2004〜2009
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「黒白の 甘味に秘めし 君の想い」
バレンタインが近づくと依子が決まって思い出すのは、一言のこの俳句だ。
依子が幼い狗朗を手伝いながら、自分のチョコをどうにかこうにか作っているのを台所の入り口から見守っていた一言が、穏やかな声で読んだのがこの句だったのだ。
「少し下手な句になってしまったね、それに字余りだし」
一言にしては珍しく字余りな上に、「下手」と自ら評して眉を下げ困った笑みを浮かべる様子も依子は鮮明に覚えている。
兄弟子程では無いが、依子も一言の俳句なら一通り記憶している。
当時の自分が書き残したものを紐解けば、その時の情景だってありありと蘇るだろう。
自身の句を卑下する一言に『そんなことはありません!』そう幼い狗朗が頬を赤くして一言の俳句の素晴らしさについて長々と熱弁し、一言は照れ臭そうに弟弟子の愛溢れる賛辞を受け取っていた。
(けれど、あの時私が作っていたのは)
一言があの時何を「見て」あの俳句を紡いだのか、未来を見る術を持たぬ依子には分からない。
だが予言の王である三輪一言が、自分たちのいる「今」を見ていないということだけは分かっていた。
「黒白の」という上の句で始まるあの俳句を一言が読んだ時、依子が狗朗と二人で作ったのは黒一色のトリュフチョコだったのだから。
『無彩色の恋心』
「姉上、バレンタインとは何ですか?」
きっかけは狗朗のそんなひと言だったと思う。
節分が終わって間もない二月の初めての週末、少しバスに揺られてたどり着く少し大きな町のショッピングセンターに買い物に行ったときのことだ。
センター内にあるスーパーの入り口に入ってすぐの場所に設置されたピンクを基調にした華やかな陳列棚に、真剣な眼差しをした女性達が老いも若きも関係なく群がる姿は幼い狗朗の目に新鮮に映ったのだろう。
去年の二月頃と言えば、狗朗は三輪家に迎えられた直後でこじらせて重症になっていた肺炎がようやく治り、やっと布団から起き上がることが出来た頃だった。
確かに、バレンタインどころではないし、その前はもっと子供だった訳だから知らなくても無理もない。
人に姉馬鹿と言われてしまいそうだが、狗朗は可愛い。
流れる柔らかな黒髪に、きらきらとした純粋な輝きと、利発さと、一振りの刀のように強い意志を宿す大きな目。顔立ちはものすごく整っているし、素直でいやになるくらいまじめで、その上一言様の愛弟子だ(ここはとても重要!)。ゆくゆくは家事全般もマスターしてしまうだろう。
姉馬鹿極まりないが、将来ものすごくモテるのではないか。そんな予感もする。けど、
(一言様みたいに朴念仁になって、好きな人を泣かせなければ良いのだけど)
尊敬する師匠を見習うのはとても良いことだと思うけど、そこは似ないでほしいと切実に願う。
多分この子がバレンタインデーで困るのはもっと先のことなのだろうし、今は簡単な説明でも構わないだろう。
「うーん、簡単に言えば好きな人に想いを込めた贈り物をする日、かな?」
「それがどうしてチョコレートなのでしょうか?」
狗朗は不思議そうに目を瞬かせて一群の女性達と私の方を見比べてこてんと小首を傾げる、可愛い。
お菓子業界の陰謀、と言って分かるだろうか。いや、きっと狗朗は分かろうと努力するのだろう。そういう性分でなければ、幼くして三輪一言という怪物とも言える天才の指南に耐えることなど出来なかった。
(そういえば二人は兎も角、なんで私もついて行けるのかな!?)
