パロディ時空色々
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『La traviata』
「烟草、吸わないでね。後であの人が来るから」
女の掠れた声に、寝台に腰掛けていた周防は渋々と火をつけたばかりの烟草の先を切り落とした。軽い金属の擦れる音と蝋燭の芯が、頼りなげに燃える音だけが薄暗い部屋に響く。
部屋に広がる甘ったるい匂いは香の薫りか、或いはこの女自身の匂いなのか。
薄暗がりに少し萎れた一重咲きの白椿がぼんやりと浮かび上がる。
この部屋の枕元には、いつも古びた香水瓶に一輪の花が大事そうに活けられている。
香水瓶の花はいつも必ず一輪だけ、きまって枯れる直前に必ず新しいものに変わるのだ。
最新の様式で揃えた調度、男をもてなし悦ばせることを第一に考えて作られたその部屋で、花だけは彼女の心を示している。
香水瓶の隣に置かれた真珠貝を模した真鍮の灰皿から立ち上る煙がかき消えたを見て、ありがと、と女は白い裸体を猫のようにごろりとうつ伏せになって周防に屈託無く笑いかけた。
ぱたぱたと揺れる小さな踝が目立つ足首はきゅっと引き締まっていて、周防が片手で掴めてしまうほどか細く頼りない。
お前は子供か、と足をばたつかせる女に周防は内心呟きもう一度女の隣に寝転んだ。
「そいつは嫌煙家なのか」
それとも他の男の匂いがするのを嫌う、嫉妬深い男、なのか。
「いいえ、あの人は肺が弱いから」毒を移したくないの。女は周防の崩れた赤い髪に手を伸ばし、華奢な指で絡めて遊ぶ。
古馴染みの娼婦は、いつしか政府高官すら手玉にとる高嶺の花になっていた。
周防もまた路地を拠点にする破落戸から、今や街の裏を牛耳る組織の長となっていた。なってしまった。
友人達と鉄火場を駆け抜け、降ってくる火の粉ーー偶に実弾もあるーーを搔い潜ってどうにかこうにかして生き延びていたら、いつのまにかさせられていたとも言える。
互いに己の生きる世界で上り詰めた二人は、時折顧客と提供者として思い出や世間話に花を咲かせる。最も、話しているのは主に女の方だが。
立場も背負うものも何もかもが変わったが、この女は少女の時分に芽生えた恋心をいたく大事に抱えたままでいることを周防は知っている。
恐らく、彼女に傅く煌びやかな男たちよりずっと。
さる財閥の老総帥の懐刀であるという男。
元はふらりと流れてきた殺し屋であったとか、孤児を育て多くの財を成しながらその殆どを寄付しているのだとか、良い噂と悪い噂を同じ数だけ聞くという謎めいた男。
そして幼い頃の彼女を拾い、高級娼婦として磨き上げた「旦那(パトロン)」でありながら、今や数多の男が求める大輪の花を咲かせた彼女を求めようとしない男。
古びた紙と花の匂いの向こう側に、血と鉄の匂いを秘めた男の隣にいる時の女は、この上なく幸せそうな笑みを浮かべる。
檻の扉はその男によって開かれているのに、女は扉に見向きもしない。
周防の金の目に、古びた香水瓶と白い椿が映る。
彼女が、自分でつけている鎖だ。
「椿姫の真似事か」
「そんなに潔い女に見える?」
周防は少し考えて、再び口を開く。
「……見えねえな」
「でしょう?」
そう言って吹き出した女の顔は、夜の世界で男たちに見せる笑顔よりも一層生き生きとしていた。
扉が開かれていると知りながら、檻の中にいることを選んだのが彼女の矜持なのだ。
手持ち無沙汰になった周防の手は再び無意識に烟草を求めて彷徨い、代わりに女の頰に手を寄せれば、女は目を細めてそれを受け入れた。
古びた香水瓶に生けられた白い椿は、縁が茶色く変色しているというのに落ちる気配が見えなかった。