私は毎年、秋になると母の育った家に赴く。

空き家になっている家の掃除と、近所の方達への挨拶。
それから、母が毎年欠かさず行っていた墓の手入れ。
歳離れた義兄や、あの人やその弟子の青年と会うこともしばしばある。
隣家の老婦人は数年前に亡くなっているがその息子さんが、今はこの家の管理を引き継いでくれているのだという。
親戚づきあいがなかった私にとって、隣家のお婆さんは本当の祖母のような人だった。彼女もまた私を本当の孫のように可愛がってくださった。
字を習い初めてからずっと年賀状のやり取りをしたり、ふわふわの卵焼きの焼き方や浴衣の着付け。それから生きるために必要な沢山のことを教わった。母もここに来た当初少しは出来ていたけど、家主とお婆さんから本格的に料理を教わったらしい。
『そうだな、料理では俺の妹弟子でもあるのか』
義兄はそう言って懐かしそうに笑っていたっけ。

母の育った家には、家主の住んだ痕跡が十数年経った今でも残っている。
男物の仕立ての良い着物、使いこまれた調理器具、少し黄ばんだ短冊に書かれたいくつもの俳句。
「いつか本にしたいわね」
筆跡を愛おしげになぞる母がポツリと呟く光景を今も思い出す。
義兄やあの人が暮らしていた部屋も当時のままにしているのは、家主と母の遺志であった。
まるでもう帰ることのない人々が、いつでも帰って来られるように。
この家は抜け殻で有りながら、今もなお過去のまま、美しい思い出のように保管されている。

ここは、死んだ母がかつて育った家であり、私が生まれて間も無い頃に父が最期を迎えた家。

私の命が、はじまった場所。