2008〜2012.09.25
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自分の半分が急に冷たくなったような気がして目を開けると、同じ布団で眠っていた一言が抜け出て外の空気が入れ替わりに入ってきたことに依子は気付いた。
起き上がりたくとも腰や足がまだ昨夜の名残が抜けきれず、動きが覚束ないので視線だけをちらと布団の先に向ける。
布団から少し離れた場所で寝巻姿の一言が、胡座を掻きつつ軽く手櫛で梳いてから、慣れた様子で癖のある黒髪を器用に髪紐で一つに結える。何気ないありふれた動作でも、一言の所作は綺麗に見えるから不思議だ。
一瞬一瞬をいとおしむ彼のあり方が、行動にも示されている。
障子越しにうっすらと光が射していて一言の表情は伺えない。代わりにいつも穏やかな笑みをたたえる口元の輪郭が影のように浮かぶ。静かに立ち上がると同時にしゅるりと衣擦れの音がして、するすると寝巻きの帯が解かれて畳の上に落ちた。
夜が明け、白み出した空が障子越しに仄かな光がさす薄暗い部屋の中で、一言の背が白く浮かぶ。細身ではあるが、長年の鍛錬の成果が積み重ねられた背中は鋭い鋼のように研ぎ澄まされていた。その白く鋭い鋼の背に昨晩散々爪痕を残した事を思い出して、依子は顔を熱くする。
一言はそんな依子の方をちらとも見ず、脱いだ寝巻きを軽く畳み、腰紐を咥えて用意していた長襦袢に袖を通し、手を少し伸ばして中心を揃えて、襟元を首から整えると一言の背筋は自然とぴんと伸びる。それから咥えていた腰紐を取り手早く結ぶ。
仄暗い部屋の中で、袖や裾がひらひらと一言の周りを踊るようにはためく。羽衣を与えたら飛び去ってしまうのは彼の方ではないか。
明暗が別れる前の一言と着物のぼんやりと揺らめく影を眺める。決まり切った動作、慣れてしまった光景なのに、依子は一言が着替えるところから目が離せない。
夜とも朝ともつかぬあわいの中で袖と裾や帯が揺れる様は一人で踊る舞のように見える。
依子だけが知る一言から、そうではない三輪一言に変わる瞬間。
それはほんの少し寂しくて、けれどもその瞬間もまた、今のところ自分だけが独り占め出来ている事実に少しだけ満たされるような心地がした。
薄藍の涼しげな麻の着物に袖を通し、長襦袢と同じ様に手早く腰紐を結え、濃紺の帯を回す。帯を結ぶ指先が、昨夜自分の肌のあちこちに触れていたものと同一とは思えなくて、昨日の熱の余韻が引かぬまま見つめてしまう。
いつの間にか眠っていたけど、けれども一言は依子よりも後に眠っているはずだ。いつもそうなのだから。
(なんで年下の私の方が、いつも体力が保たないんだろう)
悩んでも仕方の無い悩みを浮かべては消していく。内容は様々だが、一言との関係が変わってから依子はそんな不毛な思考を繰り返すことが多くなった。男と女で、王と臣下で、二人の隔たりはあまりにも大きいのに、それでも、だからこそ好きになってしまってこの人の未練になれたらと願ってしまう。そんな依子に一言は優しく触れて笑みを返してくれる、それが何よりの答えだと分かっていながら。
一言は姿見の前で帯を結び、その結び目を背中に回して、襟に手を運び軽く整えて着付けを終わらせた。
着付けを終えたらこちらを向くことは知っているので、一言が襟に手をやった頃に極自然を装って寝返りを打ち静かに背を向けた。
一言が小さく笑ったような声を出して、それから音も静かに布団に近付き跪く。僅かに高鳴る心音が聞こえぬよう祈りながら寝た振りをする依子の耳元で、一言は低く甘やかな声で囁いた。
「『なお恨めしき朝ぼらけかな』か……君とこうしていると夜明けを恨めしく思う、昔の人の気持ちがよくわかるよ」
起きていた事がとっくに見抜かれていた事が恥ずかしくて、依子は布団で口元を隠しながら体の向きを一言の方へ向ける。
「朝が来れば、すぐ夕暮れになりますよ」
昔の和歌に擬えて、そんな風に小さく掠れた声で言えば一言はくすくすと笑い、依子の前髪に触れる。
「ばれてましたか」
「そんなにも熱い視線で見つめられていたら、分かってしまうよ」
一言は目を細めて、労わるように額から頬にかけて依子の顔に触れる。
まだ眠気が覚めやらぬ依子は、一言の手の温かさに再び微睡みの中に落ちてしまいそうになって、一言の方を見やる。
「まだ早いから、ゆっくり起きておいで」
一言の言葉に依子は小さく頷いて返す。その口調は穏やかなものなのに、閨事での彼をどうしても想起せざるを得ないような艶のある低い声をしていた。
一言は優しげな笑みを浮かべて、寝所を後にした。
僅かに入ってきた外の空気が依子の意識をほんの少し鮮明にする。けれども依子は一言の言葉に甘えることにした。
うつらうつらしながら依子はふと違和感に気付く。
昨夜は涙やら汗やらその他言えないあれやそれで随分と濡らしていたはずの布団が、それにしては随分と乾いている。
情事の名残が僅かにしか残っていないのは、依子が気を失っていた間に一言が整えていたのだろうか。
起きたらこの布団やシーツを洗っておこう、念の為。
僅かに残る一言の残り香と温もりに包まれて依子は再び瞼を閉じた。
なかなか起きてこない姉弟子を案じた狗朗に、一言が説明に窮したのはまた別の話。