冷たい目。
訝しげな表情。
あの山にあの家にいた時とは全く違う……別人のようだったカエデ。
自分と一緒にいた時のカエデと先ほどのカエデの姿が、カヤの頭の中で重なる。
笑顔のカエデを思い出せば思い出すほど、カヤの肩が震える。
拒絶を露にした目つきで自分を睨んでいたカエデの姿を思い浮かべると、胸に鋭い痛みが走る。
息をするのもつらくなり、その場に踞りたくなる。
(……カエデ)
カエデ、カエデ。
本当に………もう……。
こんな急に、この時が来るなんて。
………ああ。
つらい。
苦しい。
悲しい。
寂しい。
このまま、雨と共に流されて消えたい。
………でも。
それでも、確かめないといけない。
確かめて、そして、伝えないといけない。
無意味なことであっても。
愚かなことであっても。
私は、カエデを…………。
ジャリッ
その時。
カヤの思考を遮るように、音が聞こえた。
明らかに雨ではない音。
それに伴って、濃くなる気配。
カヤの表情が、悲痛なものから険しいものへと変わっていく。
考えるのをやめて、心の揺れを遮断して、カヤはゆっくりと顔を上げていく。
ジャリッ、ジャリッ
音が近くなる。
そして、
「は~、なんだ。女っつってもばばあじゃねぇか」
声が聞こえた。
鼻につくような口調の低い声。
顔を上げたカヤは、前に現れた“それ”を見据える。
二メートル近くはある大柄な体躯。
紅色の逆立った髪、褐色の肌。
濃い灰色の瞳に、縦に細長い瞳孔。
悪どい笑みを浮かべた口からは、鋭い牙が見える。
袖のない動きやすそうな和装束を身に纏った“それ”は………イグノデゥス。
ヒト型の、大柄で強面の男の容姿をしたイグノデゥスだった。
「若くて見た目もいいのだったら、ちょっと遊んでやろうと思ってたのによ」
カヤを見下すような目で見ていたそのイグノデゥスは、少しだけ残念そうにする。
一方で、カヤは冷然とした様子で、前にいるイグノデゥスを見る。
見て、分析をする。
(……“シルシ無し”……、服の下にあったとしても下級の中でも上か、ギリギリ中級といったところか……)
人間を目の前にしてもすぐ襲わない辺り、理性は強めのようだ。
その理性度の高さと雰囲気からして、おそらく群れのリーダー格だろう。
固有の異能力は……さすがに見ただけではわからないか。
「あ?そんなジロジロ見たって何も出ねーぞ?」
自身の頭から爪先まで見ているカヤの視線に気づいたのか、褐色肌のイグノデゥスは少し不快そうな声で言う。
カヤは目の動きを一旦止めると、静かに視線を上げる。
様子を見る限り、対話は可能そうだ。
そう見当つけたカヤは、深く息を吸って吐いた。
「……琥珀色の目をした」
カヤは言い出す。
落ち着きのある声で。
何か言い出したカヤに、褐色肌のイグノデゥスは怪訝な顔をする。
「髪色は赤茶で……後ろに一つに結い上げた……、若い男の見た目をしたイグノデゥス……」
だが、カヤの発言を聞くにつれて、イグノデゥスは何か気づいたような表情をする。
「あのイグノデゥスは……あの子は、お前の仲間か?」
カヤは褐色肌のイグノデゥスを真っ直ぐ見据えて、問う。
一時の間が空く。
何か考えているような様子のイグノデゥスだったが、程なくして口角を上げていく。
そして、腰に手を当てると
「あ~……、ステイトのことか?」
イグノデゥスのその言葉に、カヤの眉がぴくりと動く。
「ここらでそういう特徴で青くせぇ見た目してんの、ステイトぐらいだし……ま、あいつだろうな」
ステイト。
それが、カエデの………本当の名前。
カエデのイグノデゥスとしての名前を知って、カヤの中で何とも言い難い感情が流れ込んでくる。
もやついて、絡みついてくるような……そんな形容し難い感情が。
「で」
だが、それもイグノデゥスの声によって消える。
「真っ先にステイトのことを聞いてきたっつーことは、やっぱお前『ならず山』であのポンコツと一緒に暮らしていた人間だな?」
ポンコツ。
内容よりカエデを貶めるその発言に、カヤの眉尻がぴくっと上がる。
僅かに空気が張り詰める。
だが、それを物ともせず、褐色肌のイグノデゥスはまじまじとカヤを見る。
