2008〜2012.09.25
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「下拵えや下味は、丁寧にする程後の楽しみが増えるんだよ」
君に改めて言うことではないけれど、それでも基本は大切だからね。
一言が狗朗によく通る声でそう語る台所から聞こえてきて、依子は台所の前で立ち止まった。
蜂蜜のようにとろりとした黄金色の夕影が射す仄暗い廊下の簾越しに、くるくると動く二人の影が映る。
先程吟行から帰ってきた一言が、そのまま台所へと狗朗の様子を見にきたのだろう。
台所から二人の会話の合間に、狗朗が手際よく調理をする音が聞こえる。
漂う匂いと冷蔵庫の中身から察するに、今日の夕食は豚の生姜焼きに秋野菜の煮物と汁物に栗ご飯。それから依子が作り置きしておいた酢漬けといったところか。
そろそろ去年作った梅干しも食べ頃になっているだろう。
昔に比べて随分と段取りよく料理が出来るようになったものだと、依子は弟弟子の成長に目を細める。
下拵え、そういえば以前にも今聞いたそれと似た言葉を、何処かで一言から聞いたことがなかっただろうか。
依子は首を傾げ記憶を辿れば、肩にかけていた長い髪を一つに束ねた緩い三つ編みがハラリと垂れる。
「下味に」
確かこんな風に始まる俳句が一言の俳句にはあったが、だがあれは随分と昔のことで確か料理をする兄弟子を見ての発句であって依子が今引っかかった記憶とは違う。
全て覚えていると言っていた──実際その言葉通り、彼が一言の句を一言(いちごん)一句違えることなく覚えていたのは、狗朗や依子と同じく、否、それ以上の強い敬愛と畏敬を一言に抱いていたからだろう──兄弟子ほどではないが、依子もそれなりに一言の俳句を覚えている。
依子が聞いた一言の言葉はもっと暗い場所で、さらに言えば最近二人きりでいた時に。
「依子」
「ひゃい!」
台所から出て来た一言に不意に声をかけられ、依子は声をひっくり返しながら応えた。
「どうしたんだい、急に変な声を出して」
一言は驚いたような言葉を言いながら、少しも面食らった様子を見せずに依子に穏やかな目を向けた。
一言は絣の着流しに動きやすいように同系色の襷をかけていたので、普段日に当たることの少ない前腕の白さがより一層際立っていた。
「ちょっと考え事をしていたものでしたから、急に声をかけられてびっくりして。一言様、頼まれていた品を部屋に置いておきましたので」
「ああ、ありがとう」
一言は顔を綻ばせ、釣られて依子も頬を緩ませながら台所の方へ視線を向ける。
「狗朗は一人でも大丈夫そうですね」
「でも、たまには一緒に作るのも楽しいでしょう?」
「違いありませんね」
明日は三人でご飯を作ろうか、一言はそう呟いて廊下を歩く。一言に続いて依子も居間に向かった。
こちらと東京を行き来する生活を始めてから数年が経つが、その間に弟弟子の料理の腕前はめきめきと上達を見せた。
まだ十代半ばだというのに大体の和食はプロの料理人並みの腕前だし、無論他の分野の料理についても研鑽を怠らない。
勿論依子とて料理の腕前にはそれなりの自負があるが、何事にもつけてひたむきな努力を重ねる狗朗のあり方は、狗朗特有の美徳だ。
そしてそのひたむきさは偏に目の前の男にのみ捧げられる。
「妬けちゃうな」
「依子?」
「いいえ、なんでも」
居間の襖を開けながら後ろを振り向いた一言に、居間に射す西日が眩しかったような素振りをして目を逸らす。
「そういえば、考え事と言っていたけど何かあったのかい」
ふと思い出したように一言は依子に問いかけた。
「いえ、大したことではないんです。たださっき一言様が狗朗に言っていた話と似たような話を、最近私も何処かで聞いたような気がして」
「それって下拵えの話かい?」
「ええ、そんな感じの話でした」
些細な話ではあるが、妙な違和感が引っかかる。
違和感、そう、違和感だ。
依子が一言から聞いた話は少なくとも台所でした会話ではなかった。
それに料理や食事をしている場面ですらなかった。
ならば、それは一体どこで?
そして、どうして一言とした会話をこんなにも思い出すことに苦労するのかもわからない。
まるでその時の記憶そのものが、熱に浮いたように曖昧なのもまた不自然で。
あった筈の記憶が思い出せないというのは、一言と出会う以前の何もかもを失った自分を思い起こすので不快でならない。
もどかしさに眉を寄せる依子に、一言は何か合点がいったように頷いた。
「そういえば、この前そんな事を君に言っていたね」
「そうでしたか?」
「うん、確かに私は美味しく頂いている最中だったけど君は違ったかな」
「?」
夕日を背にする一言の顔は暗く翳っていて、その表情を伺うことは出来ない。
だが、その深く透き通った真っ黒な瞳だけは暗がりの中でもよく目立つものだから、なにやら彼が楽しそうにしているということは依子にも分かった。
一言の表情が意味するところと、話の先を読めず首を傾げる依子のゆるく編んだ三つ編みに一言は長い指先でそっと優しく触れながら耳元に口を寄せた。
「丁寧な下準備は大事だよ。目の前に用意されたご馳走を美味しく食べるためにはね」
「ッ……!?」
告げられた言葉に依子は目を見開いた。一言から告げられた言葉によって、その時の朧げな記憶が急速に鮮明なものへと変わる。
きっと一言から見た自分の顔は、耳の先まで夕日だけではない赤に染まっているに違いない。
低く甘い声で囁かれた言葉は、ついこの間体を重ねた時に囁かれた言葉に他ならなかった。
忘れるも忘れないもそれ以前に、いっぱいいっぱいでそれどころではなかったのだ。
いつものように一言に散々あらゆる手段で身体の至る所を執拗に弄ばれて拓かれて、けれどもその時は何故かそれに耐えられなくて。
『どうしてこんなにいっぱいするんですか』
『もうこんなになってるんですから、どうか早く、一言さま』
そう珍しくみっともなく本気で泣いて懇願した依子に一言がさらりとその言葉を容易く告げて、更に依子の肉体をもう暫く愛でたのだ。
息も絶え絶えになった頃、ようやく繋がった筈だがその辺りの記憶は更に不鮮明だ。もっとも一言の所為で散々気をやった後なのだから仕方がない。
確かに食べていたのは依子の方ではあるとも言えるが、依子も依子で足の先から髪先まで余すところなくぺろりと一言に食べられていた。
それこそ、丹念に下準備をされた上で。
「思い出した?」
なんの気もない一言のほんわかした笑みと、夜のギラギラとした光を目に宿した恐ろしさを孕む笑みが重なり、依子は羞恥でわなわなと震えた。
「いちげんさまっ!?」
真っ赤になりながら台所に届かぬよう小声で叫んだ依子に、一言は悪戯っ子のように笑った。