〜1999.07.11
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
『としごろになったなら』
晴天の広がる気持ちの良い一日が大過なく終わるということは、青の王羽張迅にとって意外と貴重な事だ。
澄み渡る空は未だに青いものの、陽の光が中天より傾きかけた頃。
室長室で仕方なく書類整理を終わらせて席を離れ伸びをする羽張の耳に、タタタッと幼い駆け足が小さなつむじ風のように飛び込んできた。
規則正しいノックが二回、それから返事を聞く間も無く重厚な扉が開かれる。
返事など聞かずとも、この部屋の主人が自分を受け入れることを彼女はよく知っていた。
「こんにちは、室長さん!」
羽張を確認するや否や、転がり込むように駆けてきた空色のランドセルを背負う少女を、羽張は軽々と抱きとめた。
それは人懐こい黒髪の少女が椿門に遊びに来た時の、お馴染みの光景だった。
部下の娘であるこの少女は母親も働いている鍵っ子で、友達と遊ばない日はよく椿門に遊びに来る。
稽古を目を輝かせて眺めたり、羽張に構われて遊ぶ少女の姿に塩津は子供が軽々と入って良いものかと苦い顔を浮かべる。
セプター4は表立った組織ではなく、また扱う対象も特殊であるから塩津の懸念も最もだろう。
だが塩津にとって少女の父親は警官時代の先輩であり、そして両親が揃ってセプター4に勤めている年頃の近い双子達も屯所に度々遊びに来るので、彼女がここに来ることを強く諌めることが出来ないでいるらしい。
彼女も彼女で仕事の邪魔をしない事、入ってはいけない場所がある事などあれこれと両親と約束事を定めて、羽張の許可を得て立入が許されているのだ。
天真爛漫を絵に描いたような、身近な人々から愛される事に微塵も疑いを持たず育った彼女は、当然の如く塩津にも懐いているのだ。
善条も善条で彼女を「やんちゃ坊主」と呼び、剣道を習っていると知ってからは時折稽古まがいのことをしているらしい。
少女の父親は善条にとってクランの面々の中でも手応えを感じる強者の一人であるからか、いつかこの「やんちゃ坊主」が己の剣の相手に育つかもしれないという期待もあるのだろう。
だが善条の呼び方からして、
(あいつ、もしかしてこの子が女の子だと失念しているんじゃないか?)
存外、あり得る話である。
閑話休題。
「やはり来たか」
「なんで『やはり』なんですか?」
何にも言っていなかったのに。室長さんはすごい!
幼い子供の眩しい尊敬の眼差しを注がれても、羽張はそれを難なく受け止める。
「昨日、君が大人になった夢を見てな。虫の知らせならぬ夢の知らせ、というやつだったらしい」
未来予知など大層な力を持ってはいないが、羽張には不思議とその夢は正しい未来を見せているのだとわかっていた。
少女は羽張の言葉に黒々とした目を瞬かせ「私、どんな大人になっていましたか!?」とはしゃぐ。
大人になった自分、というものは子供ならば気になって仕方ないことだ。期待を募らせる少女の気持ちも理解できる。
「ふむ」
羽張は顎に手を添え少し考えてから、
「それは、なってからのお楽しみだ」
片目を閉じて笑った。
「ずるーい!」
「ははは」
室長さんのいじわる!と頰を膨らませてぽかぽかと叩く少女の両手を一つ残らず正確に捌きながら、羽張は少し真面目な面持ちで少女に告げた。
「これは要らぬ忠告かもしれないが……いいか、俺よりも年上の男の人には用心するんだぞ」
突拍子も無い忠告に、少女は手を止めきょとんと首を傾げた。
「そんなに心配しなくても、知らない人にも危ない人にも近付かないよ?」
人懐こくても警官の娘、防犯意識は殊の外強いようだ。
けれど俺も一応危ないんだがな、王だし。
繋がったままの手で手遊びを始めた少女に合わせながら羽張は言葉を続ける。この手の遊びというものは、羽張の子供の頃から変わっていないようだ。
「男は狼というからな、歳をとっている方がよりずる賢い。君も悪い狼にぱくりと食べられるのは嫌だろう?」
「それはちょっと怖いし、嫌かも」
手遊びが楽しくなってフォークダンスにも似た変なステップまで入るが、二人は気にせず会話を続ける。
「そういえば善条のお兄ちゃんは狼だけど犬なの?」
羽張のリードでくるりと軽やかにターンを決めた少女の言葉に、羽張の脳内で犬耳と尻尾をつけた善条の姿が浮かび、笑みを漏らす。
たしかに犬でなくても奴ならば自分が命じたら、三回回ってワンと吠えそうだ。
とてもよく似合う。
「ああ、あれは犬だな」
「やっぱりそうなんだ」
「しかし、何故そう思ったんだ?」
「だって首に鎖つけてるし、いつも室長さんの後ろについていくもの。絶対に自分から先には行かないでしょ?訓練されたとっても賢い犬みたいだと思ったの」
ほう、と羽張は軽く目を瞠った。
幼いながらも、この少女はよく見て考えている。勿論羽張とは異なる視点から。
彼女は羽張の臣下ではなく、忠義を向けることもない。
少女が自由にそしてにこやかに笑って日々を過ごしているという事は、羽張が身近な世界の秩序を守れている何よりの証明だ。
だから、羽張にとって彼女との会話は新鮮で小気味好い。
大の男さえ畏怖する事もある《王》という人の身で人知を超越した存在に物怖じすることなく話せる彼女は、存外誰かの臣下になったら面白いことになるのではないか。そんな考えさえ、浮かぶ。
「兎も角、犬にも狼にも気をつけるんだぞ。ああ、兎や狐にもな」
「よくわかんないけど気をつけます」
「君のそういう素直なところは嫌いじゃないぞ」
羽張は目を細め、渋々と頷く少女の黒髪をくしゃくしゃと撫でた。
王と幼子のささやかな戯れの向こう側で、黄金色の太陽を戴く蒼天は静かに赤く染まりつつあった。
透徹な光を宿す一番星は、まだ見えない。