CHANGE
『カエデ』というのは、カヤがつけた名前だ。
拾ったイグノデゥスは、意識は戻ったものの、記憶はないようだった。
名前を聞いても、「なまえ?」としか聞き返して来なかった。
以前自分がどこにいたのか、どうして瀕死状態になっていたのか、そして、イグノデゥスの最大の特徴である異能力のことすらも全く覚えていない様子だった。
どれを聞いても不思議そうに首を傾げるだけ。
カヤはこれ以上過去のことを聞く必要もないだろうと早々に思い、イグノデゥスに名前をつけた。
カエデ、と。
カエデと呼ばれて、初めは反応がいまいちだったイグノデゥスだったが、日が経つにつれてそれが自分の名前と理解したのか、呼べば必ず振り向くようになった。
言語も初めは拙かったものの、日に日に流暢になっていった。
わからない単語は、ちゃんと意味を教えた。
服も初めはカヤのお古を着させていたが、数ヶ月後には山を下りる度に男用の服を買って、カエデ用の服を用意するようになった。
カヤはとにかくカエデの世話をした。
着替え、食事、片付け、洗濯、掃除、風呂、就寝……と、まずは基本的な生活の指導。
それが出来るようになった後は、料理、遊び、字の読み書き、本から学べる限りのことを教えた。
カエデは好奇心旺盛で、教えたことに対する飲み込みがよかった。
そして、カヤのすることなすこと全てに興味を持った。
「カヤ~」
「ん~?」
「何してるのー?」
「縫い物だよ」
「ぬいもの」
「こうやって服の破れた部分を直すんだよ」
「へ~、俺もできる?」
「あとで教えてあげるよ」
座って縫い物をしているカヤの膝に頭を預けて、カヤを見上げるカエデ。
人間ではない証の縦に細長い瞳孔に、口元から覗く鋭い牙。
人間の誰もが見れば、畏怖や憎悪の念を抱くそれ。
だけど、カヤはそれを見ても畏怖も憎悪も感じなかった。
むしろ、自分にすり寄っては質問してきたり、甘えてきたりするカエデを見ては、胸の中に日だまりが出来たかのような暖かい感覚がした。
カヤはまるで癖かのように、カエデの頭をよく撫でた。
カエデと暮らして、カヤがまず安心したのは、カエデが『雑食』だったことだ。
イグノデゥスには外見の他に『雑食』と『人食』の二つのタイプがある。
『雑食』は人間が食べている物でも草でも虫でも食べれるタイプ(一応人間も食べれるには食べれる)で、『人食』はその名のとおり人間を主に食べるタイプだ。
もしこれでカエデが『人食』の方だったら、どこかから死体を見つけないといけないところだったが、ここ数ヶ月、自分と同じ食べ物を美味しそうに食べるカエデを見て、その必要はないとカヤは安心した。
最初に鮎を食べていた時点で察するところだっただろうが、あれはカエデが飢餓状態だったのもあり、すぐに『雑食』とは決めつけれなかった(『人食』は極限の空腹状態だと人間以外を食べることもある)。
二人での生活に慣れた頃。
カエデは外に出たがるようになった。
カヤが山を下りて麓の町に行こうとする度、「俺も連れていって」とよく駄々をこねた。
カヤも出来るものならカエデを外に連れていってやりたかったが、この世界の仕組みを考えると、首を縦には振れなかった。
いくら自分と何の違和感もなく、普通に暮らしているとはいえ、カエデはイグノデゥス。
『リバースホープ』がカエデを見つけたら、見逃すわけがない。
同じイグノデゥスもだ。
今のカエデを見て、何を言って、どんな行動に出るのか。
………何よりも。
カエデに以前のことを思い出させてしまうきっかけを作りたくない。
今のままでいて欲しい。
ずっと。
………。
そんなカヤの気持ちをよそに、カエデが一度、カヤの目を盗んで勝手に家から出た。
カエデが家にもその周りにもいないとわかった途端、カヤは血相を変えてカエデを追いかけた。
山の中間辺りまで下りていたカエデを見つけて、初めて怒鳴り声をあげた。
カエデはカヤを見るなり怯えた顔をして、逃げるように慌てて家に戻った。
カヤが家に戻るなり、カエデは部屋の隅で泣いて訴えてきた。
どうして、外に出てはいけないのか。
自分も山を下りたい。
麓の町に行きたい。
外の世界をたくさん知りたい。
色んなものを見たい。
そう言って泣きじゃくるカエデを前に、カヤは悩んだ。
悩んで、悩んで、悩んで……。
