1999.07.11〜2004.05
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「せりなずな、ごぎょうはこべら、ほとけのざ、すずなすずしろ、これぞ七草」
「紫ちゃん、なんで七草粥に大根を入れているの?」
紫が焦げ付かぬように木べらで混ぜている土鍋を妹弟子は緑がかった淡い大きな目で不思議そうに眺める。一言が持っている焼物の釉薬にこんな色があった気がする。
「すずしろは大根の別名よ」
「ふうん」
物憂げに返事をする妹弟子の頭を紫は掻き回す。大方食卓の支度を終え手持ち無沙汰になったから、自分の所にするべきことが無いかを探しに来たのだろう。だがそれ以上に彼女は不安なのだ、紫はこのあれやこれやを気にする妹弟子に共感はしないが、その理由には納得していた。
「二階が気になっているんでしょう?」
正確には今一室に閉じこもっている二人のことだが。
依子は頷く。
「……あの子も、お粥食べてくれるかな」
雪の日に師に拾われた幼子は、正月を終えた今も未だに空き部屋で伏せている。栄養失調とそれに伴う肺炎、そしてーー紫も依子もその理不尽で残酷な経緯を深く知る事は無いが紫は兎も角、少なくともこの甘い、優しい少女は今知るべきではないものだーー深い心の傷は未だ完全に癒えておらず、師である一言が手ずから看病を行なっている。
「貴女が心配することではないわ」
彼は一言にインスタレーションという形でその消えかけた命を繋がれた。訪問してくれた村の医師から必要な治療も受けた。後はその小さな命がゆっくりと生きる力を取り戻すのを見守るだけだ。そこに紫や、ましてこの非力な少女が介入する隙はない。したところで何かが変わるわけではない。
一言の臣下としての絆を得た時点で、あの真っ黒い子犬のような幼子は救われたと言ってもいい。少なくとも紫はそう考えている。だが彼女はそう思ってはいないらしい。
「分かってる、あの子はきっと助かるって。でもそれじゃないの」
スカートの裾を握り依子は俯き、弾けたように顔を見上げた。
「だって一言様殆ど寝てないんだよ! あの子に何かあったらいけないからって…! ちょっとくらい交代して休んだっていいのに、紫ちゃんや…私、だっているのに」
今度は紫が目を瞬かせる番だった。
確かにこの子は心配している、だが相手は紫が予想していたのとは違う人物だった。
「覚えていないの依子ちゃん?状況は違うけれど貴女の時も似たようなものだったのよ?」
「えっ……あっ!?」
紫は依子に見えないように微笑んで、呆れたように言うと依子は何かを閃いた。
「思い出した?」
「……うん」
依子は再び俯いた。今度は羞恥心で。
「貴女が異能で変な所に『跳ぶ』からって貴女が寝るまで手を繋いでいたり、あの人にしか懐かない貴女が始終ひっついててもにこにこしてたり、私とは事情や勝手が違うからって気になることがあったらいちいち渡辺さんに相談に行ったり、女の子用の服がないから私に麓まで買いに行かせたり、下着まで買っ「思い出した! 思い出したからー! その節は本当にありがとうございました!」
依子がきたばかりの頃の話を語り出したら、依子は赤面しながらポカポカと紫の胴を叩こうとする。照れ隠しのように叩こうとするのだが、紫は木べらを持たないもう片方の手で軽々といなすので全く通じていない。
「ともあれあの人はそういう人よ、諦めなさいな」
「じゅーぶん承知しております…」
段々と小声になる依子をよそに、紫は木べらをかき混ぜる手が緩やかになる。
三輪一言という人間は、自分で確実に救える一の命を手放さない人間なのかもしれない。それはつまり、目の前の命に誠実に向き合っているということなのだが、いかんせん紫にはお人好しが過ぎるように見える。だから彼が好きなのだが。
きっとこの子もそんな彼だから慕うのだろう。ほんの少し、意味は違うかもしれないけれど。
「紫ちゃん! お粥焦げちゃう!」
依子の慌てた声に紫は思考を止め、とっさにコンロの火を消す。ちょうどいい頃合いだがこれ以上煮立てていたら焦げていただろう。いつも騒がしいと思っていた彼女の少女特有の高い声に、自分の失態を防いでもらうなんて。紫は苦笑して依子に礼を告げる。
「ありがとね、依子ちゃん」
「どういたしまして」
依子はなんてことのないように返し、素朴な民藝風のとろりとした栗色の漆のお椀を二つお盆に乗せて持ってきた。お盆の上には既に準備していた茶碗蒸しや香の物ーー無論、一言のお手製だーーを入れた小鉢が乗っている。それも二人分。
「一言様と一緒なら、いっぱいご飯を食べてくれるかもしれないから」
「それにあの子と一緒なら一言様も残す訳にはいかないものね」
得意げに頷く依子に「意外と策士ね」と呟いて紫は唇の端を上げた。
お椀に盛られた七草粥は古くは邪気を払い万病を除くと、信じられていた。一言は悪縁を断つ王である。だからきっと、あの子供に邪気はもう寄ってこない。そんな風に妹弟子は信じているのだろう。きっと後者の効能もーー。そしてその風習が古き迷信であると分かっていながら、三輪一言もまた粥に祈りを託し食べるのだろう。
紫はそんな迷信を毛ほども信じていないが、生と死の瀬戸際に立たされている者の為に、利用してみるのも悪くないと思えた。
「依子ちゃん」
「なあに?」
「こういう行事も悪くはないわね」
そう言って紫は粥を盛った椀を乗せ、お盆を持ち上げようとした依子から盆を奪いひょいと持ち上げる。
拍子抜けした顔をする依子を置いてすたすたと台所を出て行けば「待ってよ紫ちゃん!」と後を追いかける少女の声が聞こえる。
きっともうすぐこの家は更に賑やかになるのだろう、もう一人住人が増えるのだから。紫としては珍しく、煩わしさよりこれからの楽しさの方が勝る。
美しく育つ可能性を宿した小さな種が、もう一つ増えた事が単純に喜ばしく思えた。