〜1999.07.11
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その些細なひと言はまるで祈りにも似ていて、だというのにその姿は暗い未来を垣間見た予言者のようにも見えてしまったから、嫌でも不安を駆り立てられた。
その日セプター4は珍しく、煉獄舎や凶悪なストレインによる破壊活動に対応するべく出動することもなく、定期巡回を担当する人員以外は隊舎で各々稽古や溜まり切った書類の整理に明け暮れていた。
「善条の奴、もう少しまともに書類は書けんのか……」
誰もいない廊下を歩きながら、塩津はひとりごちる。抱えられた書類の束は塩津のものではなく善条が今まで溜めに溜めていた始末書の一部だ。
折角だから悪鬼が出ぬ内に書き切ってしまえ。
鶴の一声ならぬ王の一声で湊夫妻ーー主に夫の方であるーーや百井に監視されながら、善条は朝から珍しい難敵もとい書類の山との戦闘に苦戦している。塩津がわざわざ出来上がった分を室長室まで運んでいるのは、善条が持っていけばそのまま逃げるだろうと踏んでのことだった。
「羽張、入るぞ」
塩津がいつも通りにドアを開けるが、羽張からは返事がない。
「羽張?」
室長室は豪奢な造りの窓から硝子越しの夕日に照らされている。室長室の重厚な椅子に悠然と腰掛ける羽張は塩津の顔を見やって、しい、と人差し指を口に当て静かにするよう暗に指示した。
何事かと声を上げようとして指示を思い出し口をつぐむと、羽張はもう反対側の手で部屋の一辺を示す。羽張の手を訝しげに視線で追って塩津は呆れ混じりにため息をついた。
(またか)
室長室の一角は、どういうわけか一段高く畳敷きになっている。殆ど使われないその空間で、見知った少女がくうくうと寝息を立てて子猫のように丸まって眠っていた。セプター4の隊員である百井の娘である。傍らには水色のランドセルが転がっている。
「隊舎は学童保育ではないと言っているんだが」
声を顰めながら漏らされた塩津の苦言に、羽張はくすりと笑う。
「今日なら問題ないだろう?」
「だが限度というものがある、家も近いというのに」
「だからこそだ。依子がセプター4隊員の子女であると余計な者まで知っている」
それは塩津とて知っている。無邪気に眠るこの子供が、存外厄介な因果を背負っていることも。
「両親の目が届かない間は、安全な場所で守るというのは悪手ではない」
「お前の膝元が、安全な場所か」
「絶対守護とまではいかないがな」
青天にぷかりと浮かぶ白雲のように軽やかに笑いながら、羽張は塩津から書類を受け取った。
羽張の尋常ならざる異能を、そして己の父親が所属する世界を知らぬ娘は、ここが一番安全だと信じて疑わずぐっすりと眠っている。子供は恐れを知らないというが、この娘の怖いもの知らずなところはそれとは一線を画している。
「今日は運動会の練習があったそうだ」
羽張は片手に顎を乗せ書類をぱらぱらとめくりながらぽつりと呟く。
「随分疲れていたようでな、百井が来るまで寝て良いぞと言ったら三秒で寝た、子供は凄いな」
目を細め子供を眺める羽張というのは随分と珍しい。
「いつまでもつきっきりで守れるわけではない」
「ああ、そうだな」
羽張は見終わった書類を机に置き徐に立ち上がり、眠りこける少女の横に腰掛ける。
「俺たちが剣を振るうことが、この子のような何も知らぬ者が穏やかに暮らす社会に繋がる」
何故だろうか、その些細なひと言はまるで祈りに似ていて、だというのにその姿は暗い未来を垣間見た予言者のようにも見えてしまったから、塩津は嫌でも不安を駆り立てられた。
「羽張、」
「そうでなければ、ならない」
陽光がとろりと煮詰められたかの如き金の目は、今はただ静かに少女を眺める。
羽張が百井依子という少女を部下の娘として見ているのか、或いは自らが守るべき存在の代表として見ているのか、塩津には分かりえない事だ。
特に後者として羽張が彼女を看做していることは決して悪い事ではない、寧ろ塩津自身もそれを望んでいたはずだった。
だが、たった一人の少女を無辜の人々の象徴と看做し、羽張が司る天秤の上に錘のように置くことは本当に正しいのだろうか?