カエデを悲しませたくない気持ちと外の世界に出て欲しくない気持ちに挟まれて……。
そして、
「カエデ、外の世界はね」
「危ないんだよ」
「お前を傷つけるものがたくさんいるんだよ……」
「外に出たら、あっという間に死んでしまうかもしれない」
「だから」
「……だから」
「だから、ね。カエデ」
「山の外はまだダメだけど、山の中だったら……私と一緒だったら、どこでも歩いていいから」
「今はそれで許してちょうだい」
「………」
「でもいつか、安全だってわかったら、私がよく行く麓の町に一緒に行こうね」
「約束。ほら、ゆびきりげんまん」
ほのめかす程度の真実と気休めにしかならない嘘をついて、カヤはカエデに納得してもらった。
それからは、よく山の中をカエデと手を繋いで散歩したり、探索したりするようになった。
草木、花を見て、虫や小鳥、鹿や猪等の動物達に触れて、楽しそうに笑うカエデを、カヤは優しい目で見守った。
周囲に気を張りながら。
一日、また一日とカエデとの何気ない日々を重ねていく。
カヤにとって、それはとても大切なもので、かけがえのない宝物になっていた。
だけど、ふと。
ふと、カヤは思い出した。
そして、この日常はずっと続かないことに気づかされた。
人間とイグノデゥスは寿命が違う。
人間の平均寿命が約70歳に対して、イグノデゥスは現在判明しているかぎりでは、100年以上は確実に生きるということだ。
しかも、見た目が若くても80年生きていたり、逆に見た目が大人・年配に見えても実際はまだ2年しか生きていない場合もある。
つまり、外見だけで実際の年齢を見極めるのはほぼ不可能。
カエデも外見は二十歳くらいの青年に見えるが、実際はどれだけの年月を生きているのかわからない。
だからといって、今のカエデに年齢を聞いたところで、正確な答えが返ってこないのは当然のこと。
それにカヤにとって重要なのは、カエデの年齢を知ることではない。
カエデが若かろうがそうでなかろうが、いずれにしろ、カヤの方が先に亡くなる可能性が少なからずともあるというわけだ。
例え、病気も事故もなく、今の日常が続いたとしても、人間には“老衰”というものが必ず待っている。
いや、自分に関しては……。
………。
……自分が死んだ後、カエデはどうなるのか。
何も思い出せないまま、カエデは……。
いや、思い出したとしても結局は……。
…………。
その日から、カヤはカエデに“稽古”をつけることにした。
基本的な体術に組手、木刀を作って剣技を教えたり、山の頂上から家まで何度も走って往復させて体力をつけさせたり、重い物を持たせて筋力を鍛えさせたり、石や木の実を投げてそれを避けさせたり、他にも戦いに関する心得をカエデに叩き込んだ。
自分に出来る限りのことを、カエデに付きっきりで教えた。
初めは急な“稽古”に戸惑っていたカエデだったが、元々体を動かすのは好きだったので、次第にカヤとの稽古を楽しむようになった。
カヤがどうして自分に戦い方を教えるようになったのか。
特に深く考えることもなく……。
そうして、また二年、三年と月日が経っていき……現在。
カンッ!
「……っ!」
一本の木刀が宙を舞う。
同時に、カヤはしりもちをつく。
宙を舞っていた木刀は回転しながら、カヤの後ろに落ちていく。
地に当たった木刀が、軽く弾んだ後、ころころと転がっていく。
山頂付近。
大きな木々に囲まれたそこに、沈黙が流れる。
そして、次の瞬間。
「やった……やったぁ!」
カヤの前で木刀を構えていたカエデは、両手を上げて喜びの声をあげた。
「やっとカヤに一本とれたー!」
飛んで跳ねてはしゃぐカエデを前に、カヤは胡座をかいてはぁとため息を吐く。
「とうとうカエデに負ける日が来たかぁ……」
「へへー!今日の夜はトランプしよ!決まり!」
「はいはい」
勝ったらカエデのやりたい遊びに付き合う。
そう約束していたので、カヤは潔く返事をする。
「まだ続ける?」
「よー、それそろ日が落ちてきたから今日は終わりにしようか」
「はーい」
カエデはカヤの横を小走りで通り過ぎると、後ろに落ちてる木刀を回収する。
そして、カヤの元に駆け寄ると、手を差し伸ばした。
横から出てきたカエデの手を見て、カヤは表情を和らげると「ありがとう」と言って、その手をとる。
カエデの力を借りて立ち上がったカヤは、そのまま手を繋いで山を下りていく。
