CHANGE




3×××年。

世界に前代未聞の隕石落下事象『バーンショット』が起きた。

地上にあった建物や文化はほぼ壊滅し、人類の半分以上が死んだ。

そして、約百年後。

人類がある程度の生活を取り戻した頃に、『イグノデゥス』という人知を越えた異能力を持つ存在が突然現れた。

見た目はヒト型、獣型、半人半獣、異形と様々。

イグノデゥス達は自身達が駆使する異能力で人間を嬲り、食らい、世界を蹂躙しようとしていた。

だが、そこに勇気ある人間達が現れる。

彼らは自分達のあらん限りの知識と力を以て、イグノデゥスを殲滅しようと立ち上がった。



『リバースホープ』



イグノデゥスの全滅を目論む人間達が結成した組織だ。

今やイグノデゥスとリバースホープが殺し、殺されるが常の時代。

三百年以上も続くこの戦いに、終止符が打たれるのはいつのことになるのか……。








満月が綺麗な夜。
夜鳥が鳴く暗い森の中で、ずる……ずる……と這いずる音が聞こえていた。


「ぅ゛……ぅ………」


音の元には、赤子くらいの大きさの肉塊があった。
目玉が二つあるだけのその肉塊は、小さな呻き声をあげて、全身を蠢かせる。


「ぐ……、ぅう゛……」


森の奥へ奥へと少しずつ進んでいく肉塊。
その肉塊の正体は、イグノデゥス。
『リバースホープ』にやられたイグノデゥスだった。
とどめを刺されそうになったところ、命からがら逃げてきたのだろう。
とはいえ、ここにイグノデゥスを助ける者なんているわけもなく、哀れで惨めな肉塊は静かな森の中を這いずり回る。
苦しそうな声をあげて、しぶとく動き続ける。
だが、やがて限界がきたのか、肉塊の動きが更に遅くなっていき、しまいには力尽きたように止まってしまった。
ぴくぴくと痙攣しながら、肉塊は無気力な目で闇を見つめる。
意識は混濁していき、もはや嘆きの言葉も憎悪の対象にぶつける恨み言も思い浮かばない。
全身が凍りつくように冷たくなっていくのを感じる。
目の前が更に真っ暗になっていく。
肉塊の縦に長い瞳孔が徐々に開いていく。
痙攣していた全身の動きはだんだんと弱くなっていき、程なくしてぴくりとも動かなくなる。


生い茂る木々の隙間から青白く光る満月が覗く森の中。

一体のイグノデゥスが力尽きようとする。


だけど、この世界では別に特別なことでも悲劇的なことでもなく、よくある光景だ。
人間も、イグノデゥスも、対峙し、戦って、どちらかが死ぬ。
この光景も、それのほんの一部に過ぎない。
夜空を飛んでいた数匹のカラスが木にとまり、肉塊が完全に動かなくなるのを待つ。
久々の栄養価の高い食料にありつくために。


……だが。


この時、よくある光景が違うものに変わった。
偶然なのか、それとも見張っていたのか。
どちらかわからないが、暗闇の奥からその肉塊の前に一つの影が近づいた。
少し大柄な体。
首筋まである短い髪に、左頬にある大きな傷痕。
シャツにズボン、サンダルといったシンプルな格好の影。
人間。
人間の女だった。
肉塊の前に立ち止まった女は、それを見下ろす。
気持ち悪がる様子もなく、とどめを刺そうとする様子もなく、ただじっと見下ろす。
しばらくして、女は確認するように周りを見回す。
そして、その直後。
女は素早く肉塊を抱き抱えると、走ってその場を去っていった。
誰もいなくなった森の一ヶ所。
肉塊の跡だけが残るそこを獲物を失ったカラスだけが、ただ名残惜しそうに見つめていた……。






***






それから五年ほどの月日が経った。


野生の動物が住み、草木生い茂る山の奥に……一つの家があった。
木で作られたその家の後ろには絶壁があり、家の後ろ側と密着している状態だった。
家の屋根に数匹の小鳥がとまり、囀る。
青く澄んだ空から太陽の光が差し、のどかな空気に包まれているその場に、一つの人影が歩いてくる。
首下まである黒髪に左頬の大きな傷痕。
シャツに半ズボン、サンダルといったシンプルな格好の四十代後半くらいの女。
名前は、カヤ。
家の主だ。
鮎が数匹入った桶とトマトやきゅうり、じゃがいも等が入ったカゴを両手に早足で家へと向かう。
柔らかい風が吹き、木々のざわめきが聞こえる。
カヤが家の前に来たところで、屋根にいた小鳥達がカヤの元に下りる。


