1999.07.11〜2004.05
名前変換
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「一言様、髪紐が」
依子の声に振り返った瞬間、癖のある己の髪がパサリと広がって初めて一言は自身の髪を束ねる髪紐が切れたことに気付いた。
「おや」
長いこと使っていたから、寿命だったのだろう。
それは仕方のない事だが、生憎と今の一言の手元には替えの持ち合わせがない。
確か戸棚のどこかにしまっていたはずなのだが、探すのは多少億劫である。
さてどうしたものかと切れた髪紐を拾い上げて指で軽く弄っていると、依子がはたと何か閃いたように目を見開き「ちょっと待っててください」と言い残しパシュンと乾いた音を立てて『跳んで』部屋から出て行ってしまった。
数分もしないうちに再び『跳んで』戻ってくれば、手には淡い色をしたなにかを持っている。
ストレインとしての能力は無闇に使ってはいけないと言っていたが、余程急いでいたのだろうか。
「もしよろしければ、これを」
「でもこれは君のでしょう、いいのかい?」
「今一番必要としているのは一言様ですから」
少し躊躇いがちに、依子から差し出されたそれを一言は感謝と共に受け取った。
それが、数日前に起きた出来事である。
†
「……それで、我らが師匠はああいう事になっているというのね」
「その通りです、おにーさま」
「こんな時だけ兄と呼ぶのは、あなたの美しくないところよ依子ちゃん」
しかも大体わざとらしいから、尚のこと質が悪いわ。
そう続けながら紫は、妹弟子の両頬をふにふにと摘んだ。
「で、私たちの可愛い弟弟子(くろう)ちゃんは?」
「ひょっとひっふいひへはへほ、ふくひはれれたほ(ちょっとびっくりしてたけど、すぐに慣れてたよ)」
「狗朗ちゃんらしいわね」
むにーんと餅のように両頬を伸ばされながら平然と答える妹弟子に溜息を一つ吐き、紫は物言いたげな目をして弟弟子と共に台所に立つ師匠をちらりと見やる。
今日は紫が帰ってきて久しぶりに一家が揃ったので、夕食は腕によりをかけると一言が自分一人で料理を作ることになった。
こういう時普段は紫が料理の腕を振る舞ったり、妹弟子も加えて三人で作ることが多いので紫は随分と珍しく思ったのだ。
勿論一言一人に全てを任せるつもりは紫にも依子にもなく、二人で手分けしてそれ以外の家事を一通り済ませたし食後の片付けもするつもりである。
一言も一言で丁度いいからと、狗朗にその料理の作り方を同時に教えている。そろそろ狗朗にも包丁の扱い方を教えねばとでも考えたのだろう。
(あの人の事だから最初からそれが主な目的だったのでしょうね)
紫に観察されていることも気付かずに、狗朗は師の動きを熱心に観察しながらメモを取っている。
問題は、狗朗よりも一言の方だ。
隣で流れるような包丁捌きを見せる一言の、男性にしては長く無造作に伸ばされた癖のある黒髪が、花柄模様のシュシュで纏められていた。
手渡した当人曰く、少し前に学校の友人と街に遊びに行った時に『髪が伸びたら使おう』と雑貨屋で買ったものだが、なんとなく後ろで一つに結べる程髪も伸ばす気になれなくて使わずにとっておいたらしい。
それが巡り巡って思わぬ形で役立つ事になったが、普段の暗色系の着流しにパステルカラーを基調としたなんとも可愛らしい髪飾りの組み合わせというのは、どうにも違和感が強い。
「それで」
一度少し強めに抓ってから手を離し、紫はこのささやかな椿事を招いた張本人に問う。
「替えの髪紐もあるというのに、どうしてあの人はまだあれを付けているのかしら」
妹弟子も不可解そうに両頬を押さえながら首を傾げる。
「なんだか、気に入ったみたいで『しばらく借りてもいいかな?』ってお願いされちゃって」
「あれが?」
「あれが」
コクリと頷き、依子は紫の言葉を肯定として繰り返す。
「……依子ちゃん」
「何?」
紫は神妙な顔をして、妹弟子の名を呼んだ。
「次貸すときはもうちょっと美しいものになさいな」
「そっち!?」
素っ頓狂な高い声が夕日の差し込む居間に響き、一言の苦笑する声が聞こえた。