「トランプは何やりたい?」
「えっと、ババ抜きと七並べと~……あと知らないのあったら教えてっ」
「りょーかい」
風が吹き、木々がざわめく。
湿りのある土と草を踏み、足場が少し悪い坂をお互いに上手くバランスをとって支え合いながら下りていく。
その途中で、木々の間から山の下に広がる景色が見える。
カヤが転けないように気を配りながらも、カエデは顔を上げて見つめる。
色んな建物がたくさんある麓の町に大きく広がる海、そしてその向こう側に小さく見える町並みと山。
日が沈み茜色に染まっているそれらの景色を見て、カエデの目が輝く。
いつか、自分もこの景色の中に踏み入れる。
カヤと一緒に、外の世界を見るんだ。
たくさんのことを知るんだ。
いずれ訪れる明るい未来に期待で胸が膨らむのを感じながらも、カエデはもう一つ、自分が抱いていた決意を改めて固める。
カヤの手を握っている手に力を入れる。
そして、
「カヤ」
カエデに名前を呼ばれ、前にいたカヤは足元に気をつけつつも後ろを振り返る。
「ん?」
「俺、強くなるから」
カエデが言ってきた言葉に、カヤは思わず足を止める。
「もっとたくさん稽古して、強くなるから」
カエデは力強い声で言う。
それに対して、目を大きくしてカエデを見るカヤ。
そんなカヤの目にだんだんと照れ臭さか込み上げてきたのか、
「だ、だから!心配しなくていいからな!」
やけくそ気味にそう言い放つと、カエデはカヤの手を離し、その横を走って通り過ぎた。
半ば転げ落ちるようにでこぼこの坂を下りていくカエデ。
突然走り出したカエデに驚きながらも、カヤはカエデの背中を見続ける。
やがて、カエデの姿が見えなくなり、一人になったカヤはその場に佇む。
辺りが暗くなっていくのを感じながら、カヤは顔をうつ向かせていき、ぼんやりとした目で足元を見つめる。
カエデが何を思って、ああ言ってきたのか。
直接本人に聞かずとも、言葉の意味を大体察したカヤは、胸が苦しくなるのを感じる。
世界はカエデにとって危険なものだと伝えていても、本当に伝えねばならない真実はまだ言えてない。
今のカエデはイグノデゥスの存在を知らない。
自分がそのイグノデゥスであることすらも。
いつ、どのタイミングで、教えるべきなのか。
イグノデゥスの存在を知って、自分がイグノデゥスだと知らされた時、カエデはどんな顔をするのか。
どんな反応をするのか。
……それがきっかけで記憶が戻ってしまうだろうか。
言いたくない。
でも、カエデのことを考えると、いずれは言わなければならない。
カヤは苦悩する。
ああ、自分もイグノデゥスのように長寿だったらよかったのに。
この時初めて、カヤはイグノデゥスを羨ましく思った。
一日、また一日と何も言えないまま、穏やかな日々が過ぎ去っていく。
その日は稽古をお休みして、カヤはカエデと一緒に川の畔に遊びに来ていた。
浅い川の中を裸足で入ってはしゃぐカエデ。
走ったり、途中で屈み込んでは興味津々に小魚を見つめるカエデを、カヤはそこから少し離れた岩場で見つめる。
鬱蒼とした木々の隙間から差す木漏れ日、どこからともなく聞こえる鳥の囀り、澄んだ川のせせらぎ……。
いつもなら心地好く感じるそれらが、妙に虚ろに感じる。
せっかく、カエデが楽しそうにしているというのに。
……けど。
やはり、どうしても考えてしまう。
この先のことを。
イグノデゥスのことも、カエデがそうであることも。
そして……、イグノデゥスの敵である『リバースホープ』のことも。
いずれは必ず言わないといけない。
けど、カエデの記憶が戻るのが怖くて、後込みしてしまう。
言わずにいてしまう。
カエデのためを思うなら、言うべきだというのに。
この世界のことを教えるべきなのに。
………。
……結局。
自分は、自分のことしか……。
と、カヤが自己嫌悪に落ちかけた……その時だった。
「カヤ」
前から聞こえた声に、カヤの意識が現実に引き戻される。
ハッとした顔をして、反射的に顔を上げる。
すると、岩場の下から心配そうにこちらを見ているカエデの姿が、目に入った。
「大丈夫?」
「え?」
カエデの発言がすぐに理解出来ず、カヤは間抜けな声を出してしまう。
そんなカヤを見て、カエデはますます心配そうな顔をすると