「はいはい、お前達のごはんは後で出すからね」


肩や頭に乗ってきた小鳥達にそう声をかけると、ドアを開ける。
中に入ると真ん中に大きなテーブル、炊事場に食器棚。
窓際には果物を干したものが吊るされている。
その反対側の壁際には、棚やクローゼット等が並んでおり、その横にある出入り口からはベットが見える。
寝室であろう。
狭いながらも、しっかり生活感のある家の中だ。
家の中を見回し、その奥にある本棚を見て、カヤは安堵したような息を吐く。
ドアを閉め、テーブルに近づき、持っているものをそこに置く。
どさくさ紛れに家の中に入った小鳥達は、カヤから離れて、テーブルの上に下りる。


「だめ。それは私達のごはんだよ」


野菜を啄もうとする小鳥達に軽く注意すると、カヤは奥の本棚に向かう。
本棚の真ん前で足を止めると、その両側を掴み、横へずらしていく。
大きくずらした後、カヤは本棚から手を離して、目の前の壁を叩く。


「カエデ、カエデ。カヤだよ」


壁に向かって声をかける。
正確には、壁の向こうにいる存在に。
程なくして、壁から小さな音が聞こえ、だんだんと近づいてくる。
カヤが数歩後ろに退いたと同時に、壁の一部がバンッと勢いよく開く。
そして、開いた壁の向こうから現れたのは……


「カヤ!おかえりっ」


カヤと同じシャツに半ズボン、サンダル姿。
後ろに一つに結い上げた癖のある赤みがかった茶髪。
白い肌、開いた口から覗く二本の鋭い牙。
長い睫毛と大きなつり目に、その中にある琥珀色の瞳。
縦に細長い瞳孔。
限りなく人と同じ見た目をしておりながらも、所々人とはかけ離れた特徴を持っている中性的な容姿の青年。
名前は、カエデ。
カヤと一緒に暮らしている者だ。
カヤが帰ってくるのを待っていたと言わんばかりに、嬉しそうな顔をするカエデを目の前にしたカヤは、思わず頬を緩ませてしまう。


「ただいま。何か変わったことはなかった?」

「何もないよ。いつもどおり」

「そうかい」

「あ、鮎だ!」


安心した顔をするカヤをよそに、テーブルの上にある鮎を発見したカエデは、カヤの横を通り過ぎてそれに駆け寄る。
大好物が目に入るとどんな話をしていようがすぐ飛びつくのは、カエデの癖だ。


「やった!鮎だ鮎だ!」


桶の中の鮎を見て、満面の笑顔ではしゃぐカエデ。
そんなカエデの頭や肩に、さっきまで野菜入りのカゴにとまっていた小鳥達が、飛んで移動する。
どうやらカエデもカヤと同じく小鳥達に好かれているようだ。
いつもと変わらぬ光景。
いつもと同じカエデ。
それを見て微笑んでいたカヤは、壁の戸を半分だけ閉めると、カエデの元に向かった。


「川に行くなら俺も連れてって欲しかったなぁ」


近づいてくるカヤの気配を感じたカエデは、後ろを振り返ってちょっとだけ文句を言う。


「はは、ごめんごめん。帰りにたまたま川の近くを通ったら鮎がたくさん泳いでたからさ。次はちゃんとあんたを呼びに行くよ」


そう言ってカヤは野菜入りのカゴと鮎入りの桶を手に取ると、炊事場に向かう。
それに対して、カエデはカヤとは反対側の方を向いて、窓下にある棚に近寄る。


「ねー、こいつらに餌やってもいいんだよね?」

「ああ、お願い」


昼食の準備を始めるカヤの背中にそう呼びかけ、返事を聞いたカエデは、しゃがみ込んで棚の戸を開ける。
その中にある布袋と皿を取り出し、足で閉めると頭と肩にとまっている小鳥達と一緒にドアに向かう。
ドアを開けて、太陽の光が差す外に出たカエデは、皿を地面に置くと紐で結ばれていた布袋の口を開けて中身を出す。
布袋から穀物が出るや否や、小鳥達は我先にと皿の縁にとまってそれを啄み出す。


