2004〜2009
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……結局これしか残らなかったんです。
私があげられるのは精々これだけ。
殆どが空襲で焼けてしまって、残ったものも妹達や預かっている子供達に渡してしまいましたし。
だからこれだけはあなたに託します。どうか忘れないでちゃんと渡してあげてください、××様。
とっても大事なものなんです。あなただって覚えているはず。
これは私の――。
†
四月も終わり、五月となれば桜はとうに散ってしまっているが、國常路大覚の私邸に咲く藤の花は今が旬を迎えていた。
「良い眺めですね」
三輪一言は藤棚に爛漫と咲く藤の花を前に目を細める。藤の花と言えばその名前にも付けられる淡い紫色が定番だが、黄金の王國常路大覚の庭に咲く藤の花は白藤と呼ばれる白い色をした藤であった。茶室が設けられたささやかな庵の隅のほんの一角に植えられた白藤は、庭園で青々と茂る常磐木を邪魔することなく楚々として庭の一角を白く染めている。
「元は本家にあったものを、こちらで挿し木したものだ」
「では元の木もまだそちらに」
「ああ、随分と年老いてしまったがな」
滅多に笑わぬ大樹の如き老人は、遠き日を懐かしむように僅かに目を細めた。
「お好きなのですね」
「いや、私ではない」
峻厳たる老爺は三輪の言葉に首を振る。
「だが、好んでいた者がいた」
†
『大きく育ったら春なのに、雪が降っているみたいで綺麗になるでしょう?』
柔らかく笑うその人は、か細くなってしまった指で白藤の鉢を指さす。彼女が本家に上がるのは数年ぶりのことで、久しぶりに会った彼女は随分とやつれ、儚さを増していた。
それなのに変わらぬ笑みを浮かべるのは心配をさせぬ為だろう。彼女の息子と、それから己に。
『あれに世話をさせましょう』
『分家のあの方は他のことでお忙しいのではありませんか?』
『ええ、ですから鉢の世話が一つ増えたところで問題はありません』
『まあ』
ころころと朗らかに笑う様は少女の頃と変わらないのに、これで己よりも年上で、しかも大学進学も間近な青年の母親であるというのだから、不思議なものだ。
けれども、
(自分が彼女と会うのは今日が最期なのだろう)
虫の知らせとも言える予感がした。
これは、彼女の今際の挨拶で、白藤は形見なのだ。
†
「この景色はなにか句を詠みたくなりますが、本日の用件はそれだけではないのでしょう?」
三輪がそう口にするや否や、庵の空気が変わった。
最強の王は恒星が舞う世界を背負い、最弱の王はそれをすんでの所で中和し桜の花びらの如き花弁が彼の周囲を舞い散る。
突然御前が《聖域(サンクトゥム)》を展開しても、三輪はそよ風の如くいなす。三輪もまた、國常路大覚と同じく一人の王である。彼の威圧をものともせず、迫りくる圧倒的な王の気迫を微笑みと共に鎮めようとした。
剣を出さぬ程度に聖域をぶつけ合う。
小さな庵の中は、今や二人の王が相対する聖域同士の衝突で更なる超新星爆発を生み出される世界と化した。
風も無いのに、三輪の黒髪は突風に吹かれたときのように激しく揺れる。
赤の王と青の王のようにお互いがぶつかり合うのではなく、ただ対峙するだけでも聖域同士の衝突は起こるのだ。謂わば達人同士が刀を向け合っている状態で数手先を読み合い、精神上で激しい打ち合いをするかの如く、二人の王は相対していた。
三輪自身としては、一人の剣士としてこの海千山千を生き延びてきた今もなお壮健なる老齢の王と剣でぶつかり合ったらどうなるか、という興味はあるが、今回の花見はそれが目的ではない事も理解している。
穏やかな笑みを浮かべたままの三輪に國常路は目を伏せ、己の聖域を閉ざした。
三輪もそれに合わせて自身の聖域を閉ざす。
非時院のクランズマンや連れてきた彼女を驚かせてしまっただろうか。三輪は控えの間で待っている依子を案じた。
國常路は先程共に白藤を眺めていた時と同じ様子で口を開く。
「先日、赤の王が『センター』を壊滅させた話は知っているな」
「はい、赤の王が非人道的な実験をされていたストレインの子供を保護したとも」
「そこで我がクランズマンが、貴様のクランズマンによく似た人物を見かけたとの報告があった」
(なるほど)
センターの不祥事があって間もない今、自分を呼んだ理由がわかり三輪は合点がいった。
常に手元に置き三輪が手ずから師事している狗朗とは異なり、依子には東京で他の王権者の動向を監視してもらうことにしている。といっても王同士の抗争は数年前の緑の王と黄金の王の対決以来殆ど起こっていないため、依子には比較的自由にさせており時たま自分の命を受けてもらうことにしていた。
紫ほどではないが、依頼を任せることもある。