私の場合は多分、慣れだ。
そういうことにしておこう。
自分のことについて深く考えるよりもまずは目の前のことをしなくては。例えば、
「色々と理由はあるみたいだけれど、大好きって気持ちを味にしたらチョコが一番近い味をしているのかもしれないわね」
「なるほど!」
弟弟子の疑問に答える、とか。
「確かに、
最も、その場合は花束やカードが主だけど。だから君が言ったことも間違ってはいない。
一言様は納得されたように頷いて、ジャガイモの芽を一つ抉った。
頼まれた買い物を早々と済ませて、折角なのだから師匠である一言様と兄弟子の紫ちゃんには内緒でおやつにクレープを二人で食べて、それから再びバスに揺られて帰宅し久しぶりに四人全員揃って夕食を作っている。
すらりとした長身で抜群にスタイルの良い紫ちゃんに隠れて普段は気付かないけど、一言様も十分に背が高いから四人全員が台所に入るといつもより少し狭い。
後何年かして狗朗が大きくなれば、もっと狭くなるんだろうなあ。
おやつを食べたのは内緒と言っておきながら、未来を見ることの出来る一言様には当然ながらばれているのだろう。
けれども一言様はいつも通りだ。
語らない真実が狗朗の顔に出ていたとしても「二人とも楽しかったのだろうな」と思うくらいだろう。
未来を知っていながら、多くを語らずその柔らかな微笑みで受け入れてしまうところも三輪一言という《王》にとっては「いつも通り」と言えた。
(あの頃から私は、その多くを見守り受け入れる笑みを浮かべるあの人を見る度に、胸の深いところを緩やかに締め付けられる心地がした。幾ら近づいても、私自身が『跳んで』いこうとしても、決して届かない場所に一人でいるあの人を見ていてさみしくなるのが嫌だった)
今日は肉じゃがと、胡瓜としらすの酢の物、わかめと豆腐の味噌汁。それから漬け物とか小鉢を一つか二つ。足りるかな?
明日は今日買ってきた鰤を照り焼きにするけど、紫ちゃんが何か作るかもしれない。
「依子ちゃん、またあなたは適当な事を狗朗ちゃんに吹き込んで」
「だって、お菓子業界の陰謀なんて夢がないじゃない。説明も長くなっちゃうし」
「狗朗ちゃんにした言い方はあなたにしては美しいけど、説明が面倒だからって動機が美しくないわ」
椎茸を切る姉弟子の私と、煮干しを鍋から引き上げる兄弟子の紫ちゃんとの間で飛び散る火花に狗朗はおろおろと私たちを交互に見る。
「まあまあ二人とも、それに教えたことが間違っていたのならばその後で二人で学べばいい」
「おれは、姉上の言った理由も素敵だと思います!」
「ありがとう狗朗」
「で、それで夕食の後お菓子教室が開かれる、というわけですか?」
「ああ、そういうことだから紫くんにも先生役になってもらおうと思って」
「私、人に教えるのって好きじゃないって師匠もご存じでしょう?」
「私は、君なら上手に教えられると思うのだけど」
「あなたがすれば良いのではないですか?」
「クロは私にあげたいから自分で作りたいんだって」
「……」
ほんわかと微笑む一言様の言葉に紫ちゃんの嫌そうな顔が少し揺らぐ、それでも手を動かすのはやめないのはさすが兄弟子、と言うべきか。
切った具材を鍋に入れ、私は援護射撃をする。
「ね、紫ちゃんも一緒に作らない?材料は買ってきたの!」
「どうかご指南の程よろしくお願いします、兄上!」
大まじめに狗朗が紫ちゃんに向けて頭を下げる。
良いわよ狗朗、紫ちゃんはあなたのそういうまっすぐなところを何だかんだ言って嫌いじゃないし。
「…………味見役くらいならなっても良いけど、私厳しいわよ?」
少しの逡巡の後、溜息と共に出された兄弟子の言葉に私と狗朗は「やった!」とハイタッチをした。
「紫ちゃんが厳しいのはよーく知っております」
「相変わらず小生意気ね依子ちゃん、狗朗ちゃんはこうなっちゃ駄目よ?」
「おれは一言様みたいになりたいです!」
「「知ってる(わよ)」」
そんな私たちのやりとりを、一言様は目を細めて見つめていた。
夕食を終わらせた後、三輪家の台所にて開かれたお菓子教室で右往左往する私を見つめてぽつりと呟いたのだ。
「黒白の 甘味に秘めし 君の想い」
そもそも何故私が数年前のことを思い出しているかというと、今まさにチョコレートを自らの恋人に贈るからだ。
そう、一言様に。
色々とあって私は一言様とそういう仲になった、なれてしまった。
正直自分でもまだ信じられないでいる。
