2008〜2012.09.25
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桜が散り、ほんのりとした紅色に若葉の新緑の眩しい葉桜の頃とはいえ、空がようやく白みだした明け方と言うには些か早い時間帯だと、まだ肌寒い。
夢うつつ、といった状態で依子はぼんやりとしたまま目を覚ました。
薄暗い部屋の中で、見慣れぬ調度が影だけ浮かび上がる。
東京の自分の部屋でも、三輪家の自分の部屋でもない光景に半分寝たままの頭を回転させる。
そういえば昨日は旅館に泊まったんだっけ。
御前からの依頼でとある地方都市に赴いた一言と依子は、幾つかの調査と交渉を数日に渡り行い、ようやく昨日一通り目途がつき御前に報告を済ませられる形にまで話を整えた。
今回は二人とも刀を抜くことがなくて良かったねと、一言は夕食の際安堵の笑みを浮かべていた。
そうして二人して順番に部屋に備え付けのこぢんまりとした温泉に入って―――本当は二人で入っても良かったのだが、依子としてはそのつもりだったのだが一言にやんわりと先に入るように促された。多分見抜かれていたのだろう―――二人で軽く晩酌を済ませた。港町の旅館であったから、夕飯の魚料理は勿論のこと晩酌にと予め用意しておいた肴もこれまた美味であった。
酒精も回り会話も途切れ、ゆったりとした時間の中なんだかお互いを見つめ合うことが照れ臭くなってきて、あぐらを掻く一言の懐にするりと潜り込んで、
「一言様、もし、その……お疲れでないのでしたら……」
そう言って恐る恐ると言った体で上目遣いで一言の顔を覗き込めば、
「仕方の無い子だね、君は」
と、全く困った様子ではない一言が盃に残った酒を飲み干し、同じように酒で火照った依子の唇に口付けて……。
後はまあ、その、お察しの通りと言うやつだ。
互いをよく知り、想い合っている二人が興が乗ったらすることなど決まっている。
酒を飲んだが、明日のことも考えて少量だったため記憶は飛んでいない、むしろいつも以上に鮮明に覚えていた。
一仕事終えて英気を養った後だったからだろうか、一言は疲れていないどころかいつもより元気だった。
病の為かあまり体も強くないし依子より二回りも年上なのに、こういう時に限って依子の方が先にへばるのは一体全体何故なのだろうか不思議でならない。
年期の違いなのか、男と女の体の違いなのか、それともこの三輪一言という男が王であるから、なのか。
夜に依子だけが知る三輪一言という男は、存外優しくない。
触れた先からじわじわと毒を塗るように、嫌になるくらい優しい快楽を与えてゆっくりと依子の体を拓く。自分から急かすように誘って求めても、一言はそれを微笑みと共に一蹴して、依子の肌を好きなだけ愛でて苛めるのだ。
その上昨日の夜は宿での行為だったから、「君の声が聴きたい」などと請われて、いつもの癖で声を殺そうとして手を口に持っていこうとすると、一言のすらりとしているが骨ばった男の手に手首を掴まれてより一層激しくされた。
昨夜の事を思い出し顔が熱くなるのを感じながら、依子は自分の横にいる男を恨めしげに睨む。
依子を存分に堪能して満足したのか、当の一言は未だ夢の中、依子の隣でぐっすりと寝こけていた。
すうすうと寝息を立てる満足そうな寝顔はいつもよりずっと幼く見える。
この人は柔らかく揺るがぬ強さを持っているのに、時折守ってやらねばと思わされる。
そういうところに、絆されてしまう。
(もう少し、寝かせてあげましょ)
依子はふっと溜息をついて、一言を起こさないようにそっと布団から抜け出し自分でめくった布団を静かに直した。
三輪一言という男に対して依子は「寝起きの良い健やかな人」という印象を抱いていたのだがどうにもそれは多少誤りがあるらしいと気付いたのは、一言と寝る様になってからのことだ。
一言は寝起きが良いが意外と眠りが深い。
依子が寝ている間に起きて身支度を済ませている時と、依子が目覚めてもぐっすりと寝ている時の割合は意外と差がないのだと知ったのは最近のことだった。
この人だって人間だ。
分かっているはずなのに、依子は自分と一言が隔絶しているのだと認識している。
