1999.07.11〜2004.05
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『お月見泥棒と彼は言う』
子供が黒い画用紙の真ん中に丸い穴を開けたような満月だった。
月明かりだけで辺りがすっかり明るく照らされていて、依子は目を細めた。
つい数日前まで夏の名残の厳しい暑さが残っていたとは思えないほど、初秋の夜風はひんやりと冷たい。
ストールを部屋から持ってきて正解だった、依子はすみれ色のストールをふわりと肩にかける。紫が今年の誕生日祝いに依子に贈った軽くしなやかなそれは、今やすっかりお気に入りの一枚だ。
「よし」
依子は一つ息をついて縁側を見回した。
縁側には一対の花瓶に生けた薄に吾亦紅。暗くなる前に狗朗が摘んできたばかりのものだ。
それから盆にはきぬかつぎと月見団子。ささやかながら、月見の供え物としては十分に立派なものだった。
四人で食べる分、と思って作ったら思いの外量が多く出来てしまったけれど問題ないだろう。
ささやかな達成感に満足している依子の目に、皿から転がり落ちた団子が一つ映った。
思わず辺りをきょろきょろと見渡す。
兄弟子の紫は一言への土産に買ってきたという地酒を取りに蔵へ行っている。弟弟子の狗朗は夕餉の後片付け。それと一言が酒の肴に軽く摘まむものを作っていたから、今頃手伝っているのだろう。
酒の肴を狗朗に手伝わせる事を申し訳ないと一言は思っているらしい。だが今日の肴は一言だけじゃなくて紫や依子も食べるものだから、あんまり気にしなくて良いのになと依子はぼんやり考えた。
そして今夜の月見のお供え物を準備するのが依子の担当だ。
再び辺りを見やるが、三人の気配はまだない。
ここの準備をしたのは自分だし、落ちてしまった物を三人が食べるのは忍びない。何より一個くらい食べたってまだ沢山あるのだし。
依子は盆の上に転がるお団子を、ひょいと摘まんで早々に口の中に放り込んだ。
「んー!」
素朴な甘味ともちもちとした食感に思わず顔が綻ぶ。
みたらしとか餡子をつけたらもっと美味しくなるのだろうけど、つまみ食いなのだし、何より今日のような日には多分こんな味の物が良いのだろう。
もう一つ食べたくなってつい手を伸ばそうとしたその時だった。
「秋の夜の 月によく似る 団子かな」
気配もなく後ろから聞こえた低く柔らかな声に依子は青ざめ、ばれないように急いで団子を飲み込む。
振り返れば深い紺色の着流しを着た一言が小さなお盆を抱えて立っていた。
一言は依子を見てふんわりと微笑みかける。
いつも安心感をくれるその笑みが、居心地の悪さを加速させる。
ばれた、絶対ばれた。
依子は顔色を変えないように気をつけながら、一言が座るスペースを作るために少し左側に座ったまま移動し、供え物と自分の間に空間を作った。
「ありがとう、今度の句会に出そうと思っているんだけどどうかな?」
一言は礼を一つ言って縁側に腰掛ける。
「素敵だと、思います」
依子はぎこちなく笑った。
背中に流れる冷や汗は秋の寒さの所為ではない。
「ありがとう依子、ところでお団子は美味しかったかい?」
「はい、冷めても美味しかったです」
「……冷めても?」
一言は不思議そうに目を瞬かせる。依子も依子で自分の迂闊さを呪った。依子が強張ったのを見ながら怪訝そうに一言は顎に手を添える。
「さっき君がお団子を茹でていたから、味見をしたものだと思っていたのだけど」
「申し訳、ありません……」
一言は小さくなっている依子と反対側の供え物を見比べて、それから小さく苦笑した。
「お月見泥棒が出たのだと、二人には言っておくよ」
「返す言葉もございません……」
赤くなったり青くなっている依子を見て一言はふーむと一つ呟く。それからすらりとした指で一つお団子を摘まんで一口で食べてしまった。
「あっ!」
依子が声を上げても一言は気にすることはなく、そのまま団子を咀嚼して飲み込んでそれからひと言。
「うん、みたらしとか餡子をつけて食べたいけど、せっかくのお月見なのだしたまにはこういう素朴なのもいいね」
依子は一言の言葉に少し面食らい、それから声を上げて笑った。
「どうしたんだい?」
「いえ、なんでもないんです」
「あら、二人とも何をそんなに楽しそうにしているのですか?」
二人して笑い合っていると廊下から酒瓶を携えた紫がやってきた。
こざっぱりと髪をまとめ、深い赤色の地に麻の葉柄の着物を着ている。
「紫ちゃん!」
「やあ、紫くん、先に始めているよ」
一言は紫に向かい微笑みかけ、自らが持ってきた小さな盆から一つ盃を持ち上げた。
紫はそんな一言に整えられた眉をつり上げて苦笑する。そのまま酒瓶をでんと置き供え物を挟んで一言の隣に座ってゆったりと長い足を組んだ。
「そんなに早くはじめても月は逃げないでしょう」
一言は紫の言葉に目を伏せた首を振った。深く澄んだ黒い瞳の上に長いまつげが影を作る。
「いや、今日の月は、今日だけだよ」
先程とは打って変わって真摯さを増した一言の言葉に、二人は返す言葉を無くした。
韜晦のような、謎かけのような。一言の紡ぐ言葉には何かがあると知っている二人は、知っているからこそ何も言えなくなる。
紫は一言から目を逸らし、気にしていない風にしながら徳利に自身が持ってきた酒を注ぐ。
依子は憂うような、けれども穏やかな一言の顔から目が離せなかった。
そんな風に彼自身にしか見えない何かを見ているときの一言から目を離してはいけないと、いつの頃から依子は知っていた。
二人は沈黙を破ることが出来なかった。
沈黙を破ったのは一つの小さな足音だった。
「一言様!」
「おや狗朗」
硬い空気がクロが現れると共にぱちんと弾けて、一言はいつもの穏やかな雰囲気を取り戻す。依子は内心ほっとして胸を撫で下ろした。
「平太たちがお月見泥棒にいかないかって誘ってきたのですが、その……」
もじもじと次の言葉を躊躇う狗朗に一言は破顔する。
「行っておいで、紫、ついていってくれないかい?」
子供だけだと危ないだろうから。
そう一言が続けると紫は一つ溜息をつきながら「了承しました」と言って立ち上がった。
一言のその言葉に狗朗は顔をぱあっと明るくする。
「ありがとうございます!気をつけて行ってきます」
「ああ、だけど」
「?」
一言の言葉に狗朗はきょとんと大きな黒い目を瞬かせる。
「我が家ではさっきお月見泥棒が出たばかりだから、他の家よりちょっともらえる物が少ないかもしれないね」
そういって一言は依子に向けていたずらっ子のように笑い、依子はその笑みに苦笑いで返した。
雲一つない夜空に白銀の月の光が冴え渡る。
秋の夜のささやかな団欒の中、虫の音が静かに聞こえた。