「向こうで呼んでも返事くれなかったし、それに……なんか……元気なさそうだったから……」
きょとんとした様子でカエデの話を聞いていたカヤだったが、しばらくしてようやく状況がわかったのか、慌てて笑顔になる。
「あ……あー、昨日嫌な夢を見たから……ちょっと気分がいまいち上がらなくてね」
カヤは咄嗟に思い浮かんだ言い訳をして、片手で後ろ頭を掻きながら、誤魔化す。
その言葉に聞いて、カエデは首を傾げる。
「嫌な夢?」
「うん。おばけに追いかけられた夢。カエデだって、怖がってたろ?」
「う~、思い出させるなよ~」
「ははははっ」
いつしか見た夢の話をほじくり返されて、嫌な顔をするカエデ。
そんなカエデを見て、カヤはいつものように笑う。
「まー、それならカヤの気分が落ち込むのも仕方ないね」
一応納得したのか、カエデはそう言って岩場に上がる。
そして、ぺちゃぺちゃと濡れた足音をたてながらカヤに近づき、目の前でしゃがみ込むと
「ね、手ぇ出して?」
「え?何?」
「いいから出してっ」
なんとか誤魔化せたことに内心ホッとしつつも、カヤは不思議そうな顔をして、カエデに向けて手を差し出す。
カエデはふふんと得意げな顔をすると、握っていたものをカヤの手に置く。
それは、白濁紫色の綺麗な小石だった。
手のひらに置かれたその小石を見て、カヤは目をぱちくりとさせる。
「へへーっ、さっき見つけたんだ。俺の宝物にしようと思ったけど、カヤにあげる!」
そう言って立ち上がると、カエデは踵を返して岩場を下りていく。
そして、また川の中を走って遊び始めた。
バシャバシャと水の跳ねる音が聞こえる。
手のひらにある綺麗な小石を呆然と見ていたカヤだったが、しばらくしてゆっくりと顔を上げる。
少し離れた場所で、沢蟹を捕まえようと追いかけているカエデ。
その純粋な目を見て、その無邪気な横顔を見て、カヤの表情が何とも言い難いものへとなっていく。
どこか眩しげな目でカエデを見つめた後、カヤは再び顔をうつ向かせて手のひらにある小石を見る。
カエデが見つけた小石。
自分のことを気にかけて、きっと自分が喜ぶだろうと思ってくれた……綺麗な小石。
心配そうな顔をして自分を見ていたカエデの姿が、小石をあげた後に屈託ない笑顔を見せてきたカエデの姿が、カヤの頭に思い浮かぶ。
カヤの表情が、ほんの少しだけ苦しそうに歪む。
元気で明るくて、純粋なカエデ。
優しくて、自分を慕ってくれるカエデ。
可愛い、可愛い、私の……大切な……。
(……だからこそ)
カヤは小石がある方の手を、ゆっくりと閉じていく。
そして、目を伏せて、決意を固めていく。
(言わないといけない……。教えないといけない……)
この先、いつか、カエデが一人で生きないといけなくなった時。
何も知らないままでは、あまりにも残酷だから……。
カエデには生きて欲しいから……。
だから……。
(言おう……。今年には……、必ず……)
もう少ししたら冬が来る。
冬が来れば、あっという間に来年だ。
それまでには言おう。
この世界のことも。
カエデのことも。
……例え、それがきっかけでカエデの記憶が戻ったとしても。
カエデが、私の知らないカエデになったとしても……。
私はカエデを……。
カエデのために………。
(………)
カヤは手の中にある小石をぎゅっと握りしめる。
そして、それを胸元に当てて、伏せていた目を開き、静かに顔を上げてカエデを見る。
斜め向かい側にある岩に座って、遊びに来たのであろう数匹の小鳥と戯れているカエデの姿が、カヤの黒い瞳に映る。
小鳥の頭を指先で撫でて、笑っているカエデを見て、カヤは小石を握っている手にもう片方の手を添える。
カエデのために。
あの子のこれからのために。
自分が出来る限りのことは尽くす。
カエデと共に生きるようになってから、自分の中で決めていたこと。
だから、今回も同じことだ。
結果がどうなろうと、自分は受け入れる。
カエデの全てを。
長い時間をかけて、ようやくカヤは腹をくくる。
そして、手に持っている小石をなくさないように、ズボンのポケットの奥まで入れると、その場から立ち上がり、いつもの優しげな表情になってカエデの元に向かった。
だけど、現実とはどこまでも無情なもので
二人の今までを全て踏みにじるように
痛くて苦しい別れの日が、もうすぐそこまで近づいていた。
つづく