「狗朗のことが言えないな」
依子は自嘲気味に笑って、布団に出来た皺をそっと直した。
宿を出るには時間がまだあるが、ある程度支度はしておかないと。
春とは思えない肌寒さにふるりと体を震わせて、自分が一糸纏わぬ状態になっていることに改めて気がついた。
昨夜はどちらからともなく寝巻を脱がして裸のまま布団にもつれ込んだから、脱ぎ捨てられた寝巻が他の衣服と共にまとめられていた。
自分が寝ている合間に一言がしたのだろうか。
事の最中は嫌になる程明確に覚えているというのに、事が終わった後の記憶が曖昧だ。
寝ていた布団も不快な湿り気は無く、取り替えたのだとわかる。
兎にも角にも何か着ないと。依子はまとめられた衣服から寝巻を漁る。明かりもついていないため、薄暗い部屋の中では触覚だけが頼りだ。
まだ足に力が入らないからへたりと畳の上に座り込んで、暗闇の中で手をまさぐりようやくそれっぽいものを見つけて袖を通す。
多少大きかったが用意されていた寝巻は男女兼用のデザインであったのだから、細身の依子では少し大きいのだろう。
袖から僅かにはみ出た指で帯を探すが見つからない。
が、帯を探すためにわざわざ明かりをつけて一言を起こしてしまうのもどうにも忍びない。
(……まあ、一言様が起きたらちゃんとすればいいかな)
依子はそう自分の中で納得させて、ふあ、と小さく欠伸を漏らした。
依子が大雑把だと弟弟子に苦言を呈されるのはこういったことをするからである。
せめて顔は洗いたいし、髪もどうにかしておかねば。
事の最中に散々泣いてしまったから、顔がどうにも腫れぼったいし目の周りに濡れた痕が残っている。
風呂上がりに洗い晒しのまま一つに編んだ髪も、一言が解いてしまったので今はすっかり乾いてあちらこちらに寝癖が出来ている。
一言は、二人きりでいるときに何かと依子の髪に触れることを好む。
もっとも、髪については依子も一言の髪紐を解くのが好きなので人のことが言えないのだが。
自分の見た目について頓着しない一言だが、髪を解いた姿というのは存外貴重で、弟弟子の狗朗も然程見たことがないのではないだろうか。そんな一言のあまり見ない姿を見られるのは、依子の独占欲を満たした。
(やっぱり、欲張りなのかな)
最初は自分に向けて微笑んでくれるだけでもう十分だと思っていたはずなのに、どうして手に入れると満足するのではなくそれ以上を求めてしまうのだろうか。
沈みかけた気持ちを、ふるふると頭を振って無理矢理振り払う。
それにしても、この寝巻は随分と生地がしっかりしている。それに丈が妙に短いし馴染み深い香りもする。
違和感があるが、散々熱に浮かされて寝ぼけた頭ではそれ以上のことを考えられない。
寝巻の質感を手で触れて確かめていると、後ろで何やらもぞもぞと動く物音が聞こえたのでちらと振り返る。
「おはようございます、一言様」
「おはよう、依子」
依子は畳の上に座り込んだまま体の向きを反転させ、一言に声をかけた。少し眠たげな声音はいつもよりのんびりとしていて、少し、かわいらしい。
ふと口元が緩みかけて、依子は違和感に気付いた。
布団から上半身を起こした一言は暗闇の中の依子の姿をじっと眺めている、それも何やら真剣に。
依子は怪訝そうに一言の様子を伺った。
「あの、どうかなさいましたか?」
「うん?ああ、いや、気付いていないのならばいいんだ」
「?」
一言は歯切れの悪い口調で、けれど少し急いだ様子で返事をした。
依子はきょとんと首を傾げる。
一言の奇妙な言動の真意が分からない。
「明かりを、つけましょうか」
「まだ時間も早いし構わないよ。それに……」
そこまで口にして一言は口籠もる。
何かを言いたいような、けれども言いたくないような。
ますますおかしい。依子は袖を通した寝巻の前を閉じて布団の一言に近づく。すると一言は僅かに依子から後ずさる。
「一言様、どうかされたのですか?」
「いや?どうもしていないよ」
一言の声音は普段と変わらぬ穏やかなものであった。けれども何故か依子を見るのを躊躇うように、視線を余所に向ける一言を追うように依子は視線を追う。
「でもなんだか、今日の一言様はいつもとは違います」
「そうかな」
「そうです」
むっと口を尖らせ一言を見据える。
一言が依子に言わないことや言えないことがあるのはままよくあることだが、どうにも今回のそれはいつもとは毛色が違う。
旦那が隠している浮気を見抜く妻もこんな感じなのだろうか。最も、一言はそういうことはしないと依子は信じているが。
「何かを隠しておいでです」
「そんなに大したことではないよ」
ますます真意を隠しはぐらかす一言に、依子はいよいよ痺れを切らした。
力が抜けた足をどうにか動かして、のんびりと起き上がってその場で胡座をかいている一言に這い寄った。不機嫌な顔を隠さず一言の前にすとんと正座をしてその顔を見上げる。
薄暗闇の中に浮かぶ一言の顔は、困ったようなけれども何やら楽しそうな笑みを浮かべていた。
依子は一言のそんな顔がもっと見たくて、手探りで枕元に置かれていた電気スタンドーー和の調度に合わせられた、行灯にも似た形状をしているーーのスイッチを入れた。
電球の柔らかな橙色の光が二人を包む。それはまるで王権者が剣を虚空に顕現する際に現れる聖域(サンクトゥム)のようにも思えたが、実際はただの光でしかなくて、この部屋にいる二人だけを包み込む。
仄かな明かりの中に寝間着姿の一言の姿が浮かび、ついでに依子も自身の姿が明かりの中に照らし出される。
依子は一言と同じ寝間着を、着ていなかった。
寝間着にしては些かしっかりとした生地のそれは、深い紫色をしていて丈も依子の太腿の半分程の長さしかない。
目の前の一言が着ている白い寝間着とは全く異なるそれは、一言が愛用する紫色の羽織だった。
自分は今、一言の羽織を着ている。
それも、裸の上に。
「えっ」
寝惚けた頭でもその事実は理解できた。
目の前の一言はいつもの笑みに少しだけ苦笑を浮かべている。
それが「ばれてしまったか」と残念そうな表情に見えるのは、長年の付き合い故だろうか。
羞恥で顔に血が集まったからか、ぼんやりとした頭が急速に鮮明になっていく。
「か、返します!」
慌てて脱ごうとする依子を、一言は口元に手を添え笑いをこらえながら制した。
「いや、構わないよ。まだ時間もあるし」
「ですが」
「ほら、羽衣を奪ってしまったら、天女は天に帰れなくなってしまうでしょう?」
依子は一言の冗談めいた物言いに一瞬動きを止めるも、すぐに眉を歪めた。
この人は天女(私)を帰すつもりでいる。
こんなにも縛り付けておきながら、簡単に手放そうとするのだ。
泰然として未来を見据えていながら、その先に自分がいない事を三輪一言は知っている。その先に行ってしまう人の手を、この人は取ろうとしない。だから、
「私は、男をあっさり捨てて天に昇ったりしませんよ」
(だから、私はこの人の手を掴んでいたい)
そんな薄情な女に見えますか。
そう続ければ一言は言葉を詰まらせる。
依子は一言の膝の上に置かれた手の上に自らの手を重ねた。
無色がどの色にも染まらない、それはその先で何色かに染まる未来が待っているからなのだろうか、ならば一人くらいずっと何色にも染まらない者がいたっていいのではないだろうか。
「ここにいます、あなたの側に」
「ああ、そうだね……君はそうだったね」
一言の笑みは何処か寂しげだったが、依子の手を拒みはしなかった。
「ええ」
だから依子は微笑み返し、自分よりも大きな一言の手の温もりを覚えておきたくて重ねる手の力を少しだけ強める。
「むしろ、天に帰ってしまうのは一言様の方ではありませんか?」
「私かい?でも男だよ」
「割とそんなところがありますよ」
「そうかなあ」
「そうですとも」
小気味好い会話に二人はくすくすと笑い合う。
あなたがそのまま消えてしまうのではないかと思うなど言えなかった。
ただ依子は言えない言葉の代わりにおもむろに一言の肩に頭を委ねる。
一言はそれを拒まない。
今は、それだけで十分だった。
「まだ、いかないよ」
ただそれだけ答えて、一言は委ねられた側の腕で依子をそっと抱き寄せる。
捕らえたいのか、放したいのか。どちらがどちらに囚われているのか。分からないままただ触れ合う。
少しずつ明るくなる部屋の中で二人の体はこれ以上ないほどに近づき、いつか消えていく温もりに依子は縋り付いた。