「おっと」


穀物が山盛りになりかけたところで、カエデは布袋の口を上に向ける。
布袋を地面に置いて口を紐で絞めると、それを持ち上げる。


「いっぱい食べて大きくなれよ」


穀物を食べている小鳥達にそう声をかけると、カエデは家に戻っていく。
中に入ると、水の流れる音が聞こえる。
目を向けると、カヤが鮎を洗っていた。
今日の昼飯は鮎の塩焼き。
そう思うとワクワクしてきたカエデは小鳥の餌を棚にしまうと、軽い足取りでカヤの元に向かった。


「カヤ」

「ん?」

「手伝うよ」

「おや、珍しい。今日は雨が降るかもね」

「何それ。いつも手伝ってるじゃん」

「でも自分から手伝いにくることはないじゃないか。大抵は本読みたいから~積み木で遊びたいから~とか言って」

「すぐ嫌なこと言ってくる!」

「はははっ」


ムッとした顔をして怒りつつもカゴから洗い終えた野菜を取り出してまな板の上に置き、手伝う気満々のカエデに、カヤはつい笑ってしまう。


「野菜の方は炒める?茹でる?」

「そうだねぇ。鮎を焼くから茹でようかね」

「わかった」


カエデは下の棚を開けて、そこから包丁を取り出すと、じゃがいもの皮を剥き始める。
その隣で鮎の鱗をナイフで削いでいたカヤは、横目でカエデを見る。
慣れた手つきでじゃがいもの皮を薄く剥いていくカエデ。
それを見て、カヤはふと笑う。


「……上手くなったねぇ」

「?、何が?」

「皮剥き。一年くらい前までは、身がなくなるくらいぶ厚く剥いてたってのに。あと、手もあんまり切らなくなった」

「ふふん、俺は毎日手伝いをするいい子だからな。上達するなんて当たりまっえ゛!?」


得意気な顔をして次のじゃがいもを剥きながら喋っていたカエデだったが、その途中でうっかり指を切ってしまう。


「あ~……」

「は~、褒めたらすぐ調子に乗るんだから。ほら、じゃがいもと包丁を置いて」


切れて血が出ている親指を見てやらかしたと言わんばかりの顔をするカエデに、カヤは呆れた顔をして鮎とナイフを桶の中に入れる。
カヤの言うとおりじゃがいもと包丁をまな板の上に置いたカエデは、切れた親指がある方の手をカヤに向けて差し出す。
カヤはカエデの手首を掴むと、そのまま水場まで引っ張って、一旦傷口を洗い流す。


「巻く物持ってくるからちょっと待ってね」

「は~い……」


水を止めて、水場に片手を差し出したままのカエデにそう言うと、カヤは窓下にある棚の方に向かう。


「確か包帯はここに……っと」


棚の引き出しを開けて、手前にある紙袋の中から小さな包帯を取り出す。
そして、紙袋を引き出しの中に閉まって、後ろを振り向いたところで、カヤの動きが止まる。


(……)


水場の方で親指から血が出ている方の手を差し出したまま、少し落ち込んだように小さなため息を吐くカエデ。
そのあまりにも無害で、見慣れた後ろ姿を見て、カヤは手の中にある小さな包帯を握りしめる。
そして、カエデを拾った日のことを思い出した。





***





カエデは五年前、カヤが拾ったイグノデゥスだ。
初めはただの肉塊だった。
ヒト型か獣型か半人半獣か、それとも異形か。
もちろんだが、すぐには判別出来なかった。
けど、こんな姿で生きてるのだから異形だろうなとカヤは思っていた。
とりあえず家の奥にある洞窟の中に入れて、様子を見た。
個体差はあるものの、イグノデゥスは何事もなく時間が経てば、活動可能状態に戻ると聞いたことある。
だから、安全な場所に移した以上、もう何もしなくていいのだが……。