「まあ、この子が自分自身を守れるようになるか、或いは守ってくれる誰かが現れたらお役御免だろうな」
「羽張お前、付き合っている相手が百井の家を訪問するまで面倒みるつもりか」
何気なく呟いた塩津の言葉に、何故か羽張の目が輝いた。
「それは面白そうだ。きっとこの子は面白い奴を連れてくるぞ」
ちなみに少女の父親である百井は、「俺より強い奴でなければ娘はやらん」と言ってのける如何にも典型的な親馬鹿だ。
「頼むから殺すなよ」
「それは……相手次第だな」
不敵に笑う羽張に塩津は大きなため息をついた。隊有数の剣の使い手である百井のみならず、羽張まで相手取って勝てる人間が塩津には思いつかなかったので、せめて少女が意中の相手を選ぶ頃には二人がーー特に父親の方がーー丸くなっていることを塩津は願うしかなかった。
それは迦具都事件の前年の、凪のように穏やかな秋の出来事であった。
その日セプター4は珍しく、煉獄舎や凶悪なストレインによる破壊活動に対応するべく出動することもなく、定期巡回を担当する人員以外は隊舎で各々稽古や溜まり切った書類の整理に明け暮れていた。
「善条の奴、もう少しまともに書類は書けんのか……」
誰もいない廊下を歩きながら、塩津はひとりごちる。抱えられた書類の束は塩津のものではなく善条が今まで溜めに溜めていた始末書の一部だ。
折角だから悪鬼が出ぬ内に書き切ってしまえ。
鶴の一声ならぬ王の一声で湊夫妻ーー主に夫の方であるーーや百井に監視されながら、善条は朝から珍しい難敵もとい書類の山との戦闘に苦戦している。塩津がわざわざ出来上がった分を室長室まで運んでいるのは、善条が持っていけばそのまま逃げるだろうと踏んでのことだった。
「羽張、入るぞ」
塩津がいつも通りにドアを開けるが、羽張からは返事がない。
「羽張?」
室長室は豪奢な造りの窓から硝子越しの夕日に照らされている。室長室の重厚な椅子に悠然と腰掛ける羽張は塩津の顔を見やって、しい、と人差し指を口に当て静かにするよう暗に指示した。
何事かと声を上げようとして指示を思い出し口をつぐむと、羽張はもう反対側の手で部屋の一辺を示す。羽張の手を訝しげに視線で追って塩津は呆れ混じりにため息をついた。
(またか)
室長室の一角は、どういうわけか一段高く畳敷きになっている。殆ど使われないその空間で、見知った少女がくうくうと寝息を立てて子猫のように丸まって眠っていた。セプター4の隊員である百井の娘である。傍らには水色のランドセルが転がっている。
「隊舎は学童保育ではないと言っているんだが」
声を顰めながら漏らされた塩津の苦言に、羽張はくすりと笑う。
「今日なら問題ないだろう?」
「だが限度というものがある、家も近いというのに」
「だからこそだ。依子がセプター4隊員の子女であると余計な者まで知っている」
それは塩津とて知っている。無邪気に眠るこの子供が、存外厄介な因果を背負っていることも。
「両親の目が届かない間は、安全な場所で守るというのは悪手ではない」
「お前の膝元が、安全な場所か」
「絶対守護とまではいかないがな」
青天にぷかりと浮かぶ白雲のように軽やかに笑いながら、羽張は塩津から書類を受け取った。
羽張の尋常ならざる異能を、そして己の父親が所属する世界を知らぬ娘は、ここが一番安全だと信じて疑わずぐっすりと眠っている。子供は恐れを知らないというが、この娘の怖いもの知らずなところはそれとは一線を画している。
「今日は運動会の練習があったそうだ」
羽張は片手に顎を乗せ書類をぱらぱらとめくりながらぽつりと呟く。
「随分疲れていたようでな、百井が来るまで寝て良いぞと言ったら三秒で寝た、子供は凄いな」
目を細め子供を眺める羽張というのは随分と珍しい。
「いつまでもつきっきりで守れるわけではない」
「ああ、そうだな」
羽張は見終わった書類を机に置き徐に立ち上がり、眠りこける少女の横に腰掛ける。
「俺たちが剣を振るうことが、この子のような何も知らぬ者が穏やかに暮らす社会に繋がる」
何故だろうか、その些細なひと言はまるで祈りに似ていて、だというのにその姿は暗い未来を垣間見た予言者のようにも見えてしまったから、塩津は嫌でも不安を駆り立てられた。
「羽張、」
「そうでなければ、ならない」
陽光がとろりと煮詰められたかの如き金の目は、今はただ静かに少女を眺める。
羽張が百井依子という少女を部下の娘として見ているのか、或いは自らが守るべき存在の代表として見ているのか、塩津には分かりえない事だ。
特に後者として羽張が彼女を看做していることは決して悪い事ではない、寧ろ塩津自身もそれを望んでいたはずだった。
だが、たった一人の少女を無辜の人々の象徴と看做し、羽張が司る天秤の上に錘のように置くことは本当に正しいのだろうか?
「まあ、この子が自分自身を守れるようになるか、或いは守ってくれる誰かが現れたらお役御免だろうな」
「羽張お前、付き合っている相手が百井の家を訪問するまで面倒みるつもりか」
何気なく呟いた塩津の言葉に、何故か羽張の目が輝いた。
「それは面白そうだ。きっとこの子は面白い奴を連れてくるぞ」
ちなみに少女の父親である百井は、「俺より強い奴でなければ娘はやらん」と言ってのける如何にも典型的な親馬鹿だ。
「頼むから殺すなよ」
「それは……相手次第だな」
不敵に笑う羽張に塩津は大きなため息をついた。隊有数の剣の使い手である百井のみならず、羽張まで相手取って勝てる人間が塩津には思いつかなかったので、せめて少女が意中の相手を選ぶ頃には二人がーー特に父親の方がーー丸くなっていることを塩津は願うしかなかった。
それは迦具都事件の前年の、凪のように穏やかな秋の出来事であった。