「ふーん……、見たところ『リバースホープ』でもねぇみてぇだし……なんだ?何の目的であいつと暮らしていたんだ?」
「………私はあの子がお前の仲間なのか、聞いているのだけど」
イグノデゥスの問いに応じず、カヤは低く冷たい声で、自分が聞きたいことだけを聞く。
そんなカヤに対し、イグノデゥスは一旦黙ったが、次の瞬間にはハンッと鼻で嘲笑った。
「おいおい、随分余裕がないんだなぁ?なんだ?そんなにあいつのことが知りたいのか?」
「……」
「もしかして男に相手にされねーからって、あいつを捌け口にしてたのか?……っぷ、はははははっ!こりゃ爆笑話だぜ!死んだかと思ってたら、こんなばばあの慰み者にされてたなんてよぉ!!ぶはっ!あひゃひゃひゃひゃひゃっ!!!」
「………」
「大した異能力もねぇ芸もねぇ役立たずのポンコツだと思ってたけどよぉ……。まさかこんなおもしれー話を持って帰ってくれるなんて思いもしなかったぜ!はははっ!あ~腹いてーっ!やっぱまだ生かしておくべきだな、あいつ!だはははははははははっ!!!」
イグノデゥスの下衆な笑い声が、雨音と共に響き渡る。
腹を抱えて笑うイグノデゥスを冷たい目で見ていたカヤは、口を開く。
そして、
「勝手に妄想していろ」
カヤの淡とした声が聞こえた瞬間、イグノデゥスの笑い声がぴたりと止まった。
「お前とあの子の関係は、よくわかったよ。……質問を変えようか」
カヤの異様なほど落ち着きのある声と共に、重々しい空気が漂う。
褐色肌のイグノデゥスは、依然と嘲笑を浮かべてカヤを見る。
「私の家……私が帰ってきた時、所々が壊れてて……、血がそこらかしこに散っていたけど……あれはなんだ?」
カヤの目つきが鋭くなっていく。
「あの子に何かしたのか?」
沈黙。
褐色肌のイグノデゥスは、何故そんなことを聞くのかと言わんばかりに笑うのを止めて、若干不可解そうな表情をする。
雨音だけが、その場に響く。
カヤは何も言わず、何もせず、ただ黙ってイグノデゥスの返答を待つ。
「……あー」
しばらくして、イグノデゥスが口を開く。
「別に大したことはしてねぇよ。あのボケが自分のことも俺のこともド忘れしていたから、“思い出させて”やっただけだぜ?」
その時のことを思い出したのか、イグノデゥスはふっと少し吹き出して笑う。
「いや~、でも久しぶりだったなぁ。ステイトがあんなびーびー泣くなんて」
カヤは冷静な目でイグノデゥスを見る。
「あいつがあそこまで泣く姿見るの、何十年ぶりだろうか。顔面を2、3発ぶん殴って、頭を叩きつけて、両腕腕ちぎって腹抉っただけなのに」
だが、イグノデゥスの言葉を聞くにつれて、黒い瞳の奥から怒りの色が滲み出てくる。
「それくらい慣れてたはずなのによ。今にも死んじまう~って顔をして、はは!ホンットおかしかったぜ」
胸の奥からぞわぞわ、ぞわぞわと不愉快な波が込み上げてくる。
「んで、何度も名前を呼んでやって、あいつがイグノデゥスでどういう立場だったのか身を以てわからせたら、ようやっと思い出したってわけ」
長剣の柄を握っている手に力が入る。
「んまぁ要するに、お前の家にあった血は全部あいつの血で、家が壊れてたのは俺らがあいつをしばいた痕跡ってわけだ」
もう冷静さを装えるほどの余裕はなくなり、カヤの目つきが険しくなる。
口の隙間から荒々しさを帯びた息を漏らし、手の甲やこめかみに青筋が浮かぶ。
自分が買い物を行っている間に。
呑気にこれからのことを考えている間に。
あの子はそんな目に遭っていたのか。
「おいおい、何怒ってんだ?」
さすがにカヤの怒気を感じ取ったのか、褐色肌のイグノデゥスはおどけたように笑う。
「ペットを痛めつけられたのが、そんなに嫌だったのか?悪いなぁ。元々はこっちのもんだったからよ」
イグノデゥスの発言一つ一つが、カヤの感情を逆撫でする。
「役には立たねぇけど、いい鬱憤晴らしにはなるからな。あいつ。痛がる顔と悲鳴がたまんねーんだよ」
そう言って嗜虐的な笑みを浮かべるイグノデゥスに、カヤは怒りで震える。
握りしめてる長剣の柄から、みしりと不穏な音が聞こえる。
そして、
「で。とどのつまり、お前はあいつを返せって言いた……」
ガキィンッ!!
