1999.07.11〜2004.05
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依子が紫の鏡台に置かれ続けているその香水に気付いたのは、依子が十三になってからのことだった。
兄弟子である紫が美と呼ぶものを一つも怠ることのない努力家であるのは、依子は元より師の一言も弟弟子の狗朗もよく知るとこである。けれども、紫が日々纏う香りにすら一切気を抜かない人でもあると知っているのは、ひょっとしたらこの名も無き無色のクランにおいては依子だけかもしれない。
紫は一つの香りに執心するのではなく、その時々に相応しい香りを紫はいつも気負うことなく身につける。毎日衣服を替えるように自然と異なる香を纏うものだから、依子も最初は気がつかなかった。
時には艶やかな芍薬の香りを、またある時には凜とした木々の香りを、日中と夜でその身から纏う香りが違う事もあった。ほんの僅かに吹きかけているからか、様々な香りはどれもこれもその時の彼に相応しく本人の一部のようによく馴染んでいた。
「犬みたいなのは狗朗ちゃんだけかと思ったけど、依子ちゃんは犬みたいに鼻がきくのね」
ある時違う香りを三種類ほど言い当てて、兄弟子は呆れたような感心したような溜息と共に依子に言って、犬を褒めてやる時のように頭を撫でられた。くすぐったいけれど嫌ではなかった。
紫が香水をよく変えるといっても道楽のように買い集めるのではなく、なくなったらその都度新しい香りを手に入れてきているらしい。一言からの命や己の修行から帰ってくると、大抵鏡台に目新しい香水が一つか二つ並んでいた。
子供の依子でさえ知る有名なブランドから、名前も聞いたことがないものまで、けれど紫の鏡台に同じ香水が複数回並ぶことは少なかった。
目利き――この場合は鼻が利くと言えば良いのだろうか――がいいからか、失敗することは少なかったようだがごくまれに「まだ早いでしょうけどあなたにあげるわ」とまだ一、二回しか使ったことのないような香水をおさがりに貰ったことがある。
依子がその中でも特に気に入ったのがマリーゴールドというブランドの香水で、ミステリアスで大人っぽいその香水を依子は時折引き出しから取り出してはハンカチに軽く吹きかけて匂いを楽しんでいる。
紫は失敗することが少なく、同じものを鏡台に並ぶことも殆どない。
けれどもあるときから、紫の鏡台の片隅に香水瓶が一つだけ変わることなく置かれるようになった。すらりとした直線的で優美なフォルムの香水は、依子も名前を知る有名なブランドの看板とも言える品だった。
しっとりと落ち着いていて、品のいい甘さをしている誰もが好みそうな匂い。どちらかといえば昼間より月明かりに照らされた夜の方が似合う匂い。
依子は兄弟子の部屋を掃除する最中、ふとその角張った形の割につるりとした手触りの硝子で出来た香水瓶を手にとって、障子越しの夕日に透かしてみる。
こう言っては何だが、
「なんだか、紫ちゃんっぽくないなあ」
「何が私らしくないのかしら」
頭の上から紫の声がして依子は慌てて振り返る。依子の後ろで兄弟子が音もなく自分の部屋に入ってくる。修行先から帰ってきたばかりの紫は肩にかけた荷物をベッドの横に置いた。
「紫ちゃん!? いつからいたの? あとお帰り」
「ええ、今帰ったわ。それと今の質問の答えは、あなたが掃除の手を休めてその香水を手にしていた時からよ」
「殆ど見てたんじゃない」
「それくらい気付きなさい、勝手に使っていないでしょうね」
「使ってないよ!」
琥珀色の目で軽く睨まれ、依子は首を全力で横に振って否定すれば「そう」と然程気にする事も無くコートを壁に掛けブラシをかける。
「正直なのは結構よ」
「でもなんでそれを持ってるのかはちょっとだけ気になったかな」
依子の言葉に、ブラシをかける紫の手が止まる。
「あらどうして?」
「だって紫ちゃんからその香水の匂いがしたことないんだもの」
「やっぱりこっそり使っていたの?」
「違うよ、気になったから街のお店に行ったときに同じの試したことがあっただけ」
その香水は有名なものだから、香水を取り扱う店には大抵テスターが並んでいることもある。見覚えのある形の瓶を見かけて試してみたもののその匂いに覚えがなかったから依子は不思議で仕方なかったのだ。
どうして使わない香水を、兄弟子は持っているのだろうか。
「そう」
紫は依子の手の中にあった香水瓶を取り、目を細めた。
依子が見上げた兄弟子は、あまり見たことのない表情をしていた。
「これは私には合わないけど、少しだけ懐かしくなったのよ」
きっとその懐かしさは、一言と出逢う前のことについて指している。なんとなくそんな予感がした。一言のクランズマンでもある弟子達は、特に依子自身と弟弟子の狗朗はどちらも自分以外の全てを失って三輪一言に救われている。
(兄さんも、そうだったのかな)
依子は紫の過去を聞いたことがなかった。無理に聞くべきことでもないので目を逸らして頷く。
「そっか」
「あなた、これ欲しいの?」
急にしんみりとした表情になった依子に、紫は赤々とした琥珀色の目を瞬かせてそれからいたずらっ子のように口角をつり上げた。
「えっ!?」
(本当に!? どうして? 何かろくでもないことを頼まれるのでは?)
疑念と期待と不安が一度に現れた依子の顔を見て、紫は声を立てて笑った。
「冗談よ、まだあなたにこれは早いわ。だからあげない」
「じゃあいつならいい?」
神妙に問う依子に紫は少し考え込んでから口を開いた。
「そうね……あなたがお酒を飲めるようになったらこれをあげるわ」
「本当?」
「ええ、気が向いたらあげる」
「何よそれー!」
憤慨する依子に、紫はまた声をあげて笑った。表情が大きく崩れることのない綺麗な笑みであった。
その時のやりとりは、階下から聞こえる一言の夕飯時を告げる呼び声で途切れた。
それから数年ののち、依子は鎮目町の小さな香水屋であの時紫が持っていたものと同じ香水を見つけていくらか小さいボトルを試しに買って付けてみたが。
「……私にもまだ早いみたいだよ」
自分の手首から漂うあの時微かに香っていた百合の香りは、自分の肌とは馴染む事が無かった。