それが今回の赤の王によるセンター襲撃だ。三輪は危機的な未来を予知することもなかったので、自ら出向くこともなかったし、依子にも好きにさせていた。精々赤の王の動向を注視する程度かと思ったら、何やらしでかしたらしい。
当代の赤の王は何の因果か依子の高校時代の友人だ。王と他のクランのクランズマンではなく、友人としての関係から彼女は行動したのだろう。依子がひと言も三輪に告げなかったのは、無色のクランズマンとしてではなく、私人として動いたというポーズなのだろう。
(だから御前は確認している、私の命で彼女を動かしたのか否か)
黄金と赤の衝突に、秘密裏に無色が介入したのではないか、ということを。
(あとでお説教かな)
三輪は小さく苦笑してから頭を振った。
「きっと人違いでしょう」
「人違い、か」
「ええ、それか『幽霊』がその子供を哀れに思ったのかもしれませんね」
そう笑って、御前を見据える。
國常路大覚は三輪の笑みにつられることなく威厳を保ったままである。
「幽霊も哀れむか」
「幼子が理不尽で惨たらしい目にあれば、恐らくは」
依子もまた、かつてはストレインの異能故に、非人道的な処置を施されていたことがある。その境遇から救ったのが他ならぬ三輪だった。有する能力が故に辛い思いをするストレインの少女と、助けられる立場にいる友人。彼女自身、何か思うところがあったのだろう。
だから彼女は三輪に言うこともなく、一個人として動いたのだ。
「幽霊」という符号を知らぬ國常路でもない。それはかつて、迦具都事件直後に非時院が暴走するベータ・クラスのストレインであった百井依子を捕獲、管理する際に用いた符号なのだから。
二人の王の沈黙が、庵の空間を支配する。それはどんな聖域よりも緊張を孕むものであった。
場違いなほど柔らかな風が吹き、藤の花が揺れる音すら聞こえる。
先に動いたのは、意外にも國常路の方であった。
静かに息を吐いて、ひと言。
「幽霊ならば、人が裁くことが適わんな」
不問にする、ということだろう。三輪は内心安堵する。
「誰かを祟るわけでもないのならば、祓う必要もありませんよ」
冗談めかして言った三輪の言葉に國常路は小さく息を吐く。
「祟りはせんが、夢には出るぞ」
「夢、ですか」
謎かけ、だろうか。少なくとも御前の語る幽霊とは彼女ではない事だけは三輪にも分かる。
「約束のものをまた渡しそびれるのかと説教をしてくる」
「説教、ですか」
國常路に説教が出来る人物などよほどのものだろう。
三輪と同じように、國常路にもまた王になる前の若い時代があった。そしてその中に、この國常路大覚を説教できる者がいたというのは、なかなか想像がつかない。けれども。
「けれども、嫌ではないのでしょう?」
嫋やかに笑う三輪に、御前はその峻厳さを僅かに和らげた。遠くにある懐かしいものを見るように、白藤へと視線を向ける。
「不本意ながらな」
「幽霊の方が、案外会いたい人に会えるのかもしれませんね」
ささやかな冗談だが、それは一言にとってささやかな祈りでもあった。
いつか自分がこの肉体を失ったあと、夢の中でなら愛弟子達や彼女と会えるのかもしれない。それも存外悪いものではないのかもしれない。
御前が僅かに緩んだ口元を引き締め、ちらと三輪を見やる。
再び庵の中に静寂が戻ると、年老いた二人の王は共に白い藤を眺めた。
それから二人の王は世間話の傍らいつものように句を詠みあって、その日の会合は幕を閉じた。
別れ際に御前から一言は、
「あれしか残らなかったが、気に入ったら持って帰るように言っておけ」
と、主語も目的語も曖昧な言伝を預けられた。
一言は首を捻りつつ依子の待つ控えの間に足を向けた瞬間、一言の脳裏に断片的な映像が映った。
随分と写りの悪いそれは、共に来たはずの彼女の姿を映している。
(彼女が泣きそうになっている、血の匂いはしないということは、命の危険はなさそうだ。けれどもこれは……未知に混乱している?)
不意に降ってきた予知に一言が進む足を速め得ようとした瞬間、気配もなく一人のウサギが一言の前に姿を現した。
珍しく見た彼女の未来に気が急いていたせいでその気配を悟れなかった己が未熟さに内心苦笑しながら、一言はウサギへと声をかける。
「大覚さんがまだ何か用事があるのかい?」
「御前より、無色の王の案内をせよと仰せつかった由」
「彼女は控えの間にいたはずだが」
「百井嬢は客間へとお移りになっております」
遠くとも御前と血の繋がりを持つ一言の臣下を、ウサギたちは敬称を付けて呼ぶ。
一言はいぶかしみながらも、垣間見たすぐ先の未来と、國常路が残した言葉に思考を巡らせウサギの後を追った。
「既になき 藤の色染む 花蕾」
最後に詠んだ御前の句の意味が、恐らくこの先に理解できるのだろうと、不思議な確信を胸にして。
一言の後ろで、白い藤が見送るようにしゃらりと風に揺れる音がした。