一瞬の出来事だった。
長剣と筋肉質な腕が、ぎちぎちと強い力で押し合う。
カヤの殺気立った視線とイグノデゥスの嘲りを含んだ視線が、至近距離でぶつかり合う。
聞くに耐えきれなくなったカヤが、イグノデゥスに刃を向けたのだ。
カヤは殺意をむき出しにした凄まじい目つきで、イグノデゥスを睨む。
もうわかった。
もう十分だ。
これ以上、聞く必要はない。
私は私のやるべきことをする。
鮎が入った桶を抱えて嬉しそうに笑うカエデの姿が、カヤの脳裏を過ぎる。
その瞬間、カヤは込み上げてくる感情で、全身が燃え上がるように熱くなるのを感じた。
ここまで怒りを感じたのは、いつぶりか。
こんなにも殺意に駆られたのは、何十年ぶりーーー……。
「くくっ、穏やかじゃねぇなぁ……」
イグノデゥスの声が、カヤの思考を遮る。
「その動き……お前、元は『リバースホープ』にいただろ?」
腕に刃を押しつけられながらも、イグノデゥスは余裕な面持ちでカヤに問いかける。
カヤは何も言わずに、ただ険しい目つきでイグノデゥスを睨み続ける。
それを肯定と受け取ったのか、イグノデゥスは口の端をつり上げて笑う。
「だったら、わかるはずだよなぁ?俺らのことが。お前達の言う“シルシ無し”が、どういう扱いなのかよぉ!」
そう言って、褐色肌のイグノデゥスは刃を受け止めている腕を思いきり前に押し出す。
カヤの体が、後ろに大きく退く。
途中で転けそうになったカヤだが、なんとか足を踏ん張らせてバランスを持ち直す。
「っ………」
「大した異能力も持っていねぇ戦力にもならねぇ雑魚をのうのうと生かせるほど、俺達の世界は優しくねぇんだよ」
手首をゴキゴキと鳴らしながら、褐色肌のイグノデゥスは嘲笑を浮かべる。
「下級の中の下級は、むざむざと『リバースホープ』に狩られるか。それか俺のような優れたイグノデゥスに媚びて、縋りつくか……」
「……」
「『リバースホープ』にいたなら大体わかるだろ?」
イグノデゥスの口が、更に弧を描く。
「お前もその“シルシ無し”を何十何百と狩ってきたんだろ?」
「………」
イグノデゥスの問いに、カヤは応じない。
ただ黙って、重い殺意を込めた目でイグノデゥスを見ながら、再び長剣を構える。
余計なことは考えず、イグノデゥスの腕に視線を移す。
傷一つない褐色の腕。
あれだけ刃を押しつけたというのに。
それに、本来なら先ほどの一発で腕一本は斬り落とせていたはずだった。
それが出来なかったということは……。
(………)
長剣を振り下ろした瞬間に走った硬い衝撃を思い出し、カヤは相手の固有能力を察していく。
と、同時に今の自分にとって分が悪い相手ということにも気づき、苦々しい気持ちになる。
本当ならこいつを滅多刺しにしたい。
原型がわからなくなるくらい斬り刻みたい。
………でも、ダメだ。
それは自分の感情がそうしたいだけであって、必要なことではない。
ここで暴れても、あの子のためにならない。
……そもそもは、自分がいけなかったんだ。
カエデと離れることを嫌がって。
カエデに拒絶されることを恐れて。
ずっと、本当のことを言わなかった自分が……招いたことなのだから。
早いうちに言っていれば、何か違っていただろうか。
もう少し、マシな別れ方が出来てただろうか。
後悔が押し寄せてくる。
……けど、今更無駄なことだ。
過ぎたことを悔やんだって、何も変わらないんだ。
だから……。
「……あの子は」
固く閉ざされていたカヤの口が、開く。
「カエ……、……ステイトはどこにいる?」
呼びかけた名前を飲み込んで、彼の本当の名前を口にして、カヤは問う。
カヤの様子を黙って見ていたイグノデゥスは、その問いを聞いて鼻で笑う。
「聞いてどうする?」
「……」
カヤはまた黙り込む。
聞くだけ無駄か、と心の中で悟る。
何故なら、
ジャリ、ジャリ
パシャッ……
周りから、雨音とは違う音が聞こえてくる。
微々たるものだった気配が、濃くなっていく。
木の影、草むらの奥からと、ヒト型、半人半獣といったイグノデゥスが次から次へと姿を現す。
全員目を爛々と光らせて、カヤを見る。
そう。
この山にいるのは……、イグノデゥスの“群れ”だ。
囲まれることなんて、あって当然なんだ。
