2004〜2009
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あれは夏、祖父母の家から帰る道中のことだった。その日は、たしか午後から用事があったのだ。だから朝に祖父母の家を出なければならなかった、はずだ。
たった一人の孫である依子と離れるのが名残惜しそうな祖父母に―――彼らの顔も覚えていない、依子はあの時以前の記憶を曖昧にしか思い出せない―――夏休みになったら、一人で電車に乗ってまた遊びに行くと言った。そうしたら逆に祖父母が心配して、東京から南関東(ここ)まで電車ですぐなのだから一人でも大丈夫だと言って、
「でもやっぱり皆でおいで、警察だか法務局だか知らないけど、二、三日ならあいつも休みが取れるだろう?」
「××さんの仕事は急なものが多いですから、私からも聞いてみますね」
「あの子も随分と忙しくなったものねえ」
そんなことを祖父母と母は和やかに話すのを横目に、私は祖父母の隣に住む男の子にお別れを言った。彼の顔も名前も覚えていない。
ただ、変わった喋り方をしていて、ゲームが好きな男の子だったことは覚えている。
もっと遊びたかったのに、用事さえなければ彼の友人の家に一緒に遊びに行くつもりだったのだ。夏休みになったら海に行って、それから新作のゲームを一緒に遊ぼう。
そんな些細な約束をしたことだけは今も覚えている。
助手席で暇を持て余し惰性で移り変わる景色を眺めていると、遠くから天高く浮かぶ赤と青の二振りの剣が見えた。
ペタリと車窓に張り付いて、遠くの空に浮かぶそれを凝視する。
隣で運転する母が「どうしたの?」と呼びかける声を聞いたその時、ぐらりと赤い剣が吊り上げた糸がプツリと切れたように、呆気なく地面に落下する。物体が最近学校で習った「重力」に従って地上と接した。
瞬間、眩いまでの光が視界を覆った。
熱風と熱気、それと後ろから柔らかい感触に覆われたこと。
そして意識が途切れる最後に見た光がとても美しかったことだけは、よく覚えている。
†
依子の意識が急激に浮上して、目を開けると同時に布団から上半身を跳ね起こした。
しんと静まった夜更け。虫の音しか聞こえないこんな山奥で自分しか生きているものがいないかのように、呼吸と心臓の音だけがよく聞こえる。
汗でびっしょりと濡れたパジャマに不快感を覚えた頃、ようやく心臓の動悸は治った。
「また、あの夢……」
人々が南関東クレーター事件と呼ぶ「あの時」の夢だ。
もう何年も経ち子供時代の記憶が朧げになってしまったというのに、依子の頭の中にその一瞬の記憶だけがはっきりと焼きついている。
綺麗だと、思ったのだ。
自分の全てを奪い変えたあの光が、とても美しく思えたのだ。
依子が見た一番綺麗なものは、依子の何もかもを変えた。
「はぁ……着替えなきゃ」
のろのろと替えのパジャマをタンスから取り出す。
汗をタオルで拭ってから新しいパジャマに袖を通した。水でも飲んでもう一度一眠りしようと考えた矢先、脳裏に再び夢の光景が浮かぶ。
赤い光、守られるかのような柔らかい感触。そして目を開けた時には何もかもが無くなっていた。
乗っていたはずのボックスカーは丸焦げた残骸に、車が走っていたはずの道路はバナナの皮のようにめくれ血管の様な配管が曝け出される。
周りのビルは砂の城のように崩れ落ち、或いは粘土細工のようにひしゃげていた。
そして自分と一緒にいたはずの母は、どこにも姿が見えなかった。自分の身体のそこかしこに生ぬるいどろりとした液体と乾いた血が張り付いていて―――。
「久しぶりに見たな……」
数年近くあの悪夢を見なかったのだ、もう治ったと思ったのにまた見てしまうなんて。
三輪家に来てしばらく依子は先ほど見た悪夢に魘された。
なまじ能力が無意識でも発動してしまう類のものだから、悪夢にうなされて目が覚めたら兄弟子や師匠の部屋で寝ていた、なんてことも珍しくなかった。
兄弟子には驚かれたが、師である一言はいつも笑って許してくれた。
『君のそれは夜泣きみたいなものだから、しばらくしたら落ち着くよ』
それはそれでいいのだろうか、と不安げに俯く依子を大丈夫だと言って穏やかに笑いながら頭を撫でてくれた。
実際に、三輪家での生活に慣れてからは悪夢も能力の誤作動も起こらなくなった。そもそも誤作動だって、この家の中のどこかにしか飛ばなくなったのだ。
ストレインとして覚醒した当初のように、眠りにつく度に見知らぬ場所にいるなんてことはなくなったのだから。
(ああ、そうだ)
眠るのが怖くて、また見知らぬ何処かに自分が跳ぶのではないかと不安でしょうがなかった頃、あの人が手を握ってくれたんだっけ。
幼い子供にするかのように―――実際その時は幼かったのだが―――とんとんと鼓動と同じリズムで背を叩きながら、反対側の手で眠るまでずっと一言は手を握っていてくれたのだ。
それを何度かしてもらってから、悪夢をパタリと見なくなった。もう、見ないものだと思っていたのだ。だから、久しぶりにこの夢を見たことにもダメージを受けたのだろう。
「でも」
きっと平気だ、依子は生傷の絶えぬ華奢な手を握りしめる。
蘇った悪夢のように依子は一度全てを失った。だが得たものもある。能力と新しい兄弟分と、友人とそれから。
(好き、かもしれないひと)
それが親愛か敬愛か、はたまた恋心かも少女の依子にはまだ分からない。
(でもきっと、大切なひとだ)
再びすべてを失っても、この地で得た思い出があれば生きていけると思えた。