2004〜2009
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部屋の中気まずそうに小さな咳が一つ聞こえ、神妙な顔をして一言は体温計を見て目を細めた。
「37.9度か、立派な風邪だね」
「風邪ですね」
知ってた、とも申し訳ないとも思える二つの感情が混ざった顔で、依子は布団で顔を覆った。
高校の期末試験が終わり、東京から三輪家に戻る電車の中で夏なのに妙な寒気を感じた。
電車の空調が強かったのだろうかと不思議に思いながら三輪家に帰った途端、一言に有無を言わさず部屋に入れられ、狗朗が用意していた布団へ直行することになった。聞けば一言に予め頼まれていたらしい。
予言の力を持つ《王》ならば、そんなことも見えるのだろうか。
息の合う師弟だとは思っていたが、こんなところで発揮しなくてもいいんじゃないかと言いたかった。
それが、昨日のことである。
昨日に比べてさらに熱が上がっている額に、ひやりと心地よい温度のよく知った手が前髪を払って触れる。その感触を確かめるように依子は目を細めた。
「丁度いいから今日もゆっくり休んでなさい」
「はーい……」
喉からせり上げる咳を必死で堪えて素直に返事をする。
「移ってしまいますから一言様も早く戻られた方が」
「うーん、そうしたいのは山々なんだけどね?」
眉根を寄せ難題を前にした哲学者を思わせる表情のまま、一言は盆の上に乗せられたーーー無論、一言が自ら持ってきたものだーーーリンゴを手に取り同じく盆の上に置いてあった小型の包丁で器用に剥き始めた。
しばらく依子の部屋にいるつもりなのだろう。ちなみに漆が塗られた黒盆の上には他にも体温計、空になったガラスのコップと先程医師から貰ってきた薬袋、リンゴが置かれていた青磁色の平皿と皮を入れるための木の器が並べられていた。
所在なさげに依子はそれらを見て己の師が何をしようとしているのかを察して、熱で火照った顔から血の気が引いた。
このまま部屋で看病する気だこの人。自分だって体が弱いのに!
「君は何かと無理をするし、多分私が部屋を出た後にこっそり本やタンマツを弄り始めてしまうだろうからね」
聞こえるはずのない依子の心の声が聞こえたのか、ぎょっとした表情がわかりやすかったのか、一言はいたずらっ子のように茶目っ気たっぷりに言ってのけた。
「寝たままでもできることってそれくらいしかないじゃないですか」
「挙句に熱が下がったらすぐ家の手伝いをし始めて、また熱を出して布団に逆戻りするでしょう?」
図星だ。一言はカタリと盆の上に包丁を置き、依子に厳しい目を向けて、笑った。
「だからね、今日は君が寝るまでここにいることにしたよ」
ニッコリと意地でも譲らぬ笑みである。
思わず一句できてしまうあたり依子もこの俳人の弟子だ。
「信用してくれないんですね」
「信頼しているからこそ、君がそうやって無理をするたちだと知っているんだよ?」
「……狗朗は、大丈夫なんですか」
「『じゃあ俺は姉上以上に家事を頑張ります!』って張り切っていたよ? それこそ君のお株を奪わんとするくらいに」
「本格的にやることが寝ることしかないんですが」
「だからそれでいいんだよ」
「でも」
「君は、どこか自分が何かをしなければここにいられないと思っている節があるからね」
「それは」
違うと言えば、嘘になる。
一言の言葉は見事に依子の思惑を貫いていた。
依子は一言のもとに住む弟子の中では立ち位置が特殊だ。
天涯孤独の二人とは違い、血縁がいる。もっともその近い血縁である母方の祖父母とは会ったことはないが。
依子が引き取られたのは二人が老齢であったこと、危険なストレインである依子を一言のもとで保護観察を受けさせる、そして何より依子自身の意志によるものだった。
その他にも様々な政治的な思惑も絡んでいたようでーー依子はそれ以上のことを知らない、一言は語ろうとしなかったーー要するに、依子の居場所は必ずしも一言の側だけではないのだ。
三人の中で自分だけ、自分だけが帰る場所がある。それは二人の兄弟弟子への後ろめたさでもあった。
「そんなことはないからね」
後ろめたさを晴らすような、静かに染み渡る一言の声。
一言の言葉が掻き乱されて不調和な音を奏でていた依子の心を穏やかなものに変えていく。彼が望むあるべき形に、作り変えられていく。
受け入れることは簡単だ。けれどもそれだけでは三輪一言という男は永遠に遠い存在のままになってしまう。
「一言様」
そうなる前に、一つだけ聞きたいことが依子にはあった。
「何かな?」
「この未来は、見えていたのですか」
依子の問いに一言は首を振り、そして依子を見て目尻を下げた。
「見えなくても、わかるよ」
日頃バイトと学業と、私のいないところでいろいろなことを頑張っていること。
そうして試験を終えて一区切りしてここに帰れると思ったら、安心して気が抜けてしまうこともね。
一言はそう続けながら、なんて事はないという表情を依子に向ける。
「けれどまさか、本当に風邪を引いてしまうとは思わなかったけど」
一言は苦笑する。
一言が思う依子を大切に思う気持ちと同じではないと知っている。
どうしたらそれが伝えられるのだろうか。
そう悩んでしまうのに、このまま一生バレなければいいと思う自分もいる。
秘めていれば、この穏やかな温もりのような愛情を与えられ続けられるのだから。
「こうして一言様が枕元にいらっしゃると、昔を思い出します」
「そうだね」
「でも、昔だけじゃなくて、いつかまたこうして一言様は私の枕元に立っている時があるんじゃないかって…わたし…そんな記憶ないのに」
「君は」
一言が言葉を告げようとしたら、依子はもう既に目を閉じて眠っていた。
本人は大丈夫そうに見せていたが、やはり体力は落ちていたらしい。
依子は予言の力を持ってはいない。
だがこうして時折自分と同様の力を持つような素振りを見せることがある。
彼女は気付いているのだろうか。
いつか自分が一言と深い繋がりを持つという因果によって、擬似的に予言の力を本当に僅かに有しているということに。
気付かなくていい、出来ることならばかつて見た未来のように幸せになってくれるのなら。
一言は祈るように、依子の額に滲む汗をそっと拭った。