少しでも早く活動可能状態に戻って欲しい。
そう思ったカヤは、ある可能性にかけて、自分の血を少しずつその肉塊に注いだ。
初めの一週間は何の変化もなかった。
けど、そこから二日目辺りに変化が見えた。
肉塊が日に日に大きくなっていき、形を成していっていた。
血の効果があった……と言えばいいのだろうか。
はっきりとわからないが、イグノデゥスが確実に早く回復していることがわかったカヤは、引き続き血を与えた。
一ヶ月になると、肉塊はカヤより少し小さいくらいのサイズになった。
一日一日経つごとに剥き出しの肉を白い皮が覆っていき、それは徐々に人間の形になっていった。
目と鼻、口も出来て、髪も生えた頃に、毛布の上に横たわるそれを見て、カヤはこのイグノデゥスがヒト型だと確信した。


更に月日が経って、イグノデゥスは未だ目覚めないものの、完全に元の姿に戻っていた。
ヒト型だ。
イグノデゥスの体を見てわかった。
ここまで回復したらもう血を与えなくてもいいだろうと判断したカヤは、イグノデゥスの体にもう一枚の毛布をかけて、後は目覚めるのを待つことにした。


それからまた一ヶ月、二ヶ月、……半年経ってもイグノデゥスは目覚めなかった。
息はしている。
意識だけが戻らない。
やはり瀕死の状態から完全回復は無理だったのだろうか。
それとも治療のやり方がいけなかったのだろうか。
目を閉じて横たわっているイグノデゥスを前に、カヤは頭を悩ませた。
たまにイグノデゥスの頬や髪に触れてみたりもした。
もしかしたら、それで起きるかもしれないと思ったから。
でもイグノデゥスが起きることはなかった。
イグノデゥスに触れた後、カヤは自身の手を見て呟いた。


「……人間みたい」




それからまた三ヶ月の月日が経って、カヤは半ば諦めていた。
もうこのイグノデゥスは目覚めないと、疑念が確信に変わっていき、どうするかを考えていた。
目覚めてないとはいえ、一応生きている。
このまま家に置いておくか、それとも一思いに……。
と、迷いながらも結局何もしないという日々を繰り返していた……ある時だった。
望む変化とは不思議と諦めた時に現れるもので、その日もカヤはイグノデゥスの今後の扱いに悩みながらも夕食の支度をしていた。
川でとった鮎の塩焼きに梅干し入りのおにぎり、四等分に切ったトマトと皿の上に用意していっていた。
そして、夕食をテーブルに並べて椅子に座ろうとした……その時。


ガタッ……


物音がした。
カヤは座るのをやめて、音がした方を見る。
奥の洞窟のドア代わりに立てかけた板。
それが、


ガタンッ


次の瞬間には倒れた。
そして、音の主がその向こうから姿を現した。
カヤは固まった。
頭が真っ白になった。
ふらつき、転けそうになったものの、壁に手をついてなんとか立っている“それ”。
裸で、癖のある長い赤みがかった茶色の髪に……その隙間から見える琥珀色の瞳。


あのイグノデゥスだった。


ずっと目覚めていなかったはずのイグノデゥス。
まさか、こんな突然に目覚めるなんて……。
カヤは洞窟の出入口の前にいるイグノデゥスを食い入るように見て、ごくりと固唾を飲み込んだ。
ついに、この時がやってきたのか。
カヤがそう思った直後に、イグノデゥスはゆらりとした動きでカヤの方に顔を向けた。
赤茶色の前髪の隙間から見える琥珀色の瞳。
そして、その中にある縦に細長い瞳孔。
その目に捕らえられて、カヤは自身の心臓が大きく脈打ったのを感じた。
眠っている時はあんなにも人間のように見えていたのに、あの目だけで一気に人間ではないことを思い知らされる。
薄く開いている口から覗く、鋭い牙も。
イグノデゥスは見開いた目でカヤを見る。
微かに荒い呼吸を繰り返し、壁についてる手に力が入る。
開いた口から、涎があふれる。
このイグノデゥスがこれから何をしようとしているのか。
その様子を見て察したカヤは、覚悟を決めたように目を閉じる。
そして、来るべき時を待つ。


次の瞬間、ガタァンッ!と大きな音がした。


……。

………。

……………。


暗闇の中。
いつになっても、衝撃も、痛みも、体を襲ってこない。
一瞬過ぎて感じる間もなかったのか。
でも、今自分はこうして考えることが出来ている。
それはつまり、意識があること。
生きているということ。
程なくして、むしゃむしゃと音が聞こえてきて、カヤは訝しげに思いながらもゆっくりと目を開けていく。
視界に光が入る。
まず目に入ったのは、皿がひっくり返り、鮎とおにぎり、トマトが散らかっているテーブルの上。
カヤは呆然とその光景を見る。
そして、少し経って三匹あったはずの鮎の塩焼きが一匹いないことに気がつく。
まさかと思い、咀嚼音が聞こえるテーブルの向こう側を覗く。


すると、そこには……床に座り込んで鮎にむしゃついているイグノデゥスの姿があった。


ばりばりと骨までかじって鮎を勢いよく食べるイグノデゥス。
一匹食べ終えるとテーブルの上に残っている鮎を奪うように取って、また食べ出す。
カヤのことなぞ目もくれずに。
一方で、カヤはカヤで、そのイグノデゥスの様子を見てまた呆然とする。
イグノデゥスが腹を空かしているのは、見てすぐわかった。
けど、まさか……。


「んむぐっ!?」

「!」


急に変な声をあげたイグノデゥスに、カヤは驚く。
鮎を食べていたイグノデゥスの動きが止まる。
その場が静まり返り、イグノデゥスの様子を見ていたカヤは、恐る恐るとした動きでテーブルの前から移動する。


「ど、どうしたの……?」

「……う~」


イグノデゥスに少しずつ近づきながら、とりあえず声をかけるカヤ。
それに応じてかどうかは定かではないが、イグノデゥスは小さな唸り声をあげて、咥えていた鮎を離し、口の中に手を突っ込む。
不快そうな表情をして口の中を手で探っているイグノデゥスの様子を見て、最初は不思議そうな顔をしていたカヤだったが、しばらくしてハッとする。
もしかして、魚の骨が刺さったのではないか。
そう察したカヤは、一瞬迷ったものの、イグノデゥスの前まで近づいた。


「……ちょっといい?」

「?」


目の前でしゃがみ込み、手首を掴んできたカヤに、イグノデゥスは目をぱちくりとさせる。
イグノデゥスに警戒或いは攻撃的な様子がないことを確認したカヤは、口の中にある異能種の手をゆっくり引き抜く。


「口を開けておいて」

「?、?」


反射的に口を閉ざしかけたイグノデゥスだが、カヤにそう言われて、素直に口を開き直す。
自分の言うことを聞いたイグノデゥスに内心驚きながらも、カヤはイグノデゥスの上歯に両親指を添えて緩く押し上げる。
指のすぐ横にある大きめの鋭い牙。
大抵の者は、人間のものではないそれを見ただけでゾッとするだろう。
だけど、この時のカヤは不思議と恐怖も警戒も感じなかった。
とりあえず口の中に刺さっているであろう魚の小骨を取ってやろう、としか考えていなかった。
口の中を見ただけでは小骨らしきものを発見出来ず、もしかしてと思い、カヤは片方の指を口の中に突っ込む。
人間が何の防具もなしにイグノデゥスの口の中に素手を突っ込むなんて、端から見れば衝撃的な光景だ。
鋭い牙を持つイグノデゥスが、今口を勢いよく閉じればカヤの指は確実に悲惨な状態になるだろう。
だけど、イグノデゥスが口を閉ざす気配は一切なかった。
ただただ不思議そうな目で、カヤを見ているだけだった。
指でイグノデゥスの舌の下側を探っていたカヤは、途中で異物に当たったのを感じ、動きを止める。
そして、それが魚の小骨とわかったカヤは、器用に素早く抜いた。


「よし、取れた」


イグノデゥスの口から、カヤの手が抜ける。
その指には、お察しのとおりの魚の小骨があった。
口の中の違和感がなくなり、イグノデゥスはパッと明るい顔になる。
そして、手にある鮎をまた食べ始めた。


「ちょ、ちょっとちょっと」


その様子を見たカヤは、テーブルの上にあるおにぎりを慌てて取る。
小骨がまた刺さるじゃないか。
そう思ったカヤは、イグノデゥスから鮎を取り上げる。


「?」

「その勢いで食べちゃあまた骨が刺さるよ?骨をとったのをあげるから、その間にこれを食べてて」


きょとんとしているイグノデゥスに、カヤはおにぎりを掴ませる。
イグノデゥスは不思議そうな顔をして、手にあるおにぎりをしばらく見る。
そして、先ほどよりは大人しい動きで、おにぎりをぱくぱくと食べ始めた。
カヤはふぅと若干疲れたような息を吐いた後、テーブルの上にあるもう一匹の鮎を手に取り、皿の上に置いて骨を取り除き始める。
初めはおにぎりに夢中でぱくついていたイグノデゥスだが、半分以上食べたところで口を止めて、テーブルの向こう側にいるカヤの方に顔を向ける。
鮎を少し解体しながら骨をとっていたカヤは、途中でイグノデゥスの視線に気がつき、顔を上げる。


「……何?」

「……」


しばらく無言でカヤを見ていたイグノデゥスは、ぎこちなくも口を開いていく。
「ぁ……ぉ……、ぁ……」と途切れ途切れの声を出した後、イグノデゥスの口の端がゆっくりと上がっていく。
そして、


「これ……も、おいし……」


そう言って、イグノデゥスは柔らかく笑った。
その笑顔を見て、目を大きくするカヤ。
そんなカヤの反応を全く気にせず、イグノデゥスは顔を前に向き直して、美味しそうにおにぎりを再び食べ始めた。
カヤは呆然としたまま、イグノデゥスを見つめる。
さっきの言葉と笑顔。
それが現実であったこととすぐに呑み込めず、カヤはとりあえず何も考えずに鮎の骨取りを再開する。
そして、取り除き終えると、骨なし鮎を乗せた皿を持って、イグノデゥスの前に移動する。


「はい、骨とったよ」


イグノデゥスの前でしゃがみ込み、皿を差し出す。
手についた米粒を食べていたイグノデゥスは、皿の中にある鮎を見た瞬間、目を輝かせて掴み取る。
そして、一口食べて飲み込んだ後、


「おいしい!」


と、今度は元気のある声でそう言って、ぱっと花が咲いたように笑った。
目の前でその笑顔を見たカヤは、またもや目を大きくする。
にっこにっこと笑いながら骨なし鮎を食べるイグノデゥス。
その様子をじっと見ていたカヤだったが、しばらくして……


「……も、もっと、食べたい……?」


ぎこちない口調でありながらも、イグノデゥスに声をかける。
それを聞いたイグノデゥスは、鮎をもぐもぐと咀嚼しながら顔を上げる。
そして、笑顔でカヤを見ると大きく頷いた。
その反応を見たカヤは、また驚いたような顔をしたものの、だんだんと表情が柔らかくなっていく。


「そ、そう……。じゃあ、用意するから待ってな」


そう言ってカヤは立ち上がると、テーブルの上にある残りのおにぎりとトマトを皿に集め、イグノデゥスの前に置いて炊事場へと向かっていく。
むしゃついている音を背中に、カヤは氷入りの箱を開けて、その中にあった鮎を全部取り出す。
鮎を流し場にあるたらいの中に入れて、洗う。
洗っている最中に、カヤの頭の中に先ほどのイグノデゥスの笑顔が思い浮かぶ。
その瞬間、カヤの目つきが柔らかくなり、顔が綻ぶ。


あんなに美味しそうに食べてくれるなんて。

三日分の鮎だけど、あの子が喜んでくれるなら全部あげよう。

ずっと寝たきりだったんだ。

いっぱい食べたいはず。

そうだ、服も後で用意しないと。

いや、その前にお風呂に入れた方がいいかな。


なんて、これからのことを考えながら、カヤはナイフを取って鮎の鱗を削ぎ落としていく。
こんなにも生き生きした気持ちになるのは、いつぶりか。
またさっきの笑顔が見たい。
いっぱい食べて、喜んで欲しい。
カヤの頭の中は、既にイグノデゥスのことでいっぱいになっていた。



そして、“本来の目的”は、カヤの中からすっかり消え失せていた。




つづく
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