余談
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蝉の音と遠くで火が小さく爆ぜる音が窓の向こうから聞こえて、依子はうたた寝から目を覚ました。磨り硝子の向こう側にぼんやりと一言の姿が見える、庭で迎え火をしているのだろう。
本当ならば自分も何か準備を手伝うべきなのだが、一言に制止され熟睡する娘につられて自身も午睡をしていた。
家事に臣下としての命に、あれこれと動き回っていた今までの生活から急に一層穏やかなものに変わってしばらく経つが、なんとなくまだ慣れないでいる。
はっとして隣で眠っていた筈の娘の様子を伺うと、娘は少し離れたところにある座布団の上に寝転び、小さな紅葉のような手が開いては閉じ、目に見えない何かを掴もうと手をぱたぱたと動かしていた。
(いつの間にあんなところに)
赤ん坊はひどくご機嫌で、時折小さく笑い声を上げていた。
少し離れた場所にいる自分以外誰もいないのに、見えない誰かが赤ん坊をあやしているかのように見える。
つい数ヶ月前に生んだ我が子は、どうにも自分には見えない何かがよく見えているようで、自分や一言、それに弟弟子にだっこされていても人好きのする笑みから不意に父親によく似たその大きく澄んだ目がじっと何も無い一点を見つめている事がよくあった。
不思議がる自分に一言は「大丈夫だよ」と微笑みかけるが、自分には見えず娘とその父親にだけ見えているものがあるというのは少しだけ妬けてしまう。
そういえば幼い子供というものは人ならざる何かを見ると言うし、かくいう自分も覚えが多少あるが……。
「まさかね」
依子は首を振り背筋に走る震えを振り払う。
娘がまたご機嫌そうに笑った。
「しかし本当に三輪さんによく似ているな」
お前や彼女に似ているところを探す方が難しいんじゃないか。
長い黒髪の麗人がからからと男前に笑いながら赤ん坊に向けて手をふれば、赤ん坊は大きな真っ黒い目を瞬かせきゃっきゃっと声を上げて麗人の手を掴もうと小さな手を伸ばす。
「しかしお前まで来るとは思わなかったぞ、羽張」
隣の壮年の男は苦笑して溜息をついた。
傍らには見事な作りの精霊馬が二頭、ちょこんと控えている。
「はは、何せうちの隊の中で初めて孫が出来たと聞いたら見に行きたくもなるじゃないか」
「俺としては結構複雑なんだがな……」
幼くして死に別れた我が子が、二回りも年上の男と子をなしたと言われたら確かに気になるのが親というものなのだろう。
「だが悪いことではないだろう」
「それは否定しないさ」
赤子の祖父になった男は目を細める。
「だが一緒になった相手にはひと言物申したい」
「娘の男親とはそういうものか」
「そういうものなのだろうな」
その明朗さからセプター4の良心とも呼ばれていた自分よりも年上の部下。その男の滅多に見ない苦虫を噛んだような表情に羽張は苦笑する。
「ところで細君は来なくてもよかったのか」
「あまり死人が来すぎてもよくないだろうとな、その分この子の様子を見てこいと」
「あの女性(ひと)らしいな」
さすがは陰陽師として名高い一門の令嬢だと羽張は感心する。
「お前こそ、他の奴らのところに行かなくて良いのか」
「あいつらとは、いずれまた会えるさ」
それに、と続けながら羽張は触れられぬ手で赤子の頬を撫でる。
「今回俺たちを招いたのはこの子の父親だからな」
「それだけは感謝しなくてはならない、か」
お盆は死者がこの世に戻る行事、とされている。
迎え火を焚き、精霊馬を二人分用意したのは他ならぬ三輪一言自身であった。
まさか本当に此岸に戻れるとは、呼ばれた当の二人も思ってはいなかった。
彼が何を思ってそれを用意したのか。娘が選んだ男ではあるが、やはり羽張と同じ王権者という人の身をもつ怪物であるためかその真意を伺い知るすることは出来ない。
きゃあっとはしゃぐ声に二人は赤ん坊に視線を移した。
どうにもこの赤ん坊は死者である二人がよく見えているようで、自分たちの動きや声にいちいち反応し、今も二人に、自身の祖父とその上司の注目が自分に向いた事が嬉しいのかにこにこと笑っていた。
「お姫様は意外と甘え上手のようだな」
「姫って……」
人の孫にそんな小っ恥ずかしいこと言うかお前、祖父馬鹿を発揮する前に羽張の方が夢中になっているがこの場合は王馬鹿で良いのか。生まれて数ヶ月だというのに王を夢中にさせるなんて君の将来がちょっと心配だが、母親(あのこ)が母親(あのこ)なのだから仕方ないかもしれない。
「王の子なら、姫でも良いだろう」
「……」
己が王の言葉に孫娘の行く末をあれこれと心配していた百井は言葉を返せなかった。
赤ん坊の大きな目は愛らしく透き通っていると言うのに、底知れぬ光のようなものを湛えている。
その目は、かつて己や羽張が生きていた頃に垣間見た若き無色の王、つまり赤子の父親が神託のような言葉を告げるときの恐ろしい目に似ているのだ。
王権者の血を引く娘。
この世ならざるものを生きているもののように見据える尋常ならざる目は妻を通して娘に伝わった陰陽師の血筋ゆえか、それともこの子の父親が未来を予言する王であるからか、ただの剣士でクランズマンでしかなかった百井には与り知らぬものだ。
顔立ちこそ違うが、赤子の笑い方は娘の赤ん坊の頃によく似ていた。
王とその臣下の間に生まれた赤ん坊。
ひとりぼっちにしてしまった娘が、愛する人と結ばれて儲けた子供。
普通ではない事情の下に生まれたこの幼い命がいかなる宿命を背負い、そしていかなる未来に進むのか、それは死者である二人にも、生きている娘(ははおや)にも分かるものではない。
それこそ、予言の力を持つ三輪一言(ちちおや)にすら。
「なんであれ、今はこの子たちが元気に生きていれば、俺はそれで良い」
ぽつりと呟いた言葉に、羽張は目を細めそうだなと同意した。
赤ん坊の手が、百井の指を掴もうとして、むなしくすり抜けた。