2012〜
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そういえば弟(狗朗)と墓参りをしたことがないなと、依子は山道を歩きながら思った。彼なりに気遣ってくれているようで少しだけ申し訳ない。
いつものように手入れ道具だけを持って行く。異能を使えばすぐにたどり着ける自信があるが、使う気にはなれない。
葉が揺れる音の他には自分の足音だけが聞こえる道を慣れた様子で依子は一人歩く。梢の間から見える日の光が眩しくて少し目を細めた。
手入れ道具の他には何も持たないのはいつものことだし、持たないことに多少の後ろめたさを感じるのも常のことだったが、今日は「なくても大丈夫だろう」という謎の安心感がある。
(不思議ね)
予言とは少し異なる、自分でもよく分からない勘のようなものが閃くのは、随分久しぶりのことだった。
山間の道を二十分以上歩いた先にある少し開けたの一角に三輪一言の墓はあった。そこは相も変わらず、静寂が切り取られたような心地がする、たった一人のために存在する空間だった。
「これも、今日はいらなかったみたいですね」
手入れ道具を軽く持ち上げ、誰に告げるでもないのに自然と一言といる時と同じ口調でひとりごちる。
綺麗にされた一言の墓の、両の花立てに生けられたまったく異なる種類の花を見て、依子は自分の勘が当たった事に苦笑した。
軽く落ち葉を掃いて、周囲を綺麗にする。
墓石は随分綺麗に磨かれていたので、軽く掃いてから拭く程度にしておく。
手入れをしたのは多分狗朗だろう、兄弟子が掃除をサボりがちと言うわけではないがここまで念入りにするのは狗朗しかいない。
生けられた二つの花を依子は目を細め見やる。あでやかな紫色の薔薇は紫が置いていったのだろうとすぐに察した。大輪の薔薇を一輪だけ、というのは実に兄弟子らしい。
とすると楚々とした花を生けたのは恐らく狗朗だろう。渡辺婦人に娘を預けたときに狗朗が来ていた事を聞き及んでいたので、こちらにも訪れていたことは予想できていた。
しかし、女の子を連れていたというのは予想が出来なかったが。
(あなたもびっくりなされたでしょう? あの狗朗が女の子を連れてきたなんて)
非時院の報告で読んだストレインの少女なのだろう。弟弟子と同じく白銀のクランズマンになった少女に少しだけ興味が湧く。
(セプター4の記録に存在しない、ベータ・クラスのストレイン)
年嵩は狗朗より少し下くらいだろう、そんな少女が認識操作の異能を使い生き延びていた。それも、たったひとりで。
(いつから、どうやって、どうして)
依子自身は全能でもないし予言の力を持っているわけでも、無謬の判断が出来る訳でも、まして千里眼を有している訳でもないので分かるはずがない。
ただ一つ、自身の経験から分かることはある。
(迦具都事件)
あの忌まわしい夏の災厄が、依子から何もかもを奪い引き替えに異能だけを残した。
(緑の王も、迦具都事件の直後に現れた)
クランズマンでありストレインである自分と、王権者とは比べものにならないことくらい依子も分かっている。
けれども、その少女がもしも自分と同じ出来事がきっかけで異能を得たのだとしたら。
(彼女は何を失ったのかしら)
墓石を拭く手が止まる。向こうは依子の事を知らないし自分も彼女を間接的にしか知らない。けれど、弟が初めて得た仲間にとって、王との出会いと別れが悲しみだけで終わらないように少しだけ祈りたくなった。
(あの子たちからしたら余計なことだろうけど)
彼らが王と出会ったことはきっと不幸だけではないはずだ、自分も同じだったのだから。
柔らかな風が吹いて、二人がそれぞれ思い思いに生けたであろう花が揺れる。少ししおれ始めた花々は、まだそれぞれの色を鮮やかに保っていた。
依子はまだ、三輪一言の墓に花を供えられない。
ずっとわかっていたことなのに、どうしてまだ受け入れられないんだろう。
見届けて、見送って、別れを告げて、どこにもいないと分かっているはずなのに。
空いてしまった空洞が大きすぎて、どこから埋めれば良いのかわからないでいるのだ。
喪失の痛みは、時間が埋めてくれるとは言うが、埋まりきった頃には元の形を忘れている。
亡くしたものは帰ってこない。元よりがらんどうになった自分に一言がくれたものも新しく得たものも、全部全部一言が持って行ってしまった。
持って行ってもらって構わなかった。
渡せたように思えないけれど、何かを自分も与えたかったのだから。
(こうなっても生きていられるように、あの人は私のわがままを聞いてくれたのにね)
墓石に刻まれたたった六文字の言葉を指先でなぞる。くすぐったいよと笑う一言の声を依子はまだ覚えていられる。
自分はこの墓には入らないだろう。入れないと言った方が良いのかもしれないが、これは予感ではなく依子自身の選択でもあった。
もしもこの先もずっと、依子には一言しかいないままだったら、この墓の少し離れたところに墓を建てよう。
きっと一言は仕方が無いと言って苦笑するのだろうけど。
依子は俳句を考えるときの一言の表情を見ているだけで幸せだった。この発想も似たようなものだ。
自分たち二人きりになれる機会というのは意外と少なかったのだから、これくらい構わないだろう。
こんな辺鄙なところに墓を建てようとする人など、そうそういないのだから。
一通り墓の手入れをしてうんと伸びをする。墓を訪れるのは、手入れのためであって対話のためではないので、話しかけたりはあまりしない。
これはきっと一言がどこにもいないことを確認するための作業だ。
(今度は二人に会えたらいいな)
狗朗とはもうしばらく会っていない。まして紫など九年近く会っていないのだ。
(紫ちゃん、私だって分かるかな)
わからないかもしれないし、切り捨てられてしまうかもしれない、もしかしたら今の自分には切り結ぶ価値もないと言われてしまうかもしれない。
狗朗とも、あまりいい別れ方をしていなかったと一言が語ったことを思い出す。けれども必要以上に案じることも悲しむこともない透徹とした様子で語る一言にはきっと見えていたのだろう。
全てが終わったその先でいつかまた、昔話がしたい。あの人がいた頃の話を。皆で酒を交わしながら。
「いつかまた、会えるといいですね」
祈るように、ここにいないと分かっているはずの一言に声をかける。
当然のように返事も何もない。
「また、来ますね」
そうひと言残して、依子は山道を降りていった。
夕日に染まりはじめた誰もいなくなった野辺に、また優しい風が吹いた。