チョコをあげるのは問題ない、けど一つ困ったことがある。
一言様に対し今まで弟弟子の狗朗と同じチョコを渡してきた――大抵は手作りで、私が東京に居を構えてからはそちらで買ったものを渡すこともある――訳だが、恋人としての一言様にチョコレートをあげるのは、
(初めて、なのよね)
恋人と過ごすバレンタインも、何かを贈るのも初めてのことだ。
今日は狗朗も交えて親愛の方のバレンタインの贈り物を渡し合う事以外は、代わり映えしない冬の一日だったけど、今日これから起こることは何もかもが初めてで、少し怖い。
夜も更けて、寒さがいっそう強くなっている。
狗朗はもうとっくに就寝して今起きているのは私と、恐らく一言様だけ。
襖から漏れる光を確認して安堵する。まだ起きているみたい。
数年間生活を共にしていたから一言様の生活パターンは熟知しているけど、万が一明かりをつけっぱなしにして寝ているということもあり得るから油断は出来ない。
好きな人にチョコを渡しに行くだけなのに、どうしてこんな宿敵と戦うような気持ちになっているのだろう。
「一言様、依子です」
「どうぞ、入っておいで」
半纏の袂にそれを隠し、深呼吸を一つ。
それから意を決して、襖を開ける。
一言様の部屋は床の間のある和室だ。
かつての家主の寝室であったという部屋は、二階の他の部屋より少し広い。
窓の下の小さな書机と、その隣に数冊の本が積み上げられている。
床の間には雪月花を題材にした掛け軸と、今日の朝一言様が手折っていた乙女椿が一輪、青磁の花瓶に生けられている。
本が意外と少ない様に見えるけど、大半は書庫にある。
一言様は読んでいた本から目をこちらに向け、私を手招いた。
「部屋の外は寒いから、中に入っておいで」
「はい」
一言様の言葉に促されて私は中へ入り襖を閉めた。
部屋の奥に布団が敷かれている。本格的に就寝される前でよかったと内心安堵する。
「それで、私に何か用でもあるのかい?」
「それ、は」
にこやかな笑みを前に、私は少し戸惑う。
三輪一言という人は《無色の王》として予言の力を持っている。
未来を見る力を多くの悲劇や災いを防ぐために使われることが多い。けどそれがどのようにして一言様には見えるのか、見えるタイミングがあるのか。本人にしか分からない。
狗朗に説明していたのを以前狗朗自身から聞いたことがあるけど、ちょっと抽象的すぎて私には分からなかった。
分からない方が、良いのかもしれないけど。
見えていたとしても、見えていなかったとしても、一言様が私を招き入れいつもと変わらぬ微笑みを浮かべていることだけは確かな現実だ。
もう私は彼の懐に入ってしまった、後は進むしかないのだ。
「実は、渡したいものがあって」
私は意を決して、小さな包みを一言様の前に置いた。
黒と紫のリボンで包まれた、両掌にすっぽりと収まってしまうサイズの小箱だ。
「これは?」
「チョコレートです。今日はバレンタインですから」
「でも、さっき君とクロからもらったでしょう?」
私も君たちにあげたのだし。
今年もまた一言様は私たち二人にチョコレートをくださった。
三人で食べきれるサイズのガトーショコラ、当然と言えば当然だが三人の手作りチョコの中で一番美味しかった。
悔しいが一言様なので仕方ない。
一言様は本当に不思議そうに、私と包みを見比べる。
あなたにこれを渡した理由を分かってほしい、でも気付かないでほしいとも願ってしまう。
『もしも受け取ってもらえなかったら』と想像することがこんなにも恐ろしいなんて、知らなかった。
一言様の隣という世界で一番安心できるはずの場所で、暗闇に置いてけぼりにされたような心地になってしまうなんて、思ってもいなかった。
どうして二人でいるはずなのに、たった一人でいるのだろう。
それは私にも、この人にも言えることだ。
手作りでは、私は一言様に適わない。
高級なものよりも、心を込めたものをこの人は愛する。
ならばどうするか、
「これを見たとき、一言様と一緒に食べたいと思ったんです」
無理に特別にしなくたっていいのだ。
ただ、ありのままの自分の思いを、心の内を素直に込める。
この人が、いつも俳句を紡ぐときのように。
たったそれだけのことが私にとってはとても難しいのだけど。
一瞬瞑目して、それから戸惑ったように一言様は眉根を寄せる。
「さっき渡したものとは違う意味で……一言様、私は」
「依子」