「くくっ……くくくくっ……!」
褐色肌のイグノデゥスは両手を腰に当てて、顔をうつ向かせておかしそうに笑う。
「お喋りはここまでだ……。よかったなぁ……?死ぬ前にステイトのことが知れて……、しかもこの俺と会話までしてよおぉ……」
漂う空気が重くなる。
周りから聞こえる下衆な笑い声と共に、褐色肌のイグノデゥスはゆっくりと顔を上げる。
「いい冥土の土産が出来たじゃねーか……あの世で自慢しなぁ!!」
イグノデゥスは腰から手を離し、腕に力を入れる。
筋肉が更に膨張し、ビキ、バキ、と何か軋むような音がする。
そして、
「最期はこのストーン・アーム様に葬られたってなぁあーーっっ!!!」
ストーン・アームと名乗った褐色肌のイグノデゥスはそう叫ぶと、一気にカヤに詰め寄り、大きく振りかざした拳をカヤの顔面目掛けて突き出した。
眼前まで迫ってきた拳に、カヤは目を見開き、咄嗟に顔を傾けてその拳を避ける。
ビュンッとえげつないくらいの空を切る音が、カヤの耳に入る。
音からして、どれほどの威力があるか。
当たっていたら、確実に口から上が跡形もなく吹き飛んでいたであろう。
だが、それに肝を冷やす余裕なんてなく、次から次へと攻めてくるストーンの拳をカヤは紙一重で避けていく。
反撃の体勢に入る間もない。
剣で受け止めたとしても、絶対に力負けする。
どうするべきか。
突き出したり振り下ろしてきたりする拳を、屈んだり、飛び退けたり、上半身を横に傾けたりとしてなんとか避けながら、カヤは必死に考える。
そして、やはりカヤの察しどおりであった。
思いきり振り下ろした刃を受け止めても無傷だった腕。
体がちょっと頑丈なくらいで、傷一つ出来ないないわけがない。
となれば、変化したということ。
相手は体質を硬化する能力の持ち主だと、カヤは読んでいた。
名前からして、主に腕を硬化して攻撃をしかけるタイプなのだろう。
固有能力に類似した名前。
これも、イグノデゥスの特徴だ。
「久しぶりに人間をいたぶって食えるぞ!お前らもやれぇ!!」
ストーン・アームが叫ぶ。
それを聞いたカヤは、苦い表情をして周りに視線を向ける。
雄叫びをあげてこちらに迫り来るイグノデゥス達の姿が、視界に入る。
そこにカエデの姿はない。
カエデがいないことに少し安心しつつも、この現状をどう打破するか、カヤは思考を巡らせる。
やるべきことを決めても、まず自分が生きていないと意味がない。
こいつらを撒かないと。
そして、あの子に会わないと。
四方八方から容赦なく襲いかかってくるイグノデゥス達を、飛び退けたり、長剣で受け流したり等して避けながら、カヤは必死に退路を探す。
十以上いるイグノデゥスの攻撃を回避する様は見事なものだったが、それでもカヤの体は限界がきていた。
長い時間走って、今のカヤにとっては重い長剣を振り回して、何十といたイグノデゥスを斬ってきて……。
体力も筋力も万全でいられるわけがなかった。
更には、この雨。
容赦なく降りしきる雨のせいで、視界は普段よりも悪い上に足場も滑りやすくなっている。
正に最悪な条件が揃った状態で、カヤは群れと対峙してしまったということだ。
それでもやるべきことを成すために、ここで死ぬわけにはいかない。
そう思って、カヤはイグノデゥス達の隙を一瞬でも見逃さないように、周囲に意識を集中させる。
……だが。
ズルッ
「!」
不運にも、カヤは地面の最もぬかるんだ部分を踏んでしまい、足を滑らしてしまった。
さすがにこればかりは足に力を入れても持ち直せず、カヤの体は重力に従って地面へと倒れていく。
それを見逃すわけないストーンは、にいぃと凶悪な笑みを浮かべて、硬化した拳を大きく振りかざす。
「終わりだぁああああっ!!!」
ストーンの拳がカヤを目掛けて、凄まじい勢いで振り下ろされる。
カヤは目を見開き、顔を強張らせる。
そして、次の瞬間……大量の血が地面に飛び散った。
その一方で……。
カヤと群れから離れたところにある崖。
そこに生えている大木の枝の上で、カエデ……元いステイトは雨で濡れそぼる山の景色を見つめていた。
憂いのあるため息を吐き、どこか冷めきったような目で、ただじっと……。
つづく