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リヒアネ詰め合わせ

「ねぇ、ちょっと、リヒターってば! ひどいひと!」
 分厚い生地の戦闘服にも染み込むような雨の中、不満げなアネットの声が飛んでくる。額に伝う水滴をぬぐい、リヒターはしてやったりといった表情で振り返る。雨と夜の闇に遮られ見えないが、アネットはかなり怒っているようだった。
「大人しくそこにいるんだな。雨は吸血鬼の弱点だ、今日はどこにも出られないぞ。俺についてきてもダメだからな」
 なによ、ひどいひと、と再び怒鳴られる。
「あなたが出した雨じゃない。すぐ消せるでしょう」
「無理だ。消す気がないからな」
 ただの雨であれど吸血鬼にとってはかなりの痛手になるが、いま降っている雨はリヒターが聖水を媒体に呼び出した、浄化の雨だった。祝福を受けた水を浴びれば痛いどころの話ではない。命にかかわる。
「だいたい、どこにでもついてこようとするきみがいけないんだからな。最近じゃベルモンドが吸血鬼と手を組んで近所の魔物の首領になろうとしてる、なんて噂までたってるんだぞ。マリアと一緒に待ってるんだ」
「一緒に戦えるようになったのよ。どうしてついていってはいけないの。心配じゃない。もう前のようにあなたの帰りを怯えて待つだけなんて嫌よ。あなたの助けにもなっているでしょ」
「ダーメーだー!」
 もう行くからな、とだけ言ってリヒターは泥水をはね飛ばし、駆け出す。後ろからアネットの怒りに満ちた声が飛んできたが、雨音にまぎれてそれも聞こえなくなった。
 ドラキュラが百年の眠りを経て復活し、オルジバの街を襲ったあの日、アネットはリヒターの助けが間に合わず闇の眷族と化した。うろたえる暇すら与えられず二人は激闘を繰り広げた。
 勝敗でいえば、勝ったのはリヒターだった。使い魔も操れず地に落ちたアネットに聖鞭ーー吸血鬼殺しの最たるものーーを降り下ろすだけとなったとき、リヒターはアネットと目を合わせてしまった。
 涙で潤んだ魔性の赤い瞳が、真っ直ぐにリヒターを見つめていた。聖鞭で傷ついた肌は焼けただれ、あわれなほど弱々しくなった姿に躊躇を覚えたのがいけなかった。
「……あなたでよかった」
 アネットのその呟きでリヒターの戦意や殺意は砕け散った。ベルモンド家の宿命をその身に叩き込まれ、誇りとしてきたのに、感情に負けた己を呪いながらリヒターはアネットを抱き締めた。
 アネットを殺せなかった。
 動けないアネットを待たせ、ドラキュラとの戦いに臨んだリヒターだったが、すんでのところで逃げられてしまった。肉体を失ったシャフトがドラキュラをつれて逃亡したのだ。
 ドラキュラの足取りを探りつつ、勢力を強める魔物を退治することがリヒターの務めになった。人里に下りた人狼であったり、下級の吸血鬼や、死体にとりつく無数の悪霊など、数えきれないほど倒した。その隣には常にアネットがいた。
 ドラキュラの眷族だろうに、ドラキュラに反抗する行動をとるのはなぜかとアネットに問うたことがあった。答えは実に簡単で、
「ドラキュラ様には逆らっていないわ。魔物のみんながみんな、ドラキュラ様の手下というわけではないもの。魔物同士だって争うわ。わたしがついていくのは、あなたと一緒にいたいだけよ」
 以来、アネットとリヒターは常に一緒に戦った。そのせいで人間からはベルモンドが吸血鬼と手を組んだだの、実はもとから人外だったのではないか、だからあんな肉食べただけで傷が治るだの、好き勝手な噂で語られた。
 噂の払拭のため今回はアネットに居残りを頼んでみたところ、予想通り「いや」の一言だった。あれこれ言いくるめようともしたが以前に比べ奔放になったアネットは頑として聞く耳もたず自分の意志を貫きーー最終的にリヒターが聖水を使ったハイドロストームを引き起こして逃げるように出てきたのだった。
 ざあざあと降り注ぐ聖なる雨はしかし、リヒターの罪悪感までは流してくれなかった。うら若い乙女の恋人を(並の男より怖い力をもっているが、だ)安全な場所で待たせることはなんの罪もないはずだ。それに、敵はなにも魔物には限らないのだ。疑心暗鬼にかられた人間から攻撃されることだってある。アネットをそんな目に遭わせたくもなかった。
 俺は正しいことをしたのだ、と思いながら、アネットの言葉が頭の中で渦巻いた。「 もう前のようにあなたの帰りを怯えて待つだけなんて嫌よ」と怒るアネットの、あれは、もしかして苦しみだったのだろうか。
 悪魔は心の隙をついて人を惑わす。もしアネットの心の隙が、言い換えれば欲望が、自分のせいだとしたら。そのせいで吸血鬼になったとしたら。どこで死ぬかわからない俺の身を案じて不安に過ごす彼女の気持ちを考えたことがあっただろうか。もし彼女の不安を少しでも解消してやれていたのならーー
 歩みが止まり、勢いの衰えた雨の中、ただ佇んでしまう。過ぎたことは変えられない。答えの出ない問いを続けたところで無駄なのこともわかりきっている。それでも最善を尽くせる道があったのでは、と過去を振り返ってしまうのだ。
 いまは、とにかくドラキュラを追うことに専念しよう。無理矢理に思考を切り換え歩き出そうとして、後ろから近づいてくる足音にギョッとする。
 マリアであればいいのにという期待は裏切られ、やはりというか、アネットがいた。雨避けの外套をひるがえしながらやってくる。呆れてものが言えなくなると同時に雨の中を吸血鬼が出歩く危険にぞっとし、リヒターにしては珍しく荒げた声でアネットを呼んだ。
「なにを考えてるんだ!下手をすれば死ぬんだぞ!」
「あら、ならあなたが雨を止めてくれれば解決ね」
「……ああ、もう」
 降り注いでいた雨が止み、払われた雨粒が月明かりを浴びてきらめいた。
 アネットの髪にかかっていた雨粒も払おうとして、ずぶ濡れの手袋では触れないことに気づいた。片方の手袋を外し乾いた素手でできるだけ丁寧に、雨粒をとってやる。直接肌に触れずとも流水の中を移動するのは吸血鬼にとっては体力を奪われる。心なしかアネットの顔も疲れて見えた。
「どうして来たんだ」
「リヒター、わたしはね、やっとあなたと同じ世界を見れるようになったの。あなたの隣に並んであなたと一緒に戦えるようになった。前はあなたの無事を祈るだけが精一杯だったのに、いまはあなたを守ることさえできる。もし反対の立場なら……あなただってそうするでしょう、リヒター?」
「俺は、ただきみに安全なところにいてほしいだけなんだ。きみに傷ついてほしくないんだ」
「わたしは待たされるだけのほうが傷つくわ。あなたと一緒がいい。わたしは確かに人間じゃないわ。吸血鬼よ。いつかはあなたの敵になるかもしれない。けれど、それは今ではないでしょう? それまであなたと一緒にいる時間を少しでも多く増やしたいの」
「……はぁ、仕方ないな。あまり目立つことはするんじゃないぞ」
 にんまり笑ったアネットが、ええ、と頷く。濡れねずみのような状態のリヒターに抱きつくことこそしなかったが、アネットは頬に口づけ、たんまりとリヒターを狼狽させた。

 その後、噂はさらなる飛躍と拡散を続け、「ベルモンドは空を飛びまわり魔物を退治する」というかなり化け物じみたものへと変化し、それを聞いたリヒターは頭を抱えて唸ることしかできなかった。
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