低く落ち着いた声、耳元で囁かれたら蕩けてしまいそうになるその声が、今はこんなにも腹の底に重くのしかかるように聞こえてしまうのは何故だろう。
「これは本当に、私が受け取っても良いんだね?」
確かめるように、一言様は問いかける。
その声はひどく真剣で、変なところでのまじめさに私は不意に弟弟子を思い出す。
血のつながりがなくても、もっと強い絆で結ばれている二人が妙なところで似ているのが微笑ましくてつい口が緩む。
「勿論ですよ、一言様」
だってあなたに渡したかったのだから。他ならぬ大好きなあなたに。
顎に右手を添えて少し逡巡してから――一言様が真剣に言葉を考えているときの癖だ――、一言様は小箱を手に取った。
「中を見ても?」
「ええ」
しゅるしゅるとリボンの解かれる音だけが夜の部屋に響く。
中には、トリュフチョコが六つ。三つずつミルクチョコとホワイトチョコでコーティングされていて、一個一個味が違うらしい。
店で見かけたときは一言様のことしか浮かばなかったが、こうして手渡してから気付いたことがある。
ミルクチョコとホワイトチョコ。
黒と、白。
もしかして、あの時の句はこれを指していたのだろうか。
昔の俳句を思い出す私を余所に、一言様は目を細めて箱の中身を見ている。
その照れ臭そうな笑みを見て私の選択は間違っていなかったのだと、ほっと息を吐けば、縮こまっていた心がほぐれていくような心地がした。
「ありがとう、依子」
「喜んでいただけたのなら、嬉しいです」
結局、想いが通じ合っても一言様に対するときの敬語は抜けなかった。今更どう話せば良いのか戸惑ってしまうし、一言様も「君の好きなようにするといい」と言っていた。
想いが通じ合っても、私たちは特段変わったことがなく、言葉も接し方も以前のままだったけど、少しだけ何かが変わったような気がする。
「食べるのが、なんだか勿体ないね」
「残さず食べてくださいね」
「では頂く前に、私からも」
一言様は書机の下から小さな紙袋を取り出した。
今度は私が驚く番だった。
「一言様?」
「何分『見えた』のがついこの間のことだったから、君の好みに合うかどうか」
そう言って一言様は苦笑し頬を掻く。
なんだろうか、紙袋に貼られたシールを剥がす。単純な作業なのに、手が強張って上手くいかない。
「あ」
中を開けて思わず声を漏らす。
紙袋の中身は鈴蘭の花束だった。
透明なケースの中にしまわれているそれは、そのまま置いて飾れるようになっているらしい。
確かプリザーブドフラワーというのだっけ。
鈴蘭を中心にアザレアやマーガレットが白いリボンで束ねられている。どれもリボンと同じで白い、可憐な春の花だ。
「きれい……」
「あちらではバレンタインデーは男性が女性に贈り物をする日だと、以前言っただろう?」
一言様が《王》になる前暮らしていた土地での風習だと、昔聞いた
「花束や、カードを贈るのでしたよね」
だから、あちらの様式に合わせたのだろうか。
合点がいって頷くと一言様は少し困ったように目を伏せた。
「うん、そうなんだけど……恋人とか親とか、本当に身近な人にあげるものなんだよ」
一言様の口から出た言葉を飲み込めなくて、私は一瞬呆気にとられ透明なケースを落としそうになる。慌てて受け止め、もう一度一言様の様子を伺えば、一言様は所在なさげに腕を組んでいる。
「見えていても、見えていなかったとしても何か君に贈ろうとは思っていたんだけどね?迷っていた上に慌てていたものだからこれで良かったのだろうかと少し不安なんだ」
「これではまるで、言い訳のようだね」と言って一言様は顔をしかめる。いつものような苦笑を交えたものでなく、本当に困っているみたいだ。
あまり、見たことのない表情に聞いたことのない言葉。
こんな一言様を引き出してしまったのが私である事に、満ち足りた心地と少しだけ罪悪感を感じる。
「気に入ってもらえたら、嬉しいよ」
「とても、本当に嬉しいです。大事に飾りますね」
「それは何より。そうだ、寝る前に一つ頂こうか」
「お茶を淹れてきましょうか」
「いや、下に降りて二人で食べよう」
狗朗には内緒でね。
無邪気な子供の様に、一言様は朗笑して片目を瞑る。
こんな細やかなことで事で笑い合える穏やかな時間が、一分一秒でも長く続けば良い。
そんなことを目の前にいる大好きな人にばれないよう、密やかに祈った。
夜はまだ深く、雪は降り始めたばかり。