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きみを愛してる

 使いに付き合ってくれ、と頼むと、シャノアは首を傾げながらもついてきてくれた。エクレシアのある場所から街まではさほど距離はないが気軽に散歩として行けるほどではない。最近エクレシア本部にこもっては鍛練ばかり行っているシャノアには良い気分転換になるはずだと適当な話をしてごまかした。
 うっすらと空には雲がかかり、後をつける影は薄い。路傍の小石や草花も不明瞭な天気に沈んでいるようだった。
「アルバス、どうかしたのですか?」
「いいや、何もないが。何かあったように見えるか?」
「いえ……」
 シャノアは昔から鋭いところがあって、自分の思惑など見透かされているのではないかと冷や汗をかく。アルバスはなるべく平素通りの態度で振る舞う。
「街に出たのはいつだ。もう半月はこもりっぱなしだろう。たまには外へ出て俺たち以外の人間と触れ合うのも大事だ。俺たちが果たすべき使命を実感するのにもいい」
 曖昧に頷くシャノアに笑ってみせる。それからは無言のまま街への道を歩いた。
 師に頼まれた薬品を受け取り、日用品の買い物も済ませると街に来た半分の目的は終えた。これからもう半分を果たすのだ。
 店の外で荷物を抱えて待っていたシャノアに声をかける。シャノアはぼんやりと広場を眺めていた。色鮮やかな服を纏った少女たちが楽しげにおしゃべりに興じていて、手縫いなのだろう、互いに刺繍を施したハンカチを取り出してはかしましい声をあげた。
「うらやましいか?」
「そんなことは」
「お前だって十三だ。気にならないはずがない」
「それは、そうですが、でも私には使命があります」
「使命は世界を救うことであって禁欲せよとは言ってないだろう。欲しいものがあるなら言ってみろ、俺でよければ贈ろう」
「……そのために私をつれてきたんですね」
 肩をすくめ、まぁな、と返事。
「なにもいりません」
「そう強情を張るな。妹にプレゼントをしてやりたい俺の気持ちもわかってくれ」
 シャノアはしばらく膨れっ面でアルバスを見上げ、ばつが悪そうにうつむいた。それから抱えていた荷物をアルバスに渡すと口を閉ざしたまま腕を引いた。
「荷物を抱えていては品定めできません」
「確かに」
 笑って頷けばシャノアの顔を和らげた。引かれるままシャノアと二人で雑貨屋や服屋に足を運び、ああでもないこうでもないと商品を見比べた。久しぶりに見るシャノアの年相応の表情にアルバスは切なさを覚えた。

「私の……お兄さん?」
 シャノアがアルバスと出会い、仮のきょうだいとなったのは五年前になる。伸ばし放題の髪を背中に垂らした幼いシャノアはひどくか弱い存在だった。
 生まれつき強い魔力を持っていたがためにシャノアは常人には予想のつかない事態を引き起こしていたという。四人兄弟の末に生まれたシャノアは、親からも兄弟からも恐れられ蔑まれ、しまいには親が流行り病で死んでしまうと誰も引き取りたがらず、捨てられたのだった。
「姉さんに、おまえが生まれてからろくなことがないって言われた。お母さんもお父さんも私をこわがってみんなみたいに抱きしめてくれなかった。私は悪魔の子なんじゃないかって」
「そんなことはない。おまえのそれは才能だよ。普通より少し特別なだけだったのだ。シャノア、もう泣くことはない。ここがおまえの新しい家と家族だ」
 師に慰められるシャノアの泣き腫らした瞳が鮮烈に思い出せる。汚れた服の裾で涙を拭いていた幼子は、いまや戦士の第一歩を踏み始めた。鬼ごっこでアルバスを見失っては泣いていたシャノアはもういない。
「このリボンなんてどうだ?」
 アルバスが手に取ったのは純白の絹のリボンだった。バラを模したブローチを真剣に眺めていたシャノアが顔を上げる。雑貨屋の女主人の視線を気にしながらリボンを手に、リボンですね、と確かめるように呟く。
「俺はよく知らないが流行りの結い方もあるんだろ?足りないなら髪飾りも買えばいい。ただ伸ばしているだけじゃせっかくの髪がもったいないからな」
「でも私、髪の結い方なんて知りません」
「なら教えてもらえばいい。俺には聞くなよ?結えるほど長くない」
 戸惑うシャノアに構わずリボンをカウンターに置く。女主人はまぶしいほどの笑顔をすると、アルバスの「髪の結い方を教えてやりたいんだ」という言葉にも首を縦に振った。
 鏡の置かれた棚の前に座らされたシャノアは、鏡に映った己をひたすら睨んでいた。見事な手つきでさらさらと髪を編んでいく女主人のおしゃべりにも生返事だ。
「生まれたのが息子ばっかりでね、もし女の子がいたならこうして髪を飾ってあげたいと思っていたものさ。お兄さんの言う通り綺麗な髪をしてるのになんにもしないっていうのはもったいないね。どんなのがいいんだい? 最近よく聞くナントカって女優の髪型がいいのかい?」
「わからないんです。その、簡単にできるものがいいです」
「ふぅん、そうかい。じゃあ難しいのはダメだね」
 艶やかな黒髪が編まれてはほどかれ、また編まれていく。出そうになる欠伸を噛み殺し、女主人の手が髪から離れシャノア自身が自分の髪を操るのを見守る。
 頭に沿うように編まれた髪の終端をリボンが飾る。照れ臭そうにリボンに触れるシャノアは使命をおびた戦士でも、かわいそうな孤児でもない、ひとりの少女だった。
「恥ずかしいです」
「よく似合ってる」
「そりゃああたしが教えたんですもの。当然よ」
 鼻をふくらませる女主人に礼を言い、店を出る。ご贔屓にしてねと手を振る女主人に次会えるのはいつになるだろうか。なるべくなら顔を見せたほうがよさそうだ、と考え、そのときは必ずシャノアも連れていこうと決めた。
 落ち着かない手がリボンと髪に触れては離れ、また触れては離れを繰り返す。歩くたび揺れるリボンが嬉しそうでアルバスもつられて頬を緩めた。
「どうして急に贈り物なんて考えたの?」
「覚えてないか?」
「……なんでしょう」
「今日はお前がエクレシアに来た日だ。五年前になる」
「そう、でしたか」
「ああ。俺がお前の兄になった日だ」
 歩幅を揃えて歩くのに苦労することもなくなった。シャノアの背丈は相変わらずアルバスより低いが、取っ手に手が届かず爪先立ちになることもない。まだ幼さを残す横顔はこれからどんどん美しくなるだろう。 シャノアは少女から女性になっていく。
 差し出した手を白い華奢な手が握り返してくる。子どもらしいふっくらした手ではない。守ってやらなければ消えてしまいそうな儚い子どもは消えてしまった。代わりにアルバスに笑いかける愛しい少女が傍にいる。
「昔はよくこうしてアルバスに手をつないでもらいました」
「ああ、甘えん坊だった」
「そんなことはありません。ただ、広くて迷いやすい場所だったから迷子にならないようにしていただけです」
「夜中によく一人で便所に行けないって起こされたぞ」
「それは……アルバスが幽霊の話なんてしたからですよ」
「聞きたがったのはシャノアだ」
 すねたようにそっぽを向くシャノアの態度も伝わる体温も、かつては抱かなかった激しい愛しさを加速させる。アルバスの胸にあるのは妹への愛情ではなく、異性への恋慕だった。
 いつからだろう、どうしてだろう、悩み、気づくときにはシャノアはアルバスにとって妹ではなくなっていた。隣にいるだけで心が掻き乱され一つの言葉では収まりきれない感情が思考を狂わせた。抱きしめてしまいたい衝動を何度も抑え、視線を無理矢理他へと向けた。家族への愛情を勘違いしているだけだと言い聞かせても、本能が嘲笑った。
「今日はありがとう」
 とても嬉しい。シャノアは呟く。アルバスは握る手に力をこめて、そうか、と返す。
「俺はお前の兄だからな」
 空には雲がたちこめる。隙間から射し込む光が険しい稜線を照らした。影のおぼろげな道を二人は黙って歩き続ける。

「シャノア」
 名前を呼んだつもりだったが、口から出たのは血混じりの呼気だった。泥に汚れた黒髪が視界に映る。一切の感情もない顔が、冷ややかな瞳がアルバスを見下ろしていた。
 震える手が握り締めていたものを思い出させた。あのとき買った絹のリボン。度重なる実験とグリフへの鍛練の際に破れてちぎれたリボンの切れ端を、お守りのように持っていた。ドミナスに飲まれた自分がとりすがった希望でもあった。
 白かったそれは流れ出た血のせいで赤く染まり、べったりと手のひらに貼りついている。
「シャ、ノア」
 視界は霞み虚無を湛えた顔さえ見えなくなる。己の無力さに涙があふれた。計画は破綻し最悪の方向へと進路をとった。何も知らないシャノアはドミナスを使い、散らせる必要のない命を捧げてしまうだろう。
 守りたいものを守れず死に行くことが悔しかった。冷えていく四肢から感覚が失せ意識も遠のいていく。
 貼りついたリボンのこともわからなくなり、アルバスがその瞬間認識できたのは、封じた